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PHASE.9

「分かってくれたかな」

 直孝さんは躊躇いながらも、僕に意を決して言った。

「果恵はずっと、同じ果恵だ。しかし、あの時、気づかされてしまったんだ。自分が選ぶべき相手は、どこか遠くにいる会ったこともない別の人間なのだ、と」

 そこまで話した直孝さんは本当に済まなそうに、表情を曇らせた。

「残酷な話だと思う。でも君には、どうしてもはっきりと話しておかなくてはいけないと思った。君が信じた絵を描くことが好きな果恵は紛れもなく、君が『好き』だったんだ」

 それだけは嘘じゃなかった。

 直孝さんは慰めるように、言ってくれた。よく分かっていた。しかし僕にとって、それは今更なんの救いにもならない。何か他の力のせいにした方が、まだ気が楽だった。


 直孝さんが去った後、冷たいお天気雨が降った。

 夕焼け空があの時と同じ、不自然なほどのピンク色だった。

(なんなんだよ)

 僕はその空を見ながら必死で想いを押し殺した。

(じゃあ、僕はふられた、ただそれだけのことじゃないか)

 正直なところ、ささくれだった心の矛先をどこへ向ければいいのか分からなかったのだ。不貞腐れるために僕は問題を矮小化していた。途方もないそのことを無理に理解しようとするよりも、まずそうした方がよっぽど気が楽だったからだ。

 だって僕と一緒にいた果恵、それ自体がもともと、嘘だったのだ、とでも直孝さんは言いたいのか。

 絵を描くことしか、興味を持たなかった果恵。絵を通じて僕に見せた様々な表情、かわした言葉、そして過ごした時間。紛れもなくこの世界に存在した真実だ。僕の中にいまだに色鮮やかに息づいている果恵は、今だってちゃんと生きている。

 それがはなからすべて幻、果恵にとっては虚像でしかなかったと言うのか。


 果恵は、果恵のまま、目覚めた。

 そんなの認められない。認めたくはなかった。しかし理性は急速に、抜きがたかった矛盾に論理を補完していく。

 そう言えばだ。

「もう必要ない」

 全てを焼き捨てて、にべもなく断言した果恵の眼。今でも憶えている。思うと僕に対してなんの遠慮も呵責もなかった果恵ならば、確かにそこにいた。

「違う」

 彼女はまた、そう言っていたのだ。葬り去った過去の亡骸と、その亡霊のような僕に、あの果恵は絶対的な否定を突きつけていたのだ。これまでにそれが僕に、そして絵を描くことに向かわなかっただけで、あれは僕の知る果恵そのものじゃないか。

 でもだ。あれが本来の果恵の姿だったとしたなら。僕が果恵と守ってきたと思っていたものは一体何だったんだろう。そしてまだ僕の中で息づく果恵は何者だったのだろう。それらはどこに、行き着いてしまったのだろう。

 気がつくと僕は、雨の中を歩き出していた。

 今の果恵は、やっぱり果恵なのか。それとも、全き別人なのか。

 ずっとそれが知りたくて、考えていた。

 さくさくと濡れた砂利を踏みしめ、いつしか僕は寺の山門を出ていた。すでに僕は夢遊病者のようになっていた。夕日が見える場所へ、自然と歩き出そうとしていたのだ。外気が僕の想いを、限りなく突き詰めて、ただ研ぎ澄まそうとしていた。日没が迫る外気は、そのまま冷蔵庫の中に閉じ込められたみたいだ。時々頬を打つ程度のお天気雨に降られて、僕はその外気に親しみながらも、歩き続けた。

 あの日もこんなに、熱のない冷たい陽が、それでも強烈に射していたのだ。


 果恵は、確かに恐怖していた。

 いつもの果恵のそれではなかった。薄い皮膚で覆われたその表情が、まるで薄紙を踏み破るようにしてくしゃくしゃになり、綺麗な顔が無残にひずんだ。果恵はまるでさっき、死神に連れて行かれそうになった、とでも言うかのような顔をしていた。

「一人にして」

 それからこう言った彼女はどこか、何かを決断した表情でもあった。僕はそれを、果恵が描かなくてはならない絵があると、判断したのだ。

(そうだ)

