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巡礼の茨 (201805)

作者: 靄霧霞





 

「最初は小学校だった。少なくとも、思い出せる最初は。」


「友人が吊るし上げられていた子供裁判のなか、気づいたのは、蔓が視界の端にあること。不思議に思い、そちらに顔を向けてみればその蔓は消えた。よそ見をした私を、教師が叱りつけた。」


「あの時からたびたび、私は蔓を見るようになった。グループ最下層の者が、ひとりだけ違う形の笑みを浮かべている現場で。中年の教師が生徒に体臭をからかわれている教室で。テーブルに投げつけられた代金を、愛想のいい店員が拾い上げているレジで。過剰に人が詰め込まれた電車の中で。」


「たぶん、私は蔓に気づくべきではなかったと思う。そして、目を惹かれるべきでもなかったのだ。それは見ないふりをすべきものだったのだ」


「見かけるたびに注視したからだろう。蔓はだんだんとはっきり見えるようになっていった。日と土と水、そして時を得た植物がすくすくと育っていくように、蔓は葉をともなって茂り強まっていった。」


「それでもまだ大丈夫だった。まばたきをすれば蔓はすぐ消えたし、触れるようなこともなかった――そう、私は蔓に触れてしまった。それはとてもよくないことなのだった。いまでもそう思う。」


「大学生の時だ。家族がみな死んだ。」


「まったくのひとりになり呆然としていると、すり寄ってくる男がいた。彼は優秀な人物で、気落ちしている人間から手品のように金をむしり取り、しかも誰もが彼に感謝するように状況を整える天才肌の男だ。私も最初は気づかなかった。」


「だが蔓があった。彼はいつでも蔓を帯びていた。だから、散漫になっていた私も彼をよく見て、注意してしまい、だから気づいた。彼は家族が残した金を盗もうとしていることに。」


「そう気づいた時、怒りよりもただ恐ろしさがあった。」

「葬儀の最中、衝動にかられ、私は彼を告発しようとした。してしまった。だが失敗した。証拠も状況も整えていない私の言葉はいい成果をもたらさず、かえって私の評判を傷つけた。集まっていた人たちは、口々に彼をかばい、私のことを人でなしだと詰り罵ったものだ。」


「私はすくんだ。すると、彼が近づいてきて、優しく演説した。『責めないでやってください。気が動転しているんです。ひどいことを言われたって、自分は平気ですから。……ほら、この水を飲んで落ち着くといい。さぁ休んで。大丈夫、俺は君の味方だ。信じてくれ』と。私の目を覗き込みながら、張りのあるいい声で、穏やかで優しくそう伝えてきたのだ。」


「その時だ。彼の顔中に蔓が巻いた。そしてすぐ、体中に広がっていった。」


「叫び声をあげて、とっさに私は彼の体を突き飛ばした。吹き飛んだ彼は、いくつもあった棺にぶつかり、もんどりうって祭壇を砕いてしまう。派手な音とともに豪華な祭壇がめちゃくちゃに壊れた。」


「だが私は、ただ痛む右手を見ていた。赤い血が流れ出していたからだ。」


「彼の体、そして蔓に触れた時、痛みがあった。針で突き刺されたようなきつい痛みだ。実際、血が流れ出していた。そうとも、蔓には鋭い棘があったのだ……。」


「声に気づき、まわりを見れば、あちこちで私を罵る声がした。」


「その体、顔、すべてがすぐに蔓で巻かれた。声も出なかった。蔓まみれになったなにかが、たくさんの棘が、耳をわんわんさせる音響とともに私に迫ってくる。」


「私は手当たりしだいにものを投げた。蔓人間の襲来を押し留めたくて、ただ必死だった。電気ろうそく、腕時計、棺からこぼれだした思い出の品、献花、祭儀用の仏具。ひたすら投それを続けていたある時、どうも香炉を放り投げたらしく、抹香が飛び散った。淡くだが、煙が広がったのだ。そのもうもうとしたものに蔓の群れはひるんだ。私は無我夢中で走り出し、突破し、葬儀会館から逃げ出した。」


