一年後、あるいは一年前
「ああ、僕らは本当に未来に生きているんだなあ……。ほら見てみなよ神谷君」
「なにがだよ」
「次々に車がゲートに消えていくよ。あれらがみんな、あっという間に僕らの知らない街へと辿り着くんだろう? すごい技術だよ、ゲートは」
ゲートと呼ばれる青白い光の幕の中に消えていく乗用車やトラックの群れを見ながら、俺の横で、藤波浩二はそんな暢気な声を上げた。
藤波浩二、通称フジコー。
俺の一番の親友にして、誰よりもこの門津市という街を愛している男だ。
まだ高校一年生の十五歳と身でありながら、この男は、将来の夢は市長だと公言してやまない。
しかもそれにふさわしく、眉目秀麗頭脳明晰文武両道でしかも人当たりもいいといういわゆる完璧超人で、そのうえそれを自信にしつつも驕ることのない快男児なのである。
俺にはこいつが、市長の器が服を着て歩いているようにさえ思えるほどだ。
夏休みを直前に控えたある日曜日、俺とそんな未来の市長は、真新しい巨大な歩道橋の上から、街を縦断する巨大な道と、その端にある光の幕の向こうへ消えてゆく車を眺めていた。
この光の幕こそが、次元を湾曲させ、二つの離れた場所を瞬時に移動することを可能にしたポータル社のゲートという技術だ。
難しい話はわからないが、フジコーの説明によれば、現在、日本各主要都市にあるゲートは、この街を経由してそれぞれが結ばれている状態なのだという。
つまり、ゲート技術によって、日本列島内での移動時間は考えられぬほど圧縮されたというのだ。
もちろん、その恩恵により、まず物流が大きな変革を遂げた。
これまで丸一日以上かかっていたものが一時間ちょっとになるのだから、変わらないほうがおかしい。
もちろんゲートの利用は無料ではないが、それでもこれまでの輸送コストに比べれば格安であるらしい。
時間は特に高値だ。
そしてそれらを支えるのが、ゲートの中間ターミナル都市に選ばれたこの門津市なのである。
なぜそんな中間ターミナルがあるのかといえば、ゲートによる移動の距離にも限界が有るためだ。
なんでも、距離が長くなればなるほど、ゲート同士を安定して接続することが難しくなり、安全性が確保できないらしい。
また、ゲートと周辺施設を整えるには、かなりの規模の土地も必要とされた。
ゲートの基本原理は特殊な液体を流したパイプで街を囲み、それによって街自体を異次元と同化させるというのものだという。
そんな大掛かりな工事が許されるのは、土地の余っている田舎だけだろう。
そういった事情もあって、日本列島のほぼ中央に位置し、土地を余らせた地方都市であった門津市は、ターミナル都市にするのに最適だったというわけである。
もちろんポータル社がターミナル都市になるべき街を探しているという話が出た時は、様々な都市が誘致に躍起になったものだ。
その結果は、ポータル社による鶴の一声で、俺たちの故郷が勝利を収るというものだった。
それにより門津市は、平凡な地方都市から、ゲートからゲートへと行き交う車と、そのゲートを管理するポータル社の各種関連企業とで溢れる大規模ターミナル都市へと変貌を遂げたのだ。
まさに生まれ変わったといってもいい。
「しかし、なってみるとあまりいい未来でもないもんだな。あんなポータル社だったかなんだかわからない企業に街がいいように作り変えられてさ」
俺の視線の先には、ポータル社の関連企業が立ち並ぶ門津新市街地、通称ポータル街がある。
それは俺が子供の頃どころか、つい一年前にさえ存在しなかったものだ。
たった一年で、あっという間に街は変容させられたのである。
その区画は立入禁止の場所も多く、街はいつの間にか、俺たちの知らない場所に埋め尽くされつつある。
「いやいや神谷君、それはちょっと一方的な見方じゃないかな」
そんな俺の言葉に、フジコーは軽く首を振りながら反論を挟み込んできた。
「ポータル社がこの街に多くの物のもたらしたのは確かな事実だよ。ほら見てごらん、あそこを走る赤い車。あれは中澤先生のものじゃないかな。きっと東京へ出張から帰ってきただろう。そんな移動も、あのゲートがあればあっという間というわけさ」
フジコーが指差す先に走っているのは、見覚えのある白い軽自動車だ。
今は道が少々渋滞して速度が落ちているからわかりやすい。
「そういや、英語は今日の授業は自習だったな……」
中澤栄子という英語教師は、今のところ、俺が学校で一番信頼している教師である。
「神谷君は中澤先生が好きだからね」
「それは今は関係ないだろ。まあ、なんにしても、確かにゲートはこういう移動には便利ではあるということだな……」
