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PHASE.7

「感性が…喪われる?」

 ついに決定的な違和感を覚えたのか、九王沢さんの綺麗すぎる顔が苦痛に近い色を帯びて歪んだ。

「ありえない話だと思うよ。でも事実なんだ。今までの果恵の人生の記憶はそっくりそのまま残っているのに、『果恵』だけは、そこからいなくなってしまった」

「…那智さんが言いたいこと、何となく分りますよ。でもっ、でもっ…ちょっ、ちょっと待って下さいっ!」

 九王沢さんはほとんど悲鳴に近い声を上げると頭を抱えた。頭脳明晰、博覧強記なあの九王沢さんでさえ、こうなってしまうのだ。普通の人に話せないのも当然だ。彼女にしたって、僕が話した論理の流れの上では理解できるが、感覚としてどうにも受け入れがたいと言うところだろう。

 人間の感性だけが実在と記憶を残して、そっくり消失する。

 これはまず絶対有り得ないと断じたくなるほどに、とんでもないことなのだ。

「脳に損傷を及ぼす事故等で、人格が変容してしまう例はいくらでもあります。とても几帳面で家族思いだった人が、頭部を強打する事故を経験し、ルーズで家族に乱暴を働き、アルコール中毒になってしまうなどです。しかしそれは器質的な『欠損』であって、今まで感じていたことが認識できず、『出来なくなった』と言うのに過ぎません」

「そうだね」

 と、僕は頷く。今の九王沢さんが言った例は、よくマンガなどである『頭を打ったら突然性格が変わった』と言うものだ。こうした例は、現実世界にちゃんと実例が存在する。最も一般的なケースは九王沢さんが言うように、今まで出来ていたことが出来なくなってしまういわば『人格の損傷』を原因とするものだ。

「果恵は病院で脳検査まで受けている。でも負っていたのは転んだり、ぶつかったりした身体の傷ばかりで行方不明の期間中、そうした決定的な損傷を帯びた痕跡は全く見つからなかった。だからそうしたケースには当てはまらないと思う」

 九王沢さんはもう少し考えて、では、と別の意見を言った。

「心因性のショックはどうですか?果恵さんは、通常生活していくにも鋭すぎる直感力や想像力の持ち主だったじゃないですか」

「九王沢さんが言おうとしていることは分かるよ。でも果恵は解離同一性障害かいりどういつせいしょうがいを患っていると言うわけでもなかった」

 これは、いわゆる多重人格障害たじゅうじんかくしょうがいと言われていたものである。自分の理性で受け入れがたい出来事に直面したとき、ある種の性質を持つ人は、それを『自分以外の誰かに起きたこと』と認識し、別の人格を創り上げて分離すると言う癖を持ってしまうとされている。いわば極限の現実逃避だ。

 ちなみに人格を分離するとそのとき物理的にも脳波が切り替わり、元の本人と完全に独立した人間になると言われている。多重人格と言う以前の呼称通り、確かに全く別人が一人の人間の中に、誕生すると言う特異な症状なのだ。

 この症例は児童虐待の現場から現れることが多いが、九王沢さんの言う通り、想像力が強くて内にこもりがちな性質を持った人が、発症するケースが大きいようだ。

「でもこの場合、『記憶』も分離されるのが一般的だ。そもそも解離は、自分の元の人格で受け入れられない『記憶』を切り離そうとする動機から起こるものだ。果恵の記憶には全く損傷はなかった。ショックを受けたはずの出来事も、本当に淡々と話した。でもそこに果恵はいない。僕は、そう思わざるを得ない場面に何度も直面したんだ」


 ちなみにあのときの出来事について、果恵は医師に簡潔に述べている。

「地震で帰れなくなって、パニック状態になってしまったんです」

 そこでとりあえず気を落ち着けるために、絵を描こうと思った。それでも動揺は去らず、一人でどんどん足を進めていたら、僕ともはぐれ、いつの間にか完全に道に迷ってしまったのだと言う。

 なるほど、とても分かりやすい。

 果恵の供述に齟齬(そご)はなく、誰が見ても納得できる客観的な事実経過だった。ただ一つ、同じ体験をした当事者を、納得させることが出来なかったと言う点を除いてはだが。

