表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/14

PHASE.8

 そこまで聞くと、九王沢さんは黙ってコーヒーを淹れてくれた。すでに朝の五時になろうとしている頃で部屋は明ける港の薄明かりが忍び寄り始めていた。僕は湯気の立つコーヒーカップを受け取って初めて、自分の身体が指まで冷え切っているのに気づいた。

(しまったな)

 ここまで我を忘れて話し続けてしまった。九王沢さんにも大分、寒い思いをさせてしまったに違いない。

「お砂糖とミルク、入れた方があったまりますよ?」

 と、美しい指でカップを包み込んで、あったかそうに息をつく九王沢さん。僕が思うより先に気遣ってくれたに違いない。つくづく、なんていい子なんだ。それだけじゃなく、間近で見ても信じられないほど、九王沢さんは美しい。唇などは、この世に生まれたばかりのようだ。そこから白い息が棚引いたが、コーヒーの匂いに混じってする悩ましいほどいい匂いに相変わらず、軽く血迷いそうになる。

「ね、眠たくありませんか?」

 と思わず聞いてしまってから、僕はベッドの方を見た。いや、誘ってるわけじゃないぞ。今のは純粋な意味で、寝ようと提案したのだ。聞かれもしないのに、僕は自分で自分に言い訳した。

「いえ、出来ればすぐに続きが訊きたいです」

 真っ直ぐにこちらを見た九王沢さんの瞳は、これ以上ないほどに清かに潤んでいたが、好奇心は褪せずに、ますます冴えているように見えた。

「確かに果恵さんは、不可解です。あれほどに絵を描くことに、人生を傾けていた果恵さんがその必要性を感じなくなり、二度と描かなくなってしまった。そして同時に彼女は那智さんへの盲目的とも言える『好き』も喪ってしまった。絵だけではなく、那智さんも必要なくなってしまったのです。この二つの関連が、非常に気になりました」

 一気に鋭い分析を語ってから、僕の様子に気づいたのか、九王沢さんは途端に表情を曇らせた。

「ご、ごめんなさい。那智さんの気持ちも考えず、つい無遠慮に。…もしかしてこれ以上お話するのって、苦しいですか?」

「そんなことはないよ。もう、終わったことだもん」

 それもかなり前にだ。強がりでも何でもなく、僕は言うと、九王沢さんが淹れてくれた熱いコーヒーを大事に飲んだ。

「じゃ、じゃあですよ。ここだけは聞きたいんですが」

 言いにくそうに唇をすぼめると九王沢さんはカップを持ったまま、ぐいぐいと身体を横にゆすりながら近づいてきた。

「今の那智さんは本当に好きだった方の果恵さんのこと、どう思っているんですか?」

 すっごく切ない顔だった。うう。話すんじゃなかったこんなこと、とすら思った。九王沢さんにとってみれば、これ、どこまでいっても僕の元カノの話なのだ。

「今は、当時の気持ちが理解できるだけかな。そもそも果恵が好きだった僕とも、今の僕は違う地点にいると思うし。もちろん、いざ思い出してみたら、ちょっと切なくはなったけどさ」

「分からないんです。気持ちの上では、どうしても」

 九王沢さんは僕の答えを聞くと、何か消化不良のような苦しそうな顔をした。

「お話ししたとは思うんですが、わたしは…男性の方と、これまでお付き合いすることもなくて。だから那智さんみたいにそのっ」

「好きになった人を諦めた経験がないから、ってことかな?」

 ずばり図星を聞き返すと、九王沢さんは顔を真っ赤にして目を逸らした。

「…じゃあ誰か好きになったこととかは?」

「ありますよっ」

 ちょっと退き気味に聞いたのが分かったのか、九王沢さんは涙目になって言い返してきた。

「わ、わたしにだってそれくらいはあります。でもそれはその、お話や文章が素敵とか…と言うか、亡くなった作家さんばかりで」

 え?

「なっ、亡くなった…作家さん…?」

「はい、だから、生身の男の人を好きになったのって那智さんが初めてなんです」

 衝撃の恋愛事情が返ってきた。僕は今まで好きになった生身の人間を聞いたのだが、九王沢さんの恋愛遍歴は、文章とか肖像とかしか遺ってない亡くなった文豪とかなのだ。

 嘘だ。

 普通の人なら真っ向否定するはずが、九王沢さんならあり得るとしか思えない。

 なのにこの、蠱惑的すぎる九王沢さんの匂い。そして恐ろしく形の整ったHカップ、これまで何のためにこの世に存在していたのだ。僕は気が遠くなりかけた。この子、どこまでリアル聖処女なんだろう。そもそも一体どこまで純粋培養すると、人間はこんな女の子を育てることが出来るんだろう。

「男性の方から何度かお付き合いを申し込まれたことは、確かにありました。でも、何かぴんと来ないと言うか、相手の方が仰っていることがわたしにはよく分からなかったんです。でも那智さんとデートしたら、全然違いました。那智さんとのお話、すごく楽しくて、これからも、ずっとしていたくて」