誤魔化すように話を変えると、フジコーも少し意味深に笑うがそれ以上は追求してこない。
「そういうことさ。ただ使われるだけじゃなく、こちらからも上手く利用して、お互いに利益を得るような形にしていけばいいだけのことだよ。それが公共と民間のあり方じゃないかな」
「いやはや、いつものことながら、お前は本当に優等生発言が次々出てくるな」
「まあね、そもそも企業と公共の付き合い方というのは……」
そしてフジコーのいつもの演説が始まった。
こいつは面白いし優秀だし気の良い奴なのだが、この演説癖はちょっと困りものだ。
内容もまあまあ面白いとはいえ、毎度毎度聞いていると流石に飽きる。
まあそれも、いつものことだ。今日はなにを語るのか。
そんなことを思った瞬間だった。
突如、激しい衝突音が俺たちの耳へと襲いかかる。
それとともに、ゲートから出て街へと向かっていた数台の乗用車が、強い衝撃を受けて弾き飛ばされる光景が目に入ってきた。
「え?」
「は?」
俺も、フジコーも、その時はなにが起きたのかわからず、ただそれだけしか言葉が出なかった。
目の前で起こった光景が、あまりにも非現実的だったのだ。
自分たちの前方、道路の先にあるゲートの青白い光の幕の中から、巨大な『それ』は出現したのである。
黒いアスファルトの帯の中央に、ぬめりのある茶色の巨大な影が動く。
一瞬の静寂の後、そいつが咆哮をあげ、現実は書き換えられた。
テレビの特撮でしか見たことのないような。
家さえも軽々踏みつぶせそうな。
人間など軽く丸呑みにしてしまえそうな。
あまりにも巨大な怪物が、なんの前触れもなくそこにいた。
だが、異常なのはその大きさだけではない。
巨大なトカゲの胴体と、そこに、まるで縫い合わせたかのように無理やり乗せられたカラスの頭部。
一目見ただけで、それが生物として異常な存在であるのが明白だ。
車を弾き飛ばしたのは、その怪物の、あまりにも巨大な尻尾である。
いきなり現れた尻尾がそのまま、中澤先生の車のあたりへと襲いかかったのだ。
鉄の塊であるはずの乗用車がいとも簡単に弾き飛ばされる。
中澤先生の車の前にいた青い車が何度か地面を跳ねてゲートの中へと消えていく。
そして中澤先生の白い車も、歩道でひっくり返っている。
天井の潰れ具合からして、おそらくは……。
その光景は、自分たちの現実が絶望的な世界に迷い込んでしまったを思い知らせるには充分だった。
「おい……、おい、なんだよあれ! ポータル社の余計なイベントかなにかかよ、おい!?」
そう叫ぶ俺にだって、これがアトラクションなどではないことくらい理解できている。
だが、現実として受け入れるには、あまりにも非現実的すぎる。
しかし、どれだけ否定しても怪物は消えることなど無い。
これは現実なのだ。
巨大な身体を持て余し、怪物はゆっくりと、街路樹や車を踏み潰しながら一歩ずつ前へと進み始める。
気まぐれに進路上の人々を蹂躙し、その前足や尻尾で蹴散らしていく。
怪物の周囲には、なにが起こったのかわからないまま立ち尽くす人々がいたが、怪物はそんな障害物など気に留めることもない。
ただ前に進むのみである。
尻尾に当たっただけで、人の体が形を失い、肉塊に変わるのを目の当たりにする。
そこにあるのは悲鳴、絶叫、怒号、そして破砕音だ。
それらを打ち消すかのように、カラスのものではない、甲高く異様な鳴き声があがった。
声の主である怪物はさらに街を進む。
怪物が歩いた跡には、瓦礫の山しか残っていない。
中澤先生がどうなったのか、俺はそれを想像の外に置いた。
もうそのことを考えている余裕が残っていなかったというべきか。
「なんだよ、なんなんだよ、アレは……」
「わからない……、僕たちはどうすればいい? なにができるんだ!?」
これほど悩み、戸惑い、思いつめたフジコーを見たのは初めてだった。
だがそれに対して、俺も思いつくままの言葉を口にすることしかできない。
「どうにもできないだろ、あんなの……。ひとまず、ここからどこか遠くへ逃げるしかない……」
「逃げる……。ああ、そうか、逃げないと駄目だね……。逃げるのか……どこへ……」
「どこへだろうか……」
あの怪物からどこへ逃げるのか。
俺の脳裏に浮かんだのは、どこでもいいからただ遠くへということだけだ。
もう一度、夢か、なにかの間違いであってくれと祈りながら怪物に視線を向ける。
だが怪物はそこにいる。
まだいくらか距離はあるとはいえ、その脅威は着実に、世界を壊しつつあった。
「とはいえ、逃げると言ってもこの状況ではな……」
