19 もっと叫べ。生きたいと願え。(猫崎桃)
冷たい。寒い。
洞窟の中なのだろうか。
自然にできた滝壺のような場所で、私は椅子に縛られたまま、水の中に沈められていた。
「楽しみだなぁ。やっと本物の巫女に会える。ずっとこの時を待ってたんだよ」
熊野先生の声が聞こえている。
けれど、白いフードに隠れて、顔が良く見えなかった。
「でも、本物の巫女になるには、三日三晩、体をお清めしないといけないんだ。しばらく我慢してくださいね」
どのぐらい水に浸かっていたのだろう。体は冷え切っている。
縛られている腕の感覚はもうなかった。
「心配しないでいいよ。本当に巫女になれる子は、このぐらいでは死なないはずから」
カタカタと音がしているのは、自分の歯が鳴っているからだと気がついた。
「これまでの候補者は、みんな二日目で死んじゃったから、偽物だったんだろうね。やっぱり、そこらへんで、適当に見繕ってきた子はダメだね。みんな死んじゃったよ」
先生は猫だけでなく、ほかの女子生徒も手にかけていたようだ。
「エリカがまだ小さいころに、彼女で試そうとしたんだけど、お母さんに怒られちゃってね。しょうがないから、それからずっと、誰か本当の巫女になれそうな子がいないか探してたんだ」
学校で普通に教師として働きながら、卑劣な行為を繰り返していたなんて。どういう神経をしていたら、そんなことができるのだろうか。まったく理解できない。
「経典によれば、代々うちで祀られているご神体は、とても清らかな心を持った若い女としか、心を通わさないというからね。素質を見極めるためのテストを繰り返してたんだよ」
どうやら私は、そのお眼鏡とやらに叶ってしまったようだ。弱った猫たちを助けたかっただけなのに。どうしてこんなことに。
「なのに君のお母さんが、献品に差し出すなんていうから、予定を早める羽目になっちゃってね。本当はこの儀式は夏より、冬の方が効果が有るって、経典に書いてあったんだけどさ」
熊野先生はやけに楽しそうに、話を続けている。ネジが何本外れたら、こんなことになってしまうのだろう。
「巫女になれる素質があるのに、ただの献品になんかにされちゃったら、もったいないでしょ。だから時期じゃないけど、しょうがないから、今やることになっちゃったんだよね。ごめんね。万全の体制じゃなくて」
もう人ではない。命をもてあそぶ、ただの化け物だ。
「本当の巫女なら、三日間体を清めた後に、ご神体の言葉を聞けるはずなんだよ。どうすれば不老不死になれるか、ご神体なら知ってるはずだから」
あまりにも馬鹿げている。
そんなことのために、私やほかの行方不明になったという女子生徒たちは、ここに連れてこられたのか。
「大丈夫、桃ちゃんなら、きっと本物の巫女になって、先生にその秘密を教えるという、大切な義務を全うできるはずだよ。だから頑張ってね」
熊野先生が遠ざかっていく足音が聞こえる。
しばらくすると静かになった。
感覚がなくなってきた。
寒い、冷たいということすら、わからなくなっているのかもしれない。
やけに視界がぼやけると思ったら、いつの間にか、目から涙が流れ落ちていた。
体の芯から冷え切っているせいか、その涙さえ温かみとは無縁だった。
このまま私は死ぬのだろうか。
「諦めるのか、お嬢ちゃん」
どこからともなく、男の人の声が聞こえてきた。
「……誰?」
どこにも人の姿は見えない。足音さえしなかった。
「あんたはまだ生きてるじゃないか。だったらもっと足掻けよ。簡単に命を投げ出すんじゃない」
声だけは、はっきりと聞こえる。とても温かみのある声だった。なんとなく声の雰囲気が、魚住くんやお兄さんの声と似ている気がした。だが、こんなところにいるわけがない。
もしかしたら、幻聴なのだろうか。
私が死にかけていて、二人の声を勝手に、頭の中で作り出しているだけかもしれない。
「ろくでもない親に、どうしようもない先生か。お嬢ちゃんも災難だったな。これが運命ってやつかもしれないって、今頃は絶望してるんだろう。わかるよ。オレだって、何度も絶望したことがあるからな」
優しくて、力強いその声は、私の頭の中で響いているみたいだった。
「誰だって、どこに生まれるかは選べないよな。けど、どう生きるかは、自分で掴み取ることができる。ほんの些細なことが、人生を良くも悪くもすることがある。偶然隣になった誰かと、一言口を交わしただけで、その後の人生が大きく変わることだってあるだろ」
そうだ。私の人生は、魚住くんと出会った日に、大きく変わってしまった。
「諦めたら本当に終わりなんだ。何を選ぶか。その手にあるものは何か。何がなくて、何を手に入れたいのか。わかるか、お嬢ちゃん。お前の人生だ。自分で決めるんだ」
私の人生。私が決める。
冷え切っていた体の奥で、小さく熱が帯びるのを感じていた。
「生きたいと願え、死にたくないと強く思うんだ」
生きたい。
まだ死にたくなんかない。
「もっとだ。ちゃんと口に出せ。あるだろ、死ぬ前にやっておきたかったこと。後悔してること。これをやるまで死ねないってことが」
もっといっぱい勉強しておけばよかった。嫌な授業だからって、とっとと終わればいいのにとか、考えなきゃよかった。獣医さんにだってなりたかった。お金を稼いで、『猫じゅうたん』でいっぱいの部屋を作りたかった。
「もっと、なんでもいい。食べたいものでも。やりたいことでも。会いたい人でも、なんでも叫べ」
魚住くんが作ってくれたガトーショコラを、もう一度食べたかった。
猫カフェ水族館に、もう一度行きたかった。
魚住くんと、もっと話がしたかった。
「会いたいよ……魚住くんに」
「いいぞ。その気持ちが、強烈な匂いを放つんだ。生きているものだけが発する、生命力の匂いを。だから、もっとだ。叫べ。もっと、もっと叫べ。生きたいと願え」
心の奥底に、大事にしまっていた真っ白な箱を思い出した。
魚住くんの映像が収められている、名前の付いていない大きな箱。
「魚住くんが作ってくれたガトーショコラを、もう一度食べたい。だからまだ死にたくなんかない。猫カフェ水族館に、もう一度行きたい。だからまだまだ、死にたくなんかない」
私に見せてくれた笑顔。
私の心を軽くしてくれた大切な言葉。
思い出しただけで、どんどん心が温かくなる。
その箱の名前がやっとわかった。
「魚住くんと、もっと話がしたい。もっと生きていたいよ。会いたいよ。魚住くんに……今すぐ会いたい!」
大好きだよ、魚住くん。
その瞬間、洞窟の壁が崩壊した。
土煙の中から姿を現したのは、赤く燃えるような獣にまたがった、魚住くんだった。




