和正
3.
綾の部屋の電気が消えた。
時刻は23時。若者の就寝時間としては早い方だろう。むしろ夜はこれからだ。
和正はわざと大きな音を立てて酒を運ぶためのプラスチックケースを積み上げる。
電気が消えるタイミングに合わせて毎晩これをやっているのだが、綾は気づいているだろうか。
(お前は存在が許されないんだ。堂々と生きているな)
気づいてなければならない。そして、申し訳ありません、と思いながら眠りにつくのだ。
農民風情が。名家で地主である我が家の隣で、頭を高くして生きていけると思うなよ。
綾と和正と誠也は幼稚園までよく一緒に遊んでいた。
綾はよく年下の男の子たちを集めては、空き地や山で遊んだ。
幼いころは活発な性格だった綾はその豊かな想像力を発揮し、ただの空き地を最新の設備を整えた秘密基地に、大海をゆく海賊船に変えた。
綾にとってはママゴトの延長線上だったのだろうが、和正はその想像力を掻き立てられる遊びが大好きだった。
その遊びは、綾が小学校に上がってから集まらなくなった。
それと同時期に、誠也は祖父に「お前はこの酒屋を継ぐ人間だ。嫁もそれなりの家から選ばねばならん。いつまでも農民の娘と遊んでいてはいかんぞ」と釘を刺された。
和正も似たようなことを言われた。幼い和正でも、綾と自分では身分が違うのだと言われているのはわかった。
小学校に上がった綾は友好関係が広がるものの、流行りの歌や、芸能人を追いかける同級生の話について行けず、本の世界に夢中になりはじめる。
徐々に取り残されてゆく綾を、姉の妙子は家に帰ってくるたび、今日は綾がこんな的外れなことを言った、こんな行動をしただのこき下ろすようになった。
和正と誠也は綾を軽蔑するようになった。
和正の中の綾の像は、同年代の女子にも男子にも相手にされず、年下の子とばかり遊んでいた鈍くさい娘へと変化していった。
和正が小学校に上がり綾と下校時間が被るようになると、和正は綾を見つけるとわざとぶつかるように走っていきギリギリのところで避け、「トロトロ歩いてるな!デブ!」「邪魔だ!馬鹿野郎!」と罵声を浴びせて追い越していく遊びをするようになった。
綾は和正を見てちょっと悲しそうな顔をするだけで、何も言い返してこなかった。
和正はそれを当然だと思った。綾は一方的に虐げられる存在でなければならないのだ。
和正の兄、長男の誠也は私立大学を出た後、そこそこの会社に就職したかと思えば、突然知り合った娘と結婚するからと言って家を出ていってしまった。
まず両親、祖父母はその娘と結婚することに反対した。
彼女の両親は死別しており、母親が一人で育てていた。
両親たちは、父親がいない女なんてと憤っていた。その他にも、家柄が悪いだの、高卒だのと言っていた。
誠也はこの家を継ぐのだと言われて育てられてきた。
和正はそんな誠也と何かにつけて差をつけられた。
誠也は新しいものが買ってもらえるのに、和正はお下がりを使う。それが当たり前と教え込まれてきた。
うちは余裕がないから仕方ない。後に生まれたのだから効率的に仕方ない。と言われながらも、長男だけが祖父から小遣いをもらったりしているのを知っていた。
誠也と比べ、和正は期待されずに育った。ある意味長男と比べ自由だったのかもしれない。
しかし、学力が足りなかったと言えばそれまでなのだが、和正は大学に進学することはできなかった。私立ならばいくつか候補があったが、国公立以外は許さない、と両親に言われ断念した。
和正は地元の企業に就職し、人間関係のもつれから退職し、その後アルバイトを転々とした。
そんな中、突然長男が家を出て、結婚相手の家に婿入りしてしまったのである。
当然大騒ぎになった。そんな結婚が許されるはずがない。
だが許されるはずがないと言って結婚を止められる時代ではもはやない。本人同士の同意で結婚は成立するのだ。
祖父は「勘当だ!二度と島田の敷居を跨げると思うな!」と喚き、それに対し誠也は「それで結構だ」と言って去っていった。
去り際に誠也は和正に「お前もほどほどにしておけよ」と残していった。
和正はその言葉の意味がわからなかった。「何を言っているんだこの兄貴は。あんなに良くしてもらっておいて恩知らずが」とさえ思った。
家族が次にしたのは和正を持ち上げることだった。
「誠也は跡取りの重責から逃れた腰抜けだ」「お前はいつも賢かった」「頼れるのはお前しかいない」
祭り上げられた和正はすっかりその気になった。やっと俺の時代がやってきたとさえ思った。
家族が俺に期待している。この俺こそが島田家の跡取りだ。
しかしこうも言い含められた。
酒屋一本では家族全員養っていけない。まずはどこか硬いところに就職し、嫁を取ることだ。
嫁に酒屋の仕事をさせ、お前は外で稼いでくる。定職に就くまでは空いている時間は店を手伝う。
いずれは家督を譲るから。
和正はその謎条件を飲んだ。
家督とはなんなのか。例えばこの土地建物。これを和正名義とする。そう明言されたわけではない。
欲しいかどうかは別として、所有する山林を譲る、そう言われたわけでもない。
しかし和正は信じている。家督を継ぐということは、島田の一切合切を受け継ぐということだと。
(いい女を嫁にして、俺は一国一城の主になる)
和正は大きな音を立ててプラスチックケースを積み上げる。
(俺の嫁にも慣れない女は、目障りだ!綾!)
もう一つ積み上げた。
これで全部だ。
綾の部屋から、こんこん、と咳をする音が聞こえた。
和正は清々とした気持ちで庭を後にした。
スマホを弄っていたら、あっという間に12時を回り、うとうとしたと思ったら朝になっていた。
島田家の朝は早い。
母の智佐子が朝食の準備をする間に、和正は玄関の扉を開け、店舗のシャッターを開ける。
朝早くに誰が来るというわけでもないが、いつ来てもいいようにレジの電源を入れる。
食事が終わったら、バイトがある日はバイト、なければ配達の手伝いをする。
今日は二軒の配達に行き、バイトもないので昼食まで昼寝だ。
昼を食べたところで母から回覧板を頼まれた。
近所づきあいも当主の大事な仕事だ。
和正は引き受けた。
野村家の前を横切るとき、いつもは家の裏に停められている綾の軽自動車が、表の庭に留められているのを見た。
回覧板を置き、返ってくると、ちょうど綾が家から出てくるところだった。
和正は横眼だけで綾を確認する。
庭の中ほどまで進み、ちょうど背の低い塀の向こうにやってきた和正を見てはっとしたように足を止めた。
(何だ?)
和正は少し進んだところでちらりと後方を伺ってみた。
綾は、慌てた様子で洗濯物を取り込んでいた。
綾の抱える洗濯物の中に、水玉のブラジャーがあった。
(誰が)
和正は早足に自宅の敷地へ向かった。
庭の、プラスチックケースを積み上げた一角に駆け寄る。
そして思いっきり蹴っ飛ばした。
(誰がお前の下着なんか見るか!)
中身が空っぽのそれは、派手な音を立てて崩れた。
怒りは収まらず、和正は、転がったプラスチックケースをさらに蹴った。