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隣人中毒  作者: ジャスミン弐式
8/11

新しい命

8.

「ほら、こっちもう焼けてるわよ」

 妙子は網の上の肉をひっくり返す。

「あ、サーセン」

 ご飯をかき込みながら忙しそうにぺこりと頭を下げるのは、若い男性だ。

 妙子の後輩の川下という。

 この四月に専門学校を出たばかりで、妙子と同じ施設に就職した。

 顔立ちは整っており、かっこいいというより、どちらかといえば愛くるしい印象を受ける。

 短くした髪がよく似合っていた。

 妙子はこの後輩が可愛くてしかたがない。

 同期の若い女の子たちに、「川下くんはカッコいい」と言われながらも、相手にすることはなく、「妙子さん、妙子さん」と自分ばかり慕ってくるところがまた可愛かった。

 ときどきこうやって食事に誘っている。

 会計をするのは妙子だ。

 若いからか食べっぷりが良く、おごる方も気持ちがいい。

 一息ついて水を飲んでいる川下の、腕時計をした左腕がテーブルの腕に出ている。

 腕時計は、カジュアルなもので、初任給で選べる一番良いものを選んだのではないかと予想できる。手首でおしゃれさを演出していた。

 介護職を目指すだけあるからか、少し日に焼けた腕は割と筋肉が付いている。前夫にはなかったものだ。

 妙子は手首から順に鎖骨までじっくりと眺め上げる。

 視線に気づいたのか、川下と目が合った。さっと妙子は目を反らす。

 それからわざとらしく、前に垂れた髪を耳にかけた。

 川下は少し気まずそうに、視線を斜め上に泳がせた。

 妙子はそんな川下の左手にそっとじぶんの右手を重ねる。

「この後、何か予定、あるの?」


 そんなことをしていたもんだから、妙子の妊娠が判ったのは10月に入ったときであった。

 川下に話すと、

「妙子さんはお母さんという感じで、自分の伴侶としては考えられない」

 という答えだった。

 それはいい。自分も遊びのつもりだった。

 しかし、天然なのかなんなのか、結婚相手として見れないと正直に言われたことには若干ムッとした。

 やることやっておいて、そういう状態の相手を前にしていい度胸である。

 しかし妊娠は川下一人の責任ではない。それはわかっている。

 川下は次の日には施設を辞め、スマホも変えたのか連絡がつかなくなった。

 呆れるほどに行動が速かった。

 遊びだから、べつにいい。大事なのは種だ。

 妙子は一人でも産むつもりであった。

 実家に寄生している今、余力は十分にある。

 妙子は出ていき自立する気など、さらさらなかった。

 この機にもう一人産み、母親としての自信を取り戻すのだ。

 妙子はお腹を撫でる。

 きっとこの子こそが本当の我が子。

 自分が望んで妊娠し、名前も自分でつける。


 同居人という立場から、無視できないのは家族の意思である。

 結果を言うと大反対だった。

 親が誰なのかも言えないのに。自分は世話になっているという立場をわきまえているのか。

 家に十分な金は入れているのに、ここまで反対されるとは思っていなかった。

 しかし妙子は、

「だからといって命を粗末にできない。私はこの子を殺すことはできない」

 と母親の特権を存分に振りかざした。


 新しい命を得て、気持ちに余裕ができた妙子は現状の隣家への嫌がらせについて疎ましく思うようになった。

 とっとと相手が引っ越してくれればここまで長引くことはなかっただろうに、現実はそう簡単にはいかないということだろうか。

 胎教にも悪いのではないだろうか。

 妙子は調子が悪いからと、嫌がらせをパスすることが多くなった。

 和正に押し付ける格好となったが、彼は自分の負担が増えても、同じことを続けるようだった。


 年末年始はさすがに和正たちも嫌がらせを休んだようである。

 綾が家から出てこなかったこともあるが、さすがに島田家にも来客があった。

 「最近どうだ」と聞かれたが、本当のことなど答えられるわけもなく「ぼちぼちですよ」と返す。

 ちなみに長男夫妻は来ない。初めて訪れた時、嫁本人を目の前にして家族そろって散々悪口を言ったためである。

 家族はこれを不義理だと怒っている。島田家の人々には常識的な脳味噌が備わっていなかった。


 また、年末年始中に綾の家に変化があった。

 島田家に向いた窓が、ブラインドの上から厚いカーテンを下ろしたのか、真っ暗で全く中が見えなくなった。

 綾がこちらを意識している証拠であったが、皆は「見えなくなった、見えなくなった」と大騒ぎだった。

 妙子はむしろせいせいした。

 これで心置きなく自由な時間を満喫できる。

 しかし和正は嫌がらせせずにはいられない体質になってしまったようで、手持ち無沙汰そうにしていた。

 何か新しい案を思いついたとしても、妙子は体調を理由にパスさせてもらう予定でいた。


 2月。

 相変わらず、綾は昼からのそのそと出勤する。

 そこへバシャーン!バシャーン!と智佐子が雨戸を閉める。

 和正から、夜の見張りが無くなった分より大きな音を立てて巧みに開け閉めするように強く言われていた。

 妙子は「自分の取り分」を意識して、家が傷むのではないか、と進言したが、「裏切るつもりか」と聞き入れられなかった。

 そんな中、妙子のお腹の中の子の性別が判った。

 男の子である。

 誰かが祖父の耳に入れたらしく、相好を崩したという。

「和正に男の子が生まれなかったら、跡取りになるかもしれんな」

 と和正の前で言ったという。

 祖父にそう言わしめたことに、妙子の自尊心の器は少しだけ満ちた。

 それから和正はしきりに「出会いがない、出会いがない」と言うようになった。

 妙子が冗談で「綾と結婚すれば?」と言ってみたら、殴りかかられそうなほどに怒った。 

 なんとなく家の中の空気が悪くなってしまった。

 それを考えると、綾への嫌がらせは、絆を確認するための鎹だったのかもしれない。

 敏子に、

「あなたに弟ができるわよ」

 と言ってみると、嬉しそうに喜んだ。

 それを見て、妙子も満足そうに笑った。

 敏子にしてみれば、男だろうが女だろうが、居ようが居まいが、母が機嫌よくしているのならばそんなことはどちらだってよかったわけなのだが。


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