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死体、あるいは実験体

 島野美佳は、彼女の人生の終わりに、その男の姿を見た。

 目の前の世界が歪み、上も下もわからない異常な状況。

 美佳自身もまるで宙に浮いているかのようで、どこにも力を入れられない。

 だが、その男だけはまるで地面があるかのごとくにそこに立っている。

 黒いマントのようなものに身を包んだ、つかみ所のない男。

 輪郭がぼやけていてハッキリと顔は見えないが、その雰囲気は少年にも思えるし、それでいてなぜか老人のようにも見える。

 あれは誰なのか。

 しかし、今の美佳にとってもっと大切なことは別だ。

 その横にあるボンネットから潰れた車。

 そこから放り出され、行き場をなくして漂う兄の姿。

 兄の身体はこの空間の中を流されて、少しずつ遠くへと流れていくばかりだ。

 なにか声をかけねば。

 手を伸ばして捕まえなければ。

 そう思いながらも、美佳自身、手を伸ばすどころか、指先さえまともに動かせない。

 声を出そうとしても、喉にも腹にも力が入らない。

 かすれた息だけが美佳の口から出て行く。

 それが今の美佳に出来る精一杯だ。

 ぼんやりとした意識と、滲んだ視界だけが今の美佳に残されている。

 なぜこうなったのだろうか。

 なにが起こったのだろうか。

 美佳の中を記憶が逆流する。

 つい今しがたまで、兄と二人でゲートを利用して旅行をしていたはずだ。


 ゲート。

 空間を歪曲させて接続し、あらゆる距離を短縮させる夢の技術。

 それが発表された時、美佳には、ただ単に凄いものだというくらいの認識しかなかったが、兄の興奮ぶりはそれはそれはすざましいものだった。

 いてもたってもいられず、ゲートを利用して旅行に行こうと言い出したのだ。

 両親が死んでから、兄は美佳のために骨身を削って働いてきた。

 そんな兄が、自分から旅行に行こうと言い出したのを聞いて、美佳も嬉しく思ったものだ。

 ゲートの利用にはそれなりの費用がかかるはずだったのだが、どうやら兄はゲートの管理会社であるポータル社の関連会社に務めているらしく、融通を利かせてもらったのだという。

 そして美佳は兄と二人で車に乗ってそのゲートを通り、ゲート移動の中間経由点の門津市という街から北海道へと向かっていた。

 それは、初めての家族旅行。

 まだ北海道にはたどり着いておらず、門津市の広く整備された道を走っていたところまでは思い出せる。

 美佳は兄の運転する車の助手席から窓の外を見ていた。

 ありふれた街並み、遠くに緑の山々がそびえるのが見える。

 美しくもあるが平凡で退屈な、いかにも地方都市といった風景だ。

『ようこそ!ゲートの街、門津市へ』

 真新しい歩道橋にかかった横断幕がそんな主張をしているが、その上で喋っている垢抜けない高校生らしき二人を見ると、やはり代わり映えしない平凡さしかない。

 それに対して、中央の都市部だけが対極的に華やかな発展を遂げている。

 この街にはポータル社が本社を置いていたはずだ。

 あの、中央にそびえ立つ巨大なビルがそうだろうか?

