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今日はカレーの日「火曜日のカレー」

作者: 縁ゆうこ


 その店に気づいたのは、たまたまカレーの匂いがしていたからだ。



 いつもは会社を終えて、ただ通り過ぎるだけのその道。

 坂道の多いこの街では、駅までの道のりはゆるゆるとした下り坂が続く。ただ、ご想像通り、帰りは楽だが、出勤時は皆必死の形相だ。俺も若い頃には、出社時間ギリギリになるとよくこの道を駆け上がったが、もう今は無理だ。


 道幅も狭く少し入り組んだこのあたりは、あまり知られていないが駅からの近道で、見つけてからは毎日通っている。

 マンションや個人経営の会社などに混じって、趣向を凝らした雑貨の店、それから洋菓子、いや、いまどきはスイーツと言うのか、甘い匂いの香る店などがポツリポツリとあって、隠れた店を探す女性からは人気のある所らしい。

 そんな中にその店はあった。

 小さな会社の看板と雑貨屋に挟まれて、目立たぬような少し奥まったあたりに、ひっそりと看板がかかっている。

 『喫茶 あき』

 と言うのがその店の名前だ。

 あき? 店主は女性か。およそ自分の名前をつけたのだろうと踏んで、それでもしばらく入ろうかどうしようか迷っていたが、どうにも美味そうなカレーの匂いにあらがえず、OPENの札がかけられた重厚な木の扉を開けた。


 カラン…


「いらっしゃいませ」

 軽やかなドアベルの音とともに聞こえてきたのは、意外にも男の声だった。見ると、カウンターの中に、年の頃は30歳前後だろうか、はやりのイケメンではないが、顔立ちの整った穏やかそうな男が、こちらに微笑みかけている。

「えーっと」

「お一人ですか? お好きな席へどうぞ」

「あー、はい…」


 好きな席と言われてぐるりと店内を見回したが、どうやら客は俺1人のようだ。

 カウンター席が5席。テーブルは2人がけと4人がけがいくつか。とりあえず窓際の2人がけの席に、カウンターの方を向いて座る。

「いらっしゃいませ。メニューをどうぞ」

 水とおしぼりを運んで来た店主に、もう決めてあった注文をする。

「カレーを下さい」

 差し出されたメニューを見もせずにオーダーする俺に、一瞬目を見張った店主が、ふっと空気を揺らすように微笑んだ。

「あ、いやね、前を通ったら、カレーの良い匂いがしたもんでね。でも、毎日ここを通ってるのに、喫茶店があったなんて、ちっとも気がつきませんでしたよ」

 突拍子なかったかな、と、なんとなく言い訳めいたことを言ってしまう。

「こちらの店は、少し前に始めさせて頂いたばかりです」

「そうなんですか、じゃあ気づかないかもな。道から少し奥まってるし」

「はい。ですが、今日はお客様が多いな、と思いましたら、そういうことでしたか」

 店主は少し納得したように言う。俺のように、カレーの匂いにつられた客が他にもいたのか。

「それと、ちょうど今日が火曜日だったのもあってね」

「? 」

 怪訝そうな顔をする店主に、また言い訳めいた説明をする。

「毎週火曜日は、カレーの日と決まってるんですよ。いや、うちの奥さんがね、大学の社会人向け講義に通ってたことがあって、それが火曜日だったんですよ。で、晩飯は作り置きできるものってことで、毎回カレーだったんですがね。で、講義が終了したあともなぜかカレーだけが習慣になってしまって」

「そうですか」

 俺は、ここへきて、ちょっと調子に乗ってしゃべりすぎたことに気がつき、唐突に口をつぐんだ。けれど店主は、そんな俺を不審がることもなく、「カレーですね、かしこまりました」と言う言葉だけを残して、厨房へと帰っていった。



 カレーなんだからすぐ出来るだろう、と思っていたのだが、意に反してなかなか出てこない。暇なのであらためて店内をぐるりと見回してみる。

 内装は、入り口の扉と同じく重厚で渋い感じにまとめられている。だが、決して重苦しいと言うわけではない。何というか、居心地の良い店だ。

 入ってきたときは気づかなかったが、入り口近くの本棚には、新聞や雑誌のたぐいはなく、なぜか可愛らしい犬や猫の写真集が置かれていた。渋めのこの店にはそぐわないなーと思ったが、なんともほのぼのしてつい微笑んでしまう。


