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化け猫物語「えんも」  作者: 詩猫春夏
1/1

化け猫シリーズ第1弾

「チヨちゃんがいなくなっちゃった!」


 タバコ屋の店番猫、エミちゃんが突然駆け込んできた。チヨちゃんといえばこの町のアイドル的存在のアメリカンショートヘアーの美人猫。そのチヨちゃんがいなくなったとなると、これは一大事である。


「まあ、待って。落ち着くのよエミちゃん」


 エミちゃんは部屋に入ってくるなり私の前足にすがりついて泣いている。私はぶち模様のエミちゃんの大きな手をさすって慰めた。なるほど、この大きな手なら、たとえタバコ屋に泥棒が入ってきても一撃で打ちのめしてしまうだろう。エミちゃんはその大きな手を私の前足にかけて、その中に鼻面を埋めておいおいと泣いているのである。


「エミちゃん、頼むから泣きやんでよ。エミちゃんから話を聞かないことには何もわからないじゃないの」


 エミちゃんが飛び込んできてから一時間。エミちゃんはずっと私の足をぎゅっと握って泣いているのである。さすがに大きなエミちゃんの足である。握る力も強く、化け猫である私の前足もさすがにしびれてきた。


「うっ、うっ。あのね、今日ね。一日ずっとね、お店にね。チヨちゃんがね。来なかったのね。それでね。うっ、うっ。心配だからね。うっ、うっ。チヨちゃんの家にね。行ってみたらね。うわああああん」


「ちょ、ちょっとエミちゃん。そこから先が聞きたいのよ。そこでまた泣かないでよ。家に行ってみたらどうしたの?」


「うっ、うっ。家に行ってみたらね。手紙が置いてあったのよおお!うわああん!」


 エミちゃんはそこで力いっぱいに私の足を握り締めた。骨をも砕いてしまいそうな怪力である。私はとっさに手を引き抜くとエミちゃんの頭を、ばちん、と殴ってしまった。とっさの防衛本能である。仕方がないことだと思う。それでもエミちゃんは分かるはずもなく、その大きな手で私に張り手をする。私はその衝撃で壁まで吹っ飛ばされるが軽く身をこなし、壁に垂直に着地したあと、その反動でエミちゃんに向かって飛んでいく。そこから先はパンチにビンタ、張り手にキックの応酬である。


 また一時間ほどして、ようやくエミちゃんの気が収まったようである。私から幾度となくビンタを浴びたエミちゃんの頭の毛は乱れて逆立っていた。


「で、その手紙にはどんなことが書かれていたのよ」


 私はエミちゃんに噛み付かれた太股を撫でながらそう尋ねた。やけに痛いと思ったらしっかりと歯型がついて、犬歯、いや、糸切り歯が当たった部分からは血がにじみ出ている。


「なんて書いてあったかなんてね。覚えてないの。あれはね。誘拐犯人からの犯行声明よおお!うわああん!!」


 エミちゃんはまた私の足を掴もうとする。私はひょいと足を動かす。代わりにつかまれた座布団がぎゅっと音を立てて破れた。


 誘拐!


 これは大きな事件である。日頃、私のところに持ち込まれる仕事の依頼は半分が喧嘩の仲裁。かと言って仲裁になるようなこともない。喧嘩が長引いても勝敗がつかない場合に、私のところへ来て、どっちが正しいか調査してほしいと頼むであるが、忘れっぽい猫の悲しい習性で、もうそのときには喧嘩の原因を覚えていない。あれこれと悩んでいる猫二匹にお茶と菓子を出してやり、しばらく世間話でもしてやると二匹とも楽しい顔になり、出て行くときにはもう仲良しである。あとは迷子になった子猫を捜してちょうだい、とか、あの家のあのドアはどうやって開けるんだい、とか、気になるあの子にどうやってプロポーズしたらいいかな、などと、まるで町の悩み相談所のような依頼しか受けたことがなかった。

 

