思わぬ反撃
6.
22時30分。
プラスチックケースの上に腰かけて、和正は今日一日を労う一服をしていた。
今日、綾にどんなことをしてやったか思い返す。
まず、出勤時に居合わせたので、外に出るのと同時に「おあ!」と奇声を上げて脅かす。
それから車に乗って、綾の後をつけた。
向こうも意識しているのか、こちらの車だとわかるとスピードを上げた。
50キロ制限を60キロは出していただろう。追い回してやった。
回り道しているのか、勤務先になかなかつかなかったので途中で放り出した。
今思えばもう少し粘って、勤務先を抑えておくのも悪くなかったと思う。
もうすぐ23時だ。一日の締めの時間がやってくる。
と、
声が聞こえてきた。
この家の両親は耳が悪く、テレビの音が大きい。
そのテレビよりもわずかに聞き取りやすい音で家から声が漏れてきているのである。
おそらく家の窓のどこかが開いているのであろう。
位置としては、丁度反対側に位置するの窓あたりからだった。
声は綾と、その父のものと思われた。
綾の声は僅かに怒りと苛立ちを含んでいる。
「なんか、隣の人から嫌がらせ受けてる気がするんだよね」
それに対し、綾の父の声は、
「気のせい、気のせい。そんなの気にする方が変だよ」
と返す。
孤立無援。四面楚歌。呉越同舟。実父から被害妄想の基地外扱い。おつかれ!
和正は笑いをかみ殺しながらも、「島田さん」ではなく「隣の人」と言われたことに僅かに苛立った。
綾は続ける。
「見てないのに見てるって言われるし、垣根のとこ歩いてると大声出されるし、こっちはそっちのこと何の興味もないのに関わらないでほしい」
その言い方に、和正の顔から笑みが消えた。
(何の興味もない、だと?)
綾の言い分に、父親はこう返す。
「どの家も、よその家に興味を持っているんだよ。自分の家に問題を抱えているからね。問題を抱えていない家はないよ。だから他の家が気になるんだ。それで、他の家のことは色々言わないもんだよ。自分の家のことも言われちゃうからね」
「じゃあなんで隣はいろいろ言うの?この間は咳したときに悪口言われた」
食い下がる綾に、父は仕方のない子だと言わんばかりにこう言った。
「島田さんの家と懇意にしてる家は無いよ!」
強い語調だった。
綾に言ったのだが、和正は体が硬直した。
「隣の家と、その隣の家とも揉めてて、島田さんとこと良くしたいと思ってる家はどこにもないよ」
綾の父は続ける。
「お祖父さんも威張り散らしていて、町内会で次の会長決めるってときにゃ、グラスに入った酒を一気飲みして『俺に入れてみろ。ただじゃおかんぞ』だぞ?」
「名誉職なんだからやればいいのにね」
「なあ」
「威張りたい人は働かないとね」
綾の声にやわらかさが戻っている。笑顔になっているのがわかる。
「ほら、お前と一緒の妙子ちゃんだって、嫁に行くときゃ、そりゃあいいところに行くって大騒ぎだったさ。それが戻ってきちゃって、お祖父さんも面目丸つぶれだっただろうよ」
「ふーん。お嫁に行ったなんて、私は知らなかったけど」
「そういうことがあるからな、よその家が気になるもんなんだ。お前が昼からちょこちょこ仕事に出かけるの見て、なんかあるのかな?って気になったりするもんなんだよ」
「ふーん…」
綾の父は一区切りつけて、別の話を始めた。
「お父さんが子供のころな、島田さんちに遊びに行ったら、英太君の従兄弟がいてな、お父さんのこと見て『なんだ義弘のところの子供か』って言ったんだ。お祖父ちゃんのことを、お父さんのお父さんのことを呼び捨てだぞ?英太君のお母さんがそんな風に言っちゃいかんよ、って言ったけどな、お父さんはぐっとこらえて何も言わなかった。その人、今どうなったと思う?」
「え?どうにかなったの?」
「半身不随で寝た切りだ」
「え、怖い」
「だから、いいか?礼を欠くと死ぬ。いいか?どんな人にも礼を欠いてはいけない。死ぬからな?」
「…わかった」
綾の父の話はどうやら終わったらしい。
外では和正が打ち震えていた。
(うちのことそんな目で見てたのかよ)
野村家の方からは、すっかり怒りの癒えた綾の思い出話などが聞こえてくる。
それがまた和正の怒りに拍車をかけた。
プラスチックケースを片付けるのも忘れ、和正は家に戻っていった。
朝になって和正は昨夜の話を智佐子と妙子にした。
智佐子は怒りに顔色を失っていた。
妙子は唇を噛みしめていた。