 果たしてあのとき、果恵に何が起きたのだろう。果恵は何と出会ったのだろう。

 震災後のお天気雨が降る、あの目を奪うようなピンク色の海焼けの中で。

 果恵が訴えた、強烈な「違う」は。

 そして、僕の前で果恵が見せた、尋常じゃない恐怖の表情は。

「怖い」

 あのときの果恵の顔は、確かにそう言っていた。彼女は恐怖していた。あれはその手に負えない恐怖を払いのけようとするがゆえの、「違う」だったのか。

 高校生だった僕も、当時そこまでは考えた。でも自力でそこから先に行くことは出来なかった。とにかく不自然な不安感を抱えて、果恵に寄り添うだけしか出来なかったのだ。


「それから入院中はずっと僕は、果恵の元に通ったんだ」

 熱を出したのが祟ったのか、果恵は十日ほど入院することになった。僕は暇さえあれば時間を作って果恵のところに通っていた。思えば行くたび僕は、自分の中にある恐れの正体を確かめずにはいられなかったのかも知れない。


 病室で果恵はずっと、本を読んで過ごしていた。果恵のお父さんが運び込んでくれたものらしい。ベッドサイドには文庫本の山が綺麗に積み上げられていた。

 三月の薄曇りの淡い光の中で、無言で本を読んでいる果恵の姿を今も思い出せる。どこか詰まらなそうなむすくれ顔は、以前の果恵だった。でも、文庫本を貪り読む彼女は、以前の果恵ではなかった。なにしろ僕の知っている果恵は本当に気に入ったものでないと、本など、ほとんど最後まで読み通したことなどなかったのだから。

「入院は退屈?」

「うん、誰も来ない」

 会話はいつも、こんな感じだった。だが果恵はほんの少し、素直になったように、僕からみて思えた。

 実際、僕と果恵の家族以外はほとんど訪問客はいなかった。携帯電話も彼女は持っていないし、動き回るのには制限があるとは言え、一人で何かするとしたら最高の環境だった。

「絵は?」

 僕はある時、思い切って聞いてみた。山積みになった本の下に、リング式のスケッチブックが寂しそうに頭をのぞかせたままになっているのに気がついたからだ。

「描かない」

 まだ、と果恵は付け加えるように、即答した。果恵はしないと断言したことは、何があってもしない。そこは以前のままだ。だが、まだ、と付け加えるように言い添えたのは、僕にとっては初めて聞くニュアンスだった。果恵はどんな場合であれ、物事を捕捉しない。今のは、僕に対しての弁解がましく聞こえたのだ。

 ちなみに本の下にあったのは、入院してから買ってきてもらったのだと思う、まだ真っ新なスケッチブックだった。彼女が行方不明になったときに持っていたそれはどこへ行ったのだろう。

 果恵はその新しいスケッチブックに何も描くことがないまま、退院することになる。


 以前の僕が知っている風景の中の果恵と、そこに新しく現れた果恵。

 違いは説明できない。

 とにかく、会うたびに何かが違う感じは分かるのだ。それは口にすると消えてしまう感覚であり、誰にも答えの求めようのない、まるで希薄な気体の気配だった。実際、僕も気のせいかなと、やっぱり違う、と言う二つの極の間を揺れ動いた。この時期は、毎回果恵に会うたびに一喜一憂したものだった。

 それでも果恵は、変わってしまったのだ。彼女のところから戻るたびに、僕の中に確信的な思いが降り募っていきつつあった。

 やっぱりあの日以来、何らかの部分が確実に。

 果恵本人にも、果恵の家族にも、果恵を知る誰かにも、それが分からなくても、果恵は変わった。

(違う)

 その声は、僕の中に居残った果恵の声でもあった。僕の中には以前の果恵がデッサンするときのように克明に描き残した、果恵自身が存在していた。もし彼女なら、今の果恵を前にして眉をひそめてきっぱりとそう、と言っただろう。

 引っかからずにやり過ごせれば、それが一番いいはずなのに。見過ごすことが出来なかったのは、僕の中の果恵がまだ、恐怖に震えている気がしたからだ。怖い、と言った彼女が表現しようとした恐怖は未だそこにはっきりとした形を持っていなかった。しかしそれは、いずれ姿を現す。あのとき見た果恵の巨大な恐怖の残像は、警告を伴って僕の胸を衝き続けていたのかも知れない。


「分かりません」

 九王沢さんが眉をひそめてついにその言葉を口にしたのは、その時だった。

「九王沢さんの言いたいこと、分かるよ。ともあれ、果恵は無事だったんだ。健忘症からもちゃんと回復したし、風邪は惹いたけど、命に別状はなかった。でも、僕にとって問題はそこじゃないんだ」