 しかし、気のいい私はそれに不満を抱くでもなく、懇切丁寧に対応してきた。町の至るところ、臭うと思ったどぶ川からごみ収集所、下水管の中を伝って汚水処理場まで全身真っ黒になりながら行ったのに、結局子猫が見つかったのは家の押し入れ。しかも当の本人はすやすやといかにも幸せそうな顔で寝ていた。ドアの開け方については、ドアノブにつかまって回し、押してみるにもうんともすんとも、引いてみるにもにんともかんとも動かず、はて、鍵がかかっているのやら、と詳細にドアノブを調べてみても鍵穴などなく、はて、どうしたものかと悩んでいるうちにその家の者が来て、木陰に隠れてそのドアをどう開けるんだろうと見ていると、なんとドアの足元に大きな石が置かれていて、それをどかして開けたとか。気になるあの子へのプロポーズの件については、まあ、猫というのはプロポーズもへったくれもなく、ただ雌が気に入った相手とだけ結ばれるのだから、雄はどう頑張っても、例え逆立ちしたところで、気のない相手の心を射止めることはできず、きっと、お前さんもそのうち違う子に夢中になるはずさ、だって、移り気の激しい猫なんだから、と諭しておいた。そんな具合であるから、まず無駄骨折りといって相違ない。

 

 それがここに来て、いかにも事件事件とした依頼が舞い込んできたのである。しかも町のアイドル、チヨちゃんがいなくなった、いや、誘拐されたというのだから、ここは、化け猫探偵としても名高い、このえんもの名誉にかけて、無事、救出しなくてはいけないのだ。


「とにかく、まずは手がかりを集めなくては」


 エミちゃんは座布団を掴んでは破り、掴んでは破りしていた。中から綿がこぼれ出て辺りはめちゃくちゃである。私はとりあえずお茶と菓子を出してエミちゃんを落ち着かせることにした。あまりにも硬いものだから、食べずに取っておいたおせんべいである。エミちゃんはおせんべいを掴むと次々とかじり始め、ぺろりと一袋全部平らげてしまった。なるほど、これがエミちゃんの巨体の原因か。私はもう一袋出してきて、一枚だけ自分が取って口にくわえ、残りをエミちゃんにあげると、またぺろりと食べてしまった。さすがにそれで満足したのか、ようやくお茶をすすり出す。なんのことはない平静の顔で、ぬるい、ぬるいお茶を、さも美味しそうに、ずずうっと音を立てて飲むのである。私もついつい、ほがらかな気分になって、硬い硬いおせんべいをかじりつつ窓から空を見上げた。


「今日は、いい月夜ねえ」


「本当にね。こんな日はね。ねずみも静かでね。本当ね。気が休まるわね」


「本当、本当」


 私もお茶をずずっと吸い込み、二匹揃って、ほっと息をつく。本当にいい月夜。今日はいい日だわ。こうやって静かに時間が過ぎる日って、いいわね。静かね。本当。静か。


「……」


 私とエミちゃんはお互いの顔を見合う。


「エミちゃん。あなた今、チヨちゃんのこと忘れていたでしょ?」


「いえいえ。滅相もないわ。えんも様こそね、今日の月夜はね、静かでね、いい。こういう日はね、素敵だ、なんてね、考えていたでしょう?」


「ち、ちがうわよ。こうやって静かな時間が過ぎる日も、いいわって考えていたのよ」


「一緒よ、それは」


「いいえ、全然違うわよ」


「一緒!」


「違う!」


「えんも様の頑固者!そんなだから化け猫にね!なるのよ!」


「なにい!よく言ったわね、この食いしん坊猫!」


 またエミちゃんの張り手が飛んでくる。鮮やかに避けたところに素早いキックが来てまた壁まで吹っ飛ばされる。私はまた壁に垂直に着地して、反動を利用してエミちゃんに飛びかかっていく。そうしてまた一時間が過ぎていくのだった。


