保健室(9) 告白(中学2年生3月)
春休みまであと僅かとなった、3月の終わり。
痔を患った優香のお尻は、全快とはいかないものの、痛みも減り、徐々に快方に向かいつつあった。
茉莉果とは相変わらず、毎朝一緒に登校していたが、部活で忙しい茉莉果と、帰りは別々になるため、以前と比べると、共通の話題は少なくなっていた。茉莉果は、体調のせいで部活に出られない優香を気遣って、部活の話題は避けているようだったし、優香も、保健室登校の話になるのが気まずく、意識的に学校の話題は避けていた。
「ねえ、優香。今日は報告があって…」
いつものように学校に向かいながら、茉莉果が口を開いた。
「どうしたの、あらたまって」
「私、前野くんと付き合うことにしたの」
前野くんと茉莉果は、同じトランペットを担当していることもあり、以前から仲がいいのは知っていたが、付き合うような関係になっていたとは、と優香は驚いた。
「土曜日、3年の先輩の卒業式だったでしょ? 卒業式の演奏の練習で夜遅くなった時とか、家まで送ってもらったりしてたんだ」
「へー、優しいね。いいなー」
「それで仲良くなって、卒業式の日から付き合うことになったの」
「そうなんだ、よかったね」
優香は祝福しながらも、寂しさを感じた。
「じゃあ、ちょっと寂しいけど、これからは前野くんと登下校するよね?」
「何言ってるの? 朝はこれからも優香と行きたいよ。帰りは、優香が部活に来ない時は、前野くんと帰るけど」
茉莉果はそう言ってくれたが、二人の仲を邪魔するようで気が進まなかった。
放課後。
莉緒と一緒に下校しながら、優香はぼんやりと考えていた。
新学期になったら、部活を再開したいと思っていたけれど、茉莉果たちの邪魔になるかもしれない。
小学校6年生でこの街に引っ越してきて、茉莉果と出会い、以来1番の親友だった。
目の前で嘔吐してしまったり、お腹を壊して迷惑をかけたり、みっともないところを見せても、いつも優しく親友でいてくれた茉莉果。家で浣腸を見られてしまった時でさえ、好奇の目を向けたりせず、さりげなく気遣ってくれた。
そんな茉莉果が、遠い存在になってしまった気がした。
そして、今月で保健室登校を終えたら、莉緒とも距離ができてしまうかもしれない…。
ふと、今日は莉緒が随分おとなしい気がして、優香が隣を歩く莉緒の顔を見ると、莉緒の色白な顔からは血の気が失せ、寒いのに額には脂汗が浮かんでいた。
「莉緒ちゃん、気分悪いの!? 保健室に戻って休む?」
莉緒はほっそりとした手を当てて口元を覆いながら、首を横に振った。
「…大丈夫。少し座って休めば治るから」
優香たちは、ちょうど校門を出たところだったが、少し引き返して、グランドの隅にある運動部の部室裏のベンチで、休むことにした。
莉緒を支えるようにして、部室脇の細い通路を抜けると、ベンチには、体操着姿の女子生徒が一人で座っているのが見えた。体操着の色から、一年生であることがわかる。
ユニフォームではなく体操着を着ているのは、マネージャーだろうか?
女子生徒は優香たちの姿を見ると、驚いて立ち上がり、逃げるように立ち去った。
泣いているように見えたのが気がかりだったが、今は莉緒を休ませるのが第一なので、優香は莉緒を支えて、ベンチに腰掛けさせた。
「お水持ってこようか?」
「ありがとう、でも大丈夫…」
莉緒はそう言うと、カバンからトローチのようなものを取り出して、口に含んだ。
そして、5分ほど、具合が悪そうに目を閉じていたが、やがて目を開くと、深い息を吐いてから言った。
「ごめんね。急に貧血みたいになっちゃって…」
「貧血症なの?」
「最近あまり食べてなかったから…。栄養が足りてなかっただけだから、もう大丈夫。それに新しく飲み始めた薬が、合わなかったみたい」
「そうなんだ…。それって前に言ってた、薬で体調をコントロールしてるっていうやつ?」
「うん。偉そうにコントロールできてるとか言って、失敗してるよね…」
莉緒は苦笑しながらそう言うと、続けた。
「私、結構ひどい便秘症で、いろんな薬を使ってはいるんだけど、自分ではどうしようもなくなっちゃうときがあるのね。で、そういう時にいっぱい食べると、すぐ詰まって気分が悪くなってしまうから、危なそうな時は、あまり食べないことにしてるの」
「え、そんな…。食べなくて大丈夫なの!?」
「ううん、食べないことが続くと、さっきみたいに貧血になっちゃう。だからやりすぎないようにするのと、咄嗟に食べられるものを持ち歩いてるの」
