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目はクリクリと大きく頬は朱で  作者: 路傍工芸
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国破れて山河在り

 橘は揺れと轟音で目を覚ました。

 他の俘虜達も同様に目を覚まし、なんだなんだと騒ぎ始めた。

 まもなく全員甲板に集合の指示が出た。


 甲板に出た橘達が見たのは前方を進んでいた僚艦「長門」があっただろう位置にもうもうと立ちこめる煙と破片と漂流物、そして雨のように降る海水だった。

「攻撃されたぞ!」

「攻撃じゃないぞ、機雷だ、機雷だ!」

 こういう時は海軍出身俘虜が強かった。


「米軍の機雷だぞ!」

「米軍は機雷を蒔いた場所を通知しているはずだから、運悪く流れてきた機雷か、もしかしたら日本軍の機雷かも知れん。」

「うちらは大丈夫なのか。」

「大丈夫なものか。」

 乗組員がいくら制しても俘虜達の騒ぎは収まらない。


 そのうち救助隊が編成され、搭載していた小型舟艇が「長門」の遭難海域に向かっていった。

 救助隊編成には乗組員だけでは足りず、俘虜の中から海軍出身者と船舶工兵が募られた。


 橘はただ呆然と甲板に突っ立っていた。

 周囲の喧噪は耳に入らなかった。


 機雷に触れるのは舳先だから舳先が危ない、と舳先から艫(船尾)に行こうとする俘虜と「いやいや、米軍の機雷は賢い。舳先に当たってから数秒後に爆発するからむしろ艫の方が危ない」と舳先に向かう俘虜などで甲板はごった返す。

「いったん引っかかったら巡洋艦だってイチコロなんじゃ。

 こんな小さな船なんかどこにおったってかわらんわい。」

 と、甲板にどっかと座って大笑いしているのは海軍の古兵だろうか。

 

 何時間か後、近傍の船も応援に駆けつけてきたが、救助隊がすでにほとんど回収を終えていた。

 結局「赤城」は一晩をこの海域にとどまることになった。


 翌日の早朝、俘虜が甲板に集められ、先日の事件の説明がなされた。

 先行の輸送艦はおそらく機雷に触れて轟沈したということ。

 生存者は救助隊が回収した4名のみで、他は身体の部分が多数回収されたにとどまったこと。

 

 橘の耳には説明はとどいていなかった。

 生存者の名前に柿揚がなかった以上、他に聞くべき事はとくにない。

 

 本艦はこれより現場海域を離れて予定航路に戻り、舞鶴には明日の昼頃到着予定であるため、各人はおのおの準備をしておくように。

 と、副長が説明の最後を締め、解散となった。


 甲板には「長門」組の遺品が並べられていた。

 救助隊が回収したという遺品の多くは収容所で配られた石鹸や缶詰がほとんどだった。毛布は沈んでしまったのか、割合少なかったようだ。


 俘虜達は沸き立ち、争奪戦が始まるかと思われたが、将校俘虜が多数のためか、そこまで見苦しい振る舞いはなかった。

 しかしそれでもなりふり構わず遺品の分け前にあずかろうという俘虜はおり、階級は関係ないようだった。


 それを収容所を取り仕切っていた古兵が監督した。

 橘の部下だった岩田曹長もその一人だった。

 岩田曹長は有能だが、少々横柄で、野卑な口調が特徴だった。

 山中にあって、橘がもっとも頼りにした部下である。


 しかし橘はいま岩田曹長を苦々しく見ている。

 まるで僚友の遺品にたかる蠅ではないか。

 それでいいのか。人間の心というものはどうあるべきなのか。


 しかし岩田曹長への問いかけは無益に思えた。

 橘の心の中の岩田曹長が反論する。


「橘大尉、そうはおっしゃいますがね、うちのカカァとガキは焼け出されて真っ黒けっけのススだらけに違ぇねえんです。

 出征以来苦労をかけた親父としちゃ、石鹸でごしごし洗って綺麗にしてえじゃないですか。これが人間の心ってぇもんじゃねえですか。


 この石鹸にしても缶詰にしても、じゃあ米軍に返納しますか、靖国神社に奉納しますか。それだって無益じゃねえですか。

 同じ仲間に渡したいと、連中も思っているはずですよ、大尉殿。」

 

