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PHASE.6

「確変」

 九王沢さんの目線がその言葉の意味を探るように、僕の目線より少し上をさ迷った。よく人が嘘を吐くとき、視線がさ迷うと言うが九王沢さんのそれは、頭の中でその言葉を何度か同じ意味の別の言い回しに変換しようとして、連想を働かせているように僕には思えた。

「結婚」

「いや、そっちは考えなくていいと思います」

 僕はすかさず言った。

 さっき元カノ、と言う単語に対して謎の反応した九王沢さんに対しては、この言葉はもっと危険な匂いがしたからだ。

「ちなみにですが」

 様子をうかがうように、やがて九王沢さんは尋ねてきた。

「結婚しなくても一生一緒にいるだろうと言う、そのお互いの意思は確認していたのですか?」

「ううん」

 僕も九王沢さんと同じように、少し明るくなってきた天井に目線をさ迷わせて考えると言葉を整え、やがてこう応えてみた。

「多分だと思うけど、それは果恵も同じ考えだったように思うんだ」

 果恵は物事にカテゴリを作って、その枠内で物を考えることは一切しない人間だった。たぶんそれは借りものの言葉で先回りして容れ物を作ってしまうと、そこに自分の感じたはずものを無理やり当てはめなければならないことになってしまうからかも知れない。

 ちなみに果恵はパソコンをはじめ、その他の電子機器に触ることも絶対しない人間だったが、(携帯電話も僕にプレゼントされたはいいが、ほぼ電源を切っていた)もしパソコンを預けたなら、彼女のデスクトップは、フォルダのないファイルだらけになってしまっただろうな、と思う。果恵が本当に必要な情報の在り処は、彼女自身にしか、分からないようになっていたし、果恵本人も実は、よく探せない分からないな状態になっていたのではないだろうか。


「ない」

 その日も、彼女はJR銚子電鉄の電車の中でカバンの中身をごそごそひっくり返していた。現実的な問題においても果恵は、実によく物を失くすのだった。そしてしかもそれはいつも、彼女の思いっきり身近にあることが多かった。違う、とか要らないものはすぐに見つける癖に、必要なものは全力を出しても自分で見つけられないのだった。

「スケッチブック」

 要望に沿い僕は黙って、カバンの中にあるそれを取り出してやった。

「なんで」

 果恵は思いっきり眉をしかめて問い返した。いや、なんでって。それはまるで、僕が隠したと言わんばかりの態度だった。

「バッグの内ポケに隠れてたんだよ。て言うかさっき、電車に行くとき入れるの見てたんだ」

 ふうん、も、そう、もなかった。果恵は黙ってそれを受け取ると、4Bの鉛筆で速写画(クロッキー)を描き始めた。

 描いていたのは、今朝、アスファルトと芝生の隙間で死んでいたカマキリの姿だったらしい。果恵とそれを見たとき、最初僕は引き抜かれたままの青草が放置されているのかと思ったのだが、よく見るとそれはへしゃげたまま横たわっているカマキリなのだった。

 なんでそんなものをとても急いで描こうとしたのか、僕にはさっぱり分からなかったが、断片的すぎる彼女の言うことを要約すると、デフォルメした人体の筋肉の曲線に、それはどこか共通点があるとのことだった。

「金剛力士像とかそう言うの」

 ああ、とそれでちょっとぴんと来た。歴史の授業か何かで習ったのだが、あれは不自然にへしゃげ、ひねりこまれた人体の造形なのだと言う。もちろん、僕が見てもその二つに関連性と共通項を見出すことは出来ない。彼女にしかない感覚がそこには、必ずあるはずなのだった。

 果恵の丸くなりかけた鉛筆の先が、極端な形に薄く引き伸ばされた草色の死骸を描いている。みるみるうちに形を成したそれは、交通事故で変形した自動車やバイクのパーツにも見えた。しかし、浮かび上がっていくイメージとともに果恵が創り出す風景を見守っていると、僕たちが今朝、出かけるときにふと目を留めた風景が、前後の記憶とともにありありと蘇ってくるのだ。