 このとき。僕は、この世界に蔓延する不条理に苦しめられているすべての人のために祈った。ぶっちゃけ神を呪った。なにしてくれてんだ。世の男性に想われるあらゆる条件を備えているこんな子に、あんたはどうしてこれほどまでに残念過ぎる恋愛観を与えたのだ。首絞めてやろうか。

「だからわたし、もしこれから、那智さんとずっとお話しできなくなったら、なんて今は考えたくもなくて。今日みたいな日が、いつまでも続いてくれたらいいなって勝手なこと、つい思ってしまって」

 これ以上、泣かせないでほしい。その辺の女の子にだってそんなこと言われたことないのに、相手は九王沢さんだ。

「那智さんから見れば、わたし、すっごく子供っぽいこと言ってるの、分かってますよ。人は自分のエゴばかりで生きてはいけません。だからもし那智さんのようなことがあったら、それでも乗り越えなちゃいけないって言うことも」

「乗り越えられなかったよ」

 僕は、そこできっぱりと言った。

「本当に好きだったら、諦められないと思う。納得できないから。でも、今でもそうだよ。躊躇(ちゅうちょ)することを、学習できたとしてもね。九王沢さんが昨夜言ってくれたように、好きだったら今でもとことん知りたいし、ちゃんと分かり合いたいから」

 僕はこれ以上ないほど真っ直ぐにこちらを見つめる九王沢さんに投げかけるようにして、でもさ、とつづけた。

「それでも、もし諦めなくちゃいけないときがあるとしたら、どんな時だと思う?」

 九王沢さんはしばし眉をひそめてから、こう答えた。

「相手の存在が、消えてなくなってしまったとき、でしょうか」

「相手の『感性』が変わってしまったとき?」

 九王沢さんはもどかしげに首を振った。

「それは、あまりに短絡的です。それでも那智さんの体験は、非常に特殊だとは思いますが、相手が自分の意に染まなくなったから気持ちが冷めたと言うのだけは、ただの身勝手のような気がします。わたしだったら…一度、好きになるためにとことん知ろうとしたなら、今度は自分が納得いくまで確かめると思います」

 だからたぶん、と九王沢さんは言葉を選んで言った。

「諦めるときは、自分の中で、相手が喪われたときです」

「そう、もっと言ったら、自分が死んだときだ」

 僕がさらに極端な物言いをしたと思ったのか、九王沢さんは、はっと息を呑んで僕の顔を見直した。

「冗談で言ってるわけじゃないよ。僕は一度、死んだ」

 九王沢さんは小さく首を傾げた。

「死んだ?」

「そう」

 確かに死んだのだ。

 比喩でも誇張でもない。僕は本当に一度死んだと思う。恐らくはその時に、僕の中の果恵も含めて。そのときに僕は本当の意味で、果恵、と言う女性の感性と、それに呼応する『僕』と言う感性の一部を、喪ったのだろう。

「九王沢さんも自分で言ってただろ。これが、僕が『ランズエンド』を書いても伝わらない、描こうとして描き切れないと、思い極めた最大の理由なんだよ」

 どうしても見つからなかった、僕の言葉。それは作者の僕自身にしても、どれほどに筆を尽くしたところで、掴みだし、感じ取ることが出来なかったものだ。

 他の誰にも出来なかった。

 目の前にいる、ほとんど神懸った直感を持ったこの女の子以外には。

 この先を、その九王沢さんにこそ、聞いてもらいたくて。

 九王沢さんが聞いてくれると言うなら、僕は眠るわけにはいかない。

 僕は意を決して言った。

「今からそれを、話すよ」


 それから毎日、僕は眉月家に足を運んだ。果恵に会うためじゃない。果恵以外の誰かを捕まるためだ。果恵の事情を知っている眉月家の人間なら、誰でも良かった。お父さんでも、お母さんでも、お兄さんでもお姉さんでも。

 とにかく僕はただ、納得いく説明を求めていた。

「果恵はもう絵は必要ない、と僕に言ったんです。それなのに、どうして春から東京へ絵の勉強をしに、学校を辞めるんですか?」

 その凄まじい矛盾に対してその答えは、どこからも返ってくることがなかった。もちろん、当然と言えば当然だ。眉月家の人たちからしてみれば、僕が果恵に出会うと言うアクシデントさえなければ、その件はただ円満に片付いていたことだったのだ。

「豊くん、落ち着いてよ。果恵は本当に絵の勉強をしに行くんだから」

 やっと捕まえたお姉さんも困ったように、同じ説明を繰り返すばかりだった。

 あの日から、確かに果恵には、何か異変があったのだ。

 眉月家の人たちは本当は、誰よりもすぐにその異変に気づいていたはずなのだ。そもそもだ。あの頑固な果恵が、将来のことも全く考えず、誰の説得も振り切って好き勝手に絵ばかり描いていた果恵が、あのことがあって入院中は、まるで憑き物が落ちたかのように、人が変わっていたじゃないか。

 不審に思ったことは、やはり口に出すべきだったのだ。病室での果恵の、手ごたえのない眼差し、当たり障りがなくなった言動。あのとき果恵は、果恵でなくなってしまったのだ。