「そんな那智さんが、わたしには分かりません」

 九王沢さんはふくれっ面をして抗議してきた。

「確かに絵を描かなくなったことは、果恵さんにとっては大きな変化ではあると思います。でも果恵さんが以前通りに絵が描けなくなったとして、そのことが那智さんにとってはそれほど大きな問題だったのでしょうか?誤解があったら指摘して頂きたいのですが、那智さんは、果恵さんの才能自体に惚れこんでいたわけではないとわたしは思ってました。もっと、別の意味で強いつながりを感じていたのだと、わたしはお話を聞いていてそう解釈したのですが?」

 九王沢さんには珍しく、畳みかけるような口調だった。分からなくもない。九王沢さんだって女の子だ。自分の何かが少し変わったぐらいで、あなたは真剣に愛したはずの人をあっさり見限るような人なのか、九王沢さんが問いたいのはそこなのだ。

「率直に言うよ。確かに僕は、果恵の才能に惚れこんだわけじゃなかった。彼女の才能が誰かえらい人に認められて、途方もない存在になってほしいとも思わなかったし、そもそも彼女の絵の素晴らしさが、僕に分かるものでもなかった。ただでも、果恵の絵を描くための感性は、果恵って言う人間を構成するかけがえのない一部だと思っていた」

「理屈では分かります。でも」

 気持ちの問題なんだろうな。女の子には特に、それが重要なんだろうけど。

「そうだな。じゃあこうしよう」

 僕はちょっと考えると、言葉を選んでこう尋ねた。

「憶えてるかな。昼間、九王沢さんは、僕に一つ困った質問をしたと思うんだけど」

「質問…ですか?」

「そう、自分のどこが好き、って言うやつ」

「あ、あの、ああっ、あのっ…あれはっ」

 九王沢さんは形のいい瞳をいっぱいに見開くと、悲鳴のような声を上げた。

「どうしても知りたいことがあってやってみたと言うか、わたしのどこが好きなんて、そんな大それた質問、本気でしたわけじゃなくて…だからっ、だから忘れて…みんなっ忘れてくださいっ」

 早口で一気に話すと九王沢さんは、顔を赤らめてうつむく。かわいすぎる。

「じゃあ、僕も試していいよね。九王沢さんに同じ質問、今答えてもらってもいいかな?」

「えっ、ええええっ!?わたしが、今、ここで、那智さんの好きなところを言うんですかっ?」

 一瞬で九王沢さんは、沸騰した薬缶みたいになった。

「言えません」

「どうして?」

 そんなとこ全然ないからです、とか言われないだろうな、と思いながら、僕は聞いた。

「だって、思いつきません」

 ええっ、やっぱり?と思ったが続く言葉は、僕が危惧していたものと違った。

「的確に言い当てられる言葉がないからです。…何か一つ口にしたら、それは、わたしが那智さんのこと、好きって言う本質から遠ざかってしまう気がするからです」

 九王沢さんは上気した唇を、震える指で抑えこむと、次の言葉をまとめた。

「これはわたしも知らなかったことだと思ってます。今、那智さんに質問されて、自分でもびっくりしました。だってデートに行く前は、はっきりと答えられたんですから。那智さんは誰のものでもない、自分だけの言葉を持ってる人なんだって。だから好き、って」

「今は?」

 ああ…、と小さいうめき声を漏らすと、九王沢さんは、顔を両てのひらで覆ったまま、自分の黒い髪の中に表情を埋めてしまった。

「分からないんです。一日過ごしたら、もっとはっきりするかなって思ってたら、そんなこと全然ありませんでした…」

「じゃあデートする前と比べたらさ、はっきり言えなくなった好き、は行く前と比べて小さくなった?」

「大きくなってますよ!でも、今度はそのせいで全体像を捉えきれないと言うか」

 涙目で顔を上げた九王沢さんは、今度は自分の豊かすぎる胸を抑えて、恐る恐る言った。

「何を口にしようとしても、『違う』んです。果恵さんではありませんが、今の自分の気持ちに一つ、何か決まった言葉で容れ物を作って取り出そうとしてみても、意味がないと言うか、やっぱりそれは不完全な気がします」

 ここまで言われて、気絶しそうになった。生きてて良かった。いや、運命に感謝している場合じゃない。

「実は僕も同じ印象を、九王沢さんに持ったよ」

 僕は全力で平静を装うと、彼女にそう告げた。

「僕もデートする前は、はっきり言えたんだ。でも違うな、と思い出した。まず僕は、九王沢さんが本当はどんな子なんだか、よく知らなかった。でも、それが分かったら、九王沢さんのことちゃんと好きになれた。でもその好き、は一言では表現出来なくなった。何を口にしても、『違う』からだ。でもさ、その『違う』はまったく不正解の違う、ではないよね?」