 不思議だ。そうするとこれは、何よりも確実に、あの朝露に濡れそぼってその生を終えた、誰にも顧みられることのないカマキリの死骸の姿なのだった。

 そのとき、犬吠埼(いぬぼうさき)の駅に、電車は到着しようとしていた。住宅街の中を縫って、小高い駅の向こうだ。こぢんまりとした小さな白壁の駅舎が、この鉄道の終点なのだ。

 ホームの風景が目につくと、僕は先に立とうとした。もちろん、スケッチに集中しすぎて降車ぎわにばたばたしてしまうだろう、果恵を気遣ってのことだった。

「違う」

 しかし、果恵にはそんな気遣いは、見当違いのもののようだ。瞬間、ぐいっと強い力で、僕はシートの上に強引に引き戻されたのだ。

 果恵はもう、スケッチをしていなかったのだ。さっきのカマキリは、がらがらのシートの上に放り出されている。僕をシートに引き戻した果恵は、何をしているかと言うと、肩を震わせて泣いているのだった。

「何かあった?」

 一応、僕は聞いた。

「うるさい」

 突き返すように、果恵はべそをかきつつ言い返してきた。もちろんその言い草にこっちもむきにはならなかったし、それでいいのだと言うことを、僕は経験から学んでいた。うるさい、と言い返してきたけど、彼女が本当に言いたいことは違うのだ。

 果恵は、

「怖い」

 のだった。怖くなることに、本当は理由はないし、本人もよく分かっている。感覚の鋭すぎる彼女は、描いているものに入り込み過ぎていると、いつもこうなる。果恵が生まれ持ったその感覚の切れ味はこの上なく鋭い代わりに、(きり)のように尖らせた硬質鉛筆のように、もろくて危ういのだった。


「これ要は、いわゆる神経過敏の一種かと思うんだけど」

 僕が解説すると、

「分からなくもありません」

 九王沢さんはその言葉をゆっくりと噛みしめるかのように、何度も頷いていた。

「美は(おそ)れである、と言葉にすると、逆に見当はずれかも知れませんが、美的感覚の鋭さは、ある種の恐怖につながると思います。画家でなく作家の例ですが、日本で言うなら、三島由紀夫(みしまゆきお)さんが『小説家の休暇』の中で描かれています。彼は、音楽が嫌いだとそこに記しています。それが人間の暗い深層心理からやってくる、未知なる恐怖ですらあったようです」

 その記述は僕も読んだことがあった。同じ本の中で三島由紀夫は明晰な昼の海の風景には美的感覚を感じるが、夜の海のとどろきには恐怖を感じると、表現している。

 三島は音楽の素晴らしさを理解出来ないとしながら、音楽について過剰に感じるものはあったようだ。

 自分の画に対する果恵の感覚は、それに近いものだったのかも知れない。自分の美的感覚に向いた感情が剥きだしなのだ。果恵は仏頂面の不愛想にしか見えないと言う人の方が多かったが、一日行動を供にすると果恵は泣いたり、笑ったり、素直に手放しで感情をぶつけてくるのだ。しかしそれは過剰だったり、タイミングが急だったりして、慣れた人ではないと、予測のつかないものだったため、多くの人は彼女を宇宙人を見るような目で敬遠するしかなかっただけなのだ。


「果恵は中世人(ちゅうせいじん)だからね」

 と、果恵のお父さんはよく言っていた。

 大地主である実家の財産管理をする後見人が必要になったために結局出戻ったが、果恵のお父さんは元々学者志望で、さる名門大学の史学科研究室にいたのだ。


「中世人ですか…?」

 九王沢さんは案の定、その言葉に眉をひそめた。

「正式な言葉じゃなく、果恵のお父さんの造語か、僕みたいに聞きかじりじゃないかと思うんだけど。日本の中世の人は、感情の表出が僕たちよりも激しかったんじゃないかって、書いている人がいるんだ」

 この辺は、九王沢さんにはぴんと来ないところだったと思う。だが、普通に中世の文学や史資料を読んでいても、日本の中世人は僕たち現代人に比べて色んな意味で、実に感情的と感じる。

