☆16 情けない。俺はクラスメイトを守る力すらないなんて。(魚住茜音)
水槽の中で目が覚めた。また俺は倒れたらしい。
十五歳で金髪碧眼の印が出てから、もう何度も倒れている。
苦しくなって、息ができなくなって、気が付いたら意識を失って、倒れている。これまで何度も兄に助けられてきた。きっと今回もそうなのだろう。
ようやく動けるようになって、水槽から顔を出した。
金色に光る前髪から、水滴が滴り落ちる。倒れるたびに、金髪がよりプラチナブロンドに近づいていっている気がする。呪いがどんどん体を蝕んでいるのを実感していた。
深呼吸をすると、ちゃんと肺の中に空気が入ってくるのを感じる。
まだ生きている。
もう少しだけ、俺はまだ生きていられるようだ。
兄がいなければ、もっと早く死んでいたかもしれない。兄の術のおかげで、俺は生かされている。
この姿になってから初めて、人魚の呪いについて説明され、十六歳になるまでには、死ぬ運命だと知った。最初は冗談だと思っていた。
だがこうして何度も倒れるうちに、本当に死ぬのかもしれないと、信じられるようになってきた。
この発作が出るようになってからは、印がある者は、いつ死んでもおかしくないという。
明日死ぬかもしれない。
そう思いながら生きるのが、こんなに辛いなんて、小さな頃の俺は知らなかった。
だからもう、誰とも深く関わらないようにしていた。もし誰かを大事だと思ってしまったら、死ぬのが怖くなってしまうからだ。そんな思いをするのは、俺たちのような呪われた一族だけで十分だ。そう思っていたのに。
猫崎さんを巻き込んでしまった。良かったのだろうか。俺の勝手なわがままで。
「ようやくお目覚めか、茜音」
兄がタオルと着替えを持って、水槽の前までやってきた。
水槽から出ると、いつもならわらわらと寄ってくる猫たちも、さすがに濡れたくないのか、少し遠巻きに様子をうかがっている。
ずぶ濡れの制服を脱いで、体を拭いていると、兄の視線を感じた。
「ずいぶんとご立派になられて。お年頃ですな。色気付くわけだ」
「何見てんだよ、この変態がっ」
油断も隙もない。兄に背を向けて、シャツとジーンズに着替えた。
「命の恩人に向かって、変態呼ばわりとはこれいかに」
ふざけている時に父がよく言っていた言い回しと、まったく同じ口調を聞いて、喉の奥が詰まって、少しだけ泣きそうになる。
いつもの兄なら、絵式神を飛ばしたり、猫をけしかけたりして、嫌がらせをしてくるところだが、さすがに俺の治療で力を消耗してしまったのか、そばの椅子に座って、笑みを浮かべているだけだ。
「で、猫崎さんは?」
「駅まで送ってきたよ」
「ありがとう……いろいろと面倒かけて、ごめん」
「何をいまさら」
兄はニッコリと笑う。いつだって兄は優しい。俺のためにバンドを辞めて、やりたくもないまじない絵師もどきのことを、やってくれている。
「ただ少し、心配なことがあってね」
兄は表情を曇らせた。いつもニコニコしている兄が、こんな顔をする時は、おふざけではなく、本気な証拠だ。
「心配なこと?」
「あのオルゴール、猫の瞳が光っていてね」
「それってまさか」
猫のオルゴールには、持ち主の危機を、光の変化で知らせる術がかけてあった。
「僕が見た時は、まだオレンジ色だった。でも彼女の身に、近いうちに何か良からぬことが起こるかもしれないね」
カッとなって、つい兄の着物を掴んでいた。
「兄ちゃんは、それがわかっていて、猫崎さんを返したのかっ」
「だってしょうがないだろう。危険が迫っているからって、拉致監禁するわけにもいかないし」
「そう……だけど」
「ほらシワになるから、離しなさい」
まだ本調子ではないのか、腕にあまり力が入らず、兄に軽くあしらわれる。
「一応、猫の瞳が赤く光ったら、すぐに連絡してほしいと伝えてはあるけどね」
一般人には、まじない絵師の力で察知できる危険を、説明するのは難しい。嫌な予感がするというレベルではない。本当に何かが起こる前触れというのは、霊力のある者ほど、明確に察知ができるものだ。
良からぬことが発生する場所、人というのは、異常な気を発している。普通とは違う不自然な部分は、かなりの確率で、厄災を引き寄せる。
学校でいくつかの兆候はあった。
担任の熊野先生、その娘である熊野エリカ、どちらにも猫崎さんに対する特別な感情が、ずっとだだ漏れだった。ただの執着というだけではない。異常なレベルに、相手のことを考え続けている人に特有の、邪な気が渦巻いていた。
それがプラスのものであれ、マイナスのものであれ、行きすぎた思いは、いずれお互いにとって、ろくでもない結果をもたらすことが多い。
