アニメのオーバーロードや魔法科高校の劣等生がヒットしたのは最初にエリートに対する”ざまあ”があったからではないだろうか
さて、転生したらスライムだった件のアニメの評価がいまいちと言う私のエッセイに対して、この作品は最初は地味でリムルが魔王になった頃からおもしろくなるから、最初の方はあまり評価されないのではという感想をいただきました。
それに対してたしかにそういう傾向はあるかもしれないと私も思います。
そしてなろう系アニメの成功作であると言われていたオーバーロードは三期目で”イキリ骨太郎”と言われて、スマホ太郎、デスマ次郎と言われてしまった、なろうアニメと同じような扱いになってきたようです。
では、本来オーバーロードや魔法科高校の劣等生のアニメの評価が高かったのはなんでなのだろうかと考えると、両方共”エリートへのざまあ”が冒頭にあったことではないかと思います。
オーバーロードではガゼフの抹殺のためにと行われた法国の陽光聖典のカルネ村周辺に対する襲撃に対して、それをなんだかんだ言いながら結果的には見捨てないでアインズがエンリやガゼフらを救って、陽光聖典に対しては悲惨な目に合わせる、その後にモモンと言う冒険者になったときもクレマンティーヌという明らかな感じの悪い悪役うを倒したことで、権威や実力で無遠慮に振る舞う悪役を倒すというダークヒーローの役割をアインズが結果的にしたことで視聴者はザマアできてスッキリしたのでしょう。
これがたとえば第三期のワーカー編や大虐殺編から始まっていたら、最初からイキリ骨太郎呼ばわりされていたでしょうし、リザードマン編が最初だったらやはり評価されなかった気がします。
弱いものへの虐殺を行ってるのは主人公側ですからね。
一方で、魔法科高校の劣等生も入学編や九校戦編くらいまではブルームのウィードに対しての見下した態度を達也が学校の成績では測れない力で覆していき、エリートに対してザマアしたのが視聴者の共感を呼んだのでしょう。
それが横浜騒乱編辺りからは周りがさすがともちあげるだけになってしまって、正直その前よりはつまらなくなったと私は感じます。
それらを考えるとなろうのアニメ化で成功するには最初にエリートに対してのざまあを持ってきて、視聴者に共感してもらった上で、ザマア養素がなくなったらそれ以降はアニメ化はしないほうがいいのかもしれません。
このすばやリゼロは、無双系ではないのでまた少し違うと思いますけどね。
結構な数のアニメ視聴者からはなろう系は”最初強くなったら後は敵を苦戦せず倒し、ヒロインに一目惚れされるみたいな決まった作業を繰り返すだけで予想を裏切るような展開はなにもないなんの盛り上がりもない作品”という認識になってしまってるような気がするのです。
物語はハッピーエンドで予定調和というのも大事なのですけど、それには物語的な上げ下げ、ピンチからの逆転みたいな要素は必要で、どうせ敵はあっという間に倒されて、ヒロインは主人公に惚れるんだろ、それによって揉めることもないし、はいはい全部予想通り予想通りみたいなのはやはり駄目なのでしょうね。