歩道橋の下はもはや車線も関係なくなり、何台もの車が少しでも怪物から遠ざかろうと逆走などして混乱をきたしていたし、歩道の方も、この異常な事態を知った近隣の住人や動かなくなった車から降りた人々で溢れ、人の群れが波打っている。
誰も他人のことなど考えている余裕もないし、こんな状況で歩道橋に登ろうなどと考える者もいない。
まるで歩道橋の上に取り残された自分たちの周囲だけが、別世界であるかのように感じられる。
今の俺たちにできることは、怒号と悲鳴、車のクラクションと緊急車両のサイレン、なにかがぶつかり壊れる音が飛び交っている惨状を見下ろすばかりである。
少なくとも、下の歩道がもう少し落ち着くまでは、無理に降りても押し潰されるだけでしかないだろう。
「それもそうだね……」
諦めたかのようにフジコーが重いため息をつく。
俺も、フジコーも、もはやまともな思考ができているとは言いがたかったが、それでも、あの怪物が恐ろしいということは嫌でもわかる。
人々は必死に、なんとかして怪物から離れようと逃げ惑い、まだ開いている道へと殺到する。
これほどの人が街にあふれたのを、俺は見たことがなかった。
しかしその人々も、怪物が街を進む度に後方から潰され、弾かれ、さらには崩れた建物の下敷きとなり、それを見てさらに前方のパニックは加速する。
だが、それらも怪物は全く気にすることもなく、ただただ進路にあったあらゆるものが破壊していく。
「神谷君、僕たち、ここで死ぬのかな……」
そんな風にして街を闊歩する怪物を目の当たりにして、フジコーは震えながらそうつぶやいた。
今はまだこの歩道橋は怪物の進路上ではなく、距離もまだ離れてはいたが、あの様子では遠からぬうちにここも含めて街全部が破壊され尽くすだろう。
歩道橋の上から見る限り、怪物の周囲は既に瓦礫の山へと変わっている。
もう、中澤先生の乗っていた車もどこにあるのかさえわからない。
たとえ今から逃げたとしても、あの怪物を止める手段がない以上、もはや逃げ場さえ思いつかない。
「……死にたくないな」
だが、そんな言葉を小さく口にすることで、俺の中でなにかのスイッチが入った。
「……逃げよう、今からでも!」
俺はありったけの力を込めてそう言った。
「どこへ」
「せめて、行けるところまで!」
自暴自棄ともいえる俺のその言葉に、フジコーは一瞬唖然とした表情浮かべたが、なにか思うところがあったのか、そのまま笑い出した。
「ハハ、ハハハハハッ、逃げるか、そうか、それはいいね。でも、それならばもう少しいい考えがあるよ」
ひとしきり笑い、冷静さを取り戻したのか、フジコーの目に知性の光が戻る。
「こっちだ」
フジコーはそう言いながら俺の手を引いて歩道へと降りると、まばらになりつつあった人の波から外れ、怪物のいる方向へと向かって走り出した。
「で、どこに行くんだよ」
尋ねるが、俺はフジコーの行動に疑いは持っていない。
それでも確認はしておきたい。
それが俺のフジコーに対する礼儀だ。
「生き残るなら、最適の場所があるんだ」
フジコーも、いつものようにもったいぶった答えを返してきた。
鈍重に見えていた怪物の動きも、あらためて地面から見上げるようにして見ると、それが間違いであることを実感する。
実際、動作そのものは決して俊敏というわけではない。
だが、その一歩の歩幅が、あまりにも人間とは規格外なのだ。
ほんの少しこちらのいる方向へと踏み出しただけで、物凄く接近したような錯覚を受ける。
俺が必死に走って距離を引き離そうとも、奴がたった一歩前に出るだけで詰められてしまうだろう。
しかも怪物が踏み出す度に、地響きが起こり、破壊音が聞こえ、それらも近くなる一方なのだ。
怪物の音が、壊れた瓦礫の欠片が混ざった風が、重圧となってのしかかる。
埃の向こうに影が見えるが、あまりの巨大さに距離感がわからない。
奴の次の一歩でもう踏み潰されてしまうのではないか。
まだ距離があるにもかかわらず、そんな風にさえ思えてしまう。
それでも、フジコーは怪物に向かって走って行く。
俺もそれに従って走る。
もはや人も少なくなり、怪物の破壊した区画が自分の目で確認できるほどだ。
怪物がさらに進路を変え、その顔が俺たちに向かって正面を向く。
遠くにあるはずの無機質なカラスの眼が、俺を見た気がした。
もうダメだ。
そう思った時、少し前を走っていたフジコーが急に手を引いて脇へと進路を変えた。
「こっちへ!」
「なにを?」
わけがわからないまま引っ張られ、転がり込むようにして、俺はフジコーとともにそこにあったビルの地下駐車場へと滑り込んだ。
足がもつれ、スロープを文字通り転がっていく。
そしてそれがすべて落ち着いた時、俺は、真っ暗な駐車場に大の字になって倒れていた。
「なんとか間に合ってよかった……」
