1章 いつかの景色
桜舞う新学期。そんな当たり前で理想的なシチュエーションはどこかへ消えた。今年は例年よりも少しだけ、ほんの少しだけ桜の開花が早かったらしく4月には桜は散り始めていた。まさしく桜散る新学期である。
入学式に桜が散っている、そんな現実をいささか不本意に思っている少年が一人、電車に揺られながら車窓から見える外の景色をぼんやりと眺めていた。
彼はそれなりに受験勉強をして、それなりの進学校である県立千羽高校に合格した。
合格した当初は親戚も中学の同級生もお祝いをしてくれて嬉しかったのだが、いざ新しい環境に身を投じるとなると緊張、不安、吐き気、めまい、嘔吐ーーなどなどが襲ってくるのだ。
なんだか隣に座っているサラリーマンもチラチラとこちらを見ているーーような気がする。
ドアが開いた。高校の最寄駅で開かれた自動ドアに気付いた彼は座っていた席から離れた。
一歩、また一歩と新たな世界への入り口へ近づいてゆく。
高揚感が身を襲う。妙に身体がフワフワする。生ぬるい風が外から吹いてくる。風が身体をくすぐった次の瞬間。
ーーーー自動ドアが閉まった。
散々なスタートだ。まさか目の前でドアが閉まって、次の駅で折り返さないといけないなんて。
そんなことを考えていた彼は高校の最寄駅のプラットホームに立っていた。
自分の不幸を嘲笑うような生ぬるい風に若干怒りを覚えながら改札へと歩みを進める。
彼の目の前にはサラリーマンの中にチラホラと学生が見られる集団があった。
あたりをキョロキョロと見渡している学生もいる。おそらく新入生だろう。やはりみんな不安なのだ。彼以上に散々な奴はいないだろうが。
しかし、一人。集団の中でやけに目を引く人物が一人いた。
目立った特徴もない千羽高校の女子の制服を着ているが、後ろ髪が凛として美しい。日本女性の象徴とも言える少し長めの黒髪の彼女にはどこか大人の余裕があった。新入生と思われる連中とは違い、キョロキョロと周りを見渡すこともしない。
ただただ、落ち着いて改札へと歩みを進めていた。
そんな彼女の後ろ姿に目を奪われていた彼だからこそ、起こった一瞬の出来事に気付くことができた。
彼女がハンカチを落としたのだ。
周りの誰も気付かないほど優しくふんわりと地面に落ちてゆくハンカチを、まるでスーパースローでも見ているかのように、彼はその動きを確実に視界に捉えた。 ハンカチは不思議にも誰にも踏まれないまま駅の地面の一部と化した。
彼はハッとした。落としたハンカチを拾って返してあげなければ。ハンカチのもとに駆け寄った彼はすぐさまそれを拾い上げようとした。
次の瞬間、甘い香りが鼻をついた。
お菓子が焼き上がったときの香りーー違う。
お花畑の真ん中で寝転がっているかのようなーー違う。
髪を洗った後、髪を乾かしているときの香りーー違う。
言いようのない、しかし頑なに鼻から離れようとしてこない甘い香りーーーー
彼は再びハッとした。
思い出したかのようにハンカチを拾い上げ視界を上げた時には、目の前には自動改札機があるだけだった。