1 実に素晴らしい『猫じゅうたん』だった。(猫崎桃)
うちの母は、かなりのケチだ。
高校生になったんだから、そろそろスマートフォンが欲しいとお願いしたら、速攻で拒絶された。
「せっかく買っても、うっかり落として壊したり、なくしたりするんじゃないの。どうせすぐ使えなくなるんだから、買う必要ないでしょ」
それどころか、わがままを言った罰ということで、お小遣いを半額にされた。
あんまりだ。
父は会社を経営しているが、最近あまり業績が良くないらしい。
母も遅くまで働いているはずなのに、いつもお金がないと嘆いている。
そんなに贅沢な生活をしているわけでもないのに、なぜかうちには、いつもお金がなかった。
だから私も我慢するしかない。
おかげで私のお財布事情は、いつだって火の車だ。
放課後、流行りのデザートを、気軽に買い食いなんて、とてもじゃないけどできないレベルに、貧困系女子高生になってしまった。
月の半分は、お財布にはお札が入ってないこともあるぐらいだ。計画を立てずに、先に使っちゃう私も悪いのだけれど。
だから高校になって初めての夏休みは、バイトをしようと思っていた。人生で初めて自分で稼いだそのお金で、どこかの猫島にでも行ってみようと考えていたのだ。
島のあちこちが、猫だらけなんて、きっと素晴らしい楽園のような場所に違いない。
まだバイト先すら見つけていないのに、フワフワでもふもふの甘い未来を想像しただけで、顔がニヤけてしまう。夏休みが待ち遠しくてしょうがない。
猫に関することだけは、楽観主義者になれる私が、もうすぐやってくる期末テストの予感には目をつむり、駅から学校への道を歩いていた時のことだ。
角を曲がった瞬間、私は目を疑った。
まるでハーメルンの笛吹き男みたいに、猫を十匹近く、ぞろそろと引き連れている男子を見かけたからだ。スラリと背が高く色白で、金髪碧眼の男子は、この辺ではあまり見たことのないイケメンだった。
「学校に遅れるだろ。ついてくんなよ」
てっきり外国人かと思ったが、普通に流暢な日本語を話している。
うちの高校の制服を着ているが、こんな生徒は見たことがない。進学校だから金髪に染めたり、カラーコンタクトをしている生徒は一人もいないし、今年は留学生の受け入れもなかったはずだ。
「だから、ダメだって。こら変なところを舐めるなっ」
彼は困ったような顔をしながらも、足や体に登ってくる猫を、優しくひっぺがしている。だが、どこに隠れていたのかというぐらい、路地裏から野良猫が増えていき、さらに彼に群がっていく。
身動きが取れなくなった彼の体は、猫だらけのもふもふ状態だ。いくら彼が体から猫を剥がそうとしても、次々と猫が登ってきて、エンドレスだ。猫が絨毯を敷き詰めたように集まっている。
実に素晴らしい『猫じゅうたん』だった。
「いてて。噛むなよ。俺はエサじゃない」
あぁ、なんて羨ましい。私だって、ぜひあんな『猫じゅうたん』の中に埋もれてみたい。
私は猫がとても好きだ。
だから、あんなに猫に好かれている彼が、とても羨ましかった。
一体、前世でどんな徳を積めば、このような特殊能力を手に入れられるのか。私がマタタビを使ったとしても、あんなに猫まみれになったことはない。よっぽどすごい餌でも隠し持っているのだろうか。
しかも彼に群がっているのは、どうやらオス猫ばかりのようだ。大事なものがついているのが垣間見える。
彼だけが、やたらとオス猫に気に入られている理由は、さっぱりわからない。ここに種別が違うとはいえ、メス系統の私がいるというのに。
なぜだ。一匹ぐらい、こっちに来たっていいじゃないか。下手をすると、怒りすら湧いてくる。まったくもって、うらやまけしからん状態なのは間違いない。
だからと言って、困っている人を見捨てて、自分だけ学校に行くわけにもいかない。
私はいつも野良猫を保護する時に使う、チューブ状のアレを、カバンから取り出すと、彼に群がっている猫たちの気を引こうとする。
「ほーら、君たちの大好きなアレだよー」