二人のことを兄に告げたら、心配だからとあの猫のオルゴールを持たせるように言われたのだ。
「光の色について、まさか猫崎さんに、本当のことを伝えたんじゃないだろうな」
「伝えたところで、怖がらせるだけだしね。金運アップの合図とだけ、適当にごまかしておいたよ」
本人の不安に思う気持ちが、さらに悪いことを引き寄せることもある。だから、相手によっては嘘をついて、わざと本人に知らせないことも多い。だからってよりによって、この兄は。
「金運アップって、なんでそんな変な嘘を。ほかにもっとまともな理由があっただろう」
「彼女、お金に困ってそうだったから、効果があるかと思ったんだけど」
「きっとそれ、逆効果だよ。金運がアップしたら教えてくれなんて、兄ちゃんが新たな骨董品を売りつけたいからかもって、考えるかもしれないし」
冗談だと思われて、本当に危険が迫っているのに、連絡してもらえなかったら、なんの意味もない。
「やっぱり心配だな」
無理やりにでも引き止めたほうが良かったのかもしれない。だが俺は倒れてしまって、それどころじゃなかった。肝心な時に役に立たないなんて。あまりに情けなくて泣けてくる。
「彼女、スマートフォンを持っていないみたいだし、緊急の場合は、連絡できるかわからないからね。だから一応、彼女の身辺に、何かあった時は、連絡が届くように細工はしてありますよ」
兄はにっこりと笑う。やはり俺なんかより、よっぽど頼りになる。
「ありがとう、兄ちゃん」
「感謝の気持ちは、労働で払っていただけると助かります。実はついさっき、マダムからガトーショコラの注文が、また二十個ほど入ってだね」
「に、二十個っ?!」
やけに優しいと思ったら、そういうことか。
やっぱりうちの兄は、ただの守銭奴かもしれない。
大きなため息をついた時、外からコツコツという、小さな音が聞こえていた。
ボンネットバスの窓を見ると、人の形をした小さな白い紙が、窓を叩くように、何度もぶつかっている。兄が仕掛けておいたという擬人絵式神だろう。
「どうやら、もう連絡があったみたいですね」
窓を開けると、バスの中に入ってきた白い人形が、兄の手元に舞い降りる。
光を帯びて、燃え上がった瞬間、煙のような粒子が立ち上がった。空中にゆらりと映像のようなものが、一瞬だけ浮かび上がる。
兄が眉をひそめ、俺は目を見開いた。
「これはいけませんね」
返り血を浴びた男に、手を掴まれているのは、間違いなく猫崎さんだった。血まみれの男の姿にも見覚えがある。担任の熊野先生だ。
スマートフォンを兄が手渡してくる。倒れたときに落としたのを、兄が拾っておいてくれたようだ。猫崎さんに教わった番号に電話をかける。ずっとコールが鳴り続けている。
「銀羅、灰羅、頼みましたよ」
兄が術を唱えながら、空中に指で絵を描くと、兄の思念で作り出した、思業絵式神たちが姿を現した。
長髪姿の銀羅と、おかっぱ頭の灰羅が、我先にと文句を並べる。
「だからアタシは、ろくな女じゃないって言ったのに」
「それ言ったのはボクだ。お前は打算的な女だって言ってたろ」
兄がギロリと、絵式神の二人を睨む。
「黙りなさい、二人とも。猫崎さんに渡した名刺には、念を込めてあります。さぁ、早く、彼女のもとへ」
絵式神の二人は、しぶしぶといった様子で、窓から外に出て、空へと飛んでいく。兄が俺の治療で疲れている状態で、さらに二人分の絵式神を、遠くまで送り出すのは、かなり骨が折れることのはずだ。
俺がきちんと絵式神を使えたら。こんなに兄に負担を強いることもなかったのに。
父から譲り受けた絵式神の赤獅子は、まだ俺の力では、抑え込むのに精一杯で、従属させたとは言い難い。使おうとしても、炎をまとった赤獅子が暴走して、周辺を火事にする大惨事になることもあるからと、練習以外での使用を禁止されていた。
倒れてから間もない今の俺の体では、とてもじゃないが、まともに制御できるとも思えない。情けない。俺はクラスメイトを守る力すらないなんて。
棚の引き出しを開けて、書類を漁っていた兄が言う。
「僕は父の捜索で、以前にお世話になった警官さんに、連絡を取ってみます。ちょうど竜宮町の派出所だったはずですから」
俺も何度か会ったことがある。親身になって話を聞いてくれた、優しい警官だった記憶があった。
「ありがとう、兄ちゃん」
「猫崎さんは、うちの大切なお客様だからね。それにまだ、お代を払ってもらってないですしね」
軽口を叩いてはいるが、兄の表情は険しい。それだけ危険な状況ということだ。
俺は靴を履くのももどかしく、ボンネットバスから転げ落ちるように飛び出す。絵式神の銀羅と灰羅を追うように、真っ暗闇の山道を駆け出した。




