第六章「対決」(三)-1
一九四四年八月十五日 東シナ海
戦艦アイオワは、全艦隊の先頭を進む形で、東シナ海を驀進していた。
速力は二一ノット。巡航速度としては早すぎるぐらいで、随伴の駆逐艦はすでに上海に行くしか燃料が持たない計算で進んでいる。
隊列は、戦艦アイオワを中心とする戦艦六隻の隊列を中心に、左右に重巡洋艦と駆逐艦を半数に分けた隊列が並んでいる。
第一任務部隊は、特に砲撃力を重視されているので新鋭とはいえ軽巡洋艦は含まれておらず、重巡洋艦だけが八隻。
駆逐艦も教導駆逐艦を先頭にした二個駆逐連隊で、一八隻完全編成の水雷戦隊だった。
通常なら恐れる者など存在しない筈、世界最強クラスの破壊力を与えられた戦闘部隊だが、今彼らは時間という最大の敵と戦っていた。
「あと二時間で、台湾から対馬海峡を結ぶ主要航路です。すでに対水上レーダーは、周囲に複数の独航船を確認。各艦で視認もされている小型漁船と思われる木造船については詳細不明です」
「無線情報は」
「一五分ほど前から付近から発信された平文を四通確認。いずれも日本語で我々の存在を言い立てています」
「この時点で見つかるのは折り込み済みだが、対空レーダーは」
「たった今、西南西二二里に低速小型機の反応を確認。報告をお届けするところでした。また、五〇里南西に四〇〇ノット以上で急接近する機影二つを確認しています」
「南西の方は、台湾から慌てて飛び立ったヤツだな」
「はい司令長官。フィリピンからも偵察機飛来の電文が届いています」
「近くの方は」
「発見状況から、低空を飛行してきたと考えられます」
「うむ。だが、最悪の想定もしなければならんぞ。艦艇からカタパルト発進したばかりの水上機かもしれない。情報収集を急げ」
仮眠から明けたニミッツ司令を、様々な情報が襲いかかった。
スタッフから無理矢理一時間ほど仮眠を取らされたのだが、幸いにして仮眠中に大きな変化はなく、状況は今のところほとんど予測範囲内に収まっている。
近くの小型機を除いて。
ニミッツが外を眺めつつ呟いた。
「今少し有視界が欲しいな」
「夜明け前の朝靄はどうにもならないようです」
「はい。この真下には暖流が流れており、日本近海だと真冬に湯気が立ち上るほどです」
言葉の最後を日本海を体験した事のあるアンダーソンが引き継いだ。
「夏の亜熱帯とはいえ、夜が明けきるのを待つしかないか」
ニミッツは嘆息しつつ、様々な報告書にざっと目を通していく。
「順調にいけば、今日の日の入りには上海だな」
「はい。後は全てを無視して突進するのみです」
「障害が現れたらどうする」
「佐世保などから現れても、小型艦による偵察部隊がせいぜいでしょう。航空隊もよほど大規模でない限りは、対空砲で対処できます」
「潜水艦は」
「東シナ海は大陸棚でも浅瀬です。そもそも水深が浅いので潜伏するのが難しく、それにこれほど日本本土から踏み込んだ場所に哨戒潜水艦が配備されているとは、常識的に考えられません」
うむ。力強くうなづくニミッツに、参謀たちが次々に報告を続ける。
その様子を横で眺めつつ、アンダーソンには小さな危惧があった。
本当に日本軍を出し抜けたのかという危惧だ。
警戒が厳重で、サイパン、テニアンにたむろすると言われる陸上基地部隊をここ数日見たアメリカ人はいない。
それに、戦術的敗北を戦略的勝利で挽回しようとしている事に対して、祖国の政府と軍上層部が再び異を唱えてこないか、とも。
(だが)
アンダーソンは思い直した。あと二時間すれば誰も自分たちを勝手に動かせなくなる。
そんな祈りにも似た想いをうち砕いたのは、彼が様々な思考を巡らせていた時に起こった。
おかげで反応が一瞬遅れ、むしろ反応の遅れは彼を周りの混乱に巻き込ませずに置いた。
太平洋艦隊の祈りをうち砕いたのは、日本海軍の第一艦隊だった。
「王手飛車取りだな」
福留繁参謀長は、公的な場でのいつもの真面目さが消えて鼻歌でも歌い出しそうな陽気さだ。