 ビルばかりが立ち並ぶような都会に住んでいた美佳には、中心地とその周囲の、あまりにも差のある光景がひどく不自然に見えたのは覚えている。

「せっかくだし、この街も少し見ていくか?」

 運転しながら兄がそう声をかけてきた。

「いいよ、別に。なにもないし。それよりも早く北海道に行こうよ」

 その会話の直後、車に突然の衝撃が走ったのを思い出す。

 なにかに衝突したかのようだったが、それまで、目の前にはなにもなかったはずだ。

 前方を確認すると、そこには一瞬黒い巨大な足のようなものが見えたが、そこで意識が途切れ、今の状況につながっている。


「……お兄ちゃん……」

 かすれた息の中に、ようやく、そんな意識を込めることができた。

 美佳自身の耳にも届くかどうかわからない、小さな小さな声。

 その声に反応したのか、兄の顔がわずかに動き、ほんの一瞬だけ目があった。

 生きている。

 この状況においてそれだけではなんの希望にもならない。

 それでも、美佳は兄が生きているというその事実に安堵した。

 しかし、それはさらに大きな絶望に塗り潰されることとなった。

 そんな兄に、黒い男は一歩一歩近付いて行く。

 そしてゆっくりと、その首と掴んで引き上げる。

 抵抗することもできず、兄の身体は軽々と持ちあげられる。

 その表情が絶望に染まり、もう一度、悲しそうに美佳へと視線を向けた。

 男がなにをしようとしているのかは、美佳にもすぐに見当はつく。

 なんとかしたい、なにかできないか。

 だが、声も出ない、身体も動かない。

 男は、兄をそのまま無造作に放り投げる。

 その瞬間、兄の身体は宙に浮いたかと思うと、そのまま雲散霧消した。

「えっ……」

 美佳はその光景の一部始終を目の当たりにしながら、なにが起こったのかまったくわからなかった。

 兄はどこへ消えたのか。

 目の前にはなにも残っていない。兄は一瞬でその存在が失われたのだ。

 そして男は、今度は美佳の元へと歩み寄ってくる。

 なにも無い空間を、一歩一歩、まるで彼にだけ見える地面があるかのように踏みしめながら、大股で近付いてくる。

 美佳の心に恐怖が生まれるが、それ以上に、今はただ悔しかった。

 力だ。

 力が必要だ。

 抵抗する力が。

 仇を取る力が。

 戦うための力が。

 奴を打倒す力が。

 必死に起き上がろうとする。

 この目の前の悪夢を振り払わねばならない。

 全身が重い。

 まるでどこかに縛り付けられているかのように、身体のすべてが意識に抵抗してくる。

 自分の身体なのに、指先もつま先も果てしなく遠くにあるように感じられる。

 美佳に出来るのは、ぼやけた視界と意識の中で、必死にそれらを奮い立たせることだけだ。

 動け。

 動け動け動け。

 動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け……。

 心の中でそう念じ、祈り、叫びながら、美佳は自分の身体が徐々に溶けているかのような感覚を覚えていた。

 動かない指先が、立ち上がれないつま先が、まるで、この歪な空間と一体化していっているかのようだ。

 そして美佳は気が付いた。

 動く。

 動かせる。

 なにかが自分と繋がっている。

 それがなにかわからないまま、美佳は、自分の意識の先にあるものを手繰り寄せた。

 なんだっていい。

 あいつを、この悪夢を打ち壊してくれれば。

 その瞬間、迫ってきていた男の顔から余裕の表情が消え、驚愕に塗り潰された。

 だが、それが一体なぜなのか、それを確認する前に、美佳の意識は完全に途切れてしまった――。


――――――――――――――――


「……ここは……?」

「良かった、意識があるぞ!」

 美佳が意識を取り戻した時、目の前にあったのは、顔全体を覆う、フルフェイスのヘルメットのような物を付けた人間の姿だった。

 背中に伝わる冷たくざらついた感覚と、自分の身体に感じる重さからから、自分が地面かどこかに横たわっているらしいことがわかる。

 薄暗い視界の中に映る景色から考えて、ここはどこかの壊れた建物の中であるらしい。

「大丈夫か? 意識は?」

 目の前の人物の声が聞こえる。

