戦地パウドロ島
ルソン島の西南、パウドロ島の都市サンセヘンから南に10kmの位置にある小高い丘陵カンギバルー通称「歓喜原」ーに群生する林中に柿揚の中隊は駐屯していた。
たまにあるゲリラ討伐の他は大きな戦闘もなく、柿揚は上陸以来平穏な日々を送っていた。
陣地構築のための木材伐採、魚釣り、水くみなどが主な作業である。
叔父の力もついに及ばず招集された柿揚であったが、この平穏な戦場に行き当たったのは幸運であった。
こればかりは流石に叔父の神通力ではないようだ。
兵隊も下士官もだいたいロートルばかりで、想像していたような軍隊気質はあまり見受けられなかった。
一般に皆、動きが緩慢で、戦地にありながらその興味は戦争になく、日々の快適な暮らしをいかに達成するかに集中していた。
柿揚はここでも作業の合間合間にセーラー服の少女の幻想を見ていた。
原色が映えるフィリピンの自然にもし内地のセーラー服の少女がいたらどう見えるだろうか、どう振る舞うだろうか。
ここは原野が広がるばかりだが、北東、フィリピンの本州とも言うべきルソン島には日本にもあまりないような大都市がいくつかあるらしい。
(一度北部の都市サンセヘンに行ったことはあるが、都市とは名ばかり、日本で言えば無人駅が似合いそうな、背の低いビルディングが2本ほど建つ田舎であった。)
フィリピンの女子学生はどういういでたちなのか、どういう生活を送っているのだろうか。もちろん今は戦争中だから不憫な生活を強いられているだろうが、戦前はどうだったのだろうか。
アメリカの植民地支配でだいぶ都市化されたというからアメリカの女学生に準ずるのだろうか。
日比女学生がブラスバンドセッションを行ったらどうだろうか。
フィリピン側はやはりアメリカ文化の影響でジャズが得意だろうか。
丸太を担ぎながら、穴を掘りながら、病兵に水をやりながら、柿揚はそんなことばかり考えていた。
招集されてからしばらくはずっと死ぬことばかり考えていた。
死んでしまえば一切合切が無に帰す。地獄極楽があるとは自分はとうてい思えない。
弾にあたって死ぬのか、砲弾の破裂に巻き込まれて死ぬのか。
マラリヤに罹って死ぬのか。
他にもいろいろな死に方が予想されたが、いずれも痛かったり苦しかったりと、できれば避けたい死に方だった。
イチコロで死ねばそれがもちろん一番良いが、今までに見てきた戦死者はあまりイチコロではなく、うんうんと苦しんで死んでいた。
ゲリラとの戦闘程度では大きな兵器は出てこないから余計そうなのかも知れなかった。
そうやって死ぬことばかり考えていたが、カンギバルに駐屯してから生活は落ち着き、だんだんセーラー服の少女のことを考えることが出来るようになってきた。
ここでこういう生活を送っているうちに戦争は終わるだろう。
緒戦で日本軍はコレヒドール要塞を陥落させてフィリピン全土を掌中にし、その後も破竹の進撃を続けて前線はどんどん太平洋に張り出していった、と大本営発表その他の報道によって知っている。
しかし今はどうだ。フィリピンにアメリカ軍がやってくるから、陸軍はここで一大決戦をするつもりらしい。
アメリカ軍の逆上陸を待っている状況から判断するに、控えめに見ても日本は敗勢にあるのだろう。
だっておかしいではないか、当初のあの勢いだったら今頃我々はアメリカ本土で戦争をやっていそうなものなのに。
そうすればアメリカの女学生も観察できた。
日米のセッションでいくつも話を作ることも出来た。
休暇を与えられたらならば、アメリカはこんな島ではなく都会だらけだろうから外出もできただろう。
当然アメリカのコミック研究も出来ただろう。
兵営、露営地に持ち込みがだめなら本屋で眺めるだけでも良い。
アメリカンコミックはあの無骨な造形が良い。
決して俺の好みではないが、あれはあれで美である。
強調された陰影、筋骨隆々、将棋の駒を逆さにしたような体格の主人公、ひどく大人びた(実際に大人だが)美女、禍々しい出で立ちの悪役、いずれも実に魅力的だ。
アメリカンコミックだけではない。
子供向けのものもたいそうよい。
アメリカのアニメーションは日本の10年先を行っている。
できればあのフィルムを持ち帰りたい。
日本がアメリカに勝利すれば俺は叔父の商社で頑張って働いてアメリカ支社に赴き、俺の作品をアメリカのアニメーション会社に作らせる。
萌星の他の作家の作品もだ。
横須賀のオゴレス氏による竜と自動車がまぐわう作品などはアメリカ人が好みそうではないか。
アメリカのコミックを網羅して読んだわけではないが日本の漫画は(もちろん俺は好きなのだが)雑誌の繁栄度合いや読者の意識などもあり、少々見劣りがするような気がする。
そこに比べて一般に発行しないでよい分、発想の鋭利さにおいて萌星の面々のものはアメリカのものに負けていない。
いや、むしろ何十年も先を行っているとさえ思う。
いやいや、待てよ。アメリカは巨大な国だから日本に萌星のような面々がいるのと同様にアメリカにも趣味人の集まりがあるのではないか。
そうするとアメリカで一般に刊行されない鋭利な作品が野に埋もれている可能性もある。
-これは脅威だ!-
柿揚はじりじりと肌を灼くフィリピンの太陽のもとでブルッと震えた。
想像もつかない。
いったいどんな化け物のような作品がアメリカの広大な大地に潜んでいるのだろうか。
様々な人種、巨大な経済力、工業力、軍事力、アニメーション技術などなど数え上げればきりがない。
何が蠢いているのか、アメリカ!
「柿揚!柿揚一等兵!」
柿揚は妄想から覚めた。
「おい、今日はこの辺で終わりだ、帰るぞ。」
その巨大なアメリカ軍が殺到するという海岸を迎え撃つ陣地構築は半ばまで完成していた。
柿揚がいくら妄想しようとも柿揚はフィリピンにあり、のんきな生活をしているとはいえ戦争中なのだ。
疲れた身体に土工具がずっしり重い。
平穏ではあるが、なかなかの重労働が課される毎日。
明日も明後日も明明後日も。
ま、そろそろ日本とアメリカで手打ちになるだろうさ・・・
帰路につく兵隊達は皆そう思っていた。