第三章「始動」(二)
一九四三年秋〜一九四四年春
補充計画についての小論(後編)
一九三〇年代に日本海軍が軍事力整備に計画した海軍補充計画は、第三次計画以後変更に次ぐ変更を余儀なくされた。
本来は、仮想敵に対する軍事力整備を目的としたのだが、内外の情勢変化が健全な育成を大きく阻害したのだ。
最初の挫折は、一九三四年の第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉からだった。
すでに国際連盟を脱退し国際的孤立を深めていた日本は、自らさらなる孤立化の道を選択し軍縮条約からの離脱を宣言。
いわゆる「海軍休日」は終わりを告げ、海軍無条約時代に突入する。
もっとも、条約から離脱したと言っても、日本の国力と国家予算の限界と、軍事予算枠に対する常識的配分を知っている人々は、前人未踏の巨大戦艦の建造計画を進めつつも、実現しないのではと考える者もいた。
しかし、図ったように事態が変化する。
「二・二六事件」による、軍部の大幅な台頭だ。
元々一九二九年の張作林爆殺より軍部の台頭が始まっていたのだが、この軍事クーデターにより日本の政党政治は完全な終わりを告げ、独裁者なき軍部独裁、蛇の頭のない亡者が出現する。
結果、軍事予算は大幅な増額が確約され、計画前段階では二隻ずつの建造はまず無理と考えられていた巨大戦艦と大型空母の計画が通った。
これが後の戦艦「大和」「武蔵」と空母「翔鶴」「瑞鶴」だ。
表面上、海軍の第三次補充計画は、アメリカ、イギリスでも同時期に計画された海軍拡張に対応したものと考えられがちだ。
しかし、国力に劣る日本にとってはすでに過ぎたゲームに乗った形だったのに、軍部独裁の成立で海軍が妄想一歩手前で計画した案が通ってしまった形になる。
第三次補充計画が異常な証拠は、一つ前の第二次補充計画を見れば明らかだろう。
一つ前の計画では、巨大戦艦も大型空母もなく、中型空母と大型巡洋艦を中核とした、日本の身の丈にあった計画でしかない。
しかし、法外だった第三次補充計画は、国家財政上まだ許容できる範囲に収まっていた。
本当に収まらなくなったのは、次の第四次計画以後の事だ。
第四次計画以後は、いわゆる戦時計画に分類される野放図な海軍拡張計画であり、すでに国力や国家予算で語ることのできる常識を越えた状態だった。
一九三七年以後の日本の国家財政を個人に見立てれば、最初はクレジットカードで買い物をし、それでも足りないので高利貸しに手を出したようなものだ。
本来なら、家を抵当に入れるぐらいにまで坂道を転がり落ちただろうが、戦乱の拡大と奇跡的と表現できる状況の変化と勝利がすべてを覆してしまう。
そして状況が覆されたのは、海軍そのものと海軍が立案した艦隊整備計画も同様だった。
一九三七年の日支事変、一九四〇年参戦の第二次世界大戦、一九四二年勃発の赤色戦争、この間海軍は昭和十四年度第四次補充計画、昭和十五年度追加計画、昭和十六年度戦時計画、昭和十七年度第五次補充計画と毎年軍備拡張計画を立案、実行した。
どの計画も、平時で文民統制が取られていれば成立する余地の全くない軍備拡張計画であり、総額約五〇億円、平時国家予算の丸二年分もの建造計画となった。
総額約五〇億円と言われても、それ程深刻に感じられないかもしれないが、国家予算の二年分はあくまで海軍の軍艦や航空機を作るためだけの予算である。
しかも一九三七年以後七年間の軍事費の総額は、海軍整備計画の十倍、約五〇〇億円にも達している。
この時代の五〇〇億円とは、平時国家予算の二〇年分であり、戦後不況に苦しんだ日露戦争時の数倍の規模となる。
当然ながら国内経済と国家財政は、日支那事変勃発の翌年にあたる一九三八年以降大きく傾いた。
どれほど傾いたかという指標を示す例に、円=ドル交換レートがある。