「次の日はもっと最悪だった。帰り着くなり玄関で寝ていたらしい私は、とりあえず顔を洗い服を着替えた。そして、カーテンを開けて、外の光景に総毛立った。」


「窓の外は棘の蔓だらけだった。」


「歩道も車道も、建物も、あちこちに蔓がはびこっていたのだ。その中をあらゆるものが、つまりは蔓人間たちが闊歩している。」


「震えながら、夢かと思った。だが現実だった。悪夢めいていても。」


「家の外に出て歩く。なんとか進めるが、少しそうしただけでもう体中が棘に責められた。少し遠出をすれば、きっともう戻ってこられない……。」





「大学には行けなくなった。そもそも外出が不可能になった。」


「水道はなぜか使えた。食料や雑貨に関しては、注文すれば蔓人間がこれまでのように運んできた。家の中を棘蔓が繁茂することはなかったから、まだ住むことができた。だからまだ生きていられた。」


「生存を続けながら、私はパソコンなどで蔓について調べた――なにひとつ情報がなかった。いくら調べても、この悪夢のような状況を解決するどころか、詳細を解明する手がかりさえも見つけられなかった。だから、状況をただ観察し続けるほかなかったのだ。」


「蔓人間。あれは人間と変わりがない。喋るし、動くし、食べる。ただ表面を蔓が巻いているだけだ。彼らは普段どおりに生活しているだけに見えた……。」


「私は、ここに至って、自身の正気について少し考えた。」


「あの蔓は幻覚か。それとも世界が変異してしまったのか。考えて、悩んで、そして結局、それはたいしたことではないと悟りいたった。どちらが狂っているかなんてことは、この為す術ない孤独に比べれば問題ですらなかったからだ。」


「蔓を刈ることも考えた。だが、手持ちの刃物では歯が立たなかった。いくら力を込めても、ぎりぎりと鳴るばかりで、傷すらつけられないのだ。良いであろう刃物を使っても、やはり役に立たない。……そうしていつしか、諦めてしまった。」


「金はあった。彼に盗まれなかったからだ。蔓のゆえ奪われずにすみ、蔓があるからどこにも行けない。」


「ただ漫然と、日々が過ぎていく。」


「破綻は近くも遠くもなかった。ある日、水道が使えなくなった。蔓から抜け落ちたらしい棘が、水に含まれるようになったからだ。気づかず口に含んで、口の中をずたずたにされた。飲み込んでいたら死んでいただろう、その方が良かったかもしれないが。」


「ひとつひとつ将棋の駒が取られていくように、生活に必要なものが蔓と棘に奪われていった。玄関が蔓で覆われ、商品や雑貨が受け取れなくなった。風呂場も占拠された。家族が使っていたそれぞれの個室も、調理するための台所も、安らぐためのリビングも、ゆっくり、しかし確実に蔓が支配していった。」


「死ぬな、と思った。」


「どのタイミングでそう思ったのかはわからない。蔓まみれになった世界を見た時にはもう、うっすら感じていたのかもしれないけれど。ただ、はっきりとそう思ったのは、自分の部屋でまで蔓を見たときだった気がする。」


「これはもうだめだと。後はもう、残った生をどう使い切るか、だけだと。」


「だが、なにもできなかった。最後まで抗う気力も執着もなく、しかしすみやかなる自死のための活力もなかった。私にはなにもなかった。」

「蔓に絡め取られてゆるゆると苦しんで死ぬよりは、さっさと自殺でもしたほうがいい。それはわかっていた。楽になるにはもうそれしかなかった。だが、やりたくなくて、やれなくて、ぐだついているうちになけなしの体力も消えていった。自決には力が必要だった……。」


「蔓まみれの自室の中で、どうしようもなく、私はただぼんやりと横になるしかできなくなっていった。」


「世界を呪ったようにも、恨んだようにも、憎んだようにも思う。だけど、最後にはそんな力すらなくなっていた。それは生きているから出てくるものだ。ゆるやかに死んでいく私に、そんな贅肉は自然と消えていった。」


「言葉にすらならなくなった淡い思考のなかで、私はただ、ぼんやりと不思議がっていたように思う。」


「なぜこんなにも棘だらけなのだろうと。」





「ざくりざくりと音がした。」


「それはとても不吉な音だった。咀嚼音のように不愉快で、夜の雨音のように不気味だった。その不吉さにあてられでもしたのか、胃と腸が石臼のような響きとともに動き、口中に酸っぱいものが広がる。その味が私を覚醒させた。」


「蔓の棘が衣服にまとわりつくのを感じながら、私は体を起こす。薄ぼんやりと侵食された部屋を見る。棘蔓ばかりが目立つ、私にはどうしようもない部屋だ。どうしてこうなってしまったのか。」