 しょっちゅう反発され、果恵を持て余していたお父さんだって、気づいたはずだ。病室で大人しく本を読み、担当の先生とも看護婦さんともトラブルを起こさない果恵が、かえってどこかおかしいのではないかと言うことも。

「もう描かないから」

 これ以上ないほど無残に葬り去った画材を一瞥した、果恵の冷たい眼差しを僕は憶えている。

「絵は描かない。だから要らない。それだけ」

 そこには絵を描くための、なんらの情熱も残されていなかった。

 そんな人間が、絵を描くために学校を辞める?都合のいい嘘で糊塗するのも、いい加減にしろ。

 だってどう考えても、納得できない話だ。


「お前、眉月さんたちに付きまとってるらしいな」

 ある日、出かけようとして父親に咎められた。地域の消防団の寄合に、果恵のお父さんが顔を出すと言う話を、人づて聞いたのだった。電話しても話を聞いてくれないし、自宅に行っても会ってくれないので、直接乗り込んで聞くことにしたのだ。

「女の子の家に付きまとうなんて、自分が何をしてるのか、ちゃんと分かってるか。果恵さんのことは残念だけど、男らしく諦めろ。お前にはどうしようもないことじゃないか」

「諦めろ?どうしようもない?」

 さすがに親父でも、僕は引き下がらなかった。

「そんな問題じゃない。僕は納得できないから、話が聞きたいって言ってるだけだ。果恵にじゃない、果恵のお父さんにだ」

「お前には分からないだろうが、ここはな、狭い世間なんだ。うちだって、寺の経営が成り立つのは、地元の皆さんの評判あってのことなんだからな」

「そんなに寺の評判が大事なのかよ!」

 僕は目を剥いて、親父に食って掛かった。反抗期は過ぎていたけど、そう言う問題じゃない。

「ああ、お前だけの都合より、よっぽどな」

 親父はしかし、醒めた声で答えた。

「果恵のお父さんはむしろお前に気を遣って、黙っててくれているんだ。お前が家に付きまとってストーカー扱いされようが、柚子畑の残骸を漁ろうが、大丈夫だ何でもないって、いつも言ってるのはあの人なんだぞ。おれが怒ってるのはな、世間体だけじゃないよ。なんでお前は、自分を気遣ってあえて黙っててくれるような、そんな人を、満座で問い詰めて恥を掻かそうとしているのか、それを言ってるんだよ」

 反論出来なかった。

 親父の言葉は僕を、深い奈落へ導いた。必死にもがこうと水面を探している途中に、背中に重石をつけられた気分だった。だが湧いてきたのは、怒りでも何でもない。ただただ、このまま何もできない自分への、運命を呪いたいような、暗くわだかまる、ひたすら無力な絶望感だった。


 そう言えばこの頃何度も、あの日の果恵と僕のことを夢に見た。

 ピンク色の陽が包むキャベツ畑の中を、僕たちは歩いている。

 あの日と、違うことはただ、一つだけだ。もはや結末を知る僕が、これから降る、不気味なお天気雨に不吉な予感と不安を抱いて果恵を連れていることだ。

 僕の傍らで足を動かす果恵は、まだ必死にスケッチブックを胸に抱えて守っている。不安げにひそめられた眉もいつも不満げな眼差しも、一言も無駄な言葉を漏らすまいと、固くとじられた唇の雰囲気も、紛れもなく果恵のものだった。

「早く戻ろう」

 あの雨が来ないうち、あの恐ろしい「違う」がやってこないうちに。

 果恵がうずくまったあのキャベツ畑の傍を過ぎる。まだ雨は降っていない。大丈夫だ。

 するとそこでぽたり、と冷たい滴が頬を叩くのが分かる。やっぱり降ってきた。それはもう、どうしても避けることが出来ない事態なのだ。

 気がつくと、叫ぶこともせず果恵はただ、そこにいない。喪われてしまったのだ。

 僕は、濡れそぼったキャベツ畑に放り出された一冊のスケッチブックを拾い上げる。

 果恵が失踪したとき、持っていたあのスケッチブック。

 果恵が発見されたとき、彼女が泥まみれのまま抱えていたスケッチブック。

 朝露の中で人知れず死んでいた、カマキリの死骸のスケッチ。

 あの日のあのスケッチブックは、もう葬られてこの世から消えてしまったのか。

 もはやそれだけが、きちんと知りたいことだった。


 桜の頃になり、僕は一人の始業式を迎えた。受験期のクラス替えに湧く、教室の中ですでに果恵は存在しないのと同じだった。

 いや、もうずっと前から僕以外は、その認識だったに違いない。眉月果恵と言う生徒はそもそも、この教室にはほとんど居なかったのだ。使われた形跡のない机と椅子はすでに片づけられ、もう僕の知らない誰かのものになっているはずだった。そして僕には、もはやそんな痕跡を追うことすら出来ないのだった。