 九王沢さんは僕の意図に気づいたのか、顔を上げて目を丸くした。

「それはただ、不完全な『正解』なだけなんだ。不一致ではなく、一致に近い不一致。一部だけど、全部じゃない。例えばタコの足が映ってる写真だけを指して、これがタコだ、と言うわけにはいかないだろ?そんな感じじゃないか」

「足だけ…つまりそれはゲソ、と言うことでしょうか?」

 九王沢さんはそこに食いついてきた。今のはボケたのでなく、完全に天然ものが出てきた。(たと)えが悪かったみたいだ。象とかにしとけば良かったかな。まあ、それはともかく。

「相手のことを知ろうとすればするほど、『好き』は分からなくなる。データーベースの情報量を増やしても、そこから答えはすでに出てこないんだ。どこにあるのだか分からないけど身体中の何かが、もう反応してしまっている」

 それこそが、紛れもなく『感性』だ。

「喩えるとそれは、同じ周波数で交信する通信機がついているみたいなものでさ」

 たぶん僕と果恵にも、それが埋め込まれていた。

「あのことがあった後も、僕は同じ周波数で果恵とそれをやり取りしようと思っていた。でもいくらチューニングしようと、相手には届かないし、向こうからも反応してくることがなくなった。でも、それも考えてみれば当然だった。だってもう向こうの方の受信機はとっくに撤去されていたんだから」


 果恵が学校を辞める、と言う知らせを聞いたのは久しぶりに教室の生活に戻ってほどなくのことだった。それは三月の終業式の日、果恵が退院してから三日も経たないうちのことだ。

「眉月果恵さんは、東京の学校に来年から編入されるそうです」

 担任が淡々と事情を語るのを、僕は春先の白昼夢のような心持で聞いていた。

 果恵が、美大に行くために、編入する?

 ほとんど学校に来なかった果恵だ。僕にとっては衝撃の一報でも教室では、軽くどよめくだけで終わった。

「やっぱなあ、普通科向いてないもんな」

「良かったじゃん。あの子、やっぱ美術の学校行った方が良かったよ」

 同級生たちの感想はそんなものだったが、僕にとっては青天の霹靂だ。

「那智くんは聞いてたんでしょ、果恵ちゃんのこと」

「ご、ごめん」

 詳しい事情を聞こうとする同級生を押し分けて僕は、職員室に駆け込んだ。


「話では、果恵は美大をずっと志していて、春からその学校へ編入するための試験を受けていたんだって言うんだ」


「ずっと知ってたんじゃないの?」

 担任などは、果恵と四六時中いたはずの僕が、出し抜けにそんなことを尋ねて来たので、本当にびっくりしたような口調で聞き返してきたほどだ。


「果恵さんは、やっぱり美大受験を考えていたんですか?」

 九王沢さんの問いに、僕は即座にかぶりを振った。

「まさか」

 僕には言下に否定できる材料がいくつもあった。まず果恵は、美大に行くために進学することを極度に嫌がっていた。実は学校に来ないことや数々のトラブルを見かねて、担任と果恵の親御さんとも何度も話し合いが持たれたのだが、果恵はどんなに薦められても美術科のある学校への転校を認めなかったのだ。

 さらに僕はほぼ毎日のように果恵に付き合わされていた。編入試験のことなど、一言も話していなかったし、もし受験したとしてそんな暇なんかなかったはずだ。

 僕は担任から聞いた果恵が四月に編入する学校を、ネットで調べてもみた。編入試験の入試の日は僕と、館山まで強行軍で一日出かけた日だった。

「どう考えても、果恵が試験を受けたはずなかったんだ」


 僕はすぐに、お城の山の果恵の家まで足を運んだ。春の穏やかな陽とは反比例して、身を切るような冷たい強風の日だったのを、今、思い出した。冬に逆戻りしたかのような寒気に包まれた邸内は珍しくひっそりと静まり返って、人の姿は一切なかった。いつもは忙しく立ち回る果恵のご両親や、農作業をするアルバイトのおじいさんがちらついたりするのだがそれもなかった。

 果恵には会えなかった。出たのは、ただ一人留守番していたお姉さんだった。

「そっか、聞いてなかったんだ」

 僕に質問をぶつけられて果恵のお姉さんは、どこか心苦しそうな表情を浮かべた。

「実はね、もう随分前から、話が進んでてね」

 お姉さんが言うには、果恵の絵はもう日本の美術の世界で力のある人の目に留まっていたらしい。

 考えてみればその気配は、なくもなかった。果恵は別に自分の絵を特に外には出したがってはいなかったが、その作品は時折、思い出したように賞をとったりしていた。と、なれば確かにそれは果恵の絵を目に留めたその人物の意向だったことになる。

