22 桜皇国騒動
皇居がある京都市は、四州知事声明による四国独立宣言において、四国いずれの国にも属さない特別中立区とされ、大和国に統治が委任された。
四国分離独立の蚊帳の外に放置された波風首相は、暗号首都天京を国際法上の日本の首都として維持することを改めて宣言し、京都二条城に物理的な内閣府を置いて、国際社会に日本国存続を訴えた。しかし、波風に従って入京する閣僚は半数もいなかった。それぞれの地元に帰ったのだ。電栄党も瓦解の危機を迎えた。
逆に京都市に集まったのは、波風首相と対立してきた旧日本改造党系の保守派だった。豊臣前首相の後継者となった日本改造党の明石雄武党首は、天皇制護持を条件に波風首相との連携を申し出た。これは電脳革命の旗手だった波風首相にとって屈辱的な事態であり、到底受け入れがたかった。明石は京都の独立を宣言し、国名を桜皇国とするように迫り、拒否されるや波風首相を二条城から追放した。四国にも国際社会にも何らの根回しもなく、天皇制国家の桜皇国樹立を一方的に宣言した明石は、自ら初代首相に就任した。桜皇国の国旗は菊紋旗とし、国歌は君が代を復活させた。
京都特別中立区を信託統治している大和国の猿田大統領は難しい決断を迫られた。猿田は伊勢神宮宮司の家門出身で、旧制は渡会といい、その出自から、急進的革命主義者でありながら天皇の存在を否定していなかった。京都市を四国いずれにも属さない特別中立区にして、共和制と天皇制の共存を図ったのは、猿田の強い要請によるものだった。
猿田の結論は何もせず、桜皇国を無視することだった。その一方、波風首相の亡命は受け入れ、国際社会の趨勢が四国承認になるまで、日本国首相であることを認め、暗号首都天京を維持するためのリソースも与えた。
猿田に無視された桜皇国の明石首相は全国の右翼に向けて京都に集結するよう訴えた。明石の招集に応じて全国から十万人の右翼が武装して上京し、京都市内は騒然となった。
この期に及んでようやく猿田大和国大統領は三つの対桜政策を打ち出した。第一に天皇の安全を重んずること。このため、日本海沿岸の伊根地域に新皇居を建設し、天皇に下洛を促す。第二に観光客の安全を重んずること。このため、観光客が大和国を経由して京都市へ渡航することを制限する。第三に京都市民の安全を重んずること。このため、桜皇国独立宣言以前からの京都市民が京都市から脱出する費用を援助し、琵琶湖沿岸の津市の町屋保全地区を新京都として整備拡張する。
三つの対桜政策は大和国のみならず、四国全体に物議を醸した。第一の天皇尊重主義は、猿田の保守派転向宣言と受け止められた。第二の京都渡航制限は、京都観光を不可能にし、かえって国際世論の反発を招くことが懸念された。第三の新京都建設は、津市の歴史を否定するものとして批判される一方、消滅寸前だった津市の歴史景観を取り戻せるとの期待感も高まった。
桜皇国の明石首相は猿田大統領の三つの政策を否定し、京都決戦を訴えた。しかし、右翼の多くは猿田大統領の天皇尊重主義に感銘し、手狭な京都御所より、伊根の新皇居が天皇の在所としてふさわしいとして、明石首相の決戦論には同調しなかった。
猿田大統領の対桜政策が成功し、桜皇国樹立は桜皇国騒動として歴史に一行をとどめるだけに終わった。




