●第四章「錯綜」(一)
一九四四年八月三日 東京
日本中を一つの報告が激震させた。
「アメリカ海軍太平洋艦隊、布哇真珠湾より全力出撃を確認せり」
報告は、布哇オワフ島沖合で張り付いていた潜水艦が、出撃確認後にアメリカ軍から爆雷による制圧攻撃を受け命からがら逃れに逃れた後に発した、暗号化された無線連絡によってだった。
このため、アメリカ太平洋艦隊の出撃は約一日前に行われている計算になる。
そして何より日本政府を驚かせたのが、三日前のアメリカ合衆国大統領の突然とも言える声明と、出撃すぐの潜水艦に対する攻撃だった。
攻撃の方は幸いにも犠牲を出すことはなかったが、アメリカの意図は明白だった。
自らの行動を妨害する可能性がある者には、躊躇なく攻撃をしかけてくるという事だ。
事実上宣戦布告にも等しい声明と、艦隊の出撃、そして無警告での攻撃は、日本政府にも決断を迫る事になる。
「これはすでに戦争だ。ただちに、我が国も対抗措置を出すべきだ」
冬宮殿講和会議終了から少しして成立した第三次近衛内閣で、再び外務大臣となった松岡洋右がいつもの調子で獅子吼した。
数度の戦争を勝利に導いた近衛文麿は、国民の圧倒的支持によっていまだ内閣首班にあった。
だが永田町の多くでは、松岡内閣と影で言われる事が多い、いつもの情景だった。
松岡から少し離れた場所では、第二次世界大戦での活躍で軍神とまで持ち上げられた海相の山本五十六が、苦虫をかみつぶしたような顔で松岡を睨みつけている。
その側では、陸相に留任した東条英機が、手元の書類に丹念に目を通している。
商工大臣の岸信介などは、何を考えているのか分からない表情で沈思したままだ。
岸と似たような仕草と表情なのは、五輪大臣として期間限定で近衛の独断で任命された吉田茂も同じだった。
けっきょく首相の近衛が、松岡に最初の一言を入れなければならない。
岸などの文官はともかく、山本も東条も自らが軍人であるという点を考慮して、戦後は閣議ではなるべく前に出ないようにしている。
いや、形式であっても近衛を立てる姿勢を見せている。
本来なら感謝すべきだが、それも善し悪しだ。
「松岡外相。君は戦争とおっしゃるが、ルーズベルト大統領も米国議会、政府も我が国に宣戦布告はしておりません。だいいちアメリカ政府は、我が国の潜水艦に対する攻撃を否定しているではありませんか」
「それは時間稼ぎに過ぎません。加えて米国の側から撃ってきたとあっては、彼らの正義とやらが成り立たないのでしょう。ルーズベルト政権にとって、悪とは常に我が大日本帝国とドイツ帝国を主軸とする枢軸同盟ですからな」
正義と悪いうところを松岡は強調した。
「我々は悪ですか。それは極端ですね」
近衛は何とか松岡の舌鋒をかわそうと、半ば意味のない事を口にしたが、松岡の態度は激しくなるばかりだった。
しかし、客観的に見れば、非は問答無用の声明のあとすぐさま軍事力の行使に踏み切ったアメリカの方にある。
ルーズベルト大統領は、中華民国の苦境を救うため、アメリカ議会が大幅な援助と軍事力の派遣に同意した事を世界に向けて伝えた。
また、支援ルートの設定に当たり、ハワイからフィリピンに至るまで大軍を駐留させることも合わせて宣言した。
そして極めつけだったのが、アメリカに敵対意志を見せる勢力に対して、アメリカ軍は断固たる態度を取るであろうと宣言した点であった。
敵対意志を見せる勢力とは、言うまでもなく大日本帝国だ。
すでに親中反日で染まり上がっていた世論に押された議会は、ルーズベルトの言葉を受け入れるしかなかった。
この演説の前にすでにアメリカ国内での決着は着いており、ライバルの共和党としてはアメリカになるべく傷が少ない形でルーズベルトの政策が失敗することを願うしかなかった。
しかもアメリカは、先だっての日本軍による中国での爆破事件に対する謝罪と賠償を日本政府に強く求め続けており、要求が受け入れられないのなら再び通商の遮断や資産凍結を行うとまで通達してきた。
すべては日本に対する挑発であり、本日届けられた太平洋艦隊出撃と日本海軍潜水艦に対する攻撃も、挑発の一環と取るべきだった。
ひとしきり松岡の演説が終わるのを待って、山本海相がその点を切り出した。
「松岡外相、今回の太平洋艦隊出撃に際しての日本海軍潜水艦に対する攻撃は、米国が意図的に我が方の潜水艦を撃沈しなかったと考えるべきでしょう。