「美術の世界に限らずだけど、こう言う世界はアカデミズムな力関係が横行する世界だからね」

 学術界に身を置いていた果恵のお父さんなどは、果恵が自分の進路として美術の道を択ぶことを、いつもそうやって危惧してきたが、晴れてその人の肝いりともなれば、もはやそうした心配する必要はないのだと言う。

(ゆた)ちゃんもよく分かってると思うけど、果恵は、本当に才能があったから」

 と、果恵のお姉さんは、僕にとりなすように言った。

「今はちょっとその準備でばたばたしてるから、果恵も会う暇がないけど、もう少ししたら必ず連絡するから、って果恵も言ってたから」

 今日のところは帰って、とまでは言わなかったが、そう言わんばかりの勢いで、果恵のお姉さんは僕の話を打ち切るのだった。

「豊ちゃん、ごめんね。果恵、あんな子でいつも突然だから。お願いだから気を悪くしないであげて」

 玄関の扉を閉めるとき、あまりにむげだと思ったのかお姉さんはそう言って僕を慰めようとしてくれた。

 お姉さんが僕を気遣ってくれているのは分かったし、気持ちはとてもありがたかった。

 でもそこに浮かんだ表情の、どこか触れてはいけないものに触れるような気おくれにも似たある種のうしろめたさが、僕の目にはいつもの優しい果恵のお姉さんの雰囲気と違って、取り繕われたもののように見えて仕方なかった。


「納得いきません。今度は果恵さんの態度に」

 再び腰を折った、九王沢さんは一気に不審顔だ。

「那智さんの主張する今の果恵さんが元の果恵さんではない、とするならば、この対応にはいくつかの点で抜き差しならない疑念が生まれます。一つは…」

 と言いかけてから、九王沢さんは口ごもって、

「あ、あの、いいんでしょうか。部外者のわたしがここまで立ち入った口を挟んでも」

「問題ないと思うよ。僕と、九王沢さんしかここにいないしね。実際僕も、九王沢さんが何に疑念を持ったのか聞いてみたい」

 て、言うかここまで聞いておいて今更だ。

 僕の同意を得てその気になったのか、では、と九王沢さんは意気込むように言うと、

「まず果恵さんが、希望していた進路をこれまで望んでいたかそうでないかに関わらず、択ぶことを決めた、ここには別段、疑念はないかと思われます。そのために多少、自分のことをもっとも知っていると思われる那智さんに対する気おくれがなかったとは、言えなくもないとは思いますが」

「確かに、人は変わる。以前の果恵だって、このままただ自由気ままに好きな絵を描いて、一生を過ごせるとは思っていなかっただろうしね」

 生理的に納得は出来ない。ただ、第三者である九王沢さんから見て、有り得ないことではない、と言う意見に、僕も半ば賛成だ。

「それでも問題は果恵さんの態度の急変です。ことが片付いたら『連絡を取る』。果恵さんはそんな方だったでしょうか?しかも、連絡をする、と、お姉さんに言付けてまでいます」

 以前の果恵だったら、何にせよ直接僕に話をしただろう。たとえそれが、僕にとって大きな不都合や苦痛を生む事態であったとしても。僕に対しては一切の呵責を持たない彼女は、厳然たる事実のように、僕にそれを告げたに違いなかった。

「そもそも、その話が正式に決まったのはいつのことだったのでしょうか?」

「果恵の退院後、すぐだって言うんだ」

 そこから急なスケジュールになったため、今は連絡が取れない。確かに辻褄は合っている気がする。

「果恵さんはじめ、入院期間中にご家族の方から、そのような話の前触れは?」

「一切なかった。そもそも果恵は、絵の話自体をしなくなったんだ」

 すでにそのことに興味すら持っていないように、僕には思えた。

 病室での彼女は、そもそも今までの排他的な態度で人と接したりはしなくなった。些細な雑談にも応じ、医師や看護師さんたちの指示にも従順に従い、円満に過ごしているようだった。

