☆18 もしお前が望むなら、差しだそう。俺の命でもなんでも。(魚住茜音)
「……猫崎さん」
声をかけるが反応はない。人の気配すらなかった。
血が落ちている通路を抜け、リビングに入った瞬間、部屋中に渦巻いている怨念めいた、どす黒い思念が流れ込んできた。
「痛い」
「苦しい」
「許さない」
負の感情が溢れかえっている。
テーブルの向こう側には、血まみれの男女が倒れていた。
「なんて……ことを」
熊野先生は猫崎さんの両親を殺してから、彼女を連れ去ったのかもしれない。
床には猫のオルゴールが転がっている。
猫崎さんはどこに。まさかもう、猫崎さんまで。
想像しただけで、体の中から湧き上がってくる怒りが収まらなかった。
「茜音、ダメだよ、こんなところで」
「そうだ、落ち着け。また暴走しちゃうよ」
絵式神の銀羅と灰羅の言葉を聞いても、その怒りを止めることができなかった。
気がついたときには、術を唱えながら、空中に絵を描き、赤獅子を呼び出していた。
「我を使うのは、禁止されていたんじゃないのか」
炎のようなオーラをまとった赤獅子は、宙に浮かびながら、後ろ足をあげて、呑気に体を舐めている。
「頼む、俺に力を貸してくれ」
「それがものを頼む態度か」
舐めた態度を取っているのは、そっちのほうじゃないのか。そう反論したい気持ちを抑えて、俺は血まみれの床に膝をついた。こんなことで気が済むなら、土下座でもなんでもやってやる。
「赤獅子、お前なら俺よりはるかに鼻が効くだろう。お願いだ、猫崎さんの居場所を追ってくれ」
「我に犬のような真似をしろというのか」
「そうだ。お前にしか頼めない」
「そんな言葉で動くほど、我の価値は安くはないぞ」
俺の血は呪われている。
人を操り、殺そうとしたじゃないか。絵式神の一人や二人、操れなくてどうするんだ。
「猫崎さんを見つけてくれたら、お前の願いをなんでも聞こう」
「なんでもとは?」
「文字通りなんでもだ」
「それは……おぬしの命でもか」
絵式神の銀羅と灰羅が間に入ってくる。
「ちょっと、何を言って」
「ダメだよ、茜音っ」
だが急に銀羅と灰羅が消えた。
きっと兄の無理がたたって、絵式神を出す力もなくなったのかもしれない。
ありがとう、兄ちゃん。
父さんが姿を消してから、ずっと支えてくれていたのは兄ちゃんだ。
これまで生きてこられたのは、兄ちゃんのおかげだ。本当に感謝している。
けれど、助けてくれたのは、俺が家族だからだと思う。家族という絆と、呪われた血筋という鎖がなければ、こんなやっかいなガキを助ける義理なんて、どこにもない。
ずっと俺は、家族にとって、ただのお荷物だった。
俺のために全国を放浪する羽目になった父さん。俺のためにバンドをやめて、父さんの残した店を引き継ぐ羽目になった兄ちゃん。
俺さえいなければ、二人は普通の暮らしをしてこられたはずなのに。
家族に迷惑をかけているという事実は、俺の存在意義という心の拠り所を、少しずつ削り取って、小さく、細切れにしていった。
俺って、本当に必要なの?
生きている意味あるの?