三七年で一ドル二・五円だったものが四円に下落していたと言えば、どれほど日本の経済力が衰えたかが分かるだろう。
国家が破産せずに済んだのは、ひとえにドイツと日本を中心とする枢軸同盟が成し遂げた軍事的成功、歴史上での第二次世界大戦での一方的な勝利が原因していた。
第二次世界大戦でドイツの尻馬に乗った形の勝利によって、日本は中国大陸の泥沼から足を抜け出し、西欧列強のすべてに勝利することができた。
識者や研究者の中には、日本が四〇年六月の時点で参戦したからこそドイツの勝利もあったという者もいるが、日本の参戦は英独ががっぷり四つに組んだ横合いから斬りつけたからこそ効果的だったと表現しなければならないだろう。
しかし戦争での勝者には、間違いなく日本も含まれた。
故に賠償、領土割譲、資源獲得、貿易の健全化、低コストでの技術輸入など様々な恩恵を日本にもたらした。
四一年の皇太子誕生日にほとんどすべての経済統制が解除されたのが何よりの証だった。
そして、英仏蘭に対する勝利で大きな役割を果たした海軍は、本来なら戦争の終了と共に軍備縮小されるはずだった。
しかし日本は依然として軍部独裁であり、終戦即軍備の大幅削減とはならなかった。
いちおう、航空機や軽艦艇など消耗品的な扱いの部隊や兵器の予備役編入や生産縮小こそ行われたが、大型艦艇の建造はむしろ促進される事になる。
軍部が政治の実権を握っているので、勝利に対する報償という側面が大きく現れた形だ。
おかげで、第四次計画で予算通過した艦艇の建造はほとんど予定通り進められた。
唯一の例外は、建造に大きな時間と手間を必要とする「大和級」戦艦で、起工前に第二次世界大戦へ参戦した影響で、中型空母の建造が優先され四番艦が建造延期され、最終的に建造中止されている。
しかし、「大和級」戦艦三番艦「信濃」と航空母艦「大鳳」など他の艦艇の建造は予定通り進められた。
そればかりか、昭和十五・十六年度年度に予算通過した、「雲龍級」航空母艦や「伊吹級」重巡洋艦すら建造が続行された。
新たな海軍基地の建設は縮小したが、それはシンガポールなど英国の基地を占有したからに過ぎない。
しかし、陸軍の削減は赤色戦争開始までの半年の間はそれなりに進められており、一見海軍の軍艦建造に対するこだわりは異常にすら見える。
この理由は、アメリカの軍備拡張がある程度継続されているからであった。
確かに、アメリカのヴィンソンプランは計画通り推進されていた。
しかし、一九四〇年成立の「両洋艦隊法」俗に言う「スターク案」は、建造が進んでいたごく一部の艦艇以外のほとんどが計画停止されている。
アメリカの状態こそ国家のあるべき姿なのだが、アメリカの軍備は大幅に縮小されてなお日本人に恐怖感を抱かせ、また実際建造されつつある艦艇の数が、日本海軍将校の言い分を通させてしまったのだ。
確かにわずか七年の間に戦艦十隻、大型空母八隻が就役すると言われては、地域大国に過ぎない日本が恐れるのも無理ないだろう。
アメリカ海軍が何とか実施にこぎ着けたとしか考えていない海軍整備計画だったが、これまでの聯合艦隊をまるごと揃えられる程の規模なのだ。
かくして日本海軍は、戦争が終わったにも関わらず、肥大化という方向で自らの海軍整備計画の推進を継続した。
しかも戦勝により、最も重要な戦略資源石油を得た事で気分も大きくなっており、何より日本海海戦に匹敵すると自画自賛したインド洋での勝利が彼らの気分を大きくさせていた。
しかし、自らが成し遂げた勝利が、彼ら自身の軍備に大きな変更を強要する。
そう、南シナ海からインド洋、ペルシャ湾にかけての勝利の立て役者こそが、それまで補助戦力としか認識されていなかった航空母艦であり、艦に搭載された小さな航空機の群だったのだ。
しかし日本海軍は、以前から航空機を重要視していた。