 発見されるまで、果恵はずっと絵を描いていたのだ。僕には想像もつきそうにない、途方もないものに恐怖しながら、彼女は、それと向き合う道を択んだ。やってきたものに果恵は、独りで立ち向かったのだ。その果恵こそが、僕の知る果恵だ。そしてその果恵は、僕があのキャベツ畑で見失った、そのときに途切れている。

 あのとき果恵は何と戦いに向かったのか。あのとき何がやってきたのか、それを知れば分かるだろう。

 あのスケッチブックさえあれば。

 しかしだ。

 果恵が病室に来た時には、あのスケッチブックはすでに喪われていたんだった。


(ゆた)ちゃん!」

 ふいに女の人の声が立った。僕は現実に引き戻された。振り向くとそこに、果恵のお姉さんが、果恵の持っていた肩掛けのバッグの紐を握り締めて立っていた。

「お父さんの話、終わったんでしょう」

 と、お姉さんは声を張って聞いてきた。

 夕方の路上だ。田舎とは言え、家路を急ぐ車がぐんぐん前を横切る。

 大声を出す気がなかった僕は、お姉さんに向かってかすかに頷いて見せた。

「行かないで。わたしからも話があるの!」

 車道を横切って、お姉さんは僕に走り寄ってきた。

「果恵のこと…話してあげられなくてごめんね。お父さんの話、よく判らない話だったと思う。納得しろ、って言う方が無理だよね。でも、わたしたちも、お父さんと同じで、豊ちゃんには本当のことを言っておいた方がいいって、思ったから」

 僕は、何も答えられなかった。真実を知った方が良かったのか、そうでない方が良かったのか、結論が出ていない。今となっては、どちらとも言えなかったのだ。

「わたしからもね、渡すものがあったんだ。これ」

 お姉さんは肩掛けのバッグから、ビニール袋に入った何かを手渡してきた。受け取って僕は全身に衝撃が走った。あのスケッチブックだった。乾いた泥や草でよごれ、発見されたときに果恵が抱えていただろう、そのままの。

「果恵が病院に運ばれたときね、保護してくれた家の人が取っておいてくれたの」


 果恵のお姉さんは病室に運ばれた彼女に、それを返そうとしたのだと言う。

「だめ」

 しかし、果恵はこう言った。どこか頑なな声だったらしい。

「お姉ちゃんが持ってて」


「何があっても絶対捨てちゃだめ、そのときそう言われたから、ちゃんと取っておいたんだ」

「果恵が…?」

 実はそれから果恵はしばし病室で昏睡(こんすい)状態になったらしい。地震後の海端で三日三晩さまよった体力の限界が来たのだろうと言うのが医師の判断だったが、思えばそこから目覚めた果恵は、以前と打って変わって穏やかな女の子になったのだと、お姉さんは言うのだ。


 その時まで、生きていた?

 僕が愛していた、絵が好きな果恵は。

 僕と別れて、何かと戦った後でも。

 まだ。


 坂の中腹の畦道に、僕は腰を下ろした。履いていたジーンズが草露で濡れるのも構わず、僕はそのスケッチブックに目を通した。思わず全身が強張った。

 中のページはほとんどが破り取られ、満足なものはほとんどなかったからだ。泥まみれの野菜と一緒に洗濯機に放り込んだかのようだった。

 どんな過酷な場所で、果恵との最期の時間を過ごしてきたのだろう。辛うじて生き残ったそれも無残に皺がより、或いは泥玉をぶつけられたように汚れていた。羽虫の死骸の貼りついた断片は硬く強張って、いまだに生臭い草露と潮の香りがする気がした。

 ページを過ごすと果恵のタッチがそこで、荒れ狂っていた。

 断末魔だった。

 それは描くと言うよりは、あらゆる種類の鋭い切れ味の刃物で傷つけているような感じだった。流れる線は画面を飛び出して跡切れ、暴れ、津波が蹂躙(じゅうりん)した痕を思わせた。幾度も輪郭を描きつけ、強いタッチのせいで画紙が凹み、本当の溝になっていた。