謹厳実直な古賀峰一連合艦隊司令長官も、相貌をわずかに崩している。
誰もが、これで実質的な勝敗は決したという思いが強かった。
ひとり気むずかしげな顔をしているように見える金城次郎先任参謀にしても、内心には大きな安堵感があった。
(上からの命令も、たまには役に立つようだな)
戦闘指揮のため第一戦隊の先頭に立った大和の後ろ姿を見つつ、これで彼自身の仕事が終わった事を感じていた。
(何しろ)
「ここからは大和級戦艦と第一艦隊の面目躍如ですな」
金城の内心を代弁する参謀の一人が言ったように、この場にいる誰一人として自分たちの戦術的敗北は考えていなかった。
金城にしても、数字の差から自分たちの相対的勝利を予測している。
数はほぼ互角で戦艦の数では一隻負けているが、今この状況を見せられて敗北を考える日本海軍軍人はいなかった。
大和級戦艦とはそれだけの存在感を放つ空前絶後の巨艦であり、鋼鉄で鎧われた巨体は感情に訴える要素に満ちていた。
基準排水量六万四〇〇〇トン、速力二七ノット。四五口径四六センチ砲三連装三基九門装備。舷側装甲四一〇〜四〇〇ミリ、装甲甲板装甲二〇〇ミリを始めとする重厚極まりない集中防御式の装甲。
すべては、対艦戦闘に勝利するためだけに割り出された最大限の数字が具現化されており、対水上戦闘において間違いなく最強の存在だった。
しかし、あまりに極秘に建造が進められたため、いまだ世界のどの国も詳細は掴んでいなかった。
同盟国のドイツにすら詳細は秘密にされており、ヒトラーが個人的に一番知りたがっている情報の一つとすら言われている。
もちろんアメリカも詳細は全く知らず、遠くから撮影された写真などから排水量五万トン、五十口径四一センチ砲装備と見ている。
もっとも、使われている技術は既存技術の集大成でしかかない。
ドイツのような冒険は可能な限り避けられている。
強いて冒険した点を挙げれば、巨体の建造そのものが技術への挑戦と言えるであろう。
また、欧米に比べて遅れていると分かった電波技術に関しても、第二次世界大戦後の技術輸入で十分に横並びとなっている。
前檣楼の頭頂部の測距儀や主砲射撃指揮所に据えられた射撃管制電探の四二号、新たに煙突前部に据えられたマスト上で回転する二一号三型電探は、イギリスから高値で買い入れた資料が正しければ、アメリカ軍の有する電探と同等かそれ以上の能力だ。
もちろん従来型の射撃統制技術に手抜きはなく、出撃前も丸々一ヶ月訓練を行い、主砲実弾発射演習も標的艦に対してすら十数斉射も行っている。
相手が例え就役したばかりで正確な情報すらない新鋭戦艦といえど、後れをとることはあり得なかった。
しかも大和、武蔵は赤色戦争で艦砲射撃だが実戦も経験しており、建造時には分からなかった問題点の多くも既に解決済みだ。
いっぽう、大和、武蔵、信濃に後続する長門、陸奥に至っては、技量を心配することはもはや罪だった。
大和就役まで海軍の象徴を長らく務め、技量は常に海軍トップであり続け、しかも第二次世界大戦、赤色戦争では実弾射撃も経験している。
射撃相手が陸地がほとんどだったとは言え、砲撃の正確さは先の戦争で十分立証済みだった。
長門など距離二万で、浮上していた潜水艦を二斉射で撃沈している。
艦齢二十年以上でやや旧式な点は気になるが、排水量四万トン近くに達する巨体が持つ浮力と防御力は考え得る最良のものであり、米新鋭戦艦を十分圧倒できるものと見られている。
そして戦艦群の前で小ぎみよい隊列を組むのは、第二次世界大戦で世界最強と言われた妙高級重巡洋艦と愛宕級重巡洋艦の全艦、八隻だった。
同クラスは攻撃力と技量で追随できる艦艇は世界にはなく、実戦経験の有無を考えれば同数で負けることなどあり得なかった。
しかも全艦隊の先陣を務めるのは、敵手イギリス海軍からも絶賛された第二水雷戦隊だ。
かつてマレー沖、インドネシア、セイロン沖、アラビア海で猛威を振るい続けた戦闘集団の機敏さとどう猛さは相変わらずだ。