「痛てて……、ここは?」
「見ての通り、ここは地下駐車場だよ。上はポータル社の関連企業のビルさ」
座り込んだまま息を整えながら、フジコーが静かにそう言った。
フジコーの言葉を聞いて、俺もゆっくりと身体を起こす。
全身が痛いが、それはまだ俺が生きているということでもある。
どうやら痛みも打ち身だけで、骨折など深刻な怪我はなさそうだ。
「ひとまずは、助かったのか……?」
漠然と俺はそれを確認する。
とりあえず走り逃げる必要がなくなったことは、俺の脳に少しずつ余裕を取り戻すきっかけとなった。
外の怪物が消えたわけではないので、実際のところ問題はなに一つ解決していないのだが、それでも、俺は今自分が生きていることを安堵したのである。
あの怪物の姿を見ずにすんでいるのも大きいかもしれない。
電気も止まった暗い闇の中、俺はゆっくりと周囲を見回し確認する。
そう広くはない駐車場に数台の車が停まっているが、人の気配はない。
これらの持ち主はそのまま自らの足で走って逃げたのだろうか。
「でも、なんでわざわざこんなところへ?ここも怪物に潰されるんじゃないか?」
「まあ、その可能性はあるね」
そう言いながらも、フジコーの言葉は落ち着いている。
「ただ、新しい建物だし、なにしろここは天下のポータル社のビルだからね」
「そうなのか!?」
「ポータル社は新市街地だけじゃなく、外側にもいくつかのオフィスを持っていたんだよ。ここもその一つというわけさ」
そう言って、フジコーは意味深に笑った。
顔は見えないが、こいつのそういう態度は口調だけで簡単に想像できる。
「ポータル社は万が一のゲート事故の際のために、市内各所にオフィスと地下シェルターを用意しているんだよ。流石に今からシェルターには入れてもらえないだろうけど、その近くにいれば、少なくとも耐震的には安全は確保されていると思うよ。シェルターごと埋もれてしまっては意味が無いからね。おそらく、ここが脱出経路になっているはずさ。だから車もそのままだろう」
「……お前、なんでそんなこと知ってるんだよ」
スラスラとそう語るフジコーに、俺もさすがに驚きを隠せなかった。
言われてみれば持っていてもおかしくないとは思うのだが、ポータル社が地下シェルターを持っているなど聞いたこともない。
「以前見学を申し込んだ際に教えてもらったんだよ。まあ、シェルターの存在についてだけで、他は僕の推測だけれども。ポータル社はその辺りの情報は隠してはいないよ。積極的に発信するつもりもないみたいだけど」
「そうなのか……」
「本当に重要な情報だって大抵は公開されているものだよ。たんに外側から見えにくいだけでね。プロのスパイも、情報の九割は公開情報の組み合わせだって言うしね」
そう聞くと、フジコーの語る根拠はある程度信用できる気もした。
そういった情報を当たり前のように集めてあるあたり、やはりこの友人は只者ではないのだ。
そうしている間に、地下室全体が揺れにみまわれる。
怪物がすぐそこまで迫っているのが、その衝撃だけでわかる。
おそらく、あの怪物はすぐ上にいる。
だが、その入口はあの怪物にとってはあまりにも小さいはずだ。
目的や真意はわからないが、なにも俺たちだけを集中的にを狙っているわけでもないだろう。
さらにもう一度衝撃が起こり、上のほうで、なにかが崩れる音がした。
入り口の光が、心なしか小さくなった気もする。
その後も、何度も音と衝撃が上で響き、その度に、俺とフジコーは暗闇の中でただ全てが終わるのを待つことしかできなかった。
「……次に外に出るとき、街はどの程度残っているだろうね」
遠ざかった破壊音を聞きながら、フジコーがぼんやりと、独り言のようにそう口にした。
「壊れた街、か……」
その言葉をあらためて口にして、俺は、自分の置かれた状況を思い知る。
世界は、日常は崩壊したのだ。
これが、俺を待っていた未来だったのか。
考えると深い絶望が込み上げてくるのを感じ、俺は、そのままただ黙って時間が過ぎるのを待っていた。
なにもかも、考えるのが嫌になっていた。
フジコーも同じ気持ちなのか、あの独り言の後はなにひとこと発することもなく闇の中に座っている。
そんな、遠くに破壊音が聞こえるだけの闇と沈黙の空間の中で、疲れと絶望からか俺はいつの間にか気を失うように眠っていた。
結局俺が目を覚ましたのは、翌日の昼頃だった。
フジコーの言っていた通り、ポータル社はこの地下にシェルターを持っており、外の様子を見に来た社員らが地下駐車場で眠る俺たちを発見したのだ。
そのことを聞いてか、さらに数人のポータル社の社員たちがシェルターから出てきて俺たちの様子をうかがっている。