 彼らは怒ったときには顔色を変えるほどに怒鳴り、悲しいときには声を放って泣いた。えこひいきや差別を始めとした、他に対する好悪の感情も露骨だった。その感情の激しさで自らの身体を刃物で傷つけることをも厭わなかったようだ。

 例えば恨み、と言う言葉があるが、中世では憎悪と愛情の念はこの言葉で一体になっていた。恨みが深い、と言うのはそれだけ愛情が強いことであり、また逆に強く憎むことに転ずる、と言う表裏一体の意味合いだったのだ。


 果恵は確かに、恨みの深い女の子だったと思う。その情感は絵画と言うジャンルの中に否応なく押し込められていて、まるで薄い(たらい)いっぱいに張った水のようだった。好悪、美醜、そして恐怖、それは彼女が絵を描くために動くたび、ぐらぐらバランスを喪って波打って溢れ返るのだった。

 僕が犬吠埼駅を出ようと行った時も、果恵は無言で僕の腕にしがみつくばかりだった。彼女を(なだ)める言葉なんてない。とにかくそんな状態でも移動できるなら、僕に出来ることは早くそこから降車させてやることしかなかった。

「とにかく降りよう」

 そして僕たちは二人、小さな駅舎を出た。果恵は足をもつれさせたままついてきたが、どうにか外へ出られた。

 駅舎の前、道を挟んだ向こうには青い葉をのぞかせたキャベツ畑が広がっている。左に折れれば、灯台へ出る通りだ。潮騒の音が、ここからでもかすかに聞こえる気がした。

「着いたよ」

 僕はありきたりなことを、果恵に認識させようと、やや時間をかけて彼女にその風景を確認させてみた。果恵の身体の震えは、そのときにはどうにか収まっていた。やがて自分で呼吸を整えたのか、果恵は僕の腕にしっかりとしがみつき直すと、ただ一言だけ、

「海だ」

 と、言った。


「…やっぱり普通に腕とかは、組んだりはしていたんですね」

 突然の九王沢さんの食いつきに、びくっとしながら僕は頷いた。

「果恵さんは恋人としての触れ合いを、求めはする方だったんですか?」

「どうだろう」

 僕は少しその意図について考えてみたが、やはりこう言うしかなかった。

「そうだな…これ、九王沢さんだから言うわけじゃないけど、果恵はそう言う恋人がするべきスキンシップにはほとんど魅力を感じていなかったんだと思うよ。とにかくただ、無条件に信じられている、そんな感じかな」

 無条件で僕を信じている。

 自分で言って的確だと思ったのだが、果恵はいつもそんな感じだった。果恵は言わなかったが彼女にしてみると一般的な恋人が口にする、

「会話がない、キスがない、肉体関係がない」

 それらについての不満や不安は、ただ相手への不信感そのものに過ぎないと、感じていたのではないか。それよりもさっき九王沢さんに話した電車の中での出来事のように、果恵は自分に寄り添ってくれる人の呼吸と実在を信じることを喜んだ。

 それがさっき九王沢さんが言った、運命的直感の産物であるとするなら、そう言えたかも知れない。無数の選択肢と言うジャンクから、果恵はその電撃的な直感でなんの疑いもなく、一掴みにそれを感じ取っていたのだから。

 迷惑を感じつつ僕の方も、その果恵の想いに酔っていた節がある。

 だから肉体的な関係の進展については、果恵とはずっとこうしているのだから、別に関係を急ぐ必要はないとも考えていた。もちろん相手は歴とした女の子だったし、これだけ密着されれば、正直気持ちがふらつくときだって何度もあったが。

 もちろん、性欲満点の思春期の高校生にしては、持ち重りのしすぎる敬虔(けいけん)過ぎる気持ちだ。ただ自分に意気地がないだけじゃないかとも、思ったりもした。それでも僕が理性を保ち続けることが出来たのは、僕も果恵がしかるべき時に、今の関係を推し進める行動を自分から選んでくれる。そのことを、無条件に信じていたからだ。

 果恵がその鋭すぎる直感で、一気に選んだ運命なら信じることが出来る。僕の方が焦らずとも、それを待つ方が僕たちにとって唯一最良の道を択ぶことが出来ると、僕は判っていた。それは直感でも何でもなく、経験上のものだった。