 その後、私とエミちゃんはチヨちゃんの家を訪れた。現場に何か手がかりがないか探しに来たのである。


「手がかりといえば、手紙ね。それを触って、その手紙から出ている気を覚えれば、すぐに犯人が分かるはずよ」


「へえ、そんなことがね。出来るのね。えんも様ってやっぱり、化け猫なのね」


「やっぱりって、エミちゃん、あなた、私をなんだって思っていたの?」


「ええ、そりゃね。あれよ、あれ」


「あれって、なに」


「あれって言えば、あれよ」


 エミちゃんはとぼけた顔をして玄関の門扉をくぐっていく。玄関に続く小道の囲っている生垣をずぶりと突き破ると庭に出て、縁側のアルミサッシの前に立つと片手でそれをひょいと開ける。


「エミちゃん、あなた、化け猫になったら、間違いなく怪盗を名乗れるわ…。いえ、今から名乗ってもいいくらいよ。その大胆かつ堂々としすぎる犯行…。すぐに町中のニュースよ」


「ん?何か言ったかしら?」


「ううん。エミちゃん。なんでもないよ」


「そう。それならいいわ」


 エミちゃんは次々とドアを開けていく。引き戸のところは先のアルミサッシよりも軽がると、がらりと開けて、ドアのところは、あの巨体で華麗に宙を舞い、ドアノブにつかまったと同時にドアノブが、ぎゃあ、と悲鳴を上げて首をもたげ、ドアが不自然に開くのである。


「エミちゃん、あなた、チヨちゃんのところに遊びにくるとき、いつもこうやってるの?」


「ううん。チヨちゃんがいるときはね。家の人間がね。全部開けておいてくれるのよ。ほら、チヨちゃんってね。か弱いからね。アルミサッシも開けられないのよ」


「普通の猫にはなかなか無理よ」


「そうかなあ?」


 そうこうしているうちにチヨちゃんの部屋にたどり着いた。チヨちゃんの部屋とはこの家の主人の書庫である。本棚が三辺に並んだ部屋の、窓がある北側の壁のところに木で出来た古めかしい机と椅子が置いてあり、その隣に座布団があった。


「あれ?あれれ?」


「どうしたの、エミちゃん」


 エミちゃんはいつの間にか机の上に登っていた。あの巨体が動くたびに机がぎし、ぎしと悲鳴を上げる。


「この机の上にその手紙があったんだけどね。あれれ?なくなっちゃってる」


「ええ?エミちゃんがその手紙見たのってついさっきでしょ?」


「ううん。ゆうに三時間は経ってるよ」


「あら、そう」


 変なところでしっかりしているエミちゃんである。


「ちょっと、机の上に上がらせてもらっていい?」


「ええ、どうぞ」


「どうぞって、エミちゃんがどいてくれないと乗れないんだけど…」


「ああ、えんも様もね。意外と体、大きいからね」


「あのねえ…」


 私が手の爪を出して光らせているのにも関わらずエミちゃんは知らん顔でのそのそと机から飛び降りる。ずしん。よく床が抜けないものだ。私が入れ替わりで机にひょいと飛び乗ると、そこには手紙のようなものはなにもなく、ただ、一冊の本が開いてあった。


「もしかしてこの本の間に挟まってるんじゃない?」


「ううん。ぱらぱらめくってみたんだけどね。なにもなかったよ」


 あの大きな手でどうやってこの本をめくったのだろう。大いに気になったがとりあえずその本を読むことにした。


「ねえ、エミちゃん。開いてあったのって、このページ?」


「うん。そうよ」


 本は時代小説のようである。文庫本が、強く押さえられて、無理矢理にそのページが開かれたまま置かれている。これは、変である。妙である。探偵の勘がそう教えているのである。とりあえず、読んでみよう。


----------


 雪之介は先ほどの茶店で売っていた風鈴がよほど気に入ったのだろう。もう半里も過ぎたというのにまだ泣きつづけている。


「これ、武士の子がなんじゃ。そんな風鈴ひとつ、泣くではない」


 定道は耐えかねて雪之介を怒鳴りつけた。雪之介は定道の言うことはなんでも聞く子である。その時もそう叱られて一時は泣き止んだが、またしばらく歩くとひっく、ひっくと泣き出した。


