第一章「戦勝」 (一)−2
一九三九年九月一日のドイツのポーランド侵攻を受けた英仏の最後通牒をドイツが無視したことによって、歴史上二度目とされる世界大戦が勃発した。
この報告を受けた日本政府は、松岡洋右など親独派による今すぐ英仏に宣戦布告すべきだとの声に重きを置いた。
松岡洋右は言った。
「ドイツ、イタリアと結んだ三国防共協定は、形式や内容はともかく、三国の団結によって苛酷な国際社会を乗り切っていくための、事実上の三国軍事同盟であります。
確かに、ドイツ単独によるソヴィエト連邦との不可侵条約に不愉快な思いを感じられている方もいることで有りましょう。しかし、だからこそ今ドイツとの連携も強めねばなりません。
なぜならドイツは、今まさにイギリス、フランスとの戦争状態に突入しました。これを同盟国たる我国がただただ傍観すれば、英米を始めとする列強は三国同盟に実行力無しと判断し、今までより強い態度で出てくることは、これまでの経緯からも確実と言えるでありましょう」と。
言っている事自体は、ひたすらドイツとの関係を強化しアメリカと対等に渡り合おうとした松岡らしい、いつもの強気の弁に過ぎなかった。
だが、全く無視することもできなかった。
強いバイアスがかけられていたとは言え、松岡の言葉の中には幾つかの真実も含まれていたからだ。
何より、国際的に日本とドイツが事実上の軍事同盟を結んでいると判断されていた。
それに、もし仮にドイツがイギリス、フランスに勝利し、自らも対英参戦を行っていれば、泥沼化している支那事変の一挙打開が図れるかもしれなかった。
確かに日本にとっての懸案は、第一に支那事変、第二に共産主義ロシアだ。
だが、少なくとも支那の後ろにイギリス、アメリカがいる事は確かであり、英米の後ろ盾が得られているからこそ蒋介石率いる国府軍は戦い続けているのだ。
これを比較的容易く根本から絶てるのならと、政府の一部の人間が考えるまでそれ程多くの時間を必要とはしなかった。
つまり、日本にとって同盟国への信義など、自国問題だけを解決するための方便でしかなかったのだ。
そして松岡の対英仏宣戦布告の意見は、気が付いたら水面下での日本政府の重要な方針の一つと位置づけられるようになっていた。
松岡にしてみれば、動きの遅い政府首脳を少しばかり説教したぐらいに思っていたかもしれないが、政府の枢機の人間の言葉は時として人々を動かしてしまうのだった。
しかもその後英仏の動きは全く緩慢だった。
日本との対立を深めているアメリカなど、戦争準備は向こう二年間はできないだろうと、経済関係に詳しいシンクタンクの意見が提出されるほどだった。
しかも、その報告書は結んでいた。
もしドイツがイギリス、フランスを短期的に打倒するのなら、一九四一年内にすべての問題を解決する最良の機会である、と。
かくして「欧州政治は複雑怪奇」と言って退陣した平沼内閣の後を引き継いだ形の阿部内閣は、無能無定見と言われつつも一つの方針を示すと、わずか五ヶ月で退陣してしまった。
そして五ヶ月の間に示さされたいくつかの方針は、その後の日本の進路を決定付ける呼び水となった。
一つは支那事変だった。
陸海軍、特に陸軍は政府から対英仏戦を前提としたオフレコでの動員を命ぜられたが、新たな動員を行えば支那戦線の拡大は不可能に近くなってしまう。
しかもノモンハン事変の後始末もまだ付いてなく、独ソ不可侵条約を考えると満州から兵力を引き抜くことも不可能だった。
そこで支那戦線は、国府軍が積極攻勢に出てこない限り現状維持と戦線の整理が行われることになった。
これは一部地域で日本軍の撤退にまで繋がり、阿部首相が御上より「なお一層の精勤を望む」の言葉付きだがお褒めの言葉をいただくという皮肉までもたらしていた。
しかし阿部内閣は秘密裏にドイツに特使を派遣し、好機至らば我も参戦に応じる用意があるとヒトラーに伝えていた。
なお阿部内閣の外交方針としては、ドイツが英仏もしくはそのどちらかを打倒する時期を捉えて参戦する。
そして外交上ドイツへの国際道義から参戦を表明すれば、外交上アメリカの非難もかわせると判断されていた。
アメリカの政府や大統領はともかく、市民は圧倒的に戦争反対を唱えていたからだ。
そして阿部内閣退陣により、紆余曲折の挙げ句に期待を担って海軍出身の米内光政による内閣が成立したのだが、その運営は最初から大きく躓いた。