大きな原因は広大という言葉すら不足する太平洋を偵察して遠路襲来する敵艦隊を捕捉しなければならないからだ。
また、日支事変の拡大で遠距離へ爆撃を行わなくてはならないので、航空隊の規模拡大は続いた。
一九三七年に数百機のレベルだったのが、赤色戦争終了時に十倍近い規模に肥大していた事を見れば一目瞭然だろう。
この頃の日本海軍と言えば、とかく巨大戦艦「大和」の存在が語られがちだが、戦時での戦艦の占める割合は、予算面から見ても大きなウェイトを占めなくなっていたのだ。
そして海軍は、地上配備の航空隊以上に、機動戦力としての空母と空母艦載機を重視するようになる。
日本海軍の伝統となっていた戦術に使われる、敵の漸減戦力として空母によって機動性が確保された航空機の大集団は、巨大戦艦群が軍縮に否定されてから増大の一途を辿っていた水雷戦隊に匹敵する戦力と認識されたからだ。
確かに、ドイツ宣伝省の言うところの「無敵の南雲艦隊」の効果は絶大だった。
インド洋で戦艦や空母を複数沈め、英東洋艦隊を事実上壊滅させ、各地での局地的制空権獲得を果たすなど、八面六臂の活躍を示した事は誰であろうとも否定できなかった。
そして武器として使った当人よりも、新たな武器で殴られた側の英海軍の方が効果の方を強く理解していた。
故に英国海軍は、戦後技術交換や交流の形で日本海軍から多くを学び、英国から逆に教えられる形で日本海軍の空母重視主義、いわゆる「空母機動部隊決戦思想」が本格的に萌芽する。
一方向に走りだした日本人は、いつでも極端で性急だった。
東アジア的農耕民族の特性なのかも知れないが、遺伝子にまで刷り込まれた行動様式だけに極端さは異常なほどだ。
そして早くも結果が次に現れたのは、四二年六月六日の赤色戦争参戦時に行われた日本海軍による沿海州航空撃滅戦。通称浦塩殲滅戦だった。
この時日本海軍は、自らの航空戦力を、第一、第二機動艦隊と第一、第二航空艦隊(基地航空隊)に再編成して開戦に臨んだ。
参加した航空母艦は、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」、「飛鷹」、「隼鷹」、「瑞鳳」、「祥鳳」、「龍鳳」、「龍驤」の合計十二隻。
艦載機数は、約六〇〇機。基地航空隊が二個航空艦隊合計で、八〇〇機にも達した。
巡洋艦数隻に駆逐艦と潜水艦しか持たないソ連極東艦隊と、欧州方面に比べて装備の著しく劣るソ連空軍相手には、圧倒的な戦力だった。
単に数だけならソ連空軍極東方面軍は日本海軍に匹敵する数を有していたが、スターリンに先制攻撃と戦線拡大を禁じられ、装備も練度も士気も劣るのでは勝負は最初から決していた。
しかも日本軍には陸軍の航空隊も存在し、陸軍航空隊の規模や戦力も海軍の基地航空隊に匹敵した。
航空撃滅戦は一週間とかからず決し、鶏に牛刀を用いるがごとく極東の空は日本のものとなった。
そして中でも多くの戦果を挙げたのが、奇襲性と集中性に最も優れた空母の集団、空母機動部隊であり、日本海軍も予算獲得のためにも宣伝に務めた。
しかも日本海軍は、赤色戦争のほとんどがシベリアでの地上戦だったため、事実上の戦略空軍として過ごす事になる。
日本海軍は、陸軍との予算獲得競争のためにも遠距離攻撃が可能な航空隊を重視し、増強と規模拡大に務めた。
結果、日本にとっての戦争終結点となったシベリアはオハ市の市庁舎に日章旗が翻った時、日本海軍基地航空隊の戦力は実働二〇〇〇機にまで膨れあがっていた。
この数字は、個々の装備はともかく戦略空軍の規模としてルフトヴァッフェを凌ぐほどだった。そして海軍が戦略空軍を持つという点において、実に海洋国家らしい状況の出現となった。
もっとも日本海軍にとっては、基地航空隊を拡大したのはあくまで陸軍に対して対等な軍事予算比率を維持するためだった。