今は完全編成一六隻の駆逐艦を、新鋭軽巡洋艦の能代が率いている。
以上のように、日本海軍側から考えれば、心情的に敗北することを考えるのが難しいと言えるだろう。
だが、なぜ世界最強を自負する第一艦隊の彼らが、アメリカ艦隊の進路に立ちふさがっているのか。
理由は、数日前に遡らなければならない。
アメリカ艦隊がマリアナ諸島を目指す位置に出現し、聯合艦隊総力を挙げて進路を取ろうとしていた矢先の事だった。
日本政府の強い要請、事実上の命令を受けた軍令部が、聯合艦隊は主力の第一機動艦隊を先発させ、第一艦隊は情勢が定まるまで日本本土近海で待機せよと、大海令を発したのだ。
命令により南進せず東進したため、アメリカ太平洋艦隊主力とは半ば併走する形になっていたのだが、第一機動艦隊との戦闘でアメリカ側が停滞している間に追い抜いた。
だが、アメリカ側の一時南進により突撃も交わされて、むしろ聯合艦隊の方が夕刻の時点では落胆していた程だった。
そして米艦隊撤退の報告を受けさらに落胆した司令部が、金城の発案により上海との航路上に網を張って念のためを期した。
あとは、第一機動艦隊の艦載機来援まで敵を拘束し続け、挟み撃ちにしてしまえば第二の日本海海戦の完成だった。
もちろん第一艦隊将兵にしてみれば、司令長官から二等水兵に至るまで、航空機が来るまでにすべてを終わらせるつもりだ。
「あの命令を受けた当初はどうなるかと思ったが、災い転じて、いやいや軍令部の先見の明に助けられたな」
後ろに待機していた参謀の一人が呟いた。
すでに電探測定で四十キロを切り決戦間際ということで、第一艦橋も緊張感を増していたが、緊張に耐えきれなかった者が発言したらしかった。
注意深く聞けばとがめ立てもできたが、古賀や福留は黙認するようだ。
金城も何を言うでもない。
それに政府、性格には近衛首相あたりの臆病風から出た兵力分散の命令が、最後に来て大金星を呼んだのだから、参謀の言っている事は正しい。
むしろ不思議なのは、アメリカ太平洋艦隊が第一艦隊の存在を今の今まで無視してきた事だろう。
(それとも……)
金城は、そこまで思いを巡らせた所で、別の事を思った。
今頃向こうの混乱は、如何ばかりだろうかと。そして、アンダーソン君にまた大きな迷惑をかけたな、とも。
しかし不思議と、今から殺し合う事については何も感じなかった。
何しろ両者とも頭脳であって手や足ではないので、後は傍観者でしかないからだ。
だが、アメリカ太平洋艦隊司令部は、まだ傍観者にはなれなかった。
「転進、撤退は論外。戦って道を切り開くより他ない」
ニミッツの言葉に、全員がうなづいた。アンダーソンを除いて。彼は、即発言を求めた。
「長官、お待ち下さい。思い込みから見落とした相手戦力に先回りされた。確かにこれは我が方の偵察ミスです。また、相手戦力は互角ですが、勝率は恐らく五〇%以下でしょう」
思い込みとは、日本軍は空母機動部隊決戦主義により、すべての艦艇を空母部隊にばらまいていると予測していた事だ。
だからこそ、第一艦隊は内地待機の訓練部隊と思われていた。
偵察でも、中間部の主砲を下ろした扶桑級が、誤って長門級と報告されていた。
「戦艦の数ではこちらが一隻多い。しかもこちらは全て新鋭戦艦だが、向こうは多くても三隻だ」
アンダーソンの強い言葉に、レーダー情報を元に戦艦マフィアの参謀が言った。
「そうです。しかし地の利は彼らにあります。それに彼らの基地航空隊はどうします。他にも、追撃している可能性が高い、先日の空母機動部隊がすでに攻撃隊を放っている可能性も十分あります。戦闘をよほど短時間で勝利しなければ、挟撃を受けるのは我が方です」
「だからと言って、何もしないのかね」
スプルアンスが場を取りなすためにも、調整役を買って出た。
「はい。既存の方針を変えないのです。具体的には、相手の誘いに乗らず、出しうる限りの速力で主要民間航路に入りこみ、そのまま上海に入ります」