そしてその中に、ひときわ目立つ、くたびれたアロハシャツの上に同じくくたびれた白衣を羽織った女性の姿があった。
整った顔立ちで、パッと見は若く見えるのだが、顔全体を覆うどこかくたびれた雰囲気が年齢を不詳にしている。
ひとことで表すならば、クールビューティーが溶け落ちて生ぬるくなったといったところだ。
その女性は、俺たちを見るなり意味深に笑い、俺の肩を叩きながらゆっくりと口を開いた。
「いやはや、ここに逃げこむような子がいるとはね。見込みあるよ、君たち」
そのふざけた態度に、俺は疲れ切ったまま不満気な視線を向けたのだが、そんな俺とは対照的に、フジコーの方は唖然とした表情でその女性を見た後、口を開けたまま言葉を絞り出しそうとしていた。
「あ、あなたは……」
「へえ、私の事も知っているとは。ますます見込みがあるじゃない」
そいつは今度はフジコーへと笑いかける。
笑いかけられたフジコーの方は、ガチガチに緊張しながらなんとか言葉を続けるのが精一杯だ。
「も、もちろんです。純粒子展開による亜空間接続理論の発見によって、ポータル技術に多大な貢献をした、若干二十八歳の天才女性科学者、千谷静博士のことは存じ上げております!」
千谷静。
そう名前を出されても、俺にはまったくピンとこない。
しかしまあ、あのフジコーがここまで驚いているのだから、凄い人物なのだろう。
とてもそうは見えないが。
もちろん、その名前以外の単語はもはや日本語であるかどうかもわからない。
「女性の年齢をホイホイ軽率に口にしちゃうのはともかく、見知らぬ少年にお世辞を言われるのもなかなか悪くないものね。気に入ったわ。せっかくの生き残りだし、私の権限で君たちもシェルターに入れてあげる。外に出られるようになるには、まだ少し時間もかかりそうだし」
千谷静のその言葉を聞いて、俺とフジコーは複雑な表情で顔を見合わせる。
外は、俺たちの街は一体どうなっているのか。
「やっぱり、外は……」
「うーん、まあ、多分もうダメね。ほらあの怪物、まあ私たちは【フライ】と名付けたんだけど、アレが派手にやっちゃったからねえ。今のところはポータル社の技術でなんとか抑えこんでいるみたいだけど、まだまだ安全とはとても言えない感じよ。ゲートにもちょっと問題が生じちゃったしね」
俺たちの深刻さとはまったく正反対に、千谷はいかにも他人事で小さく首をすくめてみせるだけだった。
「だからまあ、君たちも街のことは諦めて、しばらくここにいなさいな。ここなら外がどうなろうと概ね安全だしね」
「あんた、なにを言っているのかわかってるのか!」
そう告げる千谷の笑顔に、俺の精神は限界を突破した。
叫ぶと同時に俺は千谷へと殴りかかっていたが、その拳は千谷へと届くことはなく、俺は一瞬で周囲にいたポータル社の社員によって取り押さえられる。
屈強な男たちによって拘束され、身動きも取れず、それでも俺は、必死に抵抗の意志を示すべく千谷を睨み続ける。
この時ほど、視線だけで人を殴れればいいのにと思ったことはなかった。
「……殴らせてもよかったのに。そうするだけの理由は、その子にはあるよ」
一方の千谷は、そんな俺の視線を見ながら、静かな笑みをたたえてそう言った。
その妖艶な笑みは余裕と同時にどこか慈しみも感じられて、それもまた俺を苛立たせたが、もはや俺にできることはなにもない。
「まあ、なんにしてもその子たちは私の客だからね。丁重に扱ってあげなさいよ。それじゃ、私はひとまずシェルターへ戻るわね。なにかあったら研究室の方へ連絡して」
笑顔のまま周囲の部下たちにそう告げると、千谷は返事も聞かずに踵を返しシェルターへと戻っていく。
俺の方も、千谷の言葉に従う忠実なポータル社の社員によって、フジコーと共に移動を促され、周囲をその社員たちに囲まれたままそれに続く。
社員たちの表情は複雑なものであったが、それでも、俺たちをどうこうするという様子はなく、それぞれの感情はどうあれ、ひとまずの俺たちの安全は確保されたのである。
その後、俺とフジコーは半日近くかけてひと通りの検査を受け、その後、シェルターの二人用の空き部屋を一室与えられることとなった。
二段式のベッドと、その横に置かれた小さなテーブルと椅子だけでほぼ部屋が埋まっているような、本当に最低限の広さしかなかったが、一応トイレとシャワーもあり、生き続けるには充分であった。
廊下で確認した際、こういった部屋は十部屋程度見受けられ、おそらくその中の幾つかは、この施設に藍菜することになったポータル社の社員が利用しているようである。
つまり俺たちは、少なくともここにいる一般社員と同程度の待遇を受けているということなのだろう。
