光斗
10.
それから、およそ1年が過ぎ、また暑い季節が巡ってきた。
親戚で検査を申し出てくれた者のなかに適合者はいなかった。
頼んだ近所の人々の中で、どれだけの者がドナー登録してくれただろうか。ドナーが見つかることもなかった。
1歳の誕生日を待たず、風邪をこじらせた光斗はその短い天寿を全うした。
葬儀は家族だけでひっそりと行われた。
先祖代々の古ぼけた遺影の端に、真新しい、カラー写真の光斗の遺影が追加された。
11.
光斗の居なくなった世界は、淡々と時を刻んでゆく。
暗い空気に支配された島田家も、徐々に日常を取り戻していった。
そんな中で、妙子だけが情緒不安定だった。
以前にも増してヒステリックになり、突然泣き出したり、物に当たるようになった。
仕事の後も何をしているのかわからないが、帰りが毎日のように遅くなった。
心に異常をきたしているのが明らかだったが、「心療内科はきちがいがかかるところ」と言ってはばからない家族が、妙子に受診を薦めるわけもなかった。
敏子は一人、光斗のことを恨んでいた。
あいつさえ来なければ、我が家はこんなに荒れることはなかったのに。
時は流れ、秋がやってきて、近所で寄り合いがあった。
英二は光斗のこともあり、出辛く、欠席した。
寄り合いの翌朝、回覧板を持ってきた近所の夫人が店先に出ていた英二に言った。
「野村さん所の綾ちゃん、ついに結婚が決まったんだってね。東京にお嫁に行くんですって。旦那さんが作った会社に勤めることになるんそうだよ」
言っては悪いが、華やかさとは無縁そうな綾だけに意外なニュースであった。
英二は、智佐子、妙子、和正の3人が集まっているところにこのニュースを運んでいった。
すると妙子は吐き捨てるように、
「近所じゃ誰も相手にされないから、そんな遠くにお嫁に行くことになるのよ」
と言った。
英二は怒鳴りつけた。
「お前は!もう綾ちゃんにしてもらったことを忘れたのか!」
英二に怒鳴られた妙子は、泣きそうな顔になると、ぱっと身を翻し自室の方へ駆けていった。
英二は呆れたようにその背中を見送った。
続いて、英二は苦虫を噛み潰したような顔をしている和正を見る。
「お前も、お前も妙子みたいに思っているのか」
和正はしゃがれた声を出す。
「俺は、お前らのせいで、人を見下して見下して仕方がない性格になった…」
英二は絞り出すような声で言う。
「親に向かってその言い方は何だ」
和正はそれ以上何も言わず、鬱陶しそうに顔を背け、二階へ上がっていった。
英二は続けて智佐子を見た。
智佐子は能面のような無表情をして、一言も口を利かなかった。
それから、知らないうちに綾は実家から居なくなった。
気が付いたら、勝手口から出ていく姿を見なくなっていた。
それから半年ほど過ぎたある日、綾の父は山を持っていたのだが、その山が木々が切り倒されて丸刈りにされた。
それからちょこちょこと業者が入り、ターザンロープが設置された。
山の高いところに設置されたターザンロープは、遠くからでもよく見えた。
丁度、隣の山が最近木を刈られ公園にされたので、市が買い取ったのだろうかと思いきや違った。
綾の妊娠を知った父が、子供が遊ぶためにと設置したのだという。
何とも気の早い話だと、みんなは笑った。
隣の公園から伝って入ることができるのかと思った子供たちが山に集まったが、「私有地立ち入り禁止」のロープを見てがっかりして引き返していった。
島田家では綾のことはタブーとなっていた。
しかし、人の口には戸を立てられないというのか、近所の客がぺらぺらと喋る。
この狭い町で、綾はちょっとしたアイドルになっていた。
今日も何の悪気もない客が気の早い綾の父の話をし、空気が最悪になった。
朝っぱらから綾の話を聞かされ、気分を害した妙子は自室に上がった。
(難関資格を取って、東京に嫁に行って、独身時代は存分に満喫して、その上妊娠ですって?)
自室の窓から外を見る。
景色のすみに、綾の父が設置したターザンロープが見える。
妙子は登ってきたばかりの階段を、再び降りていった。
妙子の赤い車がJ-POPをガンガンにかけながら国道を爆走する。
前を走る車を煽り、スピードオーバーで抜き去っていく。
(トロトロ走ってんじゃないよ)
サビが来たとき、妙子は大声で歌った。
妙子が到着したのはホームセンターだった。
駐車場に車を止め、ハンドバッグを引っ掴むと、車を降り、さっそうとモデル歩きで店舗へ向かう。
整容は若干乱れていた。
次に妙子が向かったのは公園だった。
ハンドバッグを持って斜面に設けられた階段を悠々を登ってゆく。
そして「私有地立ち入り禁止」のロープを超え、野村家の敷地内へ堂々と侵入していった。
ターザンロープの中ほどでぶら下がる人を待っているロープを引き寄せる。
そして妙子はハンドバッグからロープカッターを取り出した。
(一つ、綾は自分より優れていてはいけない)
妙子はせわしなく手を動かす。
(一つ、綾は自分より幸せではならない)
ロープを握りしめたほうの手に汗がにじむ。
(一つ、綾は自分より多くを持ってはならない)
息が上がってきたころ、ロープはあと少しで切断してしまうところまできた。
妙子は切断せずにぱっと手を放す。
ロープは傾斜に沿ってまた中ほど辺りまで移動した。