「なんじゃ、お前は。日頃、そんなに泣かんくせに。あの風鈴がそんなに良かったんか」


 定道は、今度は怒鳴りつけず、しゃがみ込み、下を向いて泣く雪之介の顔を覗き込むようにして、そう聞いた。雪之介は、こくり、大きな頭をかわいらしく頷く。


「そんなにあれが欲しいか」


 こくり。


「他のどんなおもちゃも、太鼓も、笛もいらずに、あの風鈴が欲しいか」


 こくり。


「あの風鈴をずっと大事にするか」


 こくり。


「そうか。変わった奴じゃな…。タエ、すまんがこの荷物を持っててくれ。ひとっぱしり戻って買ってくる」


「まあ、はいはい。分かりましたよ」


「はい、は一回で良い。雪之介が真似をする。それでは、すぐ戻る」


「はい」


 タエは優しい表情だった。定道は軽やかに駆けていき、すぐに丘の向こうに姿が消えた。

 やがて定道が風鈴を手にして戻ってきた。定道がはねるたび、ちりん、ちりん、とかわいらしい音を立てる。その音を遠く聞いて、雪之介は途端に満面の笑みになった。


「はあはあ。ほれ、買ってきてやったぞ。なんじゃ、泣いたからすがもう笑いよった」


「本当ですね。まあ、良かった」


 タエは優しく雪之介に微笑みかけた。風鈴を手にした雪之介は、その小さい手で紐をぎゅっと握り締め、息を、ふう、と吹きかける。ちりん。かわいらしい音がひとつ鳴った……。


----------


「む、なにか来る」


 突然、エミちゃんが鋭い声を発した。私は慌てて机から飛び降り、エミちゃんの巨体の影に隠れる。そこで気配を探ってみるのだが、何も感じない。


「エミちゃん、何が来てるの?」


「しっ。今ね。来るよ」


 仕方がないので黙ってみる。化け猫の私が気配を感じないのだから、相手は少なくとも猫ではない。かと言って、人間ならわかるし、なによりなにより、普通の猫であるエミちゃんに分かって私にわからない気配って、なに?もしかしてエミちゃんの勘違いじゃないのかしら。


「きええええ!」


 突然のエミちゃんの奇声、もとい雄たけびにびっくりした。エミちゃんはその雄たけびと同時に本を投げ飛ばす。エミちゃん、その本はどこの本?むしろ、あなたどうやってその本を投げたの?


「ぎゃっ!」


 本は見事に標的に命中した。白い猫である。本が当たった弾みで横倒しになっているところをエミちゃんがすかさずジャンピングボディプレス。


「むぎゅっ!」


 ああ、あの巨体が空を飛ぶだなんて…。いや、あの巨体で押しつぶされた相手のことを思うと…。気の毒で涙が出そうになった。


「お前ね!犯人は!」


 エミちゃんがつぶれた相手の首をつかんで抱え上げる。


「うぐ…。なんのことだ…。わしゃなにもしらんぞ…。お前こそなんじゃ…」


 白い猫はもがく力もないのか、ぶらんとぶらさがったまま、エミちゃんが揺さぶるままにされていた。


「言え!チヨちゃんをどこへやった!」


「チヨちゃんの様子を見に来たんじゃ…。どこへやったもなにも…」


 たまりかねて私がエミちゃんの脇腹を、こちょこちょ、とくすぐる。エミちゃんは白い老猫を放すと笑い転げた。


「あひゃひゃひゃひゃ!何をね。するの。えんも様。あひゃひゃひゃひゃ!」


 エミちゃんは私が手を離してもずっと転がりつづけ、笑いつづけている。意外な弱点を知った。次回から脇腹を攻めよう。


「げほげほ。なに、えんも様ですと?あなたがあの有名な化け猫探偵のえんも様?ほほう、確かに知的な目をしていらっしゃる。あ、自己紹介がまだでしたな。失礼をば……あいたたたた……」