あの千谷の一声の影響力を思い知る。
そうして部屋に落ち着くと、フジコーはベッドに腰掛け、神妙な顔で言葉を切り出してきた。
「僕たち、本当に生きているんだね……」
「そうらしいな」
狭い部屋に固い椅子。
そして実質軟禁状態のこの状況。
これまでの日常からすれば、とてもじゃないが自由とはいえない。
それは確かに感じることだ。
だが、生きていることには変わりはない。
「僕たち、これからどうなるんだろうか」
静かに、フジコーはそんなつぶやきを漏らした。
「わからないな。ポータル社と、あの千谷とかいう奴がなにを考えているのかまったくわからないからな」
「……生殺与奪の権は、完全にあちらに握られているからね。生きているというよりは、生かされているというのが正解かもしれない」
フジコーは深刻な表情のままなにかを考えようとしていたが、俺はそこにひとこと割り込んだ。
「それでも、ここに怪物はいない」
それは、俺の本心の一片である。
フジコーが無駄に悩むときは、俺が道を作るのだ。
「この先どうなるのかは俺にもまったくわからないが、俺たちは今生きている。それが今、最も大切なこと、だと思う」
「それもそうだね、それは、とても重要だ……」
それを聞くとフジコーは小さく苦笑し、そのままベッドへと倒れこんで息を吐く。
俺も椅子に座ったまま、ぼんやりとあの時から今までの出来事を振り返ろうとする。
怪物、逃避行、地下、そして、千谷。
明らかにそれ以前とは世界が変わってしまっている。
どこか少しでも間違えていたら、俺もフジコーも、いまこうして生きていることは不可能だっただろう。
それを考えた時、潰れた、中澤先生の車を思い出す。
あまりにも現実感のない光景。
だが、もし外に出ても、もう中澤先生はいないのだろう。
どうなったか確認されることもなく、行方不明者のリストに名前が記されるだけだ。
少しでも行動がズレていれば、あれは俺たちの姿だったかもしれない。
しかしもはや危険は壁の向こうに消え、俺の身体は今、安全な椅子の上にあるのだ。
それは先ほど、自分で口にしたことでもある。
ここに怪物はいない。
そのことを心で認識して、俺は、知らず知らずのうちに涙を流していた。
俺は、ようやく自分が生きていることを実感したのだ。
その後、俺たちはこの狭い部屋から出ることもできず、実質的な軟禁状態が続いていた。
だがそれでも一応の身の安全が保証され、保存食のようなものとはいえこの状況下でも三食を食べられるのだ。これほどありがたいこともない。
もちろん、機密情報などもあるだろうから、部屋の外の、他の部屋に通じる廊下には、交代制で見張りが立てられている。
あくまで俺たちは部外者だ。
地下なので当然窓などなく、携帯電話も通じず、インターネットも繋がらない。
さらにあの地下駐車場以降、時計の示す時間でしか昼も夜も分からなくなり、もはや自分たちがどの程度の時間をここで過ごしたのかも曖昧になっている。
時計に従えば、このシェルターに入ってからそろそろ丸二日が経過したことになる。
その間も、俺たちにはなにも起こっていない。
ここはあの扉以外、世界のどこにも繋がっていないのだ。
もっとも、それをどうにかしようとも思わず、その力がないことも自覚させられ、この狭い部屋だけが俺たちの全てであった。
そんな中やってきた外側との接触の機会は、あの怪物についての情報を求める千谷静の訪問だった。
「暇かしら、若人たち」
相変わらずのアロハシャツの上に白衣を羽織るスタイルで、気怠げな表情が美人を塗り潰している。
「暇に決まっているだろ、もう丸三日だぞ……」
そう言い返しても、この女研究者はただ笑っているだけだ。
「暇なのね、それを聞いて安心したわ。じゃあ、ちょっと話でもしましょうか。こんな狭い部屋じゃなくて、広い会議室へ案内するわよ」
こちらの言い分を都合よく聞き流して、千谷は当然の顔をして俺たちを部屋から引っ張り出す。
しかし、このなにもない生活の中では、この傲慢な研究者さえも貴重な刺激なのである。
断るという選択肢はない
人工的な光に満ちた、狭い、十人程度しか入れないような会議室も、今の俺には物珍しく見える。
この女研究者はとにかく、俺たちから怪物のことを聞きたがり、ポータル社が来る前の街のことを聞きたがり、さらには、俺たち自身のことについても聞こうと質問をぶつけてきた。
「で、なんで俺たちのことまで知りたがっている?」
「もちろん、君たちに興味があるからよ」
冗談めかして笑うが、その裏側にあるであろう意図は読み切れない。
そこにあるのは個人的な感情だけではあるまい。