 その声に答えるべく立ち上がろうにも、その人物に手をのばそうにも、身体はいっこうに動かない。

 先ほどまでの縛り付けられているような感覚ではないが、あまりにも全身が疲労していて、身体全体が眠ってしまっているかのようだ。

 だから美佳は、ただ漠然と、目の前の光景を眺めていることしかできなかった。

 廃墟のような光景の中、美佳に話しかけてきたヘルメットの人物の背後には、他の数名の同じようなヘルメットを装着した集団がいるのがわかる。

 やはりここは現実の空間であるらしい。

 視界を見渡しても、もうどこにもあの黒い男はいない。

 浮かぶ壊れた車もない。

 そして残念であり、当然ながら、兄の姿も。

 あらためてそのことを認識して、美佳はまるで自分という存在が空っぽになってしまった気がした。

 全てをあの空間に置いてきてしまったかのような、虚無感だけが残っている。

「やはり相当衰弱しているな。担架を頼む。ひとまずポータル社で保護してもらおう」

 漠然とした意識の中、目の前のヘルメットが後ろの仲間にそんな指示を出している光景が目に入る。

 保護というのは自分のことだろうか。

 放っておいてくれ、私はここで死ぬのだ。

 美佳の中の感情がそんなことを浮かべるが、今の美佳にはそれを口に出す体力さえ残っていない。

 ただ呆然と、そのフルフェイスに覆われた顔を見つめるだけだ。

「大丈夫だ、もう心配はいらない。だが、詳しい話は後にしよう。とりあえず君は、今はゆっくりと休むべきだ」

 不意に、無感情なヘルメットの下から、そんな優しい声がした。

 くぐもった、性別もわからないような声ではあるが、それでも、美佳はその声の主の気遣いを感じ取ることができた。

 まるで、今の自分でも生きていていいのではないか。

 そんなふうに思わせてくれるような穏やかさに満ちている。

 それに安堵して、美佳はそのまま再び意識を落としていった。


『島野美佳、戸籍上の年齢は満十七歳。一年前のゲート事故に巻き込まれたあと行方不明になっていたが、先日、門津市旧市街地北部の廃ビルにて保護される。本人は大変衰弱していたが命に別状はなし。唯一の家族である兄とともに旅行の最中であったと思われるが、周囲にその他生存者は発見できず。引き続き調査を行う』

「いやー、こう写真で見てもまさに美少女よね。ポニーテールもよく似合っているし」

「……君の好みはどうでもいい。それよりも本題だ。事故から一年、その間いったい彼女はどこにいたのだ?」

「さあ? 多分、ゲートの途中の次元に引っかかっていたんじゃない。身体データの詳しい解析はまだだけど、今日まで生存していたことを考えると、彼女自身の肉体は事故から三日程度しか経過していない可能性が高いわね」

「ありえるのかね、そんなことが」

「ゲート理論の応用で考えると、可能性は充分考えられるわね。実際、現在運用しているポインターも、近い技術を使っているしね。それに、その件についてはもう一つ、島野美佳の情報に興味深い点があるわよ」

「というと」

「いくつかの分析結果を照らし合わせると、現在の島野美佳の肉体は、おそらく、ポインターのそれに近い状態になっている可能性が高いのよね。詳しい検査はこれからなんで、まだ推測の域を出ないけれど」

「ふむ、では彼女も【異時間制限】があるのか?」

「彼女の【異時間制限】チェックはゼロを示しているのよね。つまり、ポインターとしては完全な消失状態ということ。従来ならポインター、非ポインターに関わらず、その人物の持ち時間が表示されるはずなんだけどね……。もちろん、非ポインターの場合は時間が動かないんだけど」

「どういうことだ? 島野美佳は、既に死んでいるのか?」

「そうとも言えるし、ポインターの【異時間制限】が残っていない以上、それよりも酷いことになっているとも言えるかもしれないわね。貴方もご存じの通り、ポインターが迎えるのは、死ではなく消失だから」

「【赤い分解】か……、あれはひどいものだな」

「ええ、【赤い分解】がある以上、ポインターの死には、従来、肉体が残らない」

「でも、現在の彼女には確かに肉体も精神も存在していて、意思疎通も可能ってわけ。これは大変興味深い事例ね。ただ、何かしら肉体の損傷が起こった時には、【赤い分解】と同様の症状を示すから、同時に不安定でもあるわね」