その問いが、頭の中をぐるぐると、めぐり続けていた。
もしかしたら、とっとと死んでしまったほうが、みんなのためになるんじゃないのかって、ずっと思っていた。
どうせ生きていたって、俺がこんな呪われた体になって、家族以外でまともに会話をできる同世代の人間はいない。いつ相手を操ってしまうかもしれないと、ビクビクしながら会話しなければいけない状態では、もうまともな学校生活なんて送れない。
だからずっと、閉じこもっていた。
俺に呪いが発動して、金髪碧眼になって、もうすぐ死ぬとわかってから、身を潜めて生きるだけの毎日は、色を失っていた。
何をやっても、どうせ死ぬのに。
意味がないじゃないか。
その気持ちが、心の奥底から、どんどん湧き上がって、止められなくなった。
だったら、もう終わりにしよう。
そう決意した翌朝。
兄ちゃんが方位を占って、「とても良い出会いがある」と言った。
もしかしたら、何か察していたのかもしれない。
ちょっとした気まぐれだった。
どうせ死ぬなら、最後に今日だけ、久しぶりに学校に行って、絶望すればいいじゃないか。
そう思って、学校に行くことにした。
案の定、クラスメイトのみんなが、俺の「ほっといてください」という言葉で、潮が引いたようにいなくなった。
その時に、あぁ、やっぱりなと思ったのだ。俺には、普通の学校生活なんて、無理なんだと。間違いなく俺は死ぬべきなんだと。そう確信した。
なのに、出会ってしまった。猫崎桃と。
彼女は何度も、猫まみれになっている俺を助けてくれた。きっときっかけは、ただの猫好きで、いっぱいの猫がいるところに、近づきたいだけだったのかもしれない。
それでも、彼女は俺の言葉に操られなかった。まるで普通の友達みたいに、話をしてくれた。俺に笑いかけてくれた。普通の高校生なら、当たり前にやっている、ありきたりな日常が、俺にとって、それは奇跡のような瞬間だった。
ずっと深い井戸の底に沈んでいたカエルが、見上げた空の青さを知った直後に、光のはしごが降りてきたようなものだ。
きっとカエルは、いくら空の青さや、落ちてくる花びら、月の美しさを知っていたとしても、本当は海を見たかったのに、ずっとやせ我慢していたのではないだろうか。
見たこともない場所での出会いを、体験を、感動を、熱望していたのではないか。
目の前に現れた猫崎さんは、俺の未来を色づかせた。
今日死んでしまうのが、もったいないと思えた。
死ぬのは明日にしよう。別に、今日じゃなくてもいいじゃないか。
そう思えるぐらいに、猫崎さんの笑顔は、俺の心の中に、小さな灯火を作り出した。
その笑顔を、絶対に失いたくない。
けれど、その笑顔を守るために、俺の命が必要だというのなら、むしろ本望ではないのか。最後の日を絶望しながら終えるよりも、一瞬でも、普通の高校生としての生活を、味あわせてくれた猫崎さんを、助けるために使えるというのなら。
俺が今ここで、命を投げ出す決心をしたとしたら、兄ちゃんは怒るだろうか。
きっと、俺らしいと、困ったように笑うかもしれない。もしかしたら、あの占いを告げた時点で、何もかもお見通しだったのかもしれない。
ありがとう、兄ちゃん。
俺は、大切な人のために、命をかけるよ。いいよね、それで。
赤獅子は心の奥底を覗き込むように、じっと俺の目を見ていた。
もう後には引けない。俺は覚悟を決めた。
「赤獅子……もしお前が望むなら、差しだそう。俺の命でもなんでも」
その言葉に偽りはない。
「茜音よ、ただでさえ残り少ない、その貴重な日々を賭ける価値が、その娘にあるというのか」
「もちろんだ」
猫崎さんを助けるためなら、彼女の笑顔を守るためなら。
俺の命を取られても、本望だ。
「ほう、その言葉、おぬしで二人目だ。絵式神にまじない絵師の命を差し出すとは。まことに面白い。このような戯言を言うやつに、また会えるとは思わなんだぞ」
赤獅子はガハハと高笑いをする。
「さぁ、乗るがいい。あとで後悔しても知らぬがな」
フサフサで大きな赤獅子の体にまたがる。
「猫崎さんの匂いはわかるか」
「我を誰だと思うておる」
赤獅子はリビングの窓ガラスを割って、外へと飛び出した。空中を跳ねるように、どんどん駆け抜けて行く。
見下ろす夜の街に、いくつもの明かりが灯っている。きっと街の人は、空の上に、猫のような物体が走っているなんて、思いもしないだろう。
俺だって、こんなに高い場所を、高速で移動するのは初めてだ。だが怖いなんて言ってられない。猫崎さんの命がかかっているのだから。
「赤獅子、もうちょっと、振動の少ない飛び方はできないのか」
「勝手に落ちた時は、我は助けぬゆえ、そのつもりでな」
赤獅子の返事はそっけなく、容赦がない。
俺は振り落とされないよう、しっかり掴んでいるだけで精一杯だった。
しばらく飛んで、赤獅子が急降下を始めた。
「急に匂いが強くなったな。どうやら近いぞ」
目の前にあるのは大きな崖だ。
もしかして、猫崎さんに会う前に、俺が死ぬなんてことは。一抹の心配が頭をよぎる。
「おい、ちょっと待て、そこはっ」
どんどん壁が迫ってくる。ぶつかる。そう思った瞬間、赤獅子がむしろスピードを上げて、岩壁に突進していった。