阿部内閣の言葉を正面から受け止めたドイツが、支那事変の観戦武官や新たな駐在武官、技術顧問など様々な名目で、シベリア鉄道から大量の軍人を送り込んできたからだ。
目的はもちろん、日本参戦時の戦争における連携強化のためだ。
この点ドイツは、まったく律儀で真面目で計画的だった。
首相に就任した米内は、阿部内閣でなぜか行われた支那事変収拾準備のような行動の実体を知ることになり、愕然とする。
毒を食らわば皿までもとは言うが、阿部内閣は松岡洋右の言うがままに、いきなりテーブルにかぶりついたように感じたと後にコメントを残している。
そして同盟国があくまで日本に連動して動いている以上、粗略にすることも方針をいきなり変更する事もできなかった。
米内など一部の閣僚はなお反対したが、けっきょく日本の側からも連絡将校としての観戦武官が派遣された。
しかもドイツ側の特使が携えてきたアドルフ・ヒトラーの親書には、翌年春もしくは夏に戦争準備が整うので、日本も急ぐように、そして言葉通り好機を捉えて参戦する事を強く期待すると書かれていた。
そして日本軍の一部では、米内が知った頃には東南アジア方面に向けての作戦準備が進められていた。
米内が属した海軍などは、一部の将校が喜々として作り上げた作戦計画書を持ってきた。
海軍としては自分が主役に立てるのが、未曾有の戦争よりも嬉しいのだ。
しかも、相手はロクな戦争態勢にはなく、翻って日本軍は長い支那事変で十分に鍛え上げられていた。
日本海海戦の栄光に輝く帝国海軍が負ける要素はなかった。海軍が乗り気なのも無理なかった。
そして運命の時がやってくる。
一九四〇年五月一〇日、ドイツ軍は西部戦線で全面攻勢に打って出た。
「ケース・イエロー」作戦の発動だ。
ドイツ軍は、同年四月のノルウェーでの勝利に加えて、初戦からベネルクス三国に対しても圧倒的優位に戦争を進めていた。
しかも、世界中を驚かすように、機械化部隊が突破不可能とされた森林地帯を抜けて、フランスへの奇襲攻撃にまで成功する。
ここで日本政府は、陸海軍にアメリカ以外を敵とした場合の出師準備を命じる。
ターゲットとなるのは、ドイツが敵とした国々のみ。
イギリス、フランス、ベネルクス三国がターゲットだ。
同時に、開戦以来いまだ何の行動にも出ていないアメリカ合衆国に対しては、可能な限り融和外交を取る方針が決められた。
またノモンハン事変以後対立を深めるソ連に対する手当を減らすわけにも行かないので、事前の計画とすでに一部実働している動員計画通り、内地と支那から兵力を引き抜いて対東南アジア侵攻準備が開始された。
最短での作戦発動予定は二ヶ月後の七月。
オフレコで事前準備を進めていたので、無理を押せば一ヶ月で仏印と馬来作戦の発動が可能だった。
そして大車輪での準備の最中、次なる衝撃が訪れる。
同年五月二七日の「ダンケルク撤退戦」だ。
これにより陸軍大国と言われ前大戦に勝利した大国フランスの敗北は決定的となり、米内や天皇の意向を無視するかのように、日本政府も大きく参戦に傾いた。
ドイツからも、参戦要請がより一層強まった。
誰もが言った。「好機到来」と。
いっぽう日本の南進を警戒した英米は、対日圧力を強化する。
アメリカは、四〇年三月には太平洋艦隊を西海岸から真珠湾に進出させた。
さらに英米は、一九四〇年初頭から海南島に進出し始めていた日本軍部隊を撤退させなければ経済制裁も辞さずという強い態度に出た。
本国が降伏したオランダも、インドネシアの資源輸出を締め付けて同調した。
だが欧米の反応は、逆に日本の態度を硬化させ戦争賛成派を勢いづかせる。
新聞もこぞって英米の非道と、今こそドイツに助太刀すべしと論調を揃えて国民を煽った。
煽られた国民も、支那事変と戦争で強まる統制経済、白木の箱で帰ってくる兵士の多さなど様々な鬱屈を、即刻参戦すべしとの声で晴らした。
いっぽうで軍部、特に海軍は、欧米から石油の輸入を止められたら国家の死命を制するので、この好機に先手を打つべきだとした。
陸軍も政府のかなりも、英仏が倒れれば国府軍は向こうから握手を求めて来るに違いないと判断し、一日も早い参戦に動いた。
陸海軍が揃って大臣を辞任させると言うまで時間の問題と見られたほどだ。