その証拠に、戦後は縮軍の中にあっても比率そのままに予算配分を艦艇、とりわけ空母に努力を注ぎ込んだ。
日本海軍の決意は、赤色戦争中に成立した第五次海軍補充計画の主要艦艇を戦後もほとんど工事取りやめにしなかった事に現れている。
断腸の思いで建造中止された艦艇の中には、日本海軍が夢にまで見た五〇センチ砲搭載戦艦が含まれていたのに、高速発揮可能な空母はただの一隻も含まれていなかったのだ。
しかも予算を一部流用して、第二次世界大戦中に計画された空母や改装空母の計画まで推し進めていた。
この点を赤色戦争後に指摘されても、廃棄して今まで投じた予算を無駄にするより、工事ペースを落としてでも続けるべきだと開き直りとも取れる論陣を張った。
この時の海軍は、協調派も親独派も関係はなく、一致団結して艦艇の建造、これから彼らの主力となる空母の建造を守り通している。
しかも海軍は、戦後になると造船業界や海外駐留の海軍武官を総動員してアクシズ各国への軍艦の売り込みを熱心に行い、彼らなりに自らの発言権の拡大に務めた。
そしてインド洋での日本海軍の勝利がよほど印象的だったのか、海軍大国のイギリスと、次の世界大国を目指すドイツが強い興味を示し、様々な売買契約を結んでいった。
イギリス海軍は、空母艦載機の開発に失敗したので空母そのものよりも艦載機の技術導入とライセンス生産、当面は直輸入に熱心だった。
イギリスは妙に軽防御な日本の航空機を気に入るとまでは行かなかったが、今まで自分たちが持っていたものより格段に性能が高いので、かつての敵手の武器でも気にしなかった。
もちろん、気に入らない部分、エンジンや無線機などは自国製品に交換して防弾能力も高めている。
いっぽうドイツは、自国建造能力と設計能力の限界から、数億マルクの買い物を日本に持ちかけている。
一九四三年夏に日本海軍に渡されたリスト、いわゆるヒトラーの買い物リストには、実に様々なものが記されていた。
最も大きなリクエストの「改大鳳級」装甲空母に始まり、防空艦艇、対潜駆逐艦、艦載機の大量購入に至るまで、日英米が目指していた新たな海軍に必要なすべてのものが記載されていたのだ。
リクエストになかったのは、ヒトラーが自国製にこだわった戦艦ぐらいだ。
しかし、いくら外貨を稼げ、自らの発言権を得るためとは言え、日本の造船力では自国分に加えてドイツの法外な購入リストに応えることは不可能だった。
一九四三年当時、日本の大型艦建造施設は、超大型艦建造可能な施設が、呉工廠、横須賀工廠、三菱長崎造船所の三箇所。
次いで神戸川崎、横須賀工廠でも三万トンクラスの大型艦が建造可能だった。
そして同年八月の段階では、艤装段階まで進んでいたのが、大和級三番艦「信濃」、空母「大鳳」、空母「雲龍」、「改雲龍」空母一番艦(天城)、二番艦(葛城)だった。
これらはすでに多くが建造ドッグや船台から離れて、艤装ドッグや桟橋で工事が行われていた。
また、新たに船台やドッグで建造開始されていたのが、呉工廠(「改雲龍」空母三番艦)、横須賀工廠(「改大鳳」級空母一番艦・「改雲龍」空母四番艦)、三菱長崎造船所(「改雲龍」空母五番艦)、神戸川崎(「改大鳳」級空母二番艦)となっていた。
建造中のうち、「改大鳳」級空母は第五次補充計画で計画された三万トンを大幅に上回る巨大空母で、新たな海軍の主力艦として期待されていた。
これをドイツが三年以内に建造してくれと言ってきた事になる。
日本海軍としては、ドイツの法外な要求とすら言える売却交渉に応じる事は面子にかけてもできず、双方協議による妥協の末に「改雲龍」空母の三、四番艦が最終艤装をドイツで行うことで売却が成立した。
「改雲龍」空母は、建造速度を引き上げてドイツへは一九四五年春には回航予定だった。