 何を描こうとしたのか。

 ページをはぐるうち、やがてそれらしきものはあるべき形をとっていた。

 僕だ。

 すぐに分かった。果恵は僕を描こうとしていたのだった。そんなこと、今までで初めてだった。

 と言っても、判別できるのは一枚だけだ。僕の横顔だった。首から上しか描いていない。それにしても、何度も描き直した線があった。もっと不完全な失敗作と思われるものが何個もあった。果恵にはそんなことは、珍しかった。

 それから何枚かは、破り取られている。へしゃげた紙片が端にくっついているページもあった。そこにあの朝、描いたばかりのカマキリの死骸がぐしゃぐしゃに寸断されているのも見た。非常識で、支離滅裂な線の連続しか残っていなかった。

 さらにページをめくって僕は、思わず声を上げそうになった。

 とても綺麗なスケッチが一枚だけ、完成していたのだ。それもやはり、首から上だけだった。少しうつむきがちに、あごを傾けてその顔は睫を伏せて微睡(まどろ)むようにしている。

 見たこともない顔の若い男だった。

 もしかしたらこれが、果恵が直感した主の女捕りを受ける、男の顔なのかも知れなかった。僕はまた、細かく震える長い息をついた。なぜかその綺麗なスケッチにも、斬りつけるようなタッチが刻まれていたからだ。

「ちがう」

 下に平仮名でこう書かれていた。果恵の字だ。この上、なにが違うと言うのか。まだページはあった。それに手をかけたとき、胸の中でどくん、と何かが波打った。その何かが僕に警鐘を鳴らしていた。

 次のページをめくった瞬間、そこにあったのは更なるカオスだ。

 へし折られたクロッキーの線は画紙に突き刺さって果て、草の露や泥で不可解な線が投げつけられていた。血の付いた爪跡や指紋がそのまま残っていた。それを目にした途端、僕の胸は堪えがたい痛みを感じ、息が絶えそうになった。

 すぐに分かった。間違いない。

 果恵はここで死んだのだ。

 そこにあったのはもはや、この世界に在る必要性を喪った感性の残骸だった。羽根をもがれた虫が、アリの巣の淵でもがくように、その足や爪が必死に地面を掻いていた。自分はまだ生きられるはずだと、もがいていた。全生命力を懸けた抵抗だった。

 やはり、果恵は抗っていたのだ。なんの躊躇いもなく自分が信じることが出来たものを、身を委ねていた僕を、今まで得たすべてを守るために。

(やはりだ)

 今の果恵は果恵じゃない。僕が思った通りだ。あいつは果恵じゃないのだ。違う。僕の好きだった果恵を殺した、その果恵だったのだ。身が千切れそうだった。かと言って、あの果恵を憎む必然性ももはやない自分も、僕は知っていた。戻っては来ないのだ。果恵はここで独り戦い、そして敗れて死んだから。自分の無残な最期と勝ち目のない争いを、すでにそこへ赴く前から悟っていたから。だからこそ、その消し去られゆく感性を分け合った僕に、最期の力を振り絞ってこれを託したのだ。

 僕はそのスケッチブックを抱きしめたまま、泣いた。ただ、泣いた。

 嗚咽を止めることが出来なかった。なんてことだ。これが、果恵の墓標だったんじゃないか。抱きしめたそれは固く冷たく、そして薄汚れていた。あの日から、本当の果恵は、ずっとこんなところに閉じ込められていたのだ。気づきもしなかった。うめき声ばかりが漏れた。いかなる感情も、形ある言葉に、なりそうもなかった。

 もはや何もかもが手遅れだった。この亡骸を抱きしめてこうしていくらでも泣けるのに。今だったら僕を想ってくれた以上に強く、あの果恵のことを想えるのに。そんなことはもう、どこにもつながりはしないのだ。

 雨に濡れた手で僕はもう一度スケッチブックを開いた。果恵が最期に描いた線。そのすべてを僕は指でなぞった。どれもに記憶の名残があった。カマキリの肉体の線。愛おしくて堪らなかった。あれも、これも、他にも。まだまだ、知っている線がいくつもある。最後のページに至るまで僕はそれを続けた。