太平洋艦隊が総力を挙げれば、潜水艦の一隻を誰に気付かれることなく沈めるのは容易い事です。彼らが我が国、我が軍に対する奇襲攻撃を考えているなら、生かして返す理由がありません。撃沈しなかったのは、我々に対するメッセージと取るべきです」
「しかし、彼らが攻撃をしたという事実は変わらない。米国としても、我が潜水艦の行動を「攻撃行動と誤解した」とでも釈明すれば、反日一色の米国内世論には弁解が通るだろう。
米国は、いやルーズベルトは我々に先に撃たせたいのだ。そして、アジアと枢軸同盟に楔を打ち込むつもりなのだよ」
「松岡外相の弁は、極端すぎはしないでしょうか。米国がかように性急な行動に出たからと言って、我が国との戦争を自ら望んでいるとは限りますまい。何か根拠があるとでも」
「まあ、選挙が近いからな」
沈思していたはずの岸信介が、目を閉じたまま大きすぎる呟きをもらした。閣僚の幾人かが咳払いや非難の視線を向けるが、岸の言葉で両者も気勢がそがれてしまった。
近衛は会話のスキを付き、岸を儀礼的に無視して口を開いた。
この辺りの雰囲気の読み方は、さすが名門貴族出身だ。
「お二人とも、今は我が国の方針を示すべきです。議論より先に決めねばならない事があります。あくまで外交で、ドイツなど諸外国を動かしてでもアメリカの行動を止めるのか。実力行使を厭わないのか。実力行使をするのなら、守備に徹するのか、攻めるのか」
「失礼ですが近衛さん、外交はすでに遅きに逸しているでしょう」
それまで門番代わりのブルドック犬のように黙りこくっていた吉田が口を開いた。
「よろしいですか近衛さん。向こうはすでに兵を動かしたのです。王手飛車取りとばかりにね。そりゃ私としては、役職もあるので戦闘は可能な限り避けていただきたい。が、消息不明の米太平洋艦隊が、こうして会議を続けている間に帝都沖合にでも現れてきたらどうします。それでも外交交渉をなさいますか。恐らく降伏調印となるでしょうな」
淡々と次々にキツイ言葉を並べていく。
そこに挙手の手が上がった。
色々問題もあるが、真面目実直の東条陸相だ。
起立して吉田に儀礼的に一礼すると、近衛の方に身体を向ける。
「話の腰を折って申し訳ありません。近衛閣下、単刀直入に申し上げますと、もはや一戦して勝利するより他に大日本の明日はありませんぞ。向こうが戦闘を望んでいるのに、こちらが平和を訴えても意味はありません。
私は総力戦研究所に依頼して、ここ半年のアメリカ軍の物資の動きを調査してもらっていたのですが、今我々に向かいつつある米太平洋艦隊は、完全な戦闘態勢にあります。そして大艦隊を完全な戦闘状態にするには莫大な予算が必要であり、外交圧力をかける程度で動かせる予算ではありますまい。たとえ、米国であったとしても、です」
「矢面に立たされる側のことも考えて欲しいものだな」
思わず山本が愚痴った。
「山本海相、確かに今回の件では陸軍は防衛戦以外に果たせる役割はありません。それは認めましょう。しかし海軍は、ここ半世紀はもちろん、半年以上前からはさらに入念な準備を進めていると聞き及びます。勝算があるのでは」
「勝算があるからと言って、むやみに戦う法はありますまい」
「すでに銃を突きつけているのは、米国の方ではありませんか。それとも海軍は、米国との一回限りの戦闘にすら勝算がないとでもおっしゃるのですかな」
「短期決戦なら、十分暴れてご覧にいれましょう」
「暴れるだけでは困りますぞ。勝っていただかなくてはなりません。亡国となってしまいます」
「我が方が、余程の間違いを犯さない限り勝ちます。百年兵を養うは国を守るため。この信念に従い、私も海軍も長い年月をかけて準備して参りました」
まさに、売り言葉に買い言葉だった。
スキを見せた発言のあと、山本は内心東条に乗せられたと思いつつも、他の幾人かも戦闘準備を進めつつも非戦の方向が強い海軍を煽った共犯なのではと考えた。
松岡は当然として、岸あたりもやりかねない。
そして山本の一言で会議の雰囲気も、米太平洋艦隊の捕捉撃滅という方向に向かいつつあった。
それに実際論として、アメリカと一戦するしか選択肢は残されていなかった。
近衛が次の発言をする時、緊急伝を持った文官が慌てて入ってきたからだ。
アメリカが、日本海軍潜水艦から攻撃を受けたことを正式発表した声明文を持って。