何匹かこっちを見た。いい感じに食いついてくれたようだ。さすがアレの吸引力はすごい。ぺろぺろと舐め始めた猫を見て、ほかの猫も近づいてきた。
「今のうちに、逃げちゃってください」
彼は困ったような顔をして、何かを言いかけた。
だが、そのまま逃げるように去っていった。残された猫たちは、ふと我に返ったのか、いなくなった彼を探すように、しきりに鳴いていた。
とはいえ、食欲には勝てなかったのか、貪るようにアレを堪能している。
さすがは野良猫。お腹を空かせていたのだろう。
しばらくすると満足した様子で、みんな路地裏に消えていった。
すべての猫を見送った時、遠くで学校のチャイムが鳴る音が聞こえた。
どうやら今日もまた遅刻のようだ。
間に合わないのはわかっていたが、私は必死に走り出した。
ようやく学校に着いた頃には、もうホームルームが終わっている時間だった。
教室の前までたどり着いて、息を切らしていたら、ちょうど扉が開いて、ビクリとする。
クラス担任の熊野先生と鉢合わせをして、ギロリと睨まれた。
「また遅刻ですか、猫崎さん」
熊野先生は名前の通り、熊のように体が大きい。天然パーマのモサモサな頭と、フサフサなヒゲのせいで、見下ろされると威圧感がハンパない。うっかり山で出会ったら、死んだ振りとかしてしまいそうだ。
だが見た目に反して、性格はおっとりしていて優しく、一部の女子生徒からは、親しみを込めてプーさんと呼ばれているらしい。
「すみません。途中に猫トラップが、少々ありまして」
猫との出会いは一期一会だ。
前に一度だけ、少し具合の悪そうな野良猫を路地裏で見つけたが、時間がないからとやり過ごしてしまった日があった。だが放課後になって、その場所に戻ってきた時には、すでに冷たくなっていたのだ。
もし私が病院に連れて行っていれば。もし私が餌をやっていれば。
そう考え続けて、その日以来、弱っている野良猫を見つけると、無視できなくなった。
せっかくの出会いを無駄にして、猫の命を失うぐらいなら、私が少しぐらい学校に遅刻することなんて、大したことじゃない。そう思い込むことにした。本当はいけないことだけれども。
「もし私を遅刻させたくないのなら、この辺に生息する野良猫を全部保護して、一時間目を猫と触れ合う猫時間にしてください」
やれやれという表情をした熊野先生に、名簿で頭を軽く叩かれた。
「なかなか面白い屁理屈を言いますね。ですが冗談はそのぐらいにして……遅刻するのもほどほどにしときなさいよ。さすがに数が多すぎると、先生も庇いきれませんから。いくら成績が良くても、内申書に響きますよ」
私が遅刻をするたびに、放課後は熊野先生に、美術室に呼び出されて、こってり時間をかけて怒られていたが、ある日、本当の理由をきちんと全部話したら、先生は許してくれるようになった。
それ以来、保護猫の治療や避妊を扱っている獣医さんを紹介してくれたり、いろいろ協力してくれるようにもなった。なんだかんだで厳しいが、本当は優しい先生だった。
「放課後、反省文の提出、忘れないように」
遅刻をした日は、どういう猫と触れ合っていて遅刻したのかを、すべて反省文に書いて、先生に報告するのが日課となっていた。この反省文の提出で、内申書の評価が下がるのを防いでいるらしい。面倒だが、やらないわけにはいかない。
最近は猫のイラストを付けるようになったせいで、なんだか先生だけに見せるエッセイ漫画みたいになっていたりするが、そんなに上手じゃないイラストでも、先生は「味がある」と褒めてくれる。たぶん先生は、生徒を伸ばすのが上手なタイプだと思う。
「わかりました。以後気をつけます」
深くお辞儀をして、先生が立ち去るのを見届けてから、私はそっと扉を開けて、教室に忍び込んだ。
一番後ろの自席に着こうとして、違和感を覚えた。かなり前に、転校生のために用意されたが、ずっと空席だった隣の席が、今日は埋まっていたからだ。
しかも、その窓際の席に座っていたのは、ついさっき猫まみれになっていた彼だった。
あまりに驚いて、しばらく息を止めていたかもしれない。
こんな偶然ってあるだろうか。これではまるで、運命の出会いではないか。