「相手はT字やトウゴウ・ターンを仕掛けてくるのは間違いないぞ。どう避ける」
「相手に合わせて反航、そこで増速して斜め横から振り切ります。インド洋での日本海軍大型艦は、遠距離での砲撃戦を好みました。また、大艦隊の旋回には大きな時間を要するので、十分目の前の戦艦部隊には時間が稼げます。しかも、追撃後の本格的な砲撃戦に入る前に、相手は主に自国の民間船舶の事を考えねばなりません」
「しかし、これほど周到な手を取ってきた相手だ。レーダーに映っているのはダミーの低速状態なだけの軍艦で、民間船舶にはすでに退避命令を出しているかもしれない」
「民間船舶の動きは、フィリピンからも逐一報告が届けられていますが、ダミーとの報告はありません。また今までの情報から考えても、戦時態勢にあるのは彼らの海軍主力と陸軍の一部だけです」
しかしだな。参謀はそこで口ごもった。
彼としては、優位にある新鋭戦艦の威力で日本軍の精鋭を一蹴して溜飲を下げ、堂々の凱旋入港を果たしたいのだ。
太平洋艦隊司令部の多くも、今は感情的な決戦意見が多数派の筈だ。
何しろ目の前には夢にまで見た敵手としての聯合艦隊主力艦隊が、自分を映す鏡のような状態で進んでくるのだ。
進路上への日本艦隊出現に思いの外混乱がないのも、決戦という目先の目標をまず与えられたという要素が大きい。
軍人とは、何よりも目の前の獲物に食いつく傾向が強いからだ。
しかし、アンダーソンの見るところ、レーダースコープの情報は最後の罠だった。
もちろん相手がフェイクというワケではない。
速力二一ノットで三万トン以上の固まりが、整然と五つも並んで進んでくるのが欺瞞である筈がない。
相手は間違いなく戦艦部隊だ。
しかも日本人のカードは、後背から追い上げてくる空母部隊、マリアナに拘束されている筈の大規模な地上機部隊がある。
餌に食いつけば、罠にはまるのは間違いない。
しかも、最悪は餌だと思ったものそのものに喉笛をかみ切られる恐れだってある。
軍人を志した以上、戦闘に対する恐怖は克服できるアンダーソンだが、それ以上に任務に感情を優先させたくはなかった。
周りも観戦武官とは言え実戦を経験しているアンダーソンの意見を、個人的な怯懦故と言うものはいない。
スタッフの中では唯一日本軍の砲火を浴びているのは、アンダーソンだけなのだ。
部下の参謀二人の議論を静かに聞いていたニミッツが、深く小さい仕草で一度深呼吸した。
「フーッ。アンダーソン作戦参謀。私も君の分析が正しいと判断する。しかし艦隊すべての動きを考えると、君の考えは机上の空論だ。それに悪いが、今の私は日本人の向こう臑を正面から蹴り飛ばしてやりたい気持ちなんだ。そこで、反抗して敵を一発蹴り上げてから、堂々と上海に入りたいと考える」
冗談めかしたニミッツの言葉に、アンダーソンは深々とお辞儀をした。
とそこに、メモを持った伝令が飛び込んできた。メモはただちに通信参謀がひったくられ、そのままニミッツに手渡された。
ニミッツは受け取ると素早く目を通し、そして笑顔になった。
「諸君、火の玉小僧から、航空偵察の情報が届いた。童話通りブルとクックロビンは共にあるようだ」
ニミッツの言葉に周囲も明るくなった。
それは日本機動部隊が、フィリピンへ後退した艦隊に食らいついたことを伝えていた。
つまり、後顧の憂いはなくなったということだからだ。
ニミッツが、周囲を一度見回すと笑顔を消した。
「命令を下す。敵進路変更後、全艦隊は距離三四〇〇〇ヤード(三万一千メートル)で敵との逆進路を取り、三三〇〇〇ヤード(三万メートル)で砲撃開始。以後進路はアイオワより指示するので、各艦は指示に注意すること。以上だ」
ニミッツが居住まいを正して続けるが、言葉は最後で報告にかき消されそうになった。
「距離四一五〇〇ヤード(三八〇〇〇メートル)、敵艦発砲更! しかし、いまだ敵影視認できず」
未だ夜のとばりが完全に逃げ去っていない西の空から、凶悪な意志を持った噴煙が巻き起こったのだった。