「なるほど、それで、今後島野美佳はどういう扱いにするのかね」

「もうしばらくは様子見とだけれども、最終的には彼女の意思次第じゃない」

「そこまで彼女自身に裁量を与えるかね」

「もちろん監視はつけるけど。でも、ある程度自由に動いてもらったほうがデータも集めやすいのよね。いずれにしても、島野美佳はポインターと同様この街から出られない可能性が高いんで、その点だけは絶対厳守をさせるけれど」

「まあ、彼女がポインターと同質なら、そうなるか……」

「これに関してはさすがに実験することも無理だしね。一応、髪の毛や爪などによる肉体サンプルによるテストはしたけれど、結果はポインターの時と同じ。大掛かりな実験ではないので正確ではないけれどね……」

「ポインターと一緒だったんだろう? じゃあまあ無理だろうな」

「でしょうね。その点は彼女自身も自覚していることだし、島野美佳の自由は、あくまでこの門津市の中でのものに留まるというわけ。それならばポインターに対する監視や対処方法も流用できるわ」

「ふむ、なら大きな問題にはならない、か。しかし、彼女は貴重なサンプルだ。くれぐれも慎重に頼むぞ。それでは、引き続き研究を続けてくれたまえ」

「ええ、言われなくてももちろんそうさせてもらうわよ。あの娘可愛いから、研究のしがいもあるしね」


 島野美佳は、真っ白い部屋のベッドの上で、ぼんやりと、行方不明となっていた一年間になにがあったのかを聞いていた。

 それを語るのは、目の前のくたびれたアロハシャツの上にくたびれた白衣を羽織った女性と、後ろでメモを取る白衣の助手か研究員と思しき人物。

 彼女らが代わる代わる、美佳の状態や身の上に起こったことを尋ね、それと同時に今の美佳自身や世界がどうなっているのかを語っている。

 一年間の空白のこと。

(一年あれば、みんな私のことなんて忘れてしまっただろう)

 美佳の身体に起こった変調と、それによっておそらく門津市から出られないこと。

(元々、もう帰る場所なんてないんだ。ただまあ、兄さんが見たがっていた北海道にだけは、行きたかったかな)

 そして、門津市に現れる【フライ】という怪物のこと。

(怪物? じゃあ、私たちの前に現れたあの人間は?)

 それらがどこまで真実なのかはわからなかったし、目の前の女性がどこまで自分と世界の秘密を語ったのかもわからなかったが、今の美佳にとって、それらはさして興味のないことであった。

 もう全ては終わってしまったことだ。

 あの日、兄は死に、美佳自身もまた死んだはずだったのである。

 いまさら生きていたとして、以前と同じように生きられるはずもない。

 だからこそ、こうやって自分の置かれた境遇を聞かされ、今後の選択肢を示された時、美佳は、なんの迷いもなく門津市で生きていくことを受け入れた。

 幾つかの、美佳の身体の異常についての実験にも、進んで協力した。

 切られた爪や髪が赤い塵となって分解されていったことや、街の外に自分の髪が入った途端に消失したことにはさすがに驚いたが、それでも、今生きていることのほうがよっぽど異常だったし、生きようとしていることはもっと不思議だった。

 今の美佳が考えていたことは、兄がなぜあんなことになったのか、その謎を解き明かしたいということだけだったし、なにより兄がいなくなってしまった以上、もはや美佳には帰る場所がどこにもなかったのである。

 その中で、美佳がこの街で生きていくために選んだのは、『ポインター』という最前線で戦い続ける役割であった。

 そこが一番兄の仇である『あの男』に近いのではないかと考えたからだった。

 もはや美佳の生きる目的は、あの男にもう一度会い、兄の仇を取ることだけであった。

 ポインターという仕事の危険さや【フライ】という存在の恐ろしさは充分に聞かされたが、それでも、美佳の心が変わることはない。

 それは強い決意であるとともに、美佳自身、既に自分に何も残されていないことを自覚していたからでもあった。

 ならば、この街で生きる意味を見つけるしか無い。

 空虚を受け入れられるほど、島野美佳はまだ空虚ではなかった。

 死してなお、美佳の中には兄が残っているのだ。


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