「そこに人間の顔が現れた。」


「はさみのような女性だった。それも、なんでもかんでも切ってしまうようなはさみだ。甲高い音できしみながら、それでも鉄パイプだって両断してしまうような重く鋭い大鋏。それが彼女の印象だった。」


「なぜ彼女は蔓で覆われていないのだろう。どうしてここにいるのだろう。わからなくて私は、ただ彼女をじっと見ていた。……少しだけ、ほっとしたことを覚えている。」


「『支払え』と彼女は言った。きつい声で、『お前はまだ支払っていない。だから私がここに来た』と宣告した。」


「私はすぐ、彼女が葬儀社の人物だと勘づいた。葬式代は前払いのはずだが、どうも記憶が曖昧だった。支払いがまだなのかもしれないと思った私は、財布を探そうと体を起こし、しかし棘に刺されてのたうった。」


「『よくもまぁここまで見過ごしたものよ。鈍感め。気づかないくせにただ伸ばしおって』と、悪魔めいて彼女は笑う。『さぁ、体で払え。死ぬか働くかだ』」


「あんな棘まみれの世界では働けないと、私は言った。すると彼女は不審げに顔をしかめる。『棘だと?』」


「棘の蔓が切れない。私はそう繰り返した。」


「『なぜ切れない。切ればいい』とぶっきらぼうに彼女が言う。『いまさらそれを重い罪だとでも思っているのか。それをすることは人間であれば当然。もはや一銭の価値もない罪だ。ひとの腕は、ひとを打つためにもあるのだから』」


「あのとき私は、流れ出た血の赤を見つめながら、よくわからないと呟いたのだと思う。罪の話なんてしていないと。」


「彼女はしばし黙考し、『お前にはこの部屋がどんなふうに見えるている』と訊ねてきた。棘だらけだ、と私は答えた。すると『私が来る前からそうか』となお訊ねてくる。私は、そうだ、と答えた。」

「そして彼女は鼻で笑う――『お前はもう暴力の徒ではないか』、と。」


「『血で薔薇は色づく。そうあるしかない。そして、お前は咲かないのか?』と言う彼女の瞳は、朝焼けのように爛々と赤かった。笑っている。ただ己のありかたを誇っている。これまで私が出会った誰よりも強く、咲いている。」


「そうだ。この蔓は、棘は、すべて薔薇だ。生命力に溢れ、そのくせ病気にひどく弱く、それでも伸びて伸びて大きく茂り、鋭い牙を体中に備え、花を咲かせる。」


「蔓にまみれた世界。あれは、薔薇だった。蔓の巻いた人間。あれもまた薔薇であった。だとすれば、私も彼も彼女もそうで、なにもかもが、つまり、」


「棘も花もすべて、薔薇――。」


「私は立ち上がる。体がよろめく。それでも窓へ。蔓の棘が刺さる。痛み。血が流れる。苦しくて、辛くても、ゆっくり、進んで、外を見る。」


「花が咲いていた。世界には花があった。綺麗な花も、汚い花も、ぽつぽつと蔓の世界の中で色づいていた。」


「『さぁ支払え。命の対価を。それは命でしか支払えない』」





「なぜ、彼女の姿に蔓がなかったのか。それはきっと、彼女に訊ねても意味がないことだ。彼女と私は、当たり前に、違うものを見ているのだ。……同じものを見たいとはあまり思わない。」


「私は彼女に、働いて払うと言った。外で仕事ができるとは思わなかったが、それでも、彼女の咲いた表情に惹かれたから、私はそう決めた。」


「彼女は頷くと、去っていった。はさみのような彼女の名は訊ね忘れたけど、いつかまた会える気がする。私は支払わなければならないのだから。」


「家の中の蔓を切る。いまは切れた。けっして簡単ではなかったが。それでも力を込めてずたずたに切り裂いていく。」


「そうしていくうちに、気づいた。私にも蔓が巻き付いていたことに。」


「暴力的なそれを、暴力で切って、ひっぺがす。繰り返していくうちに、血が吹き出た。痛みがあった。この罪に価値はなくとも、この血に価値はあるだろうか。」


「私は、これから、他人にすら同じことをしていくのだ。」





「誰かの命で、命を支払う。今日もまた、薔薇の中で血が流れる。そんな日々のなかで、どうしてだろう、私はふと、こう思っていた、……『まるで巡礼だ』と。」






 

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