 あらあら、老猫さん、背中を痛めたみたい。私はさっと手の毛を一本引き抜く。


「あの、良かったらこれを飲んでみてください」


「これは?」


「私の毛です。化け猫の毛は一般の猫には素晴らしい万能薬になります」


「おお、それはありがたや。それでは失敬して…」


 老猫は私の手から毛をつまみ取ると、口を大きく開けて放り込む。すこし口をむにゃむにゃさせた後、ごくりと飲み込んだ。


「いや、こりゃすごい。もう痛くもかゆくもありませんぞ」


「それは良かった。」


「ああ、そうじゃ。自己紹介でしたな。わしは隣の家に住むしがない飼い猫ですじゃ。チヨちゃんを近所のよしみで色々面倒を見てやっとるんじゃが、今日一日見てなくての…。それで今、尋ねてみたら玄関脇の生垣には大穴が開いておるし、戸は次々開けられ、ドアノブは無残に壊されておるし、こりゃ、なんの化け物かと思っておったら…。えんも様でしたか…」


「いやいや、私じゃないです。あの猫です」


「ああ、あれですか…。あれも化け猫ですかな?」


「いえ、あれは普通の猫です」


 老猫は呆れてものも言えないといった感じだった。仕方なくこちらから事情を説明する。


「あの猫が今日一日チヨちゃんを見ないからって、この部屋に来たら、机の上に手紙が置かれていたらしく。どうも、誘拐されたようなのです」


「誘拐ですと?!」


「はい。そういうわけで私がなにか解決につながる手がかりがないかとこの部屋にやってきたのですが、残念ながらもう手紙はありませんでした」


「あらら」


「代わりに妙なものを見つけました」


「妙なもの、とは?」


「あの机の上に本が不自然に開かれていて、それがどうも妙なのです」


「ほほう」


「私はそのページが怪しいと踏んだのですが…。む。誰か来る。人間だ」


 私がそう叫ぶと白い老猫はさっとドアの脇に隠れた。私もその後ろにつく。エミちゃんは、相変わらず笑い転げている。私は目の前にあった、さっきエミちゃんが投げた本を力いっぱいエミちゃんに向かって投げつける。


「ぎゃふっ!」


 見事、命中。エミちゃんは弾みでひっくり返る。


「エミちゃん、人間が来るよ」


 その一声でエミちゃんもようやく気がついて、さっと身構えた。


 パッと電気がつく。入り口のドアに現れたのは意地悪を絵に描いたような中年のおばさんだった。


「まあたお前か!このブサイクなデブ猫め!」


 おばさんはほうきをエミちゃんに向かって振り下ろす。エミちゃんはすんでのところでかわした。


「にゃにゃにゃにゃにゃ!」


 猫語で、私ブサイクじゃないわよ、と抗議している。デブというところは否定しないらしい。


「ともかく、逃げるわよ。おじいさん、エミちゃん」


 私は二匹を連れてその部屋を飛び出した。


「はあはあ。ここまで来れば大丈夫ね」


「ぜいぜい…。ちょっと…。休ませて…。ぜいぜい…。くれんかの…」


「もう。あの人ったらね。いつもああなんだからね。困っちゃうわよね」


 私たちはチヨちゃんの家から一番近い公園まで逃げてきた。あのチヨちゃんの飼い主と思しきおばさんから逃げて私たちが縁側から出て一息ついていると、おばさんは裸足のまま外まで飛び出してきてほうきを振り回すものだから、私たちは慌ててエミちゃんが作った生垣の穴を通って表に出た。するとおばさんは即座に玄関から出てきて、私たちを追いかけるのである。猫は百獣の王、ライオンの先祖、簡単に振り切ってあげるわ、と高を括くっていたら、おばさんはなんとも韋駄天、足の速いこと速いこと。こりゃたまらんとすぐに塀に飛び乗り、そこから塀伝いに逃げて、なんとかおばさんを撒くことができた。猫というのは瞬発力には秀でているが、持久力はまったくないのである。それというのも、この鍛えぬかれた後ろ足のせいなのであるが…。