 果恵のお父さんが、僕のうちの寺に現れたのはほとんど、諦めかけていた頃だ。

「豊くんに折り入って、話があるんだ」

 なぜか親父も同席だった。いつもはほとんど使わないお寺の、納戸のような部屋へ呼ばれた。

 果恵のお父さんはスーツを着ていた。いつもは山に入るので、ジャケットにジーンズと言うラフな格好なのだが、今日はそこも違っていた。

「待たせたね。とりあえず、色々上手く片付いたから、君にはきちんと話しておこうと思ったんだよ」

 僕が眉をひそめるのも、無理はない。

「上手く片付いたって、どう言うことですか?」

「ごめん、言い方が悪かったな。僕も違和感があったが、みんなにそう言われているうち、慣れてしまったみたいだ」

 学者肌の風貌を残した果恵のお父さんは、照れ臭そうに頭を掻くと、落ち着いて聞いて欲しいんだけど、と前置きして、そのことを言った。

 それは僕が予想だにしなかった果恵の結末だった。

「果恵は、結婚する」

「結婚する!?」

 僕は頭が真っ白になった。思わずオウム返しになってしまった。だってあの果恵が、結婚だって。そんなの信じられない。

「君が察した通り、絵の勉強をしに行った、と言うのは嘘だったんだ。今まで黙っていて済まなかった」

 果恵のお父さんは改めて座り直すと、僕の前できっぱりと頭を下げた。

「どこへ、誰のところへ行ったんですか?」

「僕にも分からない」

 にべもなく、お父さんは首を振った。

「君に隠すわけじゃない。本当に分からないんだ。だが、これだけは確かだ。果恵はいつか、自分の家族を連れて戻ってくるだろう。これからはそう言うことになっている」


「お話についていけません。だ、だってそれっ、どう言うことですかっ」

 と、なぜか九王沢さんが突然、僕に詰め寄ってきた。

「那智さんはずっと果恵さんのことを気遣って…納得できないことでも受け入れて最後は理解しようとしてあげていたのに。果恵さんだってそんな那智さんとずっと一緒にいたいと思っていたからこそ、那智さんに身を委ねていたはずです。それなのに…それが急に、結婚した、相手は教えられないなんてそんな身勝手な話、納得できません。いい加減にして下さい。果恵さんも、果恵さんのお父さんも、ご家族も、那智さんの気持ちを、一体なんだと思ってるんですかあっ!?」

「いや、九王沢さんお願い落ち着いてっ」

 九王沢さんは一瞬で激怒した猫みたいになった。メロンのようなおっぱいが、嵐に遭ったハンモックみたいに揺れていた。感情移入しすぎてまるで現場にいたかのような剣幕だ。

 背を丸めて、ふーふー怒っている九王沢さんはむしろかわいかったけど、そんなに怒らなくてもいいのになあと思った。いや気持ちは嬉しかったけど、九王沢さんにとって、この場で責められるのは僕しかいないのだ。僕に怒られても困る。


「結婚!?果恵が結婚だって!?なんですかそれ!?そんな話で、納得できると思ってるんですか!?」

 そのときの僕も納得できず詰め寄った。だってどこから、どう考えても、荒唐無稽な話だった。

「とにかく興奮せずに、まずは話だけでも最後まで聞いてくれないか」

 しかし、相手は淡々と、言ったのだ。

「正直、豊くんの気持ちは分かるよ。君には、あれだけ果恵が面倒をみてもらったんだ」

「なあ、豊。直孝(なおたか)さん(果恵のお父さんの本名だ)も、お前の気持ちは分かっている。果恵ちゃんが、本当にお前が好きだったことも知ってるんだ。だからこそ、話す気になってくれたんだからな」

「でも…」

 理屈の上では納得できても、気持ちが収まらない。大体、説明する、と言ったって、相手は判らない、どこに行ったのかも教えない。これでは、何も話してくれないのと、ほとんど同じじゃないか。

「重ねて言うが、豊くん、僕は君が無茶をしそうだから隠してるんじゃない。だったら、今まで通りお茶を濁して、黙っていればいいはずだろ」

 自分で本当に知らない。

 直孝さんは、僕を真っ向から見据えて言うのだ。

「実は僕も、まだ納得がいく話ではない。でも豊くん、君も僕みたいに、受け入れなくてはいけない、とは思う」

 と、そこに僕の父親が、何か古い紙の包みのようなものを持ってきた。すでに数百年は経っているだろう、そこに黒々とした太い書字で『眉月家家譜』の文字が見える。

「果恵は選ばれて、嫁いだんだ。僕にはどうすることも出来ない」

「選ばれた?」

 以前、少し聞いたことがあった。果恵の眉月家は、東京にも沢山親戚がいて、その家系の中には、霞が関の高級官僚や経団連に連なる財界人もいるのだとかいないのだとか。つまりはそこから、いい縁があったと言うことなのだろうか。