しかもドイツは、対ソ戦勝利以後大規模な海軍増強を開始しており、戦艦「シャルンホルスト級」の大改装、空母「グラーフ・ツェペリン」、「ヴィーザル」の就役によって、有力な機動部隊が四五年夏までには編成できる予定だった。
しかもドイツ海軍の増強は続き、「H級」戦艦、「改グラーフ・ツェペリン」級空母の複数建造など、一九四七年には欧州第二の海軍に成長する計画になっていた。
しかもアクシズには、元から強大な海軍を保持するイタリアが属し、フランスもドイツの援助で海軍を再建しつつあり、すでに主にイギリスから受けた痛手は回復していた。
そして、第二次世界大戦でドイツの好敵手だったイギリスは、当面はアクシズ寄りの姿勢を示している。
欧州情勢は、日本にとって有利な要素ばかりで、一九四五年以後アメリカ海軍は戦力の最低四割は大西洋に配備せねばならず、以後十年アメリカが軍拡に転じない限り太平洋での相対的優位は確保できるものと判断されていた。
逆に、日本にとって危険な時期が一九四五年の春までであり、特にアメリカ大統領選挙の前後三ヶ月はアメリカの行動に細心の注意を必要とした。
これを日本海軍は、自らの戦力増強そのものを抑止力としてアメリカの行動を封じようと論陣を張り、自らの艦隊整備の強い援護射撃としていた。
そして主に日本海軍が唱えた対米脅威は、皮肉にも虚構から現実へと再び転化し、一九四三年暮れより海軍整備も再度準戦時態勢で加速する事になる。
しかし、この時日本海軍は自らの時間が恐ろしく少ないことを理解していた。そのため、第二次世界大戦で一部実施した戦力増強策を実施に移す。
改装空母の大量整備だ。
日本海軍は、古くから第一の仮想敵としたアメリカとの建造力が著しく劣勢なのを理解していた。
このため、一九三四年の第二次補充計画の頃から、有事の際は短期間で空母に改装できる艦艇の整備を熱心に行っていた。
代表的なものが、最初から一部空母の工事を含めて建造された潜水母艦、水上機母艦、高速給油艦群と、高速優良客船への助成だ。
改装空母のうち、第二次世界大戦に間に合ったのは、最初から空母として誕生した「瑞鳳」、「大鷹」だけだった。
しかし、戦後「飛鷹」、「隼鷹」、「祥鳳」、「龍鳳」が戦列に加わり、大型空母部隊と共に一翼を担うようになる。
また、大戦中に重巡洋艦として建造が開始された「伊吹」は、空母への改装が決定され四四年春には空母として就役している。
そして四三年の暮れから突貫工事で改装が開始されたのが、それまで水上機母艦として活躍していた「千歳」、「千代田」、「日進」の三隻だった。
また、結局空母に改装されなかった艦艇に、優良客船として就役していた「新田丸」、「八幡丸」、「あるぜんちな丸」、「ぶらじる丸」があるが、「新田丸」と同じ「大鷹」の運用実績が低かったため改装中止となっている。
なお、「千歳」と同時期に建造された「瑞穂」は、「龍鳳」同様に国産ディーゼル機関の調子が思わしくなく、短期間の改装は無理と判断された。
しかし「瑞穂」は、その後ドイツのマン社からの機関輸入によって改装工事が遅ればせながら始められ、他の空母とは多少用途を変えた形で就役している。
他にも旧式化で第一線任務の難しくなった艦艇については、臨時予算で膨れあがった経費を用いて大車輪で装備の追加や可能ならば改装工事を行って延命を図った。
以上のように、自らの戦略的環境に翻弄され続けた日本帝国海軍の軍備整備計画は、逆に自らが想定した戦略的環境故に、アメリカの方が望んだ対決の時に、一つのピークを迎える結果となった。
海軍育成という点では紆余曲折の落第点とも取れる計画と泥縄式の対応だったが、決定的瞬間で収支決算が引き合った事を思えば、日露戦争の日本海軍に近似値を求めても良いのかもしれない。
そして、必要な時に必要な装備を持つ必然と偶然を同時に揃えてしまう点こそが、日本海軍という集団の特性と言えるのではないだろうか。