さらに外やシェルターについてのいくつかの雑談の後、話題はいよいよ確信へと迫っていく。
「あの怪物は、いったい何物なのですか?」
そしてフジコーが、ゆっくりとその質問を口にした。
それは俺の心にも刺さり続けている事柄だったが、その真実を知ればもはや日常が帰ってこない気がして、まだそれを質問できるほどの強い意思を持てなかったのだ。
もはやどう足掻いても、日常が戻ってくることなどないことを自覚していたにも関わらず、だ。
もちろんそんな俺の意思を組むことなく、千谷はゆっくりとあの怪物について語り始める。
「私たちはあれを【フライ】と呼んでるわ」
「フライ?」
「フライ……」
その奇妙な響きに、俺もフジコーもただその名を反復する。
「そ、フライ。私も観たことはないんだけど、大昔に物質転送装置の事故で人間とハエが融合してしまうって映画があったらしいのよ。そのタイトルが『ザ・フライ』というわけ」
俺はその映画を知らない。
フジコーの表情を盗み見るが、どうやらこいつも知らないらしい。
「で、それと似たようなことが起こってしまったのではないか、とポータル社の考えてるのね。つまり、あの怪物はゲートの向こう側に紛れ込んでしまった生物の成れの果てなのでは、と。ま、本当のところはどうなのかまだわからないけどね。で、名前もそこからとって安直に【フライ】というわけ。まったく、上層部の考える事はわからないわ」
千谷は特に隠すことなく冗談めかしてあの怪物について語ったが、その告げられた内容はどこまでも不気味で、それが返って真実のようにも聞こえた。
「まさか……、あれは人間なのか?」
俺はが思わずそう尋ね返すと、千谷は意味深なため息を付いた後、呆れたように小さく首を振った。
「そうではない、ということにはなっているわ。ポータル技術で、今まで人間の事故は確認されていないしね。もっとも、ゲートを悪用しようという人間は後を絶たないから、ね……」
ゲートへの侵入を試みる不法侵入者の話題は、以前から門津市でもしばしば聞かれたものであった。
俺は直接目撃したことはなかったが、中学校でも高校でも、そういった不審者を見たという話題は幾度か流れたものである。
噂の出処までは確かめていないので、それが真実だったのか都市伝説なのかは今となってはわからないが、少なくとも、いつそういう人物が現れてもおかしくないという認識は確かに存在したのである。
「むしろあの怪物については、こっちが君たちの意見も聞いておきたいのよね。君たち、自分で思っているよりも重要な存在なのよ。なにせ、あの怪物を出現時から目撃して生き残った人間は本当に少ないからね」
千谷の態度は相変わらず他人事めいて平然としたものだったが、その言葉を聞いた俺は一気に肝が冷えるような思いだった。
目撃者が少ない?
あれだけ溢れていた人々は、ほとんど死んでしまったのだろうか。
かもしれない。
怪物を思い出すと、そこにあるのは圧倒的な暴力と圧力の塊そのものの記憶だ。
そこに誰かの生存など想像もできない。
それだけに、俺にはどうしても、千谷に聞いておきたいことがあった。
「その前に、ひとつだけハッキリさせておきたいことがあるんだが」
「なにかしら」
意を決し、俺は息を飲み込んで、一息でその質問を口にした。
「……あのフライとかいう怪物は、お前らが仕組んだものなのか?」
その質問を聞いて、千谷の表情が一瞬真剣なものとなった。
「まさか! と言いたいところだけど、残念ながら完全な否定はできないわね」
千谷の口調から軽さが消える。
「簡単にいえば、想定の範囲外といったところね。ポータル社はそういった存在がある可能性は把握していたけれど、その時期についての見通しは少々甘かったわけ」
「把握していたのか!」
だが、激昂し掴みかかろうとする俺の態度にも、千谷は冷静そのものだった。
「あくまで、可能性としてよ。対策の研究も進められてはいたし、実際、今現在、外ではそれらの技術を使ってあの怪物を抑えこもうとしているはずよ。ただ、もう出てきてしまったのか、いうのが本音ね」
語り続ける千谷の口調は、自分の、自分たちの行動に間違いはなかったと確信を持っているかのようで、揺るぎない自信に満ちている。
「あなた方は、それで済むと考えているのか」
今度は、フジコーがそう質問をぶつける。
感情任せの俺とは違い、その怒りはあくまで静かだ。
だからこそ俺は、今フジコーが本気で怒っているのがわかる。
「済むとは思ってないわ。でも、もうそんな議論は無意味よ。意味求められるのは、倍賞と、それ以上にあの怪物への対策の話」
だがそんな怒りさえも、千谷はただ事実で持って受け流す。