「それとは違う。あくまで果恵は自分の意思で行ったんだ」

「そんなの納得できませんよ。だったら果恵は、そういう人たちの力で無理やり納得させられて嫁がされたってことになるんじゃないんですか?」

 直孝さんは、深いため息をついた。それは僕の決めつけにうんざりしたと言うよりは、説明するのに困ったと言うものだったのだが、それすら当時の僕の神経を逆撫でした。

「豊、少し落ち着いて聞いたらどうなんだ。直孝さんだって、真剣にお前に話をしようとしてるじゃないか」

「でも」

 この件に僕は、感情的にならざるを得ない。当たり前だ。どう言い含められたかは分からないが、そうとなれば到底、納得することは出来ない。

「…いや、豊くんがすぐにそう思うのも無理はないよ。それがごく、一般常識上の妥当な説明なんだ。しかし、話はそれとは違うんだ」

「違う?」

「君は、どうかな?」

 逆に、直孝さんは問うてきた。

「君もずっと過ごしたはずだ。絵を描かなくなった果恵と、あれからずっとね。あの子は、どうしていた?君に悩んだ素振りを見せたかな?絵のことを、相談したりした?」

 僕はすぐに応えられなかった。衝撃が大きすぎたからだ。だってだ。目の前にいるこの人も、もしかしたら強く感じていたのだ。僕が果恵に感じたこと、その違和感を。

「今の果恵は変わった、と思います。地震があった日から…僕が、不注意から果恵から目を離してしまった時から」

 僕はやっと、それを直孝さんの目の前で言えるのには、少し時間と決意が要った。

「変わった、ね。僕も豊くんが思ったように、強くそう感じたんだ。でも何度も言ったこと、あれは詭弁でも方便でもない。それは君のせいじゃなかった。そこは信じてほしい。果恵が変わったのは、自分の意思なんだ」

「自分の意思」

 何も判らないまま、僕は直孝さんの言葉を反芻した。

「でも…果恵は怖がって、いました」

「そうだね。でもあれは、言わばいつものことの延長線上にあったことなんだ。確かに自分の意思に違いない。でもそれは、自分だけではコントロール出来ることではなかった。突然つながった回路に、理性がついていけなかった。ただ、それだけのことのようなんだ」

「…お話の意味が、まだ取れません」

 僕の声音は自然と、弱々しくなりつつあった。果恵が『喪われて』しまった理由、それはあの地震があった日の出来事がきっかけだと言うことは、ずっと感じていたことだ。

 あれから本当の果恵はどこかへ奪い去られ、今は、見知らぬ(ぬえ)のような生き物が、果恵に成り代わっている。非現実的に過ぎるながら僕は、そんな妄想にすら、囚われることがあった。

 いくら考えても判らない。だったら、現実をそのまま受け入れるしかないのだ。

「つまりね、こう言うことなんだ」

 と、直孝さんは言った。その表情も得々としたものではなくて、僕と同じ、どこか重苦しげなものだった。

「果恵は目覚めてしまった。そして今までの何もかもが、置き換えられてしまった。すべてが、僕たちの知らないあるべき場所にね」


 すべてがあるべき場所に。


 そう言えば。

 果恵は、すべてがちぐはぐな女の子だった。

 いつも不要なものはすぐに見つけて排除するが、それでも必要なものは一切見つけることが出来なかった。

 好きなことは絵を描くことで才能もあったはずなのに、それを浪費しようとするように頑なに普通科を択んで、無理やり僕と人生を過ごそうとしていた。

 思えば彼女が一心不乱にしていたことは、どこにも届かないことだったのだ。果恵は鍵穴もノブもない扉をまさぐって、どう考えても的外れな方法で必死にこじ開けようとしていた。


「そもそも眉月家には遺伝的に、果恵みたいな人が代々、いたらしいんだ」

 ついで僕が見せられたのは、僕の実家のお寺に伝わる文書集だった。

「お寺の、記録ですか?」

 日本史に詳しくない九王沢さんは、目を丸くした。

「日本では中世の武家、特に没落した家の研究には、お寺の日記や年代記が参考にされることが多いんだ。例えば千葉氏のように江戸期に喪われてしまった名家などは、末孫の家には、公式記録が遺っていないことが非常に多い」


 直孝さんによると、眉月家は鎌倉以来、千葉氏に代々連なる家系のようだ。

 現在、千葉県の名前の由来となった千葉氏は、源頼朝の挙兵を助けて、歴史の表舞台に立った家だ。その後、中世を生き抜いたが、関東戦国史の群雄割拠に阻まれ、あえなくその家は江戸期に至って絶える。

「現在の千葉市から以東の北西部は、戦国時代には駿河の北条氏、常陸の佐竹氏、安房の里見氏が奪い合う激戦地帯だったんだって」

 その情勢が一変するのは言うまでもなく、徳川氏の江戸入りである。豊臣秀吉に関八州を譲られた徳川家康は、これらの諸勢力を排除して各地に譜代大名を赴任させる政策を推進した。その時に邪魔な大名家は、徹底的に廃絶されたようだ。

 例えば有名なのは、将軍家の鷹狩りに挨拶に来なかったと言う半分言いがかりのような理由で取り潰しにあった安房里見氏だが、すでにそれ以前に没落した千葉氏も再三、再興を願い出るも、幕府にすげなく握りつぶされると言う憂き目にあっている。