なにしろ、一日も早く参戦しなければフランスとの戦いが終わってしまい、日本が戦争の果実を得られないかもしれないのだ。
そして、経過はともかく結果としてここまで事態が進んだ以上、日本はドイツに味方して参戦するしかなかった。
だがそれでも、米内は日本を破滅に追いやる可能性があると、英仏との戦争を否定し続けた。
しかし参戦を求める国内の声に耐えきれなくなり、阿部内閣より短い四ヶ月半で退陣に追いやられた。
そして、国民の期待を一身に背負った近衛文麿による内閣が成立する。
近衛内閣の最初の仕事は、英仏蘭への宣戦布告だった。
時に一九四〇年六月八日のことだ。
イタリアより二日早いだけの日本の対英仏宣戦布告だったが、世界に与えた影響は劇的だった。
当時の東南アジアは、まったくの無防備と言って間違いはなかった。
太平洋ではアメリカ太平洋艦隊が真珠湾に進出したが、進出したという以上のものではなかった。
だいいちアメリカは同年十一月の大統領選挙が終わるまで、内政的理由で宣戦布告などできるわけがなかった。
アメリカ市民は戦争に反対しているのだ。
開戦当初、日本側が準備不足だったのではと不安がった戦力は、まったく圧倒的だった。
将兵は長い支那事変で鍛え上げられており、植民地警備軍に過ぎないインドシナ、マレー半島の英仏軍は、ごく一部を除いてまともな抵抗ができなかった。
しかも日本海軍は、世界で初めて多数の航空母艦を用いてマレー半島を攻撃し、わずか三日で絶対的とも言える制空権を得ていた。
なお、初戦の侵攻作戦で、海南島から飛び立った攻撃隊の護衛に海軍の零式戦闘機がごく少数だが参加しており、以後第二次世界大戦で華々しい戦果を飾ることになる。
日本軍の東南アジア侵攻は順調に進み、四〇年六月二二日のフランス降伏によってインドシナは侵攻から進駐に変更され、さらに進撃速度が加速された。
いっぽうで、日本も戦勝国としてフランスとの和平交渉団をシベリア鉄道経由でパリに派遣し、同仏講和会議においてインドシナを放棄させ、他地域でもフランス領施設の使用許可を得ている。
そしてインドシナ戦の早期収拾は、七月二五日の対オランダ宣戦布告に繋がり、八月一五日シンガポール陥落、九月三日の第一次作戦目標を達成という結果に終わる。
シンガポール陥落では、日本中で提灯行列と花列車が繰り出され、紀元節の前夜祭のようなお祭り騒ぎとなった。
ドイツ総統はイギリスの余りにも呆気ない敗北と日本の増長に一言あったと言われるが、日本政府に口にしたのは別の事だった。
アクシズの鉄の結束によりフランスが打倒された今、イギリスを倒せば戦乱は収拾します。
我がドイツ軍精鋭は英本土を攻撃するので、精鋭無比の日本軍は大英帝国の力の根元であるインドへと進軍していただきたい、と。
いっぽう日本政府は、勝利で気をよくしていた事もあって、ドイツに言われるまでもなく進撃を弛めるつもりはなかった。
当初は、東南アジアを得た時点で講和を図るという向きもあったのだが、あまりにも圧倒的だった勝利の前にほとんどの人が浮かれてしまったのだ。
それに、アメリカの動きも気になり、十一月までにアメリカが介入する気をなくすぐらい進撃してしまわなくてはならなかった。
そして日本の積極姿勢を確認したヒトラーは、同年九月初旬にイギリス本土侵攻作戦を無期延期し、新たな戦略目標として地中海、中東への進撃を優先することを決断する。
強大な日本海軍がインド洋に入る今こそが最大の好機と彼は判断したのだ。
そして現在進行形の戦争をより円滑に進めるべく、同年九月二七日「三国軍事同盟」が締結され、イギリスとの対決姿勢をより明確なものとした。
この頃の日本とドイツは坂を転がり落ちる石のようなものであり、しかも気が付いたら巨石となっていたので誰も止めることができなかったのだ。
そして、落下する巨石の勢いとなった日本帝国の大艦隊が、アメリカで大統領選挙が行われようとしていた頃、インド洋上に出現する。
これに対してイギリスも、思った以上に不甲斐ないイタリア軍を後回しにして日本軍のインド進撃を止めるべく、地中海から大艦隊を送り込んだ。
日本軍によるセイロン島攻略作戦と、日英海軍の決戦となったインド洋海戦の始まりだ。
