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グリームニルの歌  作者: 片山詩史
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高度400キロの散歩

【プロローグ】


 高度四〇〇キロ上空から眺める地球の表面には、わた飴のような雲が敷きつめられるようにして漂っているのが見えた。それはある位置では古い新聞紙にかぶさったほこりのような色をし、またある位置では初雪のように真っ白なまま大きな(うず)を巻いていた。そのまますうっと視線を走らせると、大気がりんごの薄皮のように地球を包んでいる。かすかに白く光るそれは、そのすぐ先にかぎりなく広がっている真っ暗な空間と、うっすらと溶け合っていた。


『──きれい』


 ウェッブ──ウエラブルコンピューターの略称──を通して、女の子の感嘆をもらしたような声が聞こえた。


「もうすぐ、オーロラが見えると思う」


 それに対して、操縦席に座っているパイロット──啓人はそう答えた。


『え、どのあたりに?』


「えーと……、ちょっと待って」


 啓人はパネルを操作して、機体の軌道シュミレートを計算する。


「たぶん……南極大陸の上を通過するころに。あ、でもあと二秒……」


 啓人がすべてを言い終わる前に、緑白色の深い霧のなかにいるような光景が窓の外いっぱいに広がった。


『あっ! きゃっ、すごいっ』


 孔雀の羽を思わせるマラカイト・グリーンの光の粒が、視線の先で無数にきらめく。まるで竜巻が消えていくときのようなかたちで、大気のうねりゆく流れが見てとれた。その幻想的な光景は、地上では決して見ることのできない、宇宙空間の宝石だ。


 そして、それは一瞬。


 一秒に満たない光景の後、啓人たちは再び真っ黒な空間に戻った。ウエッブによる映像だけが啓人の視野を満たす。

 慣性航行を続ける機体は結構なスピードが出ているのだけれど、それでもかなり静かで、地球さえ見なければ本当に何もない空間に漂っている浮遊船に乗っているように感じられる。


『わたし、オーロラの中を通りぬけるのって初めて』


 少ししてから、女の子はそれしか言葉にならない、というような調子で言った。


「どうだった?」


 啓人は首を後ろにそらして訊ねる。彼女はそこにいるのだ。


『もう一度見たい』


 もうずいぶん前に安全ベルトを外してしまった彼女──梨花は身体のバランスを器用に保ちながら操縦席のほうに身を乗り出してきて、指を一本立ててみせた。ヘルメットをしているので表情はよく見えないが、きっと彼女は瞳を輝かせて、すっかりはしゃいだ子供みたいに興奮していることだろう。


「残念だけど、オーロラは一回だけ」


 けれど、啓人は苦笑まじりに言った。


『そんなぁ!』


 すかさず梨花は非難の声を上げる。


『ねえ、あと一度、あと一度でいいのよ? さっきはあまりにも突然だったし、心の準備ができていなかったの』


 どうにかして地球軌道をもう一周しようと、梨花は啓人に言い寄った。


「心の準備も何も──」


 しかし啓人は言いながら、肩だけをすくめてみせる。


「瞬きひとつするあいだに、通り抜けちゃう」


 すると、梨花は怒ったようなふてくされたような、どちらともつかない溜息をついた。溜息と一緒にわがままも吐き出してしまえばいいのに、と啓人は思う。

 宇宙船が重力に引っ張られるようにして地球軌道を回転するとき、窓の外の景色はくるくる廻る展望レストランのように次々と入れ替わる。高度四〇〇キロの場合だと、ひたすら煙のように雲が流れていくだけだ。だから北極か南極かのどちらかを通過するときにたまに見ることのできるオーロラも、ほんの一瞬しか体験することができない。


『今からは? 何処に行くの?』


 梨花が訊いてくる。彼女の視線は地球にあった。また、透明感のある色彩で描かれたような景色に見惚れている様子だった。


「シャフトに。君のお父さんたちの乗ってる軌道エレベーターももうすぐ到着するはずだし」


 機体はすでに地球軌道を離れていた。


『イヤ』


 梨花がすぐに言い放つ。肺を使わずに口先だけで作り出したような言い方だった。


『まだ行きたくないわ』


「どうして?」


 啓人は聞き返した。

 しかし彼女はそれには答えず、


『ねえ、この宇宙船ってどこまで飛べるの? 燃料は? 火星まで行けるかしら』


「火星はムリ。でもまあ、月くらいなら」


 啓人は少し考えてから言った。


『じゃあ行き先はそこにしましょう。せっかくここまで来たんだし、いいよね』


「ダメ」


 啓人は後ろにいる梨花に向けて手の平をひらひらと振った。彼女は小さく唸る。


「そんな時間ないよ。宇宙遊泳はもう十分楽しんだだろ。だから君は──」


 梨花はピンときたのか、啓人の言葉にほとんど被せるようにして、その続きを継ぐんだ。


『君は、自分の役割をしっかり果たしなさい』


 啓人はそうだと軽く笑ってみせた。


『はぁ……私って、不幸』


 それから不発弾を抱えこんで人生の半分をあきらめかけた人のように、彼女は嘆いた。

 地球に目を向けると、ちょうど雲が引きちぎられたようにぱっくりと口を開けて、トーン・イン・トーンのお手本のような淡い青が、その姿を現した。


「じゃあ、行こうか」


 啓人はそれを横目で見つつ、言った。

 しばらくして、梨花から啓人にウエッブを通して会話ではなく、メッセージが送られてきた。

 そこにはたった一言だけ、とんでもなく短い文面が

 ケチ、と。

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