オタクの楽天地
収容所に移送され、「先客」たる俘虜達の横暴にも慣れた柿揚はしばらくしてから野間中佐の話を「よく知る」という下士官から聞いた。
野間中佐は米軍の反攻が始まった頃、派遣参謀としてアラフォー島に赴いたが、米軍は予想以上に早く、その数日後に上陸してきた。
島の部隊は奮戦敢闘するが、彼我の戦力は埋めようもなく、日本軍は島の奥にどんどん追い詰められる。
野間中佐はその島の戦闘の終盤で壕にこもった日本兵を説得して集団で投降したらしい。
最後の一兵まで斬り込むか、ゲリラ戦を続けるべきだと主張する部下、海軍陸戦隊の将校達から、下士官一兵卒に至るまでを説得し倒したというのであるから、これはこれで相当な傑物である。
「国賊だよ、奴ぁな・・・」
教えてくれた越谷伍長もそのアラフォー島の投降組だった。
軽蔑しているようであったが、いま生きているのは野間中佐のおかげと思うとやるせないのだろう、複雑な表情をしていた。
華北からの古強者である越谷伍長の軍歴は南洋のちっぽけな島で投降し捕虜となることで終わりを告げた(厳密には除隊までなのだが、事実上の終了である。)。
野間中佐は俘虜になってからはどうやったものなのか、日本人俘虜のために奔走し、米軍内でも独特の地位を築いて今に至る。
越谷伍長曰く、今我々が殺されずに済んでいるどころか、こういう賓客のごとき処遇を得ていることの半分は国際条約ともう半分は野間中佐のおかげなのだそうだ。
(もっとも「賓客の扱い」とは、飢えと病に苦しむ比島での露営を続けた彼らの感想であるから、米軍は別にそんなつもりはないのだろうが。)
先客たる俘虜達の野間中佐への態度は軽蔑か阿諛、もしくはそれらが渾然一体となった奇妙なものに感ぜられた。
野間中佐の評価は越谷伍長のものであるが、「知っている」という俘虜はだいたい同じようなことを話した。
彼らは柿揚よりも軍歴が長いのだが、社会の理から言ってそんなことがあるだろうか、と眉に唾をつけざるを得ない話を混ぜてくる。
しかし柿揚は思うのだ。
現在確かに命は米軍により保障されている。
三度の飯にもありつけるし、病気をすれば薬もくれる。
ニッパハウスのおかげで雨風もしのげる。
労働もカンギバルで過ごしていた頃に比べるとはなはだ軽易なものだ。
この境遇が野間中佐のおかげなのかどうかは知らないが、そんなことはどうでもいいと。
柿揚にとって重要なのは自分が妄想できるかどうかである。
それがここにはある。セーラー服の少女はいないが、よく考えたら日本にいたときだって別に四六時中周囲にいたわけではない。
柿揚はニッパを編んだり、配食を手伝ったり、収容所周囲の道路の補修に出かけたりと、米軍来襲までのカンギバルを彷彿とさせる生活を送った。
私物持ち込みも軍隊にいたときよりは決まりが緩く、米兵からもらった漫画や雑誌をもちこんで読んだりも出来た。
英語ができるということで柿揚は俘虜達の間でも独特の地位にあった。
「おーい、柿揚!パソネヨがお呼びだぞ!」
パソネヨとは米軍の人事軍曹のことで、personnel(人事)の発音がパソネヨと聞こえるため、俘虜はこう呼んだ。
二世米兵や先客の俘虜にも英語が出来る者がいたのだが、やはりたくさんいるわけではないので柿揚は時々こうやって米軍に通訳として呼ばれた。
俘虜の取り扱いは憲兵と軍隊の人事の所掌である。
パソネヨが呼ぶ場合はだいたい人物照合かなにかだ。
柿揚が「待合所」と呼ばれる収容所外側の施設に出頭すると果たして数人の「新客」がいた。
「よう、柿揚!やっと治ったよ。」
桑原上等兵がその中にいた。
マラリヤは完治したようで、傍目にも元気そうに見えた。
手続きが済み、柿揚は帰された。
桑原達はここで数日さらに取り調べを受け、引っかからなかったら(何がひっかかるのかはよく知らないが、たまに収容所に来ない俘虜もいた。)収容所にやってくる。
パソネヨから新しい雑誌をもらってホクホク顔で柿揚は収容所に戻る。
アメリカ本土では2ヶ月前に刊行された古いもののようだが柿揚にはもちろん関係ない。
雑誌に連載されている、ハイスクールに通う少女が奇計を用いて先輩の男を寝取る話が柿揚の心をとらえて放さない。
アメリカの正義を体現したような刑事が卑劣な犯罪者を追い詰める話が柿揚の心をとらえて放さない。
新天地!
他の俘虜達は恥辱や諦観で心中ご苦労なものだが、俺は違う。
よくよく考えたら戦地どころか、内地での仕事に追われる日々と比べてもここは住みやすい別天地だ。
楽天地!
足取りも軽やかに柿揚は収容所に向かった。