 今思えばだが、そうやって妄信的に果恵が導く運命へと身を委ねながら、僕はそこに敷かれたレールの先が崖だと言うことを知らずにいたのだ。


「そこで一体、那智さんたちに何があったんですか?」

 ここは心なしか九王沢さんも、力が入るところだ。だが僕は、ありのままをそのまま話すしかないだけに、特に高揚も動揺もしていなかった。

「まず皆が判る、状況的な事実だけを話そう。僕たちが犬吠埼に降り立ったちょうどその日だ」

 決心すると、僕は口を開いた。

「その日は平成二十三年三月十一日だったんだ」


 東日本大震災が起こったのは、その日の午後二時四十六分十八秒だったと言われている。震源は言うまでもなく東北、宮城県沖の海底だったが、その直接的な影響範囲は岩手県沖から茨城県沖までの南北約五百キロ、東西二百キロにも及んだそうだ。

 僕たちがいた銚子市に限らず震災の影響は、太平洋沿岸全域に渡り、銚子より海抜高度が低い南の旭市や匝瑳市(そうさし)では、津波が押し寄せ、町並みが破壊されたところも多かった。僕も知り合いで車ごと高波にさらわれて九死に一生を得たり、自宅を流されて戻ってきたら、トイレの穴しかなかったと言う人の話を聞いている。東北でも深刻なダメージがあったが、ここでもそれほどに凄まじい震災だったのだ。

 被災直前、僕たちは犬吠埼からちょうど駅に戻るところだった。灯台の入り口のスロープを上り、旅館が立ち並ぶ広場を抜け、畑の中の犬吠埼駅へ戻ろうとしていたのだ。

 僕たちは野外の広い場所にいたので、屋内にいる人ほど命の危険は感じなかった。でもこの地震がいつもの規模と違う、何か非日常的なものだと言うことは、すぐに分かった。

 いつものように晴れ渡った空を見上げると電柱がぐらぐらと、まだ揺れていた。そしてそれだけではない、僕たちの足元ですらまだ波間に揺れる甲板の上に立っているように、どこか心もとなく動かされ続けていたのだ。

「大丈夫」

 揺れが去ると、果恵は即座に言った。たぶん海端でもここなら、津波にさらわれることはないだろう。彼女はそう感じたからこそその一言を口にしたのだろう。

 僕はすぐ自分の親と、果恵の親御さんに連絡をとった。あそこも海から離れた山だから、そうした心配はないと思われたが何しろ、これまで経験したことのない大きな地震だったのだ。電話もメールも繋がらなかった。もちろん一斉に、皆が僕と同じことを感じ、同じ行動を取ったのだ。恐らくしばらくは、回線がパンク状態に違いない。

「どうしようか」

 僕はつぶやくように果恵に問いかけてみたが、それはまずどうやって帰ろうか、なのだった。僕たちは電車で来たのだが、それはもう動いてはいない。混乱した銚子市内のJRは、もっと混雑してしまっているだろう。

「歩く」

 果恵の判断は客観的に見ても、間違いではなかった。確かに少し遠いが、僕たち二人で歩いて帰れない距離でもない。電話もそのうち繋がるかも知れず、家に近づいていたら、どこかの時点で、迎えにだって来てもらえるかも知れなかったからだ。


 地球が見える展望台のある坂を、僕たちは歩いていた。ここは歩道がなく、畑の間を急なカーブが螺旋(らせん)を描くように通っているだけなのだが、歩行者には危険な道も今は、車一台通っていない。

「すごい地震だったね」

 僕は何度か果恵に話しかけたが、それは一人でつぶやいているみたいな形になった。果恵にしてみれば一緒に被災したのだし、今更言うまでもないことだと思ったのだろうが、いつもとは違いすぎる事態が起きて、僕も中々気持ちの収まりがつかなかったのだ。

 携帯電話はまだ、どこにも繋がらなかった。果恵の判断は尤もなことに変わりないが、この辺りの風景は見晴らしがいいから近くは見えるが、実際歩くとなると、かなり遠いのだ。