「お待たせしました」

 そこへタイミング良く? でもないが、カレーが運ばれてくる。

「お、ありがとう。美味そうだな」

「ありがとうございます」

 店主はそういいながら、本当に美味そうなカレーの皿を俺の前に置いたあと、何種類かの薬味の容器を一緒に置いた。

「ここからお好きなものを、お好きなだけ召し上がって下さい」

「…これ」

 俺はその薬味を見たとたん、つい口に出してしまう。

「どうかなさいましたか? 」

 店主は微笑みながらそんな俺に聞いてきた。

「え? あ、いや、なんでもありません」

 すかさず答える俺に、

「どうぞごゆっくり」

 の言葉を残して、店主はまた厨房へと消えた。

 俺はこの容器を見たことがある。これは、いつもうちでカレーを食べるときに使っていたヤツだ…。

 けど、同じ容器なんかどこにもあるよな、と、思い直して、いつものように薬味をたっぷりとルウの横に乗せ、「いただきます」と小さくつぶやくと、おもむろにスプーンを口に運んだ。



「! 」

 ひとくち食べた途端、俺は自分の家にいた。

 間違いなくこれは家のダイニングテーブル、向かいには妻が座ってニッコリと俺に笑いかけている。

「な、どうして? 」

 思わず声を上げてスプーンを取り落とすと、「あらあら」と言いながらそれを拾って手渡してくれる。

「ありがとう、って、違う。お前なんでここに」

 そう、妻は3年前、正確には2年と10ヶ月前に亡くなっていた。


「だってぇ、もう3年にもなろうかって言うのに、貴方ったら、いまだにこの家に、あ、じゃなくて私にか。キャー、恥ずかしい~、けど、嬉しい~」

 妻はそう言いながら頬に両手をあてて、くねくねと身体をくねらせている。俺は脱力しながらも、ああ、妻だ、と思いながら、彼女が納得するまで恥ずかしがらせてやる。

「いやーだーもう。…、…。! あ、ごめんね。で、いまだに未練タラタラで、自分の気持ちを抑え込んでるから、もう、気になって気になってあの世に行けないんだもん、勘弁してよぉ。でね、もうそろそろ私を忘れて、…って、忘れられるのは寂しいから~、執着するのはやめて、進みたい道へ一歩踏み出して」

「え? 」

「海外プロジェクトの話、答えを伸ばし伸ばしにしてるでしょ」

「どうしてそれを…」

「なんでもお見通し、よ」

 うふっと笑って言う、あの頃と変わらない妻。

 そうなのだ。少し前に、海外赴任の話が持ち上がり、考えさせて下さいと言ったまま、答えを引き延ばしていた。本当なら引き受けたくて仕方がないほどの、魅力的でやりがいのある仕事。だけど、そうするとこの家を離れなくてはならない。また日本に帰ってくるのはいつになるかわからない。もしかしたら帰らないかもしれない。

 結婚してから二人、良いときも悪いときもともに過ごした家だ。妻との思い出が詰まった家。そこから離れてしまうのがどうにもやるせなかったのだ。

「そうか、なかなか思い切れない俺を心配してくれたのか」

「そ、でも半分は、さっき言ったとおり、私が引き留められちゃって、思い通りの所へ行けないからなのよ。困っちゃってあの世に相談したら、クラマに頼んでやるって言われて、あ、これは関係ないわね」

