コップに落ちた一滴は
4.
今日は土曜日だ。
小学校は休みで、敏子も居間でゆっくりと本を読んでいる。
妙子は午後からのシフトでのんびりとしていた。
しかし、島田酒店には休日はない。
店舗部分では、智佐子と和正、妙子がぷらぷらと店番をしていた。
黒くて大きなバンが店の前で止まった。
中から強面で大柄な男降りてくる。
そして島田酒店の扉を開けて中に入っていった。
「こんにちはー」
大きくて陽気な声だった。
所謂、一見さんというやつだ。
島田酒店の客は、ほとんどがリピーターで占められている。
しかし、リピーターと一見さんとで対応に差をつけることはない。
店舗部分にいた3人は笑顔で迎えた。
男が言う。
「ビールを2箱程欲しいんだけどね」
和正が訪ねる。
「贈り物ですか?」
「いや。段ボールでいいよ。親戚が急に集まっちゃってねー」
男は強面に似合わず人懐っこい笑みを浮かべる。
顔に覚えがない。この辺りの者ではないのだろう。
会計を終えて、和正が2箱のビールを抱える。
男はそれを止めた。
「いやー。いいよいいよ。自分で運ぶから」
「いや大丈夫っすよ。お運びします」
「…あーそう?」
妙子と智佐子もお見送り、とニコニコして店の外に出てくる。
男はバンの後ろを開ける。
と、和正が手を滑らせた。
ビールの箱がバンの床に強く打ちつけられた。
和正が謝るより早く、男が口を開いた。
「だから言っただろうが!」
大きな声で強い口調だった。
男は自分に任せておけばこうはならなかったと言いたかったのだろう。
和正はぴしゃりと叱られたような嫌な気分になった。
「…お取替えします」
男は腕を組んで黙っていた。
ふと顔を上げた時、目が合った者がいた。
(なんだこいつ。なんでこんなとこに居やがる)
綾だった。
道路を挟んで向こう側。
事務服を着た綾が、こちらを向いて歩いている。そして気まずそうに目を反らした。
コップの中に、一滴、水が落ちた。
黒いバンが走り去る。
綾もとっくにどこかへ歩き去っていた。
三人は黙ったまま店内へ戻った。
気まずいような嫌な空気が流れている。
その空気を破ったのは妙子だった。
「あいつさー、事務服以外持ってないの?まじで」
鼻を鳴らした、馬鹿にした言い方だった。
和正も吐き捨てるように言った。
「あいつ、気が付くとこっち見てて気持ち悪いよな」
智佐子も大げさに言う。
「しょっちゅう咳してるし、何か悪い病気じゃないだろうね。おおやだ!」
そう言って身震いの真似をする。
八つ当たりだった。
気まずい一瞬に出くわしたのは綾のせいではない。
落ち度の有無をいうなら、むしろ和正に落ち度がある。
コップの中に落ちた一滴は、本当に最初の一滴だったのだろうか。
コップの水は、溢れ出して、止まらない。