第一章「戦勝」 (一)−1
一九四〇年五月三日 アラビア海ペルシャ沖
ロバート・アンダーソンの周りは、闇と騒音、そして潮と硝煙の混ざった香りで満ちあふれていた。
「すまんな少佐。どうやら本艦が次の貧乏くじらしい」
「はい、お気遣いありがとうございます、大佐殿」
短いやり取りだが、軍隊の会話としては少し変だった。アンダーソンが、観戦武官という「お客様」だったからだ。
しかし、お客様と言っても彼らの乗る艦艇、ロイヤル・ネイビー所属軽巡洋艦グラスゴーに敵が遠慮する必要はなかった。観戦武官が敵と一緒に死んだところで、誰が咎めるという事はない。極端な話し、戦争を見物に来る物好きが悪いのだ。
そして見物人のアンダーソン少佐だが、彼は顔をやや青くしながらも冷静な思考を続けていた。記録と記憶する事しか、今の彼にはできないのだ。
そんな観戦武官に一声ついでに一瞥をしたグラスゴー艦長の大佐は、ちょっとした気分転換を終えると指揮に戻った。しかし、状況は悪い方へと流れている。
周りの状況と艦長の感情のわずかな変化を感じたアンダーソンは、現状を要約しようとした。
(敵水雷戦隊は、すでに二隻の大型駆逐艦級が脱落するが突撃を継続中。敵水雷戦隊後方には、大型巡洋艦の隊列があり、盛んに砲撃中。こちらは脱落なし。
ただし、こちらの巡洋戦艦と相打ちで金剛クラスは二隻とも脱落。巡洋艦の数は五隻。うち一隻は、外観的特徴から高雄クラス。他四隻は最上クラスによく似た新型重巡洋艦。前衛の水雷戦隊は、旧式軽巡洋艦一隻に、大型駆逐艦が……あと六隻)
それに引き替え、味方の残余は軽巡洋艦が大型のグラスゴーを含めて三隻、駆逐艦は残り五隻。しかもそのほとんどが損傷を受けている。
そこまで考えたところで、報告が飛び込んできた。
「敵水雷戦隊、距離六〇〇〇を切りました」
英国では未だヤード計算なので、メートル換算だと約五五〇〇。どちらにせよ、水雷戦隊の突撃にしても踏み込みすぎだ。
グラスゴー艦長などは、いち早く敵巡洋艦を捨て置いて危険すぎる敵手への砲撃を命じた。
だからこそ敵の駆逐艦二隻が隊列から脱落したのだ。
今もしきりに敵の魚雷発射に注意を注いでいる。何しろ噂が正しければ、敵の魚雷は目視も難しい上に五〇ノット近い速力を発揮する。
この距離でそんな悪夢のような魚雷を撃たれては、一瞬の隙が命取りとなる。
だからグラスゴーは、排水量九一〇〇トンの巨体から、一五・二センチ砲をはじめあらゆる火器を敵に叩きつけている。
すでに二ポンド四連装備ポンポン砲すら有効射程距離に入りつつある。
当然だが、敵先頭艦に降り注ぐ砲火は流星雨のごとくだが、意外に被弾する数は少ない。
お互い速度を出しすぎて、砲の照準が追いついていないのだ。
そして、流星雨の中を一見平然としている男がいた。
グラスゴーに迫りつつある水雷戦隊の先頭を行く駆逐艦「霞」艦長金城次郎中佐は、他者から見れば仁王立ち状態で前だけを見つめていた。
時折指示を下すが、あまりにも悠然とし過ぎている風にすら見える。
たまらず、先任将校が訊ねた。
「艦長、旗艦からの雷撃始メ、はまだでしょうか」
「そうだな、第十八駆逐隊の指揮を取れとしか命じられてないからな」
第十八駆逐隊は、もともと「陽炎」「不知火」「霞」「霰」から構成され、日本海軍最強と謳われる第二水雷戦隊に属している。
金城が「にすいせん」の一角を任されたのも、傍流とは言え軍令畑の相応のコースに乗っており、ステップアップの為の配属でもあった。
だが、配属中に戦争が勃発し、今こうして戦場に身を晒す羽目に陥っていた。
なお、金城は本題をいささかずらした回答をすると、すぐに口をつぐんでしまった。
だからだろうか、先任はさらに言葉を続けた。
現状は、すでに訓練でも魚雷発射する距離をはるかに超えており、彼の常識からは逸脱していたからだ。
「しかし、距離はもうすぐ五〇〇〇です。このままでは機関砲すら浴びて全滅しかねません。司令部は、戦隊旗艦の神通は何を考えているんでしょうか」
「一回で勝負を決めるつもりだろ」
「しかし、ならなぜ神通が先頭に立たないのですか」