この時日本海軍は、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「龍驤」、戦艦「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」を主力とした、艦載機三〇〇機近くを抱える大艦隊だった。
いっぽう大幅に増強された英東洋艦隊は、既存の戦艦「リヴェンジ」に加えて、戦艦「マラヤ」「ラミリーズ」「ヴァリアント」「ウォースパイト」、空母「イラストリアス」「イーグル」から編成されていた。
旧来の視点からなら、英東洋艦隊は戦艦の数と質から有利と思われたほどだが、艦載機数五対一の差は絶望的なまでの結果として表れた。
いまだ艦載機の次世代機への更新半ばだった日本海軍空母機動部隊だったが、その日一日行われた四度に及ぶ波状攻撃によって、歴史に新たな一ページを刻み込む事になる。
英東洋艦隊は、新鋭装甲空母「イラストリアス」、改装空母「イーグル」を最初の集中攻撃で奮闘した艦載機と共に失うと、後は為す術もなく日本軍攻撃機の射的の的となった。
五隻で堂々とした戦列を組んでいた戦艦群は、ドイツやイタリアとは比べものにならない激しい空襲にさらされ、三隻撃沈、二隻撃破という結果を残して全滅した。
日本海軍は、世界初の航空機による戦艦撃沈を成し遂げただけではなく、連合国の抗戦意欲まで根こそぎ奪い去ったと言われるほどの勝利戦果だった。
イギリスの戦争支援を訴え選抜制とは言え徴兵まで行ったルーズベルトは、ギリギリのところで大統領三選を果たしたが、日本の勝利が伝わるのが一日遅ければ選挙に敗北したかも知れないと言われた。
武器貸与法も僅差での可決だったほどだ。
また米海軍は、三度大統領となったルーズベルトに、一九四二年末までに日本との戦争が発生した場合、我々は太平洋で忠誠を示す以外戦う方法はないとまで言わせてしまう。
そして日本海軍の勝利によってアメリカのその後の動きも慎重かつ低調なものとなり、イギリス、中華民国などアクシズと戦う国々を落胆させる。
もう、あとは日独を中心とするアクシズの残敵掃討とすら言われる戦闘が半年ほど継続しただけだ。
当然だが、結果はどれもアクシズの勝利、勝利、勝利の連続だった。
あまりの勝利の連続に、ドイツ宣伝省がプロパガンダに苦労したという逸話すらあったほどだ。
あまりに勝ちすぎていて、敗北を誤魔化すための虚報ではないかと民衆から疑われたからだ。
しかしアクシズの勝利は事実だった。
同年十二月には、日本がセイロン島を占領し、インド洋での通商破壊を活発化。
さらに乾期に入ったので、陸路でのビルマ侵攻を開始した。
いっぽう、ようやく布陣を変更したドイツが、リビアのイタリア軍と合流し、東欧諸国がこぞってアクシズに参加した。
翌四一年からは、一ヶ月ごとにアクシズ大勝利の報が世界中を席巻した。
勝利に乗じたスペイン参戦を受けたジブラルタル攻略などその最たる例だろう。
同年三月にアメリカで連合国に対する武器貸与法が成立したが、もはや焼け石に水と言えた。
同月には、ドイツ、イタリア連合軍がスエズ運河にまで達し、中東にも進撃し、Uボートの脅威はインド洋で主戦力の三分の一を失ったロイヤルネイビーでは押し止められなくなっていたからだ。
同年五月のドイツ軍中東軍団と日本軍中東方面軍とのペルシャ湾の握手が、最終的な勝利の象徴だ。
しかも英軍を排除してペルシャ湾にまで至った日本軍は、同じ頃インドにも新たに進撃していた。
日本軍は、進軍する場所という場所で熱烈な歓迎を受け、自軍の補給すらいらないほどの物資と同志を抱えながら、インドの民衆と共にカルカッタからデリーを目指していた。
もちろん、インド洋を強大な日本海軍に封鎖されたイギリス本国に、インドを救援する能力はなかった。
そしてイギリスの退勢とアメリカの弱腰に落胆した蒋介石は、イギリスの降伏もしくは停戦より早く、日本との停戦交渉を開始し、第二次国共合作は崩壊した。
そして、止めとばかりにドイツ軍主力の半数が、再び英仏海峡に集結し始めた。
地中海や中東から戻ってきたルフト・ヴァッフェによってバトル・オブ・ブリテンも再び激化した。
ウィンストン・チャーチルは、なおもアクシズとの戦い、ファシズム、軍国主義との戦いを訴えたが、もはや英国民は敗戦で萎えており、チャーチルは首相辞任を余儀なくされる。
そして一九四一年七月一五日イギリスはアクシズとの間に休戦協定締結。第二次世界大戦は終幕した。