そう言われてしまうと、その事実が理解出来るだけにフジコーはもはや反論できない。
だから俺が、今度こそ千谷を殴りつけた。
相手が女性であることも、自分たちの生殺与奪権を握っていることも気にするとこなく、ただひたすら感情を込めた一撃をぶつける。
頬を拳が捉え、千谷は床へと投げ出される。
しかし、それに対して千谷は美しい顔が歪むことも全く気にすることもなく、ただ静かに微笑みながら、ゆっくりと身体を起こす。
「おめでとう、やっと殴れたわね」
それが、俺に殴られた人物の心からの言葉であった。
その事実に俺の怒りはさらに煮えたぎるが、同時に、もはやどれだけこいつを殴っても無駄だということも悟る。
「でも、君たちのその怒り、少しだけぶつける先を変えてみる気はないかしら? それは君たちにとっても、悪い話ではないと思うのだけど」
埃を払いながら、千谷は時間をかけてゆったりと立ち上がった。
「どういう……、ことだよ……」
そうして目の前に立つ女性の姿に、俺は思わずたじろいでしまう。
勝てない。そう心で知ってしまった。
「詳しい話は、外に出てからにしましょう」
外。
俺の心境を見計らったかのように、千谷はさらりとそれを口にした。
こうして俺たちがこのシェルターの外に出られることになったのは、あの悲劇の日から三日が経過してからのことだった。
千谷が語るには、怪物への対策の目処が立ち、ようやく一応の安全が確保されたのだという。
人工的な光の細い廊下を抜け、俺たちが最初に転がり込んだ駐車場を超えて、崩れた出入口から外へと這い出す。
そうして久々に日の光を浴びると、あまりの眩しさに思わず目を瞑る。
ようやく目を開けた時、そこに広がっていた光景は、俺の知ってる門津市の街並みではなかった。
それはまさに完全に廃墟そのものだ。
周囲には原形を留めいてる建物はほとんど存在せず、遠くに見える新市街のポータル社の本社ビルの手前あたりまで瓦礫の山が広がっている。
俺たちが逃げこんだビルにしても、上層部分は完全に崩壊しており、瓦礫の隙間から地下駐車場への入り口が見えるだけであった。
逃げながら街が破壊される光景を見ていたとはいえ、これほどなにも残らなかったことに、ショックを隠しきれない。
ここは、知らない街だ。
たった三日しか経っていないにもかかわらず、世界はあまりにも変わってしまった。
俺はまるで自分が浦島太郎になったような気分になった。
しかしその光景の中に、どこにも、その原因の姿は見当たらない。
「怪物は、怪物はどうなったんだ……?」
「あー、フライなら一時的に封印されているわよ」
俺の質問に答えたのは、同じように表に出て、俺たちの隣で街を見ていた千谷だった。
当然のことながら、こいつと俺たちとでは持っている情報が違いすぎるのだ。
千谷にとっては思い入れのなさもさることながら、この廃墟の光景もとっくに見慣れたものらしい。
俺たちがあの部屋で退屈を持て余している間にも何度も外の様子を確認していたのであろう。
街そのものよりも、まるでそれを見た俺たちの反応こそを確認しているかのようである。
しかし今の俺が引っかかったのは、千谷の態度よりもその言葉の中身である。
「……一時的に封印? 倒したわけじゃないのか?」
どこにも姿が見当たらないが、どうも消滅したわけではないらしい。
「残念なことにね。この平穏はあくまで一時的なもの、ただの先延ばしでしかないわけなのよ」
答えながら、千谷は諦めたように首を振る。
もちろんそれに納得行くはずもない。俺も言葉を探したが、質問がシンプルだった分、フジコーが先に口を開いた。
「……その封印とやらは、どれくらいの期間持つんですか」
「ま、持って三ヶ月といったところね」
「三ヶ月……」
想像していたよりも短い、具体的な期間を告げられ、俺たちは言葉をなくす。
その三ヶ月になにができるというのか。
だがそんな反応さえも、千谷にとっては最初から想定の範囲内であったらしい。
「もちろん、我々もこのまま黙って人類を破滅を待つなんて、考えていないわよ」
人類の破滅。
それは大げさな言葉だが、あの怪物を思い出し、目の前の廃墟を目にすると、決してありえない未来ではない。
「それで、さっきの話に戻るんだけど、君たちも、この街の仇を討ちたいと思わないかしら?」
「仇、討ち……?」
「できるんですか、そんなことが!?」
興奮気味なフジコーと違い、俺はその言葉を信じられなかったが、それでも、今はそんな言葉にすがるくらいしかできやしない。
「まあ、できるかどうかは、君たち次第ってところね」
そして千谷は笑った。
それは英雄を戦場に駆り立てる、あまりに邪悪な笑みだった。