 背表紙の裏、こぼれでた走り書きがいくつか残っていた。それは彫刻刀でしたように、彫りつけるような鋭い筆跡だった。そこには文字が書かれていた。

 果恵がページの限界、右端にそれはきちんと書いてあった。


 那智豊


 僕の名前だ。たぶん折れたクロッキーで書いたのだ。たどたどしい線を、僕は指でなぞった。これを刻んだ果恵の最期の手ごたえさえ、そこから感じ取ろうとするように。あの果恵は一人、どんな気持ちでこれを書いていたのだろう。地震直後の、凍えるような冷たい海風に、衰弱した身体を嬲られながら。

 文字を辿る指は、少し下の別の文字列に行きついた。そこには続いてこう書かれていた。


 ちがった

 ゆるして


(いいよ)

 果恵なら。僕が愛したあの果恵が言うなら、それでいいんだ。君を僕は、分かってる。不完全でいて、不器用で、どうしようもない。それでも僕の何より大切な果恵だった。誰に向かっても、はっきりと言える。僕は、果恵を愛していた。

 その果恵が択んだことであれば、僕は満足だった。それこそが僕の大事な果恵だ。その殴り書きは、さらに真下の二行へと続いていた。背表紙の一番内側のところだ。そこには消えていきそうにかすれた、か弱い筆跡で辛うじてこう書かれていた。


 あいしてた

 ゆた


 その瞬間だ。

 僕は、耳を弄するような爆音のさなかに埋めこまれた。堪え切れずスケッチブックを放り出してひざまずくほどに、それは巨大な音だった。爆撃機が間近に迫るような爆音が頭の中を、ぐるぐると巡っていた。ずっと気づかなかった。鼓膜が破れるほど大きな爆音は飛行機のエンジン音なんかじゃなかった。

 それは僕の叫び声だったのだ。


「気がつくと僕は、精神科棟のベッドにいた」

 もう三日経っていたそうだ。畦道にうずくまり、声を限りに絶叫する僕を見つけたのは、僕の父親だった。そのまま救急車を呼び、病院に搬送してもらったのだが、僕は正気を失った上、興奮状態で会話にならず、すでに自分の名前も判らなかったと言う。

 鎮静剤を打たれた僕は、点滴をされたまま、急性期の隔離病室に放り込まれた。そこは頑丈な分厚い鉄扉が入り口を塞ぐ、薄暗いタイル貼りの部屋だった。スチール製のトイレの穴ばかりがある部屋で、それ以外には拘束具のついたベッドしかない。

 ふらふらとその殺風景な牢獄の中を立ち回った以外は、断片的な記憶ばかりがその二日間の記憶だ。ずっと夢を、見ていたのだ。

 僕はそこで二日を過ごし、三日目にようやく自我を取り戻したのだった。


「二日間ずっと、僕は果恵の夢を見てた」

 夢の中では何もかもが元通りになっていた。

 穏やかないつもの一日。電車の車窓を過ぎていく房総半島の海辺のきらめきと、僕の肩によりすがって外を見る果恵の横顔。瑞々しい瞳の輝き。なぜか一緒に、弾けるほど笑った日、夢中になって話し合った日。幼いとき、最初に果恵と出会った記憶。お正月、夏休みの帰省。とめどなく、ただ、とめどなく。

 目を覚ますたび、怖くなって泣いた。悲しいのではない、ただ、堪らなく怖かった。僕は果恵を喪った。果恵の死そのものに、まざまざと、触れたのだ。目を閉じさえしていれば、果恵は生きている。眠りさえすれば、いくらでも楽しい日々はまた立ち戻ってくる。しかし、目を開ければそれは粉々に砕け散っているのだ。どちらが真実なのかは、明確に分かりきっていた。

 理性はすでに知っていたのだ。夢の中にずっと遊んでいようとも、何を想おうと。

 やはりもう、果恵はそこにいないのだ、と言うこと。

 急に底が抜けてがらんどうになったようなその世界にもう、僕は放り出されている。僕はそこで、ただ生きていくことが堪らなく怖かった。その現実を、僕の自我は到底受け入れることが出来なかったのだ。