 これは彼ら土着勢力を排除した上で、空いた封地に徳川氏の家臣を就職させるための、意図的な大リストラと考えると判りやすい。遠地に赴任した大名がするべきことを、徳川氏も万難を排してやったわけだ。そのため旧弊勢力は土民として徹底的に弾圧にされ、その記録すらほとんど抹消されたようだ。


「しかし、眉月家は武家として江戸期を生き残っている。実はこれを研究するのが、僕が大学の研究室にいたときの最大のテーマだったんだ」

 直孝さんが本を出すために、編集者時代から親父もずっと援助を続けていたのだと言う。

「寺を譲ってもらってやっとかな。ここの記録も自由に見れるようになってな」

 それによると突然、眉月家の娘が徳川家の直参と縁続きになった、と言う記録があるのだと言う。

「その娘は五年失踪していた。そしてふらりと連れて来た夫が、さる事件を起こして出奔したままになっていた徳川直参家の三男坊だったと言う」

 その男の家は、家禄は低いながら徳川家が三河岡崎にいたとき以来の功臣の末裔(すえ)であり、願い出て、眉月家を継ぐことを許されたと言う。

「家を飛び出して奉公構(ほうこうがまい)(いわばクビだ)になった武士が、復職できるなんて言うことは、江戸期も進んでくるとありえないことだが、当時はまだ戦国以来の気風が残っていたんだろうねえ」

 罪を得たとは言え、見聞を広めた武士は使い物になる、と言う考え方は、家康ならではのものだと、直孝さんは言う。確かに家康晩年の無二の参謀だった本多正信(ほんだまさのぶ)も、家康を裏切って失踪し、出戻りしてきた人だ。

 ともあれ眉月家はこうして、千葉氏の支族として滅ぼされずに、徳川時代にも武士として生き残ることが出来たのだ。

 恐るべき偶然だが、戦国時代のような諸国往来が盛んだった時代には、そのような嘘のような本当の話と言うのは、少なからずあるものだったそうだ。しかし特異なのは、家の当主が徳川家に知縁をつないだのではなく、なんとその娘が実家を飛び出してその相手を見つけた、と言うことだ。

「問題はその娘が、眉月家を去った理由だ」

 直孝さんはそれを、公式な記録ではなく、寺の奇談覚書の中から見つけたと言う。

「彼女は偶然見つけたのではなく、はっきりと婿を探しに行くと言って出て行ったそうなんだ。五年後に危急に陥るはずの眉月家を救う相手を探しに」


「その女の人の名前は残っていないんだけど、果恵のような人だったらしい」

 御伽草子には、涙でネズミの絵を描いた、と言う雪舟(せっしゅう)さながらの、彼女の画才を喧伝するエピソードが収録されているが、これはまあ、話を呑み込みやすくするためのよくある誇張に過ぎないだろう。

「しかし、その方はよほど直感力の鋭い方だったことは確かなんですよね?」

 九王沢さんは眉をひそめると、豊かすぎる胸を押し潰すように腕を組んだ。

「そうだね。だってまさか、自分の地元が顔も見たことのない徳川氏に占拠されるなんて、当時よほどえらい武士だって予想がつかなかったはずだからね」

 言うまでもなく、天正十八年に小田原北条氏が秀吉の裁定に背いて真田家と諍いを起こすことに端を発し、関東争乱が激化することも、その秀吉が家康に関八州を封じることも、地方の草賊たちには遥か雲の上のことで想像すらしなかったことに違いない。


「おいえをすくいに」

 婿を取りまする、五年(いつとせ)お待ちくだされ、と断言し、まさにその通りに家を救ってしまったその女性はつまり、神懸っているとしか思えない。

 眉月家には時々、そんな女性が生まれたのだ。直孝さんは果恵がごく幼いうちから、そうではないかと、すでに察してはいたのだ。

「実はその女性には、縁談があった。いずれ、徳川氏と敵対することになる縁だね」

 さらにはっとすることを、直孝さんは言う。なんと、その女性の婿探しを優先して、ときの眉月家の当主はその、すでに成りかけていた縁談を反故にしてまで後押しをしたようなのだ。

「だがその当時は、そんな予測は全く立てられなかったはずだ。一方的に縁談を断るなんて、武家の間では一大事の約定違反なんだ。そんな家の危機をおしてまで、当主が娘の婿探しに協力したなんて荒唐無稽にもほどがあるだろう?」

 直孝さんによると、眉月家にはもっと以前の代から、そうした女性が家名存続の危機を救ってきた可能性が高いと言われる。でなければ眉月家の当主が、そのような危険な選択を採るはずがないのだ。


「千葉氏は妙見信仰(みょうけんしんこう)の徒だ。そのため、千葉氏の氏族は必ず城の一角に、社を祀ることになっているんだ」

 今でも千葉県北西部には、無数の古城跡が残るが、千葉氏の名残は祭祀を確認すれば、一目で分かる。妙見神社、(ほし)神社と言うお社があれば、そこは千葉氏の息のかかったお城なのだ。