 大多数の人にとっては、果恵がそうなってくれて助かっただろうが、僕にとってそれは、大きな違和感だった。

「絵を描かなくなったことについてですが、突然決まった進路に乗ることに、戸惑いがあったせい、とは考えられないでしょうか?」

 僕は少しそれについて考えた後、やっぱりかぶりを振った。

「九王沢さんが言うような心の機微や葛藤もあり得ないことではないかも知れない。果恵が半ば諦めて、自分の絵を認めてもらえる人に(したが)うことに決めたのなら」

 しかし入院中の彼女は朗らかですらあった。何かに不満や不安を感じるそぶりもなく、僕に対して取り繕っていた雰囲気すらも見られない。まるで別人のように、日々を過ごすのに穏やかだったのだ。

「果恵はずっとお父さんが差し入れてくれた本を読んでた、って言ってたよね」

 何度も言うがその積み上げられた本の下にあった新しいスケッチブックは、一度も開かれることはなかったのだ。

「でも本当はそのこと自体に、意味があったんだ」

 くしくも九王沢さんが言ったように、僕も気づいてしまったのだ。接ぎ穂されたありきたりな筋書きの仮留の裏に、隠された本当の構図の存在に。


 それからずっと、連絡はなかった。果恵本人からも、また、眉月家の誰からも。

 どこかで何かを置き忘れたまま、時間だけがどんどん経って行った気がした。

 事務的な手続きとしての果恵の退学はつつがなく済んだようだった。

 僕がそれを人づて聞いたときに至っても、眉月家の誰も僕とコンタクトをとろうとはしてこなかった。

 そうしているうちに短い春休みはもう、終わろうとしていた。

 桜の枝の花芽が開き始めた頃、しきりと冷たい雨が降った。季節が逆戻りしたかのような寒気を孕んだ重たい雲が空を覆い、昼間でも暗い日が続いていた。季節外れの寒さになるのは地震の余波で磁場の影響なのだと、この頃、皆がまことしやかに言い合ったものだ。僕たちは、小さな余震にもどこか敏感になっていた。

 そんなどんよりと暗い、小雨のちらつくある一日のことだ。僕は果恵の山がある道の裾を自転車を押して歩いているところだった。親に頼まれて買い出しの帰りだ。地震の影響でスーパーに品物がなくなり、本当にちょっとしたものすら、近所で中々手に入らなくなっていたのだ。

 僕は自転車に持てる限りの飲料水と食料品を詰め込み、長い坂を上りつめ、果恵の家の前の通りへ差し掛かろうとしていた。

(相変わらずか)

 ふと僕は顔を上げて、想った。

 あれから何度か前を通ったが、相変わらずひと気がない。

 僕の父の話によると、果恵のお父さんも家のことで忙しいらしく、自治会の寄合などでも顔を見なくなったと言う。大学生の果恵のお姉さんは大学が始まるので都内に戻ったろうし、一番上のお兄さんはすでに社会人なので、この家にはほとんどいないみたいだ。

 果恵の消息だけが、あの日からぷっつりと途切れている。この屋敷からは、彼女の気配すら消えたかのようだ。

(都内へ行ったのかな)

 僕の知ってる果恵なら、絶対一人暮らしは出来ないだろう。そう思ったのだが、眉月家は東京に引き受けてくれそうな親戚がいるらしい。さしずめそこに下宿することになるのだろう。これまでの経過に納得はいかなかったが、果恵自身は自分の才能を生かす進路が決まってよかったとは思った。僕はすでに半ば以上、部外者の気分になりかけていた。

 果恵の家がある通りを抜けて、だらだらと坂を下るまでは。どんよりとした空を舐めるように揺らめく、かすかな火の気配に気づきさえしなければ。


 そこはちょうど果恵の家の柚子畑(ゆずばたけ)の溜まりの一角で、小さな台になっている場所だった。昔の城跡で言えば、主城を守るための廓が設けられていたような低い台地だ。元々は戦乱の時代さながらの矢竹の藪が茂っていたのを、果恵のお父さんの代に均して柚子の木を植えていた。

 柚子は寒い時期に出荷して選果するので、不要な果実を廃棄する穴が掘りこめられていたのだ。直径三メートルほどの穴は人が落ちたら危ないので、それほど深くは掘られていないが、潰した柚子や伐採した枝葉がいっぱい詰め込まれて、朽ちるのを待っていた。

 柚子は枝に緑色の(とげ)が無数に出るので、枝を放置しておくと危ないのだ。そのため果恵のお父さんはこの穴に枝を集め、生木がほどよく枯れるのを待って、枝を焼いて処分するのだ。

 炎はそこから、ぶすぶすと不穏な黒煙を上げて(おこ)っていた。

(ゴミでも焼いてるのかな?)

