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PHASE.5

 どこから話したらいいだろうか。どうやって話そう。その言葉を自分に投げかけてみて、ふと現れてきたのはある女の子の映像だった。

 すでに三年以上ぶりになるその記憶は、もう僕自身のものですらない。

 記憶の片隅に引っかかっているのは、ほとんど実感すら失い、断片的な欠片としてジャンクの中に突っ込まれているような、今の僕にとって置き捨てられた映像だ。

 彼女の話をしよう。

 僕の中で、ある女の子の映像そのものがゆっくりと、瞳を閃かせた。

(そうだ)

 彼女のことについて、まず僕は九王沢さんに話さなければならないんだった。

 目を閉じて僕は、彼女の断片的な思い出を仕舞い込んだ映像を解凍した。

 まだ、何とか思い出せはする。

 陽にきらめいて少し赤い、肩まで伸びた髪、それに山なりに分けられて白く光るおでこ、切り詰めたように細められる透明な光を集中した眼差し。

 西日の中で振り向く、薄いフリルのワンピースをまとった華奢な身体つき。

 陽に蒸れた咲き初めの花を思わせる、まだ青臭さを感じる甘酸っぱい香り。

 突き刺さるような訴求力を持った声。

 そして僕に話しかけた言葉の数々。

 これらはもう、喪われた。どこにも繋がることがなくなってしまった。

 僕にとって、だけじゃなくて今、生きているはずの彼女にとってもそれはもはや、完全に今ある現実から途絶した記憶への手がかりなのだ。


「結構、事情が複雑なんだ」

 結局、言いわけをするように、僕は口を開いた。

「どこから話したらいいか、分からないからとにかくいちから話すよ。だから」

 きっと長い話になる。

 この短時間で、僕たちがどこまで気持ちを共有できるかは分からない。何しろ、これから僕たちが潜ろうとするのは、物凄く深い場所だ。本来は物語ですらなく、それがはっきりとした形を採る以前の。でも、僕はそこへ、潜ることに決めた。

 日常の光が届かないほど、垂直に掘り込まれた、とても長い意識のプールに。普段、小説を書くなら、そこには自分の身の丈ほどにしか潜らない。息が続かなくては、戻ってこれなくなってしまうからだ。その水槽の底にうっかり落とした指輪ほどの何かを、僕たちは頭を下に、どこまでも潜って取ってこなくてはならないのだった。


「ねえ、九王沢さん?」

 僕が勝手に語りだしたのが悪いのか、九王沢さんは、じっと息を詰めているばかりで本から顔を上げない。さっき一応、物語の口火を切ってみたんだけど肝心の彼女の返事がないのだ。あれ、もしかして僕に全然注意向いてない?

「あのさ、そろそろ…話をしてもいいかな?」

「ええっ?!あっ、はっ、はい!」

 もう一度、僕が言うと九王沢さんは、おでこを指で弾かれたように冊子から顔を上げた。

「ごめんなさい。お話聞く前にもう一度って思っていたら、つい内容に見入ってしまいました。でも、もう大丈夫です。お話、どうぞ。いつでも、どこからでも、うかがいます」

 と言うと九王沢さんは足を組み替えて座り直した。玄関先で飼い主を迎えるトイプードルの子犬みたいだった。さすがは英国系クォーターだ。微妙に正座が出来てないのだ。

「ごめん。すっごい話しづらい」

「どうしてですか?今、那智さんの声、一番よく聞こえてますよ?」

 どきどきするからだよ!まださっきは隣に座ってるくらいだったからいいが、こんな近くで真っ直ぐこっち見られると、吐息の気配すら感じられてしまう。しかもジンの気配が九王沢さんの吐息をもっと甘く、悩ましいものにしている。さらには中途半端に畳まれた太ももの線が、ちゃんと正座出来てない分、いやにしどけなくて。

 これでは精霊どころか淫魔が先にやってきそうだった。

 僕は床に手をついたまま、ぐいぐい迫ってきそうな九王沢さんから顔を逸らして、ため息をついた。だったらさっきみたいにそっぽ向きながら話を聞いてもらった方がまだましだった。

「そ、そうだ、九王沢さん。本」

 僕はあわてて自分の小説が載っている会報誌を拾い上げると、九王沢さんの顔との間に距離を作ろうとするように掲げてみせた。

「サークルの合評会みたいに読み合わせするって言ったろ?だったらそこから話を始めないか?」

「合評会みたいに、ですか…?」

 九王沢さんは目を丸くしたが、すぐに何かにぴんときたのか興を得たように、その唇を綻ばせた。

「それは名案だと思います」


「まず、読んだ率直な感想を聞かせてくれないかな。今、ここで読んでみた印象でいいいよ」

 すると九王沢さんはきらりと瞳を輝かせた。

「率直に言っていいんですか?」

「う、それは」

 さすがに言葉に詰まった。これだけ近しくなったから分かるが、この子、本当に容赦なしなのだ。ほんわかしてるように見えて、言い合いも鋭く果敢に挑んでくる。その迫力はまるで、レイピアで決闘する騎士である。やっぱり欧米のディベート感覚ってそうなのだろうか。でも僕は覚悟を決めた。この子と向き合うことで、僕はもう一回あの場所まで、絶対潜るって決めたからだ。