「ちなみに妙見菩薩は、北辰信仰、いわば大陸を渡ってきた星を祀る考え方から来ているんだって」

「確かに星を祀る考え方なら、日本以外にも広く伝わっていますよ」

 そこで九王沢さんはさすがにぴんと来た。

「北斗七星を祀る信仰はルーツは古代バビロニア、インドを経て仏教と習合した教えですね。古代中国では北斗七星はそのまま、天帝を現したとされています。妙見には『優れた視力』と言う意味があったと思います」


 直孝さんによると、眉月家の妙見信仰は祭祀の起源が不詳なほどに古く、古代中国の星宿信仰に連なるとされる。

「恐らくは眉月家は、大陸王朝と朝鮮半島の騒乱から亡命してきた、渡来人の末裔(すえ)でしょう」

 不確かながら、直孝さんは推測を口にする。

 恐らくは眉月家は、妙見さながらの未来の可能性を見抜く恐るべき直感力を持った女性の誕生で長きに渡る家名存続を乗り切ってきた稀有の一族なのだ。

「もちろん、僕たち自身にはずっとそんな実感はなかった。今さら妙なしきたりもないしね。果恵以外にも二人子がいるけど、どちらもごく普通に育ってる。果恵だってもしかしたら、と思ったけど、さすがに学問上の興味の範囲を出ることなんてなかったよ」

 だが果恵が目覚めてしまったことで、直孝さんもそれが事実であると、感じざるをえない事態に陥ってしまったのだ。

「果恵がああなって程なくだよ。僕はそこらじゅうの親戚に詰め寄られた」


「ついに眉月の本家に、(しゅう)女捕(めと)りがあったか」

 と、言う問い合わせは、遠くは九州の親戚や眉月家の遠縁だと言う都内の代議士まで引きも切らなかったと言う。

「びっくりしたよ」

 そのときの驚きそのままに、直孝さんはため息をついてみせた。高級官僚や財界人と言った有力な連中が音頭を取ったので、直孝さんは度々都内の親族の集まりに呼ばれると言う、大変な思いまでしたらしい。

「親の葬式でも口を利いたこともなかった親戚まで、こぞって挨拶に来たんだよ」

 彼らの目的はなんと、果恵との縁談だった。


「主の女捕り?」

「眉月家本家には伝わっていなかったんだけど、口碑でその言葉が伝わっている家があったんだって」

 女捕(めと)り、と言うのは、中世に使われた用語である。要は往来を行く女性を捕まえてきて、無理やり嫁にしてしまうことだ。

「…それは野蛮な習慣ですね」

 九王沢さんが顔をしかめるのも、無理はない。要は拉致による強制結婚である。さっきロジャーさんが助けてくれなかったら九王沢さんも女捕られるところだったのだ。

「中世の諸法令でも、厳に禁じられていたみたいだけど、日本では夜這いの習慣とともに半ば黙認だったらしい」

 それは、女性側の要請もあってのことだと言う説がある。実は、中世の女たちも新しい土地に、そうした新しい出会いを目的に旅をする習俗があったと言うのだ。現代の婚活さながらである。ちなみに、婚活パーティに近いものもあったと言うから驚く。

「まあもっと極端な例で言えば、筑波嶺(つくばね)の歌垣の宴の話や、多摩の日野神社の闇祭りとか。まあ、当時のそうした催しはもっと露骨、と言うか生々しいものだったんだけど」

「露骨…生々しい、みんなで集まって何をするんでしょうか?」

 それは乱交パーティだとは、九王沢さんに面と向かってはっきりは言えなかった。

 まあきちんとした言い方をするなら、中世までは男女の恋愛は比較的自由だったのだ。女性も、頼りになる男性を自ら選ぶ、と言うのが世相として容認されていた。

「だから口碑によるなら、果恵は眉月家の氏神から『女捕り』を受けた、って言うことだった」


 家運が危急に差し掛かるとき、天帝の星が将来のそれを救う家の娘を択ぶ。

 その女性は『アルキ』とされ、神事を扱う巫女を営みながら、新たな氏族の男を求めて諸州を渡り歩いたと言う。婿を取れば在所に戻り、家を富ませたとされる。

 眉月家のある家ではそれを、主の女捕りを受けた、と表現して信じられたと言う。

 直孝さんは顔も知らない親戚たちから口々に、色々な話を聞いた。

「驚いたよ。御伽草子に過ぎないと思っていた眉月家の信仰は、今もしっかりとした形を持って、僕たちの間に息づいていたんだ」

 直孝さんの眉月家を本家に、関東一円にその縁が拡がっているのはそう言う事情によるようだ。

 つまり果恵に縁談の問い合わせをした親戚家は皆、過去に眉月家から神懸った『アルキ』の嫁に選ばれて、繁栄したことのある家だったのだ。

 ただ、運ばれてきた縁談写真の山を、果恵はにべもなく焼き捨てたと言う。

「違う」

 果恵は直孝さんにそう一言、告げただけだったらしい。

 ほどなくして、果恵は直孝さんにも無断で旅立った。

「予てから分かっていたことだから、とりあえずカードは預けておいたんだ。だから、当座のお金には不自由はしてはいない、とは思う」


「つまり、失踪届は出していない、と言うことですか?」

 僕は九王沢さんに、無言で頷いた。

「どころか、直孝さんは果恵がいなくなったことの事後処理に進んで協力したんだそうだ」

 家に姿がないのも当然だった。果恵の『アルキ』が大事にならないように、直孝さんは八方手を尽くしていたのだ。群がる親戚たちに口封じをし、学校に事情を取り繕い、表面上は何事もなく果恵を退学させ、東京の美術学校に行くために下宿したことにしたのだと言う。