「司令部が先に潰されたら、戦闘指揮ができんだろ。実に合理的だ」
金城は、自身の危険を無視するかのように戦隊司令部を誉めた。
口調と表情からも本気でそう思っているらしかった。
だが、その後でニヤリと先任将校に笑いかけた。
「まあ、もうすぐ距離五〇(五〇〇〇メートル)だ。水雷長に気合いでも入れるか」
金城がそう言うが早いか、伝令が叫ぶように伝えた。
「旗艦被弾。速力落ちます。後続も隊列乱れます」
一瞬真面目な顔をした金城は、矢継ぎ早に指示を下していく。
だが、旗艦神通からの返信はなく、誰かが決断をしなければならなかった。
そして今先頭を走っているのは、彼が指揮官を務める駆逐艦「霞」だ。
(世の中、どうにもうまくいかないもんだ)
瞬間そんな事を頭の片隅で思うが、口にしたのはまったく別の言葉だった。
「後続に信号、こちら「霞」。我指揮を行う。距離四〇にて雷撃開始。各艦準備せよ」
四〇〇〇メートルからの雷撃という、常軌を逸した命令が下されたのだが、すでに感覚が麻痺している将兵たちは機械的に任務をこなしていく。
数千メートル先から無数の悪意が投げつけられているを無視しての突進だ。
もちろん被害も積み重なるが、不思議と前後数分間先頭に立ち続けた「霞」が致命傷を受けることはなかった。
もっとも、神通被弾から指揮権を強引に引き継いでから魚雷発射まで一分強しかない。
金城の言った通り四〇〇〇メートルまでは、ほんの一瞬にしか思えない時間であり永遠にも思える時間が消費される。
だが、千金の価値によって得られた距離四〇〇〇は、戦場では決定的な距離だった。
軍艦同士が砲撃戦を行うには近すぎる距離だが、この距離なら帝国海軍の秘密兵器「九三式酸素魚雷」なら外しようがなかったからだ。
(田中さんも運のない方だ。……が、俺が先陣を務める羽目になるとは、俺も運がないのかもな)
金城は、周囲の情景に故郷の花火大会を思い出しながら、ぼんやりと考えていた。
流星雨のような弾雨はともかく、目に見える範囲の損害がほとんどなかったため、周囲の惨状に対して現実感が湧かなかったのだ。
いっぽう、英艦隊は異常なまでに接近している敵水雷戦隊に激しい砲火を浴びせかけたが、敵の隊列は今以上に乱れることなく、ついに決定的瞬間が訪れた。見張員が絶叫に近い報告をもたらす。
「敵隊列、雷撃開始。距離四五〇〇」
「取り舵一杯!」
その一言で始まった艦長の的確な命令が矢継ぎ早に飛ぶ。
その間も見えない魚雷。通称「青い殺人者」と呼ばれるようになっていた敵の新兵器が迫っていた。
到着までたったの三分以下だ。後は、応急対策の準備だけ整えて我らが父に祈るより他なかった。
どうぞ、グラスゴーだけには当たりませんように、と。
その願いが通じたのか、グラスゴーには悪魔のごとき魚雷は命中しなかった。
しかし運命の女神は、収支決算に手抜きはしなかった。
後続の旧式軽巡洋艦二隻が、致命的な打撃を受けていたのだ。
エメラルドには三発の魚雷が命中して大きく傾いていた。
爆沈しないだけが慰めと言える惨状だ。
なぜなら最後尾のドラゴンが、周り中を照らし出して生涯を終えてしまったからだ。
ドラゴンに命中したのは一発だったが、うち一発が弾薬庫付近に命中して魚雷の火薬達がさらなる道連れを欲した結果だった。
だが、アンダーソン少佐の観察するところ、ロイヤル・ネイビーが一方的にやられっぱなしと言うことはないようだった。
まともに魚雷を発射できたのは、先頭の二隻だけだった。
日本軍巡洋艦のいる隊列でも自軍による水柱が奔騰し、二隻が速力を落としうち一隻は一〇キロぐらい離れたグラスゴー艦橋からでも肉眼で炎が確認できた。
劣勢な戦力を思えば、十分以上に彼らの祖国にへの義務は果たしたと言えるだろう。
もっとも、英海軍の駆逐艦の過半数も敵と同様の末路をたどったらしく、幾つかの炎が付近に見られた。
グラスゴー艦長もアンダーソン以上に状況を理解しており、しばらくの逡巡の後に命令を発した。転進し現海域から急速離脱せよ、と。
この海域の現世に英海軍の将官はすでになく、彼こそが今や最先任指揮官だったのだ。