「うん、言いたいこと言っていいよ、なんでも。僕だってさっき、九王沢さんにあることないこと、さんざん酷いこと言っちゃったわけだし」

 そう言えば、僕はまだそれをちゃんと謝っていなかった。僕は彼女とのディベートに敗れた上、逆ギレして置き去りにしたのだ。さっきは本当にごめんね、九王沢さん。

「批評ですから、そうした問題とは別だと思います。それにさっきのはさっきので、わたし、逆に嬉しかったですよ。いつも優しい、那智さんとは違う顔が見れましたし。たぶんさっきの、依田さんも知らない顔ですよね?」

「う、うん」

 依田ちゃんにあんな態度とったら、僕は間違いなく息の根を止められるだろう。恐らく、言い訳すら聞いてもらえずに。

「またわたしだけの、新しい那智さんが知れました」

 九王沢さんはそんな僕の答えを聞くと、嬉しそうに身を揉んだ。

「『苦い和平より、分かち合う痛みを』」

 九王沢さんは密事を話すように、自分の唇に人差し指を当てた。

「入英以来の九王沢家の家訓です。わたしの両親も、お互いの間で認識や意見の違いがあれば、わたしが幼い時から夜中まで納得いくまで言い合いをしたりしていました。どんなに忙しいときでも。今でもたぶん、そうでしょう。わたしたちは、本質的には分かり合おうとするために対峙し、そこで対話をするんです。だから那智さんはわたしのところへ戻ってきてくれたし、『ランズエンド』に隠された那智さん自身のお話を、話すことを決意してくれた」

 九王沢さんは言うと、そこで苦い和平を放棄した証としてその小冊子を供述宣誓書のように、掲げて見せた。

「じゃあ、まず一見しただけの印象を言いますね」

 僕は息を呑んだ。九王沢さん、どんなことを言うんだろう。

「感想としては、皆さんが合評会で那智さんに寄せていたものと、ほぼ変わりません。非常に退屈な作品でした。タイトルは内容にそぐわなく、展開はおざなりで、人物描写はあっけないほどに平板です」

 うおっ、これずきっときた。

「心理描写に至ってはところどころで状況との食い違いや作者の単純な思い違いが見られ、またそこで使う必要がないと思われる比喩表現や言い回しの多様が気になります。そのためにただでさえ薄い話の筋が、作者の文章力のひけらかしで水膨れしている印象さえ受けました」

 今まで受けた中で、間違いなく一番辛辣でいて鋭い酷評だった。一っ言も反論できない。皆が「ぴんと来ない」とか「話がちぐはぐ」とか「全然読み進まなくていらっとくる」とか好き勝手に言うのを余すところなく総合して成文化するとこんな感じになるのか。

「しかしそれはあくまで一見した印象なんです。まずわたしの目を留めたのは、この文章全体が、不自然に水増しされ過ぎていることでした。必要のない表現が書き足されて心理描写がぼやかされ、誰もが聞くまでもなく先が読めるような凡庸な展開や人物設定が接ぎ穂されて、それがちぐはぐな印象を与えているんです。

 これはちょうど中世の画家が、発表できない画題を隠ぺいするときに似ています。出資者(パトロン)の王様や教会には露見しないように、当時の社会通念では許されない、画家の真意を封じ込めるときのように」

 九王沢さんは絵画の美女のような謎めいた笑みを含むと、話を続けた。

「彼らも、絵画で那智さんと同じことをしました。完成された下絵がすでに存在するのにキャンバスに不必要なものを描き足して、または違う題材にそっくりと描き替えて。

 そうやって元の色彩を塗り重ねでぼやかして、そこにこめられた意図を上手く隠すんです。完全に隠すのではなく、そこはかとない暗示や寓意をそこに残しながら。まるで知らずに通り過ぎていくギャラリーに、皮肉を投げかけるかのように」

「そんなに僕、すっごい人じゃないんだけど」

 作品に謎をかけるなんて、これじゃまるでレオナルド・ダ・ヴィンチだ。

「確かに。彼らは『伝えてはいけないこと』を、伝えるためにこの手段を用いました。でも那智さんはたぶん、別の動機で同じようなことをしたんですよね?」

「動機って言うか、逃避って言うか」


『ランズエンド』。

 そのタイトルを思いついたときに、僕の頭の中に自然と映像が入ってきたのだ。

 彼女がいた風景。

 そして、僕があの日浴びた夕暮れの光線。

 その不可解な陽射し。

 とにかくただ、事実だけを言おう。

 僕は僕が出会った現実を、あったことそのままに表現することが出来なかった。

 僕たちの間で内包された空気や感覚そのままに。なぜなら本当はそれがあったことそのものより、何より重要だったから。物事の経過や筋をただ追うことでは、表現しきれない多くのものがあったはずだったのにそれをすべて亡くしてしまったから。そして今の僕にとってはまだそれは、いぜん一貫として不可解さの塊そのものだったのだ。