 最初、僕はそう、訝りはしなかった。果恵のお父さんに限らず、庭でゴミを焼くのは、田舎では珍しくもない。だが、こんな寒い小雨の日にわざわざやるようなことでもなかった。それに近づいてみると、意外と炎は高く上がっていたのだ。わざわざ燃焼剤を使っているのか、軽油のような金臭い刺激臭まで漂ってくる。

 つけっぱなしにしていったのだろうか、炎はただ勝手に上がっていた。周囲には誰もいないのだ。

 これだけの火だ。さすがに田舎の土地とは言え、人目につくほど大きな炎が放置されていれば、ちょっとした小火(ボヤ)騒ぎにもなり兼ねない。

(無用心だな)

 果恵のお父さんなら、絶対にこんなことはしない。

「火は人が見てないと、どんな場所でも危険なんだ」

 僕たちも小さい頃、花火の不始末で怒られたことがあるのだ。

 無意識に僕は、そこに近づいていた。ここは眉月家の山しかないとは言え、火事になったらと思ったら、放っておけなかった。

 近づいてみて、燃やしているのは柚子の枯枝でないことが、すぐに分かった。生木よりも燃えやすい火種の残骸がそこに放り出されていたからだ。

 燃えていたのは、スケッチブックだった。

 果恵が大切にしていたものに、間違いなかった。

 それらは果恵が何年もかけて、色んな場所で描いた日々の集積に他ならなかった。それが落ち葉だまりに押し込められ、灯油をかけられてまとめて焚かれているのだった。

「なんでこんな…」

 愕然とした。絶望をそのまま、つぶやくしかなかった。

 焦げついたスケッチブックの一部を拾い上げて僕がそこにたどり着いたときには、ほとんどすべてが炎の中に飲み込まれていたからだ。

 僕はそれが産み出された月日のすべてを知っている。

 僕の一部ですらある。

 それほどに、一つ一つに記憶が宿っていた。

 気に入らなくて果恵が何度も描き直した線、それが描けたのが嬉しくて飽かずに何度も眺めては大切にしていた線。思い出せる。僕だけが知っている果恵の色々な表情とともに。

 燃えてしまう。果恵が、時間を賭けて心血を注ぎこんだすべてが。

 気がつくと僕は、燃え盛る炎の中に足を突っ込んでいた。なりふりなど構ってはいられなかった。だってそこにあるのが、僕が知っている本当の果恵そのものだった。それが人知れず断末魔を上げて地上から消えてしまうのを、黙って見過ごすわけにはいかなかった。持っていたバッグで叩き踏みつけ、僕はただ必死で立ち昇ろうとする炎の息の根を止めようとした。

(誰なんだよ)

 こんなとんでもないことを、したのは。誰だ。果恵は絵を、描き続ける道を択んだのだ。たとえ僕の前からいなくなったとしても、見知らぬ誰かの意に染まっても、絵を描く道を択んだとしても。ここにあったはずのものは、果恵にとってかけがえのないもののはずだった。

 それを無残にも、ゴミの山に押しこめて焚書でもするように焼き殺すことが、そんなことが出来る人間の神経を、僕は心底疑った。どう考えたって、果恵の才能を大切に思う人間が出来る所業じゃない。

 僕は靴が煤まみれになるのも構わず、無言でまつわりつく炎を踏み殺した。何度も、何度も。油臭いその息の根が確実にとめまるまで。だがそれが済んだ頃、ほとんどの絵は、中途半端な残骸に成り果てていた。後にはどう見ても雨にぬれ始めた炭屑だけが残っているに過ぎなかった。激情に駆られた自分が虚しくなり、僕は小さくため息をついた。