「医者は父親に、僕は統合失調症とうごうしっちょうしょうなのだと言った。たぶん、元のように戻ることはないだろう、そうきっぱり言われたらしいんだ」

 認知機能ばかりではない。それはまさしく、パーソナリティの倒壊だった。専門家から見ても、救急車で運び込まれてきたときの僕は、再起不能の状態に見えただろう。

「でも、それが三日で治ってしまった」

 嘘のような、しかし真実の話だ。目を覚ます恐怖に胸を震わせながら二日の幸せな夢を見た後、僕の意識はそのまま、外界へと再接続された。何事もなかったかのように目が覚めた僕を見て、医者は正直、唖然としたらしい。体力が回復したのち、様子を見ると言う条件で十日入院すると、僕は無事、退院することが出来た。


「だから言ったんだ。僕は一度死んだ、そう」

 ちょうど、果恵が死んだように。僕の中のその感性も、まるで死期を悟ったかのように荒れ狂い、果ててしまった。ふいの落雷のような、果恵のあの直感がそう仕向けたように。僕自身もそっくり、自分自身を改変された挙句、再び、外の世界へ放擲(ほうてき)されたのだった。


 でも蘇った僕には、記憶はあっても実感はなかったのだ。どうやって僕が、果恵とのことに自分の中で折り合いをつけて、戻って来られたのか。僕はどう言う道筋を通って、果恵のいないこの世界の入口へ、たどり着けることが出来たのか。ブラックボックスを開ける鍵は、もはやどこにもなかった。

 だからこそまた、僕は空疎な言葉で小説を書き出したのだろう。届かない言葉を甲斐もなく積み上げ、開きそうもない箱の周りを、あると言う保証もないドアを探して、いつまでもいつまでも、見当違いにうろうろしながら。

 僕は今のいままでちょうどあの、不完全だった果恵のようだったのだ。

 僕が一人であったなら、たぶん一生を懸けても、このブラックボックスを解明することは出来なかっただろう。ただ一人、僕の前に現れた、空前絶後の直感を持った九王沢さんが、いなかったとしたら。

 九王沢さんはあの、ランズエンドの彼方から来たのだ。

 だから僕は言う。ここまで深く潜れたのは、他ならぬ彼女のお蔭だった。彼女がいなければ僕は暗い穴倉で朽ち果てていただろう。どれだけ感謝しても足りない。大げさでもなく僕は、九王沢さんに僕自身を救われたのだった。

 ありがとう、九王沢さん。


 そこまで無我夢中で話していて、僕はぎょっとした。

 泣いているのだ。僕じゃなくて九王沢さんが。ぐっしゃぐしゃだった。でもやっぱり泣いた顔もかわいすぎる…いや、もはやそんな問題じゃなかった。

「なっ、那智さん…死んじゃだめですっ、早まらないでっ戻って来て下さいっ!」

「さっ、さっきからずっとここに居ますけどっ!」

 力おっぱい、いや力いっぱい抱きつかれた。理性が、根こそぎ吹っ飛ぶところだった。あれほど真摯な話をしていたのに、こんなことされたら一気に(けだもの)と化してしまうじゃないか。

「おっ、落ち着きましょう!過去!とにかく過去の話ですから!」

 僕は必死に言いつのったが、たっ、立ち上がれないのだ。僕はすでに前かがみでしか移動できない例の状態になっていた。なんて恐ろしい拷問だ。ともかくありったけの理性と地球のみんなから少しずつ元気を分けてもらって魅力的すぎる身体を引き離したが、九王沢さんは美しい顔を真っ赤にして泣きやまなかった。

「教えて下さい…そんなにまでなってしまって。それから、那智さんはどうやって戻ってこれたんですか?」

「うん…それは同じだと思うよ。一般的な失恋と」


 どんなときも。

 ただ時間を過ごすことでしか感情の上の物事は、解決しないものだ。一気に清算をつけられ、恐ろしい勢いで解放されたかに見えた僕にもやはり、果恵を喪った虚しさは強かったのだ。