 岩田曹長にそう言われたら橘は何も言い返せない。

 橘の家も戦前よりは困窮しているだろうが、石鹸に困るほどではないと思われたからだ。


 仕切る岩田と一瞬目があった。


「大尉、石鹸は身体を洗うほかに、米にも砂糖にも化けるんですぜ。

 米国謹製だぁ、きっと家族をたらふく食わせられるに違ぇねえです。」

 そう言っているように思えた。


「大尉」

 と、岩田曹長がそっと近寄ってきた。

 ふいをつかれた橘は若干狼狽したが、後ろ暗い想像を振り払い毅然と返した。

「どうした。」

「これを」

 岩田曹長は石鹸を持ってきた。

「大尉の分ですぜ。」

「いや、私は良い。それは岩田曹長が持っていてくれ。」

「それはありがてぇです。しかしこれは持っていってください。」

 岩田曹長はもう一つ石鹸を出してきた。

「それは誰の分だ。」

「柿揚さんのですよ、大尉殿。」

 

 柿揚の石鹸?

 名前が書かれていたわけでもない、乱雑に海面に浮いていた石鹸に柿揚のものもなにもないが、岩田曹長は言うだろう。


「誰の物だってかまやしませんよ大尉。

 これは柿揚の物です、と堂々遺族に渡せばそれで喜ぶんですよ。

 それが功徳ってもんですよ。」


 そうか、柿揚、お前はお前個人ではなく、ついに俘虜、その他大勢の犠牲者の一人、という概念になってしまったのだなあ。

 あの爆発で骨はおろか髪の毛一本さえ残らなかった。


 かくなるうえは実際は誰の物かわからない石鹸を、せめて概念のひとかけらとしてお前の両親、婚約者に渡さなければならないのか。

 その役回りが俺に廻ってきたって事か。


「大尉、これも柿揚さんのでしょう。」

 岩田曹長は濡れたメモノートを寄越してきた。

 滲んでいるが、表題は「齋藤大尉陣中始末」と読める。


「船舶工兵が拾ってきた雑嚢の中に入っていたのを自分が運良く見つけましてね。中身の缶詰をくれてやって残りを頂戴してきたってわけです。」

「するとさっきの石鹸は」

「間違いなく柿揚さんの遺品でさぁ。

 誰の物かわかんねえ石鹸なんかとてもとてもご両親に渡せやしませんでしょう。柿揚の奴は一等兵の初年っぽだが、大尉の同期ときている。

 丁重にやらせてもらいますよ。」


 橘は自らの人を見る目のなさを恥じた。

 あるいは柿揚を失って心の平衡を崩した結果、岩田曹長の負の面を強調しすぎたのかもしれないが、戦場ではもっともっと人が死ぬ。

 そのたびに心の平衡を崩していたのでは指揮官は務まらない。


 岩田曹長の思いやりはしかし恣意的である。

 仮に柿揚が橘の同期でなければ丁重にしないわけだ。

 だが、人間の優しさが自らの有限な力の範囲に納まらざるを得ない以上、その力を橘とその同期である柿揚にむけてくれたことは素直に感謝すべきであった。

 

「岩田曹長、このメモノートの礼、というわけではないが、俺の石鹸を10個とも譲る。うちの隊の者が4名乗っていたから一人2個ずつの勘定だ。

 分けてくれ。」


「や、これはありがてぇこってす大尉。

 指揮官の部下への思いやり、人の心はこうありたいもんです。へっへへ。」


 人の心か。

 手元のメモノートを見る。

 柿揚の代理として「梓」なる女性を訪ね、柿揚のご両親に遺品を届け、婚約者の涙を見届けるのが俺の出来る人の心の実践か。

 山で死んだ部下達の遺族も訪ね歩かねばならない。


 随分損な役回りだ。しかしやることがハッキリわかっているのだから楽だともいえる。

 

 橘は甲板から日本の地形を眺める。

 山、森、平野、国破れて山河在り

 

 日本まであと1日

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