 斜面に広がるキャベツ畑を行く僕たちを、午後三時を回った陽射しが照らしてくる。被災直後の陽射しは柔らかく、ともすると果肉色のピンクががってすら見える幻想的な光だったが、空気ばかりはぴんと冷えて、真冬のそれに逆戻りしたかのようだった。

 ぽたり、と頬に当たってくる(しずく)を、僕は感じた。狐の嫁入りだ。地震で地場が狂っているせいか、お天気雨まで降り始めた。

「違う」

 僕の腕に寄り添っていた果恵がつぶやいたのは、その瞬間だった。違う。一見、場違いとも言える彼女の言葉に、僕が戸惑ったのも無理はない。最初はお天気なのに雨が降っていることかと思った。しかし果恵がそんなことをとやかく言うはずはない。僕は辺りを見渡したが、そこには果恵が非違を判断する何ものも見辺りはしなかったのはずなのだ。

「…どうかした?」

 僕はなるべく優しく彼女に問いかけてみた。恐らく非常事態が続いて、一見平常心に見える果恵も、どこか混乱していたのかもしれない。だが戻ってきた答えは、僕の予想をまったく覆すものだった。

「違う…」

 目を閉じてその言葉の痛みを噛みしめるように果恵は大きく首を振ると、次の瞬間、両手で僕を思いっきり突き放したのだ。僕は道畑のキャベツ畑に落ちそうになって、ようやく留まった。

「なにするんだよ」

 そう言い返したが、彼女はもう答えられる状態じゃなかった。

「違うの…」

 果恵は全力で首を横に振った。それから自分の頭をかきむしり、全身の悪寒を無理やり取り押さえるように、両腕を自分の身体に食い込ませると、ついにそこに崩れ落ちたのだ。ばさり、と彼女がさっきまで大切に抱えていたスケッチブックが路面に投げ出された。

「違う!違う!違う!違う!違う!」

 泣き声は絶叫になった。アスファルトに膝をついたまま、果恵は頭を抱えていた。そして、絞り出すような声で同じ言葉をアスファルトに向かって叩きつけていた。

 一体、何が違うと言うのか。

 なすすべもなく佇みながら、僕はずっと考えていた。

 さっぱり分からなかった。だが、これまでとは異なる「違う」が、彼女の直感の中から姿を現したことは、僕にも何となく分かった。今思えば、果恵はそれに全力で抗っていたのかも知れなかった。

「違うの!」

 果恵はついに顔を上げて、茫然と僕にも訴えかけてきた。

「落ち着けって」

 返す言葉がなくて、僕は言った。どんな恐怖が果恵を襲ったのかはまるで見当はつかないが、とにかくいつものように昂ぶった気を落ち着かせてやるしか、ここはないと思ったのだ。

 こんなことになって僕だって困惑していたのだが、なるべく優しい声音を選んだつもりだった。大丈夫、いつものことだ。落ち着けばいつも通りの仏頂面になって、僕に添って歩き出すに違いない。今の地震のインパクトが強かったせいか、いつもより強く果恵の感性が振れているだけなのだ。僕はそう自分に言い聞かせながら、果恵の次の反応を待った。

 皮膚の薄い果恵の顔はほの赤く血の気を帯びていたが、寒さのせいか震える唇はいつもより褪せた色彩をまとっているように見えた。

 驚くべき変化が、そこに現れたのはそれからすぐのことだ。

 果恵の視線が下に向き、何かを探るようにうつむきだすと確かにそこで恐ろしい震えは収まった。唇に手を当て、彼女は何を想っていたのか、僕には分からなかったがこの時点でまず一安心だと、僕は思ってしまった。