「なんでエミちゃんが一番元気あり余ってるわけ?」


 そうなのである。巨体を誇る、さきほどもおばさんにデブと言われて否定しなかったエミちゃんが息ひとつ乱さず、意気揚揚とおばさんの悪態をつきつづけているのである。


「私ね。まだね。えんも様と違ってね。若いから」


「ほほう…」


 手の爪を光らせる。エミちゃんは余裕綽々とした表情である。


「この小娘…!」


「ま、まあ!落ち着いてくださいよ、えんも様!」


 老猫が間に入る。危うく喉元に爪を刺しこむところだった。老猫は真っ青な顔をして立ち尽くしている。


「ああ、悪かったわ。おじいさん…。おじいさん?おじいさあん!」


「はっ!はああ。びっくりしました…」


「びっくりしたのはこっちよ!ぽっくりいっちゃったかと思っちゃったじゃない!」


「ああ、すいません…」


「まあ、ともかく。落ち着かなくちゃね」


「そうそう。えんも様はね。落ち着きがね。足りなくてよ」


 エミちゃんとはいつか、気が済むまでやりあわなければならない気がする。


「おじいさん、エミちゃん。なにか思い当たることはない?チヨちゃんを狙うストーカーがいたとか、チヨちゃんに恨みを持つものがいたとか」


 気を取り直して、こんなことを聞いてみた。被害者に変に執着したり恨みを抱くのがこういう誘拐事件の動機の常である。


「ストーカーならね。たくさんね。いたけどね」


「エミちゃん、いたけどって、どういうこと?今はいないの?」


「うん。一人残らずね。ぎったんばったんのつぎはぎだらけにしてあげたはず」


 なるほど。エミちゃんにこてんぱんにやられているストーカーの姿がありありと思い浮かぶ。かわいそうなストーカーたち。


「そうすると、ストーカーは大丈夫そうね」


「うん。私がね。保証するわよ」


 こんな強力なボディガードを敵に回した犯人はおそろしく大胆な性格なのだろう。


「恨みのほうは、どう?」


「それは、ないと思うんじゃが…。わしが知る限りじゃ、そんな話は一切ないのお」


「そう。わかったわ。それじゃ、やっぱり…」


「やっぱり?えんも様、なにかあてがあるんですかな?」


「うん…」


 私はあの時代小説の中の一節が気になっていた。泣いたからすがもう笑いよった。からす。からすは、なにかと猫と対立する。あの賢さは猫のそれと勝るとも劣らないほどで、からすを生け捕りにすることは非常に困難であり、また、からすからの仕返しも恐ろしい。もし、今回の事件にからすが関わっているとしたら。


「私、からす山に行ってみようと思うの」


「からす山ですと!?いったいどうして?」


「あの小説の中の一節がどうしても気になってね」


「ああ、なるほど。さすがえんも様。しかし、からす山といえばこの町のからすどもの本拠地…。大丈夫なのですかな…」


「大丈夫もなにもね。行かないことにはね。なにも分からないじゃない。行きましょ行きましょ」


 エミちゃんはさっさと先陣切ってからす山の方へと歩き出してしまう。こういうときにもマイペースなエミちゃんの、この無鉄砲さが今は頼もしく見える。


 しかし、手紙が消えたこと。いったいあの本を誰が開いたのか。謎は残ったままだった。しかし、行ってみないことには、なんの手がかりもない以上、心に残っている疑問、気になることだけでも頼りにしなくては。私は気を持ち直してエミちゃんの後を追った。


 からす山。実際には林なのであるが、からすが山となって大挙するその姿、雰囲気から山と名づけられている。黒いからすが日夜、木の枝という枝につかまり、朝にはそこから黒い塊が町の至るところへ飛び立っていき、夕方には町の各地から黒い影が帰ってくる。その真っ黒の体は闇よりも黒く空を覆い、猫はおろか、人間さえ気味悪がって近づこうとしない。


 しかし、私は知っている。奴らの弱点を…!