「なにしてるの?」

 背中からその声が降ったのは、その時だった。息を呑んだ僕は、我に返って振り返った。

 そこに、果恵が立っていた。

 いつものワンピースの上に、緑色のカーディガンを突っかけていた。

 そして、スケッチブックを入れる布のバッグを抱えたまま。僕を、色のない目で見つめていた。


「絵を焼いていたのは、果恵さんだったんですか?」

 そこから先を九王沢さんは、恐る恐る聞いた。もしかして、と言う口調になっていた。

 僕は、小さく頷いた。

「しかも焼いていたのは、絵だけじゃなかったんだ。絵を描くための、他のすべても」

 スケッチの道具ばかりじゃない。油彩や水彩に使った絵筆やパレット、イーゼル、その他の画材も、大切にしていた画集も、余すところなくすべて。

 果恵は容赦なく焼き捨てていた。

 それらは念入りに破壊され、油をかけられて燃やされ、二度と蘇ることのないように徹底して抹殺されていた。


「絵を描くんだろ」

 もう、我慢できなかった。

「だったら、どうしてこんなことをするんだ…?」

 僕は、なりふり構わず問いを叩きつけた。それは詰問としたと言ってもいい口調になっていた。

「答えろよ!」

 (ゆた)は。

 わたしと、ずっと一緒にいなくちゃいけない。

 そう言っていた果恵が、たとえ僕の傍からいなくなったとしても。

 絵を描いている。自分の絵を愛して描き続けている。そんな果恵がどこかに存在するならば、僕はそれで納得できた。ただそれだけなのに。

 今の果恵は自らその、息の根を止めてしまおうとしていたなんて。

「どうして?」

 果恵が口を開いた。しかし、問い返してきたのは熱のない口調そのままでだった。

「要らないから。…もう意味がない。だから、棄ててる。それだけ」

「どうして」

 問い返したまま、僕は方途を喪った。

 だってどうして。

 そんなに無残に、棄てられるのだ。

 何もかもを、そんなににべもなく。なんの感情も持たずに。

 二の句が接げなかった。

 そこで焚き殺されたのは、ただの果恵の私物じゃない。

 僕と果恵が共有した時間と経験と感覚と、数えきれない感情が詰まったもののはずだ。

 そこに放擲(ほうてき)され葬られた何もかもから来る感情を代弁して、僕はそこに立っていた。それなのにこの甚大な感情の情報量を吐きつくすための次の言葉が僕には見つからなかった。顔がただ、苦痛に歪むのが分かった。今の僕は生け捕りされた(けだもの)のように、見苦しかったに違いない。

「もう描かないから」

 果恵はそこに止めの弾丸(たま)を撃ちこむように、言った。それは、僕にとって信じられない言葉だった。

「絵は描かない。だから要らない。それだけ」

 その言葉で一瞬、目に映る風景の何もかもが停まった気がした。

「…絵は描かないって?」

「そう。必要ない」

 はっきりと、果恵は断言した。

 やっぱりだ。

 危惧はしていた。どこか、ありえないことであって欲しいと言う恐怖もあった。

 しかしそれは紛れもない確信だったのだ。

 一心不乱に絵を描いた、僕が愛した果恵は、どこかへ消えたのだ。震災に遭ったあの日、まばゆい光が降ったあの丘で。果恵の顔に宿ったあの、狂気じみた恐怖のさなかに。あの表情が表わしていたのは、まさにその抹消の予感そのものだったのだ。

 果恵はそこで、喪われたのだ。

 当事者だったはずの僕は、それを直視せずに来たようなものだ。常識のフィルターを被せ、可能性を否定する根拠を積み重ね、あの日以来、啓示のようにして得た確信から必死に目を逸らしてきた。

 かつての果恵のように。僕は、すでに言える。

「違う」

 と。口にしてみて、ただ愕然とするほどに正しく、狂おしいほどに信じがたいが。

 そこにいる果恵は、暗い風景そのものになってまるで間違って紛れ込んでしまった亡霊のように、僕には見えていた。

「君は果恵じゃない」

 正気を疑われるようなことを、自分が言っているのは分かっていた。それでも、僕はその言葉を目の前にいる誰かに叩きつけることを堪えることが出来なかった。

「君は、僕が知ってる果恵じゃない。君は誰なんだ?」

「大丈夫?」

 果恵は本当に不可思議そうに問い返した。

「意味が分からない。わたしは、どうなってもわたし。何も変わってない。あなたはわたしじゃない。だったら何が分かるの?それにあなたと、わたしはもう関係ない」

「もう関係ないだって?」

 そのときの僕の顔は、憎悪に満ちていただろう。自分でも顔がどす黒く歪んでいくのが分かった。怒りと言う他ない。そして決別に対する怒りではない。どうしようもない不理解がそこに横たわっていることへの紛れもない怒りだった。

 もちろんそこで、果恵に詰め寄る気はとうに失せていた。ただ、底のない暗い穴に向かって足元から落ちていきそうだった。怒りが、激情が、これほどに虚しく感じたことはない。だってそれはいかに投げかけようが、そこに叩きつけようが、相手にはもう響かない感情なのだ。

 よく分かっている。果恵はそれをもはや、何の感情も、関わりすらもないと言う眼差しで見ていた。茫然とたたずむ僕の手から、スケッチブックの断片を奪い取って始末することしか、彼女のすべきことはなかったのだ。

 去り際に一言だけ、彼女は言った。

「さようなら」

 それが最後だった。

 その果恵はそれから二度と、僕の前に姿を現さなかった。


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