 しかし顔を上げた果恵の表情がくしゃりと歪み、明確な不協和音を発したとき、僕はそこにまだ、果恵に悪寒をもたらしたものがまだ去って行っていないのを、思い知らさせた。

 眉をひそめ、瞳を見開き。唇をすぼめ、果恵は僕を見返した。

 はっきりと分かった。

 彼女は恐怖していたのだ。

「大丈夫?」

 僕が手を差し伸べようと一歩踏み出すと、その顔のまま果恵は一歩、足を退いた。

「来ないで」

 あの確信的な果恵からのものとは信じられないほどの、か弱い声が出た。

「お願い」

 果恵に言われれば、僕はそうするしかなかった。

「少しでも歩かないと、日が暮れる」

 それでも、僕は現実的な判断を言い募ってはみた。

 この非常事態だ。本当は一刻も早く、家に帰った方がいい。常識的には何をおいても、そのはずなのだ。

「少しでいいの。少しでいいから…一人にして」

 しばらく、と自分が取り落としたスケッチブックを拾い上げながら、それでも果恵は言った。

(絵を描くのかも知れない)

 僕はそれで、一歩譲った。それがいつもの呼吸でもあった。

 今、彼女が恐怖したのは何か問答無用の直感が降りて来たのだ。

 そしてそれが、果恵にとって今、絶対に描かなくてはいけないものなら。

(この非常事態だって、誰にも止める術はないんだ)

 僕はそう、自分に言い聞かせることにした。

「あんまり遠くに行っちゃだめだぞ」

 こくり、と果恵は頷いた。

「すぐ戻る」

 はっきりとした声音が戻っていた。果恵の恐怖はすでにそこから去ったのだ。こんなことになったが、それで僕はすっかり安心してしまっていた。


「果恵さんは戻ってこなかったんですか?」

 九王沢さんの問いに、僕は無言で頷いた。あの時は、パニックになったなんてものじゃない。

「果恵はそのまま、いなくなったんだ。僕は彼女と来た道を戻って、隈なく探した。でも果恵はどこにもいなかった」

 やがて電話がつながり、僕は両親から果恵の親御さんに連絡を取ってもらった。そしてその足で銚子市の警察署に行き、失踪時の果恵の身体的特徴を話して保護を求めた。


 結局その日僕は、夜中に両親が迎えに来るまで釘づけになったが、果恵は銚子市では発見されなかった。港のある市街地もまだ、混乱冷めやらぬ状態にあった。

 銚子大橋は通行止めになり、漁港では鋭角に傾いた船が海に突き刺さっていた。大小となく事故や事件の連絡が入る中、ただ僕が目を離した隙にいなくなっただけの高校生の女の子の案件は、みるみる埋もれていくように僕には感じられた。

 それから二日の間、警察から情報が降りてこないので果恵のお父さんがバンを出してくれ、手分けして心当たりのある場所を探した。危険な場所に果恵がふらふらと迷い込んでいないか、それだけが心配だった。

「大丈夫だよ。君は悪くない。むしろ悪いのはあの子だ」

 と、果恵のお父さんは諄々(じゅんじゅん)と諭してくれたが、もし果恵に何かあったなら、それは誰もが言わなくても僕の責任だと言うことは、よく分かっていた。

 どうしてあの時、いくら暴れられようが悪態をつかれようが、果恵を繋ぎ止めておかなかったのか。一人で絵を描かせるにしろ、遠くからついていって見張っておこうと考えなかったのか、せめていつもは使っていない携帯電話の電源を入れさせて、それから行かせるくらいの配慮は出来なかったのか。果恵と最後の言葉を交わすまでのやり取りが、何度も頭をよぎった。

 あそこでああしておけば。ああ言う風に言っておけば。すべては、ただの後悔でしかなかった。

 そしてもちろん、そうしなかったことには、意味があったのだ。この時の僕はまだそれをまったく理解していなかった。


「三日目に果恵は、銚子から少し南に行った旭市(あさひし)の警察に保護された。波が押し寄せて進入禁止になった飯岡(いいおか)漁港周辺で、スケッチブックを持って彷徨(さまよ)っているところを、地元の人が不審に思って声をかけてくれたんだって」

 どこの藪を掻き分けて来たのか、発見時、果恵は髪も服も泥だらけ、剥きだしの手足には芝や濡れた草にまみれた細かい傷が無数についていたと言う。

 ずぶ濡れだけに熱があって朦朧(もうろう)としていたらしく、話しかけても意味不明のことばかり言うので、保護した方がすぐ警察に報せてくれた。僕たちにまで情報が届く決め手になったのは結局、そんなひどい状態になっても彼女が大事に抱えていたあのスケッチブックだったのだ。