「ここがね。からす山よ」


「なんでエミさんはこんなところに来てもそんなに楽しそうに話すんですかな」


 老猫は恐ろしさですっかり腰が引けている。見上げると、もう空は空でなく、からすたちの黒い体なのである。私たちは黒目をいっぱいに広げて黒闇の中を林の中心へと進んでいった。

 やがて、池が現れる。池のほとりに一本の小さな木があった。


「化けからすよ。起きよ」


 不意に呼びかけられた化けからすは目を覚ます。そしてキョロキョロと辺りを見渡すが、何もないことを確認すると再び寝入ろうとした。


「こら、寝るでない。化けからす、久しぶりだな」


「お、お。その声はあのときの化け猫!」


 ようやく起きた化けからすは再び辺りをキョロキョロと見渡す。しかし、何も見当たらない。いや、何も見えないのである。そう。からすは鳥目。夜はまったく視界が利かないのだ。


「やい化け猫!よくも図々しくこんなところまで来やがって!ギタギタにしてやる!」


「ああ、出来るものならやってみるがよい。この暗闇の中、我ら猫を相手にするとは、蛮勇というものだぞ」


 ようやく回りのからすどもも気付いて不気味な泣き声の渦を作り始めるが、私とエミちゃんは微動だにしない。老猫だけは、もはや腰が抜けて尻餅をついているが。


「かあ…」


 化けからすは情けない鳴き声を出した。


「まあ、怯えなくてもよい。今回、私が来たことは生ゴミの争奪のことではない」


「なんだ、そうなのか。驚かせてくれるな、友よ」


「いつから友になったのかは知らんが、いいだろう。その言葉、覚えておけよ」


「かあ…」


「今回来たのは、チヨちゃんという猫のことについてだ。今日、ああ、もう日をまたいでしまったか。昨日の朝からまったく姿を見ない、今も、家に行ったらいない状況だ。そこで思い当たる節があったので、ここに来た。化けからすよ、お前、何か知らぬか」


「チヨちゃんねえ…。ちょっと聞いてみるか」


 そういうと化けからすはさっそくからす語を使って回りのからすに呼びかけた。からすたちは、ぎゃあ、ぎゃあ、となんとも品のない声で会話する。それが何百羽、何千羽だから、泣き声が幾重もの波となって響き、まことに不気味である。


 やがて化けからすが、かあ!と大きく鳴いた。それと同時にからすの鳴き声の渦がぴたりと止まる。


「チヨちゃんというのは、子猫に間違いないようで?」


「うん。そうよ。私とね。同い年だからね。まだ子猫よ。まだ一歳二ヶ月よ」


「ええ!?エミちゃん、一歳二ヶ月だったの!?」


「うん。そうよ」


「ええええ!?」


 この巨体、あの身のこなし、あの怪力。とても一歳二ヶ月には見えない…。


「この町にチヨちゃんという子猫は一匹しかおらん。それなら間違いないな。チヨちゃんという子猫は昨日の朝九時ほど、家の人の車に乗せられている。そしてその車が止まったのは、K動物病院。見たものの話によると、布団に包まれて女性にさも大事そうに抱えられて病院に入ったとか。病気か何かではないのかな。なんにせよ、うちのものが手を出した類いではないようだ」


「え、病院?」


「うむ。K動物病院じゃ。町の中央公園からやや南西に行ったところにある」


「病気…?」


「そこまでは分からん」


「あ、そう…」


「うむ。これで満足ですかな?」


「あ、ええ。とっても…」


「それでは、お引き取り願おうか、友よ。我々は明日も朝早くから仕事があるのだ」


 化けからすはそう言い終えると急に、ぐうぐうと寝息を立て始めた。さすが化けからすである。私は感心しつつ、からす山を後にした。


「つまり、結局ね。誘拐でもなんでもね。なかったわけね?」


 先の公園に戻ると、今さらのようにエミちゃんが聞いてきた。


「ええ、そうよ。まったく。どこの誰よ。誘拐だ、誘拐だって泣きわめきながらうちに来たのは」


「ああ。ああ。聞こえなあい」


「エミちゃん、あなたね。ちょっとは化け猫を敬ったらどうなの?」


「ええ?どこの化け猫様?もしかしてね。えんも様?誘拐事件ひとつ解決できなかったえんも様がね。化け猫なの?」


「エミちゃんが言い出したことでしょうって言ってるのよ!」


 私はエミちゃんにパンチを繰り出す。エミちゃんはそれをすっと避けて私の左頬に張り手をする。私は公園を照らす照明灯のポールにまで吹っ飛び、さっと身を翻して垂直に着地すると、その反動を利用してエミちゃんのところへと飛びかかる。そしてまた戦いの幕が開くはずだった。