 やがて僕は親と相談して、休学を決めた。逃げるためじゃない。果恵の運命に依存していた僕を、もう一度作り直すためだった。僕は僕の感覚で、自分の世界を再構築しなきゃいけない。そのために少し、自分の力で考えることが必要だったのだ。


「それから色々やってみた。国内だったけど、バイトして僕も色んなところを旅したよ。一人でどこでも行ったし、その間、じっくりと様々な本が読めた。それでやっと少し、分かってきたのかも知れない。この世界はたった一つの答えばかりでは、存在しえないって言うことを。たとえそれが、自分にとってただ一つの正答だったとしても、ね」

「ただ、一つの正答、じゃなくてもですか…?」

 不審そうにその言葉を反芻した九王沢さんに、僕は言った。

「何かを一心に信じる、と言うことは大切だと思う。でも大切なのは、信じる、と言う気持ちや、そのために起こす行為そのものであって、それは皆が皆、ただ唯一、同じものを信じなきゃ実現しないってわけじゃないだろ?」

 この世界はたったそれだけと言う、唯一の答えで創り上げられるほどに、単純じゃない。

 それが僕が得た一つの結論だ。

 それでも果恵には果恵の、正答があったのだ。僕は最初、想いを封じ込めるためだけに、そう思おうとした。いや、九王沢さんとこうして話すまではまだ、ほとんどそう思い込もうとしていたのかも知れない。でも、今ならこう言えるかも知れない。

 僕にも、僕の正答があるはずなのだ。

 誰のものでもなくても、僕にだけ、通じればいい答え。

 僕が無数の答えが存在するこの世界を行くために、そこに突き刺す一つの道しるべとして。それも、立ち止まるための答えじゃなくて、先に行くための橋頭保(きょうとうほ)としての答えだ。

「那智さんの、正しい答え、ですか?」

 九王沢さんはその言葉を口にすると、不思議そうに首を傾げた。

「うん、僕は僕なりにその方法を探さなくちゃいけないんだと思う。今、これからも、年老いてからもずっと。だって、色んな方法があるはずだろ。人生は長いんだ。果恵みたいに絵を描いたり、僕のように小説を書き散らしてみたりして、もっともっと時間を無駄に過ごせばいいんだ。九王沢さんみたいに、危険を顧みず新しい世界へどんどん飛び込んで行ってみたりしてね」

「わたしみたいにですか?」

 僕は頷いた。

「だってさ」


 結論は、まだずっと、先の方が面白いだろ?


 九王沢さんは目を丸くしていた。

 そんな九王沢さんが、僕はもう、間違いなく好きなのだった。


 すっかり朝になってしまった。僕たちはルームサービスを頼んだ。

 ハムエッグにトーストだ。なぜか九王沢さんはほとんど、手をつけなかった。しかも無口だ。さすがに僕は気になって尋ねた。

「どうかした?」

「さっき仰ってたことです。那智さんの、答えってなんでしょうか。それがずっと気になっていて…」

 九王沢さんは(おこり)を患ったように唇を震わせたあと、思いつめた目で問うてきた。

「…わたしは、那智さんにとっての果恵さんみたいになれませんか…?」

「それは無理だよ。そして、そんな必要はないじゃないか」

 切なげに瞳を歪めた九王沢さんに、僕は、はっきりと言った。

「だって九王沢さんを、九王沢さんとして僕は、ちゃんと好きなんだから」


 誰かの面影を仮託(マップ)して他の誰かを好きになることは、決してしてはいけないことだ。それは使い古された答えの援用にしかならず、そしてその答えの中に安易に相手を押し込めて、都合よく利用しようとしているに過ぎない。

 本当に愛しているなら、むしろ相手の未知な顔を知ろうと想像することこそ、好きになる、と言うことではないだろうか。

 僕たちは生き続ける。

 だったら求めなくちゃ。

 また新しい答えを。


 例えば三十年後、シンギュラリティの世の中がやってきて。

 僕たちに人間の種としての進化や進歩がもう必要ない、と言われたって。

 まだ僕たちが人生を生きるなら、僕たちは、自分なりにだって無限に更新され続けなくちゃいけないのだ。


「憶えてる?九王沢さんが昨夜、言ってくれた言葉」

 僕は昨日のメモをたどった。九王沢さんの整った筆記体で、綴られていたあの言葉だ。


 Reason respects differences,

 and imagination the similitudes of things.