 自分を責めさいなんだ三日間の終わりに、僕はようやく息をついた。だがまだ、終わっていなかった。そのときの僕は一時の安堵で忘れていたのだ。果恵があれほどまでの恐怖を感じながら、

「違う」

 と言った、そのものの正体に。それはまるで僕の足元で海流に洗われて揺らぐ地殻のように、不気味な本震を孕んだまま、実は沈黙していただけなのだった。


「記憶喪失、ですか…?」

 九王沢さんは案の定、怪訝そうな顔をした。

「戻ってきた果恵さんが、記憶を喪っていた、と」

 九王沢さんの言葉が含むところを確認しながら、僕はゆっくりと頷いた。

 熱から冷めた果恵は、徐々に会話をするようになってきた。その様子ですぐに分かったのだ。果恵が自分の人生に関する全ての記憶を喪っていたことを。

「ショッキングな体験には、必ずあることだ。災害や戦争のショックで一時的にそうなってしまう人の例も少なくない」

 だが、果恵のそれは違っていた。

 喪われたのは、ただの記憶ではなかったのだ。

「信じられないかもしれないけど、とにかく言わせて」

 と、僕は意を決して言った。


「彼女自身だけが、そこで喪われたんだ」


 ついに、僕はその言葉を実感を持って吐き出せた気がした。

 被災時のショックで彼女はただ記憶を喪ったのではなかった。彼女自身がそこで喪われたのだ。

 あの時の、

「違う」

 それは、その言葉を生で聞いた僕だけが、いち早く気づくべきことだった。

「ちょっと待ってください」

 九王沢さんがあわてて遮った。僕は話を進めるのをやめた。分かっていたのだ。九王沢さんは必ずそこで、話を止めるだろう。常識的に考えて、それは当然なのだ。

「那智さんが体験したことは体験したことで、それは事実だと思います。しかし、きちんと確認しなければならないことがあると思います。例えば那智さんはさっき、記憶喪失、と言う言葉をあえて使いましたよね」

「うん、ごく一般的な意味でだけどね」

 僕は小さく頷いて見せた。

 九王沢さんが言わんとすることは、僕にも分かる。

「脳科学の見地からすると、生体の人間の脳から記憶が『喪われる』ことはまず、有り得ないんだったはずだ。意識下に表出してこないのは、ただそこに『つながる』手がかりを喪っただけなんだそうだよね」


 記憶喪失。

 フィクションの世界では安易に使われることが多いこの概念だが、病状としては、

「健忘症」

 と言う。『喪われた』のではなく、『忘れてしまう』病気だ。

「脳は海馬(かいば)と言う組織を通じ、その細胞の中に記憶を照射して保存すると考えられています。それはちょうど、画像情報を保存しておくハードディスクのように。これらはいくら削除の操作をしても、ハードディスクが破壊されない限りは完全に除去されることはありません。ただ、アクセスする手段が喪われるから、そこに『存在』しないことになっているだけです」

 その通りだ。パソコンのデスクトップや僕たちの操作の及ぶ範囲を『意識下』だとすると、『データが削除された』と言うことはそのデータにアクセスするショートカットが喪われただけで、データそれ自体は確実に存在する。その証拠に廃棄されたハードディスクでも解析ソフトをかければデータを再生出来るのだ。同じように健忘症になった人間も理論上、何かのきっかけで記憶を取り戻すことは可能なのだ。

「健忘症には、新しいことを覚えることの出来ない『記銘(きめい)』の障害と、以前のことを思い出せない『想起(そうき)』の障害の二つに分類されます。お話を聞く限りでは、果恵さんは『想起』の障害にあたる、いわゆる全生活史健忘ぜんせいかつしけんぼうだったと思われます」

 果恵の場合、発見された時にほとんど自分と身の回りのことは話が出来なかった。だがそれは時とともに少しずつ回復していったのだ。

「確かに震災のせいで、一時的に被災時の記憶や自分の生活史を健忘してしまった人は他にもいたって聞いていた。でもそれは予期せぬ混乱を突然体験させられたために起こった心因性のもので、症状はごく一過性のものだったはずなんだ」