「これこれ、お前たち。いい加減にしなさい」


 突然、頭に直接響くような声がした。はたと動きを止めた私の右頬にエミちゃんのビンタが決まる。そこでエミちゃんも驚いた顔をする。


「こらこら、エミちゃん。君は少し育ち過ぎだ…」


 私とエミちゃんは顔を見合わせる。と、同時に気付いて、二人同時に老猫の方を振り返る。そこには老猫はおらず、代わりに、豊かなあごひげをたくわえた白猫がいた。


「ああ!猫の神様!」


「ええ!猫の神様?!」


 エミちゃんは信じられない、といった顔をする。そうか、エミちゃんはまだ出会ったことないんだったっけ。こんな猫離れした巨体、怪力なのに…。


「うむ。えんもの思う通り、少し育ち過ぎじゃな…」


「そんなことないですよ」


 こらこら、エミちゃん。神様にまで反抗しない……。


「まあ、いいだろう。たまにはこんな猫がいても面白い」


「面白いって、神様……」


「それにしても、えんも。おぬしの探偵ごっこ、愉快じゃったぞ。密かに、エミちゃんがチヨちゃんの家で驚くところから見せてもらった。あの化けからすとのやり取り、なかなかに迫力があって面白かった」


「いや、探偵ごっこじゃないんですけど…」


「これからも猫と一緒に仲良く遊んでやれ。お前みたいな頼れる存在になることも、化け猫として存在する義務だからな」


「あら、そんなことはじめて聞いた」


「うむ。今、作った。最近、どうも化け猫というのは楽しい方がいい気がしてきてな」


「それでいいんですか…」


「うむ。私が神様じゃ」


「はあ…」


 なにかよく分からないが、ともかくは神様らしく絶対らしい。


「チヨちゃんじゃが、ただの風邪じゃ。あの飼い主、ちと心配すぎる嫌いがあってな。医者は家で安静にしていれば大丈夫と言ったんじゃが、あの飼い主がしつこく食い下がって一泊の入院にさせたようじゃ。明日には元気になって帰ってくるじゃろ」


「ああ、そうなのね。よかったわ」


 エミちゃんが途端に喜んだ顔をした。神様に対して、どういう態度だ…。


「エミちゃん、君はそんだけ元気なんだから、ちゃんと三十年生きるだろう。そしたらぜひえんもと一緒に化け猫をおやり。いいコンビになるぞ」


「はい!私ね。実は化け猫にね。憧れていたんです」


「ええ?あんだけ私をけなしておいてよく言うわよ」


「えんも様はね。尊敬できないの」


「なにい!?」


「まあまあ。喧嘩するのも仲がいいとはよく言ったものじゃな。ともかく、ふたりとも、仲良くやるんじゃぞ。それじゃな」


 それじゃな、と言い残して、猫の神様は、どろん、と消えてしまった。いつもこうである。化けるか、化けないか。生きるか、死ぬか。要件だけ聞くとすぐに消えてしまう。ちょっとは化け猫の気持ちも分かってよ、と思う。


「わあい。化け猫にね。なれるのね。わあい」


 エミちゃんは巨体を揺らして踊っている。ああ、こんな猫とこれから三十年、いや、化けたら一生、それこそ一生付き合わないといけないのかしらと思うと、頭が痛くなってくる。


「あ、そういえば、あの手紙と本って、いったいなんだったのかしら」


「え?手紙?本?それって、なあに?」


 さすが忘れっぽい猫の習性である。エミちゃんはすでに事件のことは忘れ、自分が化け猫になれることで嬉しさいっぱいなのであろう。


「まあ、ともかく。夜が明けたらチヨちゃんの家でチヨちゃんを待ってみましょう」


「そうね。元気に帰ってくるといいなあ」


 なんとも楽天的な猫である。泣いたエミちゃんはもう笑う、である。

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