「そうだったんだ…。でもそんな生活続けてたら、身体に悪いんじゃない…? 私が診てもらってる先生は、三食美味しく食べるのが一番だって」
「そうできたらいいんだけど、普通に食べてたら三日で病院行きなの。だんだん、ひどくなってきてるみたいで…」
「そんなにひどいの…。お薬は、どんなの使ってるの?」
「いろいろ使うよ。サプリや、一時期は漢方の苦い粉薬も飲んだり。今は錠剤と、水に数滴落として飲む液体の薬とか」
「あ、それ私も今、寝る前に飲んでるよ」
優香は思わず言った。
「優香ちゃんも? 私はそのほかに、坐薬も使ってる」
「坐薬…? 高熱も出るの?」
「ううん、解熱じゃなく、便秘薬の坐薬。お腹の中でガスが発生して、もよおす仕組みみたい。私の場合、お腹が張ってしんどい割には大して出ないから、あまりオススメできないけど…。で、飲み薬と坐薬を併用しても出ない時は浣腸するんだけど、自分でするような小さい浣腸じゃどうにもならない時があって…。そうなると、最終手段は病院でしてもらう特大の浣腸、というわけなの」
莉緒はさらりと言ったが、優香はなんと言葉をかけていいかわからなかった。莉緒は、自分以上にひどい便秘かもしれない…。
「ねえ、抵抗があったら答えなくても大丈夫なんだけど…。もしかして、優香ちゃんも便秘症?」
「…うん」
優香は恥ずかしかったが、莉緒が包み隠さず話してくれるので、自分も打ち明けることにした。
「そうだったんだ。詮索してごめんね。お腹を壊しやすいのかと思ってた」
「私、胃腸が弱くて…。お腹を壊すことも、丈夫な人よりは多いと思うけど、普段は便秘の方が悩みかな…。今は、私もお薬でコントロールしてるから、ずっと緩めなんだけど…」
「そうなんだ。飲み薬だけ?」
「ううん…。普段は…浣腸…してたんだけど、お尻が痛くなっちゃって…。お尻が治るまでは、飲み薬でゆるくして出すことになったの…。それで、その治療の間は、給食の後、トイレに通うことになるから、午後保健室登校することになって…」
「そうだったの…。優香ちゃんも浣腸してたんだね。なんかごめんね。浣腸って、恥ずかしいし、あまり人に言いたくないよね。優香ちゃん、おしとやかだから、こんな話、苦手でしょ?」
大丈夫、と答えようとして、優香は声が出ず、自分でもなぜだかわからないまま、涙をこぼしていた。
「ごめん…話したくないこと話させちゃったね。浣腸って辛いし、やっぱり嫌な治療だよね…。それに私、自虐だからいいかと思って、浣腸のこと好き勝手にいろいろ言ったけど、不愉快だったでしょ…」
莉緒は涙を流している優香の背中をさすりながら言った。
「ううん…。嫌だったんじゃないの。今まで、浣腸のことが恥ずかしすぎて、ずっと言えなかったから、言えてホッとしたのかな…。自分でも、なんで泣いてるのかわからない…」
優香は泣き笑いの表情で答えた。
「そっか。嫌じゃなかったなら、よかった。…大丈夫? そろそろ帰ろっか」
部室が並ぶ建物の脇を抜けると、グラウンドで練習するサッカー部の生徒たちと、部室前でそれを見ている女子生徒の姿が見え、優香はつぶやいた。
「あ。さっきベンチにいた子…」
「本当? 私貧血でフラフラだったから気づかなかった。あの子、サッカー部のマネージャーで、確か恵理菜ちゃん、って言ったかな。立川くんの新しい彼女だよ」
それを聞いて、優香は立川くんの好みのタイプが分かる気がした。
恵理菜も、優香より年下の1年生なのに、スラリと背が高く、メリハリのあるスタイルなのが、体操着を着ていてもわかる。顔立ちも、目鼻のくっきりした、どこか色気のある大人びた美少女だった。
「知り合いなの?」
「知り合いと言うか、あの子が私に、自分たちは付き合ってるから、もう立川先輩から身を引いてください、ってわざわざ言いに来たんだよね」
「え…そうだったんだ」
「私からしたら、もうとっくに別れてるんだから、勝手にしてって感じだし、意味わかんなかったんだけどね」
莉緒はそう言うと、不意足を止めた。
優香が莉緒の方を見ると、莉緒は無言で建物の脇の排水溝を指差した。
それを見た優香も、ギョッとして立ち止まった。
さっき通った時は、莉緒を支えるのに必死で、気づかなかった。
そこには、イチジク浣腸と印字された空き箱と、丸い二つのピンクの容器が捨てられていた。
ピンクの容器は、丸みを潰されてへしゃげ、チューブの先端はうっすらと茶色く汚れていて、使用済みであることが一目でわかる。優香は思わず目をそらした。
「イタズラ? 誰がこんなところで…」莉緒が呟いた。