「果恵さんの健忘症は、完全に回復しなかった?」

「いや、生活記憶そのものは間もなく全て思い出したんだ」

 これは僕が後で知ったことだが、お父さんの顔を見た時には果恵はその名前を言葉にしないまでも、はっきりと記憶があると言う反応を見せたそうだし、兄姉と再会すると、次の日には自分の身元と名前をきちんと答えることが出来たと言う。

「那智さんのことは?」

「ちゃんと思い出したよ。あの日、僕たちが犬吠埼で被災し、どうやって行動したのかも。でも、大事なのはそこじゃなかったんだ」

「どう言うことですか?」

 九王沢さんは怪訝そうに眉をひそめた。

「信じがたい話だった。でも、僕は薄々感じてはいた。保護されてから初めて、僕が果恵に会ったとき」


 小春日和の陽射しが溜まる病室で。

 びっくりするほど色のない眼差しを、果恵は向けてきた。僕は憶えている。思いつめただけの熱量と強さをまとっていた果恵の瞳が、薄く澄み切ってただ僕を見ていたことを。

 僕はただ、愕然とした。

 真夏真っ盛りの太陽と真冬の昼の月くらい、それは違っていたからだ。強いアルコールが誰が触れたわけでもないのに、いつの間にか真水に変えられてしまっていたように、僕はある種、魔法をかけられたような非現実的すぎる感覚で、そんな果恵の姿を見返していたのだ。

「憶えてるよ」

 彼女は唐突に言った。それから介添えの医師と家族に話した。それこそこれ以上ないくらい完璧に。僕の名前から、関係から、あのときあったこと、余さず全て。


「でもそこにもう、彼女はいなかった。果恵がその目で僕を見ただけで、一瞬どきっとしたんだ。今の果恵は僕が知っている果恵と『違う』んだって」

「そんな、それだけで。もっときちんと確かめなかったんですか?」

 そこまで聞いて九王沢さんは堪えきれなくなったように言った。

「果恵さんは那智さんを愛していたんでしょう?那智さんだって、ずっと果恵さんと一緒にいたいと思ってた。それがどうして何の確認も諍いもなく、『違う』と言う一言だけですれ違おうとしてしまうんですか?」

「僕だって納得いかなかった。でも、話したと思うけど僕は突然、ぽんとそれだけ渡されたんだ。否応なく唯一絶対の、一つの答えを」

 答えは果恵と再会したそのときから、目の前にあった。

 あのとき、僕の『彼岸(ランズエンド)』で。

 確かに果恵は、喪われてしまったのだ。

 肉体は死なず、記憶は死ななくても。

 納得できるはずがない。実存としての果恵はちゃんとそこにあるのに。

 僕はその結果だけを渡され、抗おうとしてさらに思い知らされ、叩きのめされた。

「果恵はあれから絵を描かなくなった。興味も持たなくなったんだ。今まで見ていたもの、感じていたこと、信じていたこと、全部」

「分かりません」

 九王沢さんは納得いかないと言うように首を振った。

「ただ、絵を描かなくなったことが、それほど問題でしょうか」

 だとしても、果恵は果恵じゃないか。本当に愛していたなら、愛された時間があったなら、もっとどうして信じて待ってあげることが出来なかったのか。これ、誰がどう考えてもそう感じると思う。

「僕だってそれをしたかった。でも、それが徹底的に無駄だと思い知らされた」

 肉体の実存や、記憶と言う情報量の問題じゃない。なくなってしまったのは、それが再現されたからと言って、そこに存在するとは限らないもの。

 それこそさっきまで、九王沢さんと話していたことだった。

「こういうのが、一番適当かも知れない。あの確変で、僕は確信させられたんだ。あのとき確実に、何が起こったのか」

 九王沢さんにもっとも伝わりやすい言い方が、僕の中に一つだけあった。重い気分をおして、僕はそれをようやく口にした。

「喪われたのは、果恵の感性そのものだった」


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