「なんだそれ」

「えへー。ねえ、でね、この家は私も好きだから、貴方の気持ちは嬉しいんだけど」

 そこでいったん言葉を切ると、妻は本当に綺麗に笑いながら言う。

「私はね、貴方が思い通りに生きて、幸せでいてくれる方が嬉しいの」

「! 」

「だから、もうそろそろ私を解放してあげて」

 俺はニッコリ笑う妻をポカンとして見つめていたが、次第になんとも言えず嬉しくて温かい気持ちがこみ上げてくるのがわかった。

「解放って…、ああ、そうか。俺が執着してて、そうか、そうか」

「もうー、泣かないのー」

 言いながら妻は俺の頭をクシャクシャする。

「泣いてなんかないよ。…、…あれ? 何でだろ、はは、」

 自分では泣いているつもりなどなかったのだが、いつの間にか目から涙があふれてきて止まらない。

 しばらく声を抑えて泣いていたが、ようやく涙が途切れたところで妻が言う。

「…もう大丈夫ね。ほら、カレー冷めちゃうわよ、とっとと食べましょ! 」

「ああ、すまなかったな」

 俺は何だか吹っ切れたようなすがすがしい気持ちで、またカレーを口に運ぶ。

 そのカレーは、いつも妻が作ってくれた懐かしい味だった。

「ごちそうさま」

「お粗末様でした」

 すっかり皿が空になりスプーンを置くと、いつもそうしていたように、微笑みあったあと、頭を下げながら目を閉じた。



 ああ、満足した、と顔を上げたのだが…。

 なんと! また驚くことに、俺はさっきの店に戻っていた。

「え? あれ? 」

「どうかなさいましたか? 」

 横から声がして、見るとそこには店の店主が立っていた。

「あ、い、いや」

「? 」

 少し言いよどむ俺に怪訝そうな目を向けてくる店主は、綺麗に食べ終わった皿を引きながら言う。

「食後のコーヒーをお持ちしましょうか」

「コーヒーついてるんですか。だったら、お願いします」

「かしこまりました」

 何だったんだろう。

 けれど、さっきのが夢やまぼろしでない事はなぜかわかるのだ。妻は俺に言葉を伝えたくて、クラマだかなんだか言う奴に頼んで、こっちへ戻ってきてくれたのだ。

「ありがとう…」

 俺は思わずつぶやいていた。すると、妻の嬉しそうな笑い声が、天のかなたへ上っていくような感覚が、胸に沸き上がってきたのだった。




 次の日、俺は、海外赴任の申し出にイエスの返事をした。

 その帰り道、なぜとはなく昨日の喫茶店に立ち寄ってみようと思い立った。くだんの近道まで来たが、今日はカレーの匂いはしていない。

 たしか、この会社と雑貨店の間の小径を…


「あれ? 道が、ない? 」

 昨日は確かにここに小さな植え込みがあって、その向こうに道があったはず。いや、植え込みはあるにはあるのだけれど。

 すると、ちょうど雑貨店から人が出てきた。1人は客で、もう1人はどうやら店員らしい。

「ありがとうございましたー」

 客を見送って外へ出てきたその店員に、俺は思わず声をかけた。

「あの」

「はい? 」

「この店の隣っていうか、この植え込みの奥にあった店は、どうしたんでしょうか?」

 俺は、そこにある植え込みを指さして言う。すると店員は不思議そうな顔をして答える。

「えーと、この植え込みの向こうはうちの店ですが…。それに、隣は見ての通り会社で、お店ではありませんよ」

 なるほど、見ればわかるが、植え込みの奥は雑貨屋のショーウインドウになっている。隣の会社との境は人が通れるような幅もなく、猫一匹がギリギリ通れるくらいだ。

「え、でも、昨日は確かに…。あ、そう言えば昨日、このあたりから良いカレーの匂いが漂ってたんですが」

「カレー? いいえ、昨日は閉店までいましたが、外に出てもカレーの匂いはしなかったなあ」

「そんな…」

 言葉をなくす俺に、店員は怪訝そうな顔をしながら店へと入っていく。

 しばらく立ち尽くしていた俺は、雑貨店の中からさっきの店員がこちらを見ているのに気がついて、ようやく駅へ向かって歩き出した。


 あれから思いついて火曜日にも前を通ってみたが、この町をあとにするまで、ついぞそこに店を見つけることは出来なかった。

 火曜日の、不思議なカレーの話だった。



ここまでお読み頂き、ありがとうございます。

すこし不思議なカレーのお話しです。店主さんが誰かはもうおわかりですよね。言わずと知れた『はるぶすと』シリーズの鞍馬くんでございます。「ヤオさんのお知り合いに頼まれて、イヤと言えずに引き受けてしまいました」と言う感じでしょうか?

それにしてもこの喫茶店の名前。店主のネーミングセンスは相変わらずです。

この店はなくなりましたが、本店? は、通常通り営業しておりますので、よろしければまた遊びにいらして下さい。

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