いっぽう、去りゆく英残存艦隊を見ながら、金城次郎中佐はびしょぬれになったタバコに火を付けようと苦戦していた。
本人は余裕のある指揮官を演出したかったのだが、火を付けようと悪戦苦闘する滑稽な様が周囲の声なき失笑を買ってしまう。
恐らく、新たなあだ名が下士官や兵の間に流布する事だろう。
もともと彼は、日本人の中ではずば抜けて大柄で体格も良く、もはやトレードマークにも思える無精ひげさえなければ目鼻立ちのくっきりした男性的な顔立ちをしている。
だが、冷静な指揮官の面と普段の有様のギャップ、さらにニヤリとする独特の笑い方から、あまり外見通りには見られていなかった。
下士官たちが付けたあだ名も「シーサー」。
金城の意外なほどの勇猛さ、彼の出身地沖縄、帝国海軍の鬼瓦とすら言われる金城並に大柄な小沢治三郎提督にかけたものだ。
金城駆逐艦長殿は琉球の鬼瓦みたいなもんだが、どこか愛嬌がある、と。
もともと軍令畑の傍流に属する金城が、数少ない乗艦経験中に賜ったあだ名と思えば、非常に好意的なものと言えた。
それは彼が胆力に不足のない人物で、あまり規律に口うるさくなく、今見せているように愛嬌とも言える人間味を持っているからだ。
そんな事を知らない金城当人は、火を付けるのを諦めると、そのままくわえると再び腕組みへと戻り指揮も再開した。
何とか応急処置に成功した旗艦神通より通信があったからだ。
戦闘態勢解除。
損傷艦は艦の保全、健在な艦は付近海面の遭難者の救助を敵味方区別なく実行せよと。
「先任、応急は任せるぞ。それと、探照灯とカッターも使え。どうせこっちも「霰」も魚雷はもうないし、それなりに損傷している。追撃を命じられる事はないだろ」
はい艦長。さっそく手配します。
答えた先任が指図するのを確認すると、金城は胸にかけた双眼鏡を手に取り周囲の確認を行った。
周囲は、夜中だというのに様々なものが燃えていて、集光率の高い双眼鏡から見ると、かなり明るく感じられた。
案の定、周囲の海面には主に敵の水兵が散見でき、その合間をゆっくりと友軍駆逐艦が行き交っている。
仕留め損なった大型巡洋艦を含めた敵艦隊は全く見えなかった。
思いもよらぬ苦戦を強いられたが、日本帝国海軍の勝利は間違いなかった。
英東洋艦隊の残余は、今回の敗北でインド洋から退却するしかない。
その上、スエズにも戻れない以上、南アフリカに後退するしかないだろう。
そして、彼らが短期的に戻ってくることもできないはずだった。
「終わった、な」
金城が、思考から導き出した呟きは思いの外大きな声だったらしく、少しゆとりのできた先任が反応した。
「はい、友軍の大勝利です。これで中東への進撃も成功したも同然ですね」
ああ、そうだな。
答えた金城だったが、彼が終わったと感じたのは今回の海戦や中東を巡る争いではなく、第二次世界大戦そのものに対してだった。
イギリスがインド洋の制海権とインドそのもの、中東の連絡方法を完全に失うと言うことは、イギリスとの戦争そのものに決着がついたも同然なのだ。
何しろ、戦争準備ができていないアメリカは、武器貸与法でお茶を濁しただけで未だぐずぐずしていた。
スターリン率いるソ連に至っては、ドイツとの不可侵条約を楯に少しばかり広げた領土に篭もりきりだ。
そして金城と同じ事を考えている者が、急速に離れつつある英軽巡洋艦グラスゴーにもいた。
(どうやら運がよかったのは、グラスゴーだけのようだな)
アンダーソンが感じた、何とか集合しつつある英残存艦隊に対する感想だった。
この戦闘はアンダーソン本人にとって得難い体験となったが、戦闘の興奮から解放された彼の思うところは別の場所にあった。
アンダーソンは、今自分自身が歴史の転換点の一つに立ち会ったのではないかと感じているのだ。
もっとも、転換点の一つと彼自身が思ったように、第二次世界大戦と呼称される事になるであろう大規模な戦争は、いくつもターニングポイントがあった。
そして今回のターニングポイントは、一九三九年九月より開始された第二次世界大戦最後のターニングポイントなのだった。