「パーシー・B・シェリーが遺した言葉だったね。日本語は、えっと」

「『知力は事物の相違点を重視し、想像力はその類似点を尊重する』」

「だっけ?実は英語苦手だし、よく判らないから、僕ならこうやって訳すかも知れない」

 僕はその下にさらさらと、自分の字を書き加えた。


 探せば『違う』しか判らない

 でも想えば『好き』は通じる


「そのはずだと思う。感じ方や考え方は違っても、『好きは同じ』だから」


 話しているうちに、すっかりお腹が冷えてしまった。

「そうだ、お蕎麦食べに行きませんか?大桟橋の下に立ち食いのお店があったんだ」

 僕はすっかり明るくなった山下公園の通りを眺めて言った。まだ早朝だが、港湾関係者が立ち寄る関係で、早くから開いているお店があるのだ。

「…少し待って下さい」

 すごく喜ぶかと思ったら、九王沢さんはあんまり喜ばなかった。彼女はただじっと、僕が書いたメモの文字に目を落としていたのだ。

「わたし、しなくてはいけないことがあったんでした」

「しなくてはいけないこと?」

 九王沢さんはこっちをみて、こくりと頷いた。

「まず、那智さんのお話、想像以上でした。果恵さんとのお話、まだ気持ちが去っていかない気がします。だって愛する、と言う言葉がこれだけ(はかな)く力なく思えることって、これまでわたしの人生の中で、一度もありませんでしたから」

 僕は何とも、返事が出来なかった。その言葉の無力さを、僕は思い知ったけど、別にもう、虚しくは思わなくなっていたからだ。今ならちょっとは判る。『好き』さえ想っていれば、それを表現する言葉や方法は無限にある。そうすれば一つの言葉に過信したり、恨み言を言う必要もないことを。

「那智さんは、昨夜わたしに小説を書いたら、って言ってくれましたよね。わたしが、自分で表現したいことがない、言葉がない、そう言っても、それでも面白いはずだって」

 暗い表情をふわりと掻き消し、九王沢さんはいつもの天使の笑みを湛えた。気がつくと、彼女は音もなく立ち上がり、まるで神様か何かのように、朝日の輝きをまとってこちらを見ていた。

「わたしも自分がどうしても表現したい言葉が見つかったんです。でもそれは、小説を書かなくても、伝えられると思います」

 よし、となぜか意を決すると、九王沢さんは僕の間近に立った。

「言います」

 豊かな胸を張った九王沢さんは、潤んだ瞳で真っ直ぐ僕を捉えると、こう言った。


「わたしは、あなたが好きです。わたしに、あなたとずっと一緒にいさせて下さい」


 その瞬間、僕の中にこれ以上ないほどに透き通った瑞々しいものが注ぎ込まれた。

 紛れもない。

 これが彼女が生まれて初めて表現した、好き、と言う気持ちなのだ。

 それは僕の不全を、鮮やかに呼び覚ました。間違いない。何度でもそれは、僕の中で雪解けの新緑が再び芽吹くように蘇るものだ。形のない、でもはっきりとした、力強い、それでも儚い、途方もなく巨大でいて、針の先のように唯一の一点。


 返す言葉が見つからないまま、僕はそれでもはっきりと頷いた。その瞬間、九王沢さんが腕を拡げて身体を預けてきた。大きな胸の、さらに奥の鼓動を感じながら、僕は彼女の背に腕を回した。もうそれは、躊躇したり、狼狽する類のものではなかった。すでに境界線は解き放たれ、新しい合意が生まれていたからだ。

 自分の言葉をもう見つけてしまった彼女に、まず僕はなんと言うべきだろう。

 ありがとう、だと思っていたけど、それは違う。何も言えないまま、僕は顔を上げた九王沢さんを見つめてしまった。美しいおとがいを持ち上げて、彼女は限りなく優しい眼差しで、僕を待ち受けていた。