「それほどまでに、眉月家にとって『主の女捕り』は絶対だったのでしょうか?」

 僕は頷いた。そのときの何とも言えない、直孝さんの顔を思い出しながら。

「もちろん、それだけじゃないと思う。直孝さんは、尋常じゃない変わり者の果恵を、ずっと見守ってきたんだ。あれほど好きな絵画で、身を立てる気もない。普通科の勉強なんて見向きもしない。自分が死んだ後、果恵はどうする気なんだろうっていっつも考えていたと思うよ」


「不条理だとは思う。君にも不義理をしたしね。それは、本当に悪かった。果恵に代わって、この通り謝るよ」

 若い僕の前で頭を下げた直孝さんは、でも、と諦めたような笑みで僕に言うのだ。

「果恵が絶対そうしたいと言うなら、僕は全面的にその意思を尊重する。果恵が生まれてからそうやってずっと、やってきたんだ。これが僕が果恵にかけてあげられる親として、たった一つの愛情なんだ」


 九王沢さんはその直孝さんの言葉を噛みしめていたのか、ずっと悲しそうな顔で黙っていた。父親として、直孝さんの在り方は決して間違ってはいないと思ったのだろう。ただ僕を慮って、何も言わなかったのだ。

「それにしても、まさか果恵さんの異変にそんな背景があるとは、夢にも思いませんでした」

 九王沢さんはやがて、話の矛先を違う方向に向けた。

「そうだね。全く突拍子もない話だけど」

「しかしそうなると、果恵さんは自らの感性を決して『喪った』のではない、と言うことになりますね」

 僕は頷いた。

「つまりは媒介変数の劇的な変化の問題だ」

 九王沢さんと話したS‐O‐R図式によるなら、あの時に果恵に起きたのは、途方もない直感による、『感性』そのものの革命的な激変だったのだ。果恵は降って湧いたその感覚によって、ほとんど自分自身そのものが書き換えられた。違う。むしろ、その感覚こそが、何をやってもままならない果恵を完全なものとして『補完』したのだ。

 いや、こう言うべきだろう。あのとき、果恵が得たのはまさしく。

「運命的直感ですね」

 僕は、はっとした。僕がそれを口にする前に、より的確な表現で九王沢さんはそれを表現した。

「果恵さんもまた、探していた答えを出したんです。わたしたちには想像もつかない方法で。しかしまた、この結果も、それまでの果恵さんが認知の試行錯誤を繰り返した結果と言えます。もしかしたら、果恵さんが画業で身を立てずに、絵を描くことに執着したのは、そのためだったのではないでしょうか」

 だから果恵は絵を描いていたのだ。当時から薄々と感じてはいたが説明できない何かが今、しっかりと形をとった気がした。そうなのだ。果恵が一心不乱に絵を描き募ったのは、途方もない認知と直感の試行錯誤だったのだ。

「那智さんのお話の通りとすれば、これまでの果恵さんはどこもかしこも、ちぐはぐでした。何を探そうとしても見つからず、何をしてもどこにもたどり着かない方だった。つまり果恵さんはこの世界に適応する認知を持っていなかったと考えられます。しかしあの地震があった犬吠埼での出来事がきっかけか、不意の直感によって突然、劇的な一致を見た。そして、そのとき、これまでの全てが不要だと感じるようになったのではないでしょうか」

 つまり。

「だからもう絵は要らない。そう、那智さんに断言したんですね」

 そうなのだ。果恵はもう、自分が探すべきものの答えを見つけていたのだ。そのとき、たぶん自分がなぜこれまで絵を描いていたのか、それがなぜどこにも届くことがなかったのか、その理由に思い当ったに違いない。

「果恵さんは、はっきりと言いました。縁談の山を持ち込んだ直孝さんに」

「うん、そうだね」

「違う」

 九王沢さんは表情をしかめて、口走ってみせた。果恵の様子を想像して真似てみたみたいだが、もちろん九王沢さんのそれは果恵のとは違った。かわいすぎるのだ。果恵が皮膚の薄いあの綺麗な顔をしかめて見せるとき、人は、もっとその無残さにぎょっとしたものだった。僕は何度も見ている。果恵が、見慣れない人の前でそれをやってしまって相手が絶句し、まさに空気が凍りついた瞬間を。

「違う」

 その果恵は確かに、あの、絵筆を折った果恵の中に息づいていたのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