 すべきことは決まっていた。

 何か言葉を口にするなら、それはすでにその後のことだろう。

 僕は彼女に口づけた。僕が初めて触れる九王沢さんはひどく暖かく、僕にそのまま溶けていきそうに柔らかく、気絶するほどに(かぐわ)しかった。

 九王沢さんがキスをしたことがない、と言う衝撃の事実を、僕は後で知ることになる。だって信じられなかった。僕たちはまるで滞りなく、打ち合わせも済まさないうちから、一つの意思を全うしたのだった。

 違うランズエンドからやってきた、僕と九王沢さんがだ。

 突然切って落とされた新しいスタートで、転びそうになったのは間違いなく、僕の方だ。九王沢さんから見れば経験者の癖にあわてた僕をみて、どう思ったのだろうか。案の定、気がつくと、九王沢さんは少し、悪戯っぽく笑っていた。スタートと同時にもう彼女は、僕から見て今までと全く違う別の存在になっていたのだ。

 一瞬で包容力のある大人になってしまう女の子に比べると、どこまでも男は不完全で、子供っぽいのだった。


「お蕎麦食べに行きましょうよ」

 九王沢さんは声を励まして言った。

「わたし、実は、お蕎麦屋さん、と言うところに行ったことがなくて」

 そんな九王沢さんがとても魅力的だった。

 彼女にとって新世界の情報は、僕がまごついているうちにも、着々と更新されつつあるのだ。

 たぶん、彼女はお蕎麦屋さんで僕にこう聞くだろう。

「天ぷら蕎麦、ってやっぱり美味しいんでしょうか?…あっ、この月見蕎麦って何が入ってるんですか?」

 そんな彼女と、僕は新しい世界を生きていくのだ。


「ねえ、ちょっと待ってよ」

 腕の中から、すでに飛び出していこうとしている九王沢さんに僕は言った。

「僕もしなきゃいけないことがあったんだった」


 違う。


 それはあなたの言葉じゃない。

 果恵に問答無用で切って落とされた、僕の言葉。

 無為な試行錯誤にかまけて、ただ膨らんでしまった僕の小説。

 そんな途方もないジャンクの中から『僕』を見つけてくれた九王沢さんに、僕は今こそ、きちんと表現しなくちゃいけないのだ。

 僕の『好き』を。僕の『愛している』を。

 僕自身の、言葉で。

 今なら言える。そんな気がする。


「言います」

 僕が言うとそれと察したのか、九王沢さんは姿勢を正した。

 見つめている。あの清かに僕自身だけを捉え続けた、澄み切った眼差しが。天使のように非の打ちどころのない、微笑みが。

「よし」

 僕は深呼吸をすると、はっきりとした声で九王沢さんにその言葉を告げた。


「僕はあなたが好きです」


 九王沢さんは、この上なく嬉しそうに頷き返してくれた。


 それは紛れもなく、今、僕がこの新しい世界で産み出した、もっとも新しい自分の言葉なのだった。


と、言うお話でございました。元々は軽い気持ちで始めたのですが、あれよあれよと言う間に本気モードに。軍チカン兵衛に引き続き、皆様に応援いただき、九王沢さんと言う新しい世界が拓けました。

割烹には書きましたが、未定ながら彼女にも次があるように思えます。とりあえずここは、ボーナストラックを掲載し、幕引きの形をとりますが、またどこかで九王沢さんを見かけたら、かわいがってあげて下さい。

また、今作は色んな方から嬉しいコメント頂きました。まず結びに「告白シチュエーション」というヒントをくれた卯侑さん、そして毎回丁寧に読んで下さり貴重なご感想下さった式岸軋騎さん、そして矢口さん、九王沢さんたちとお酒を飲んでくれた山江まろんさん、果恵の物語、とまで仰ってくれたよんさんに特にお礼を捧げたいと思います。また、割烹で応援くれたり、この物語を読んでくれた皆様に。心から御礼申し上げます。ボーナストラック、続きますのでぜひここからもお楽しみ下さい。『九王沢さんに誰も突っ込めない』ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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