 全く不可解なまま、物語を描くことは本来、誰にも出来ない。何か物事を表現するときには、たとえただの断片に過ぎなくても、自分なりの把握と納得が必要なのだ。僕にはそれが出来なかった。そこでただ(いたずら)に皆が妥協できるような凡庸な解釈と結末を与え、形ばかりの物語にしてしまったのだ。

 そこで本当にあったはずの文脈を、僕が安易に走って殺してしまった、そのことは認めざるをえない。

 これもいわば、作家の悪夢の一つだ。


「確かに、人間に(たと)えれば、これは間違って埋葬された遺体です」

 九王沢さんはぎょっとするような表現で、僕の意図を汲んだ。

「しかしどこで間違いが犯されたのか分かれば、正しい場所へ葬ってあげることが出来ます。まずはそれには、遺体を生前の元の姿に復元する作業が必要なのです」

「元の姿に復元する?」

「はい、出来ないことはないと思います」

 九王沢さんは『ランズエンド』のページを開くと、言った。

「那智さんもさっき、同じようなことを話していたはずです。作家は自分の立場から逃れることは出来ない。自分を表現せざるを得ないんです。たとえそこに、いくらフィクションと言うイミテーションを織り交ぜようと」

 その言葉を皮切りに九王沢さんはメモを取り出すと、僕の話を聞きながら、『ランズエンド』の内容を的確に解体していった。それは確かにまるで、遺体の腑分けだった。

 九王沢さんは熟練した監察医のように、一つ一つの文章を、表現を、展開を取り出していき、そこに接着された不自然なものと、本来僕が表現しかかった「やむを得ない」ものに切り分けたのだ。なんとその場で、である。

 彼女の判断には、恣意的な流れはもちろん、一度の迷いもよどみもなかった。書いた本人が自分のことだって中々分からないのに、九王沢さんは、恐るべき直感力で、僕の感性を切り分けていく。一つとして彼女の判断に、異を唱える部分がなかったと言うのが、驚異的だった。

 みるみるうちに『ランズエンド』が、原型に立ち戻っていく。

「問題は接合された展開に、なかったことにされた本来の進行です。このお話では、主人公の男性を見限った女性には、密かに関係を始めていた別の男の存在がたびたび暗示されます。

 それはすでに初期の会話からも、伏線が張られていることですが、彼はこの時点ですでに相手の態度からそれを追及できるだけの材料を持ち合わせていました。しかし、主人公がその事実をはっきりと認識させられるのは、その場ではなく別離を決意してから、半月も経って後のことです。しかも彼はそれをなんの葛藤もなしに無条件に受け入れ、相手に対してそのときもう、何の感慨も持たなかった、と描かれています」

 九王沢さんが感じたことは、皆が感じたことの範囲内にまだあった。そこで僕は、反射的に言い返した。

「皆にとっては不自然かも知れないけど、そう言うときってあるんだよ。それって後でやっぱりあそこでもう少し粘ってしがみつけば良かった、とか未練を持つのと揺れ動く、表裏一体の感情で」


 僕は似たようなことを依田ちゃんに指摘されたときの逃げ口上をそのまま述べた。そう言えば依田ちゃんもそこはさんざ追及してきた。

「全体的に主人公が受身過ぎなのが、気になり過ぎです。作者都合でただ動かされてるって言うか。自分が好きな人に他に相手がいることが分かっているなら、それをはっきりさせてやろうとか、行動や言葉に移さなくても上手く呑み込めない気持ちが消化されていかない部分の描写がないと、読んでる方はいらっとします。この人、自分の現実に対して無抵抗って言うか、いろいろスムーズ過ぎません?て言うか主人公、僧侶ですか?ヒマラヤで修業した高僧の恋愛なんですか?」


「さすが依田さんは、鋭いことを仰いますね」

 それを聞くと、九王沢さんは、どこか悔しげに唇を噛んだ。

「わたしも同感でした。さっきのS‐O‐R図式を思い浮かべて下さい。人間は自分の状況判断のパターンで対処出来ない事態にあったとき、本能的にそれを経験として消化する作業を行います。そのためにまず、自分の言葉で現状を置き換え、把握できない部分を(あぶ)り出すんです。ちょうど生物の免疫機能のように」

 例えば病気になったときなど、異物が入り込んできたときに機能する人間の免疫機能に喩えて九王沢さんはそれを表現した。そう言えば、病原菌に対処しようとする免疫機能の行動と、人間が経験を消化しようとする作業の構造はよく似ている。

 いわば『異化(いか)』と『同化』の過程なのだ。

 僕たちの身体は、例えば未知の病原菌が侵入してくれば、身体はそれを異物と判断し、これまでの状態を保とうとする恒常性機能を維持しようとして反応する構造になっている。

 その際に自分と自分以外のもの、これをはっきりするのが『異化』だ。

 それはさっきのS‐O‐R図式にとれば、『自分で判断できる変数』と『そうでない未知の変数』を区別する動きに繋がる。認知心理学者は、人間は外界の刺激(S)に対して、即座に媒介変数(O)を変容させると図式を簡略化するが、その間には、今までの自分を維持しようとする人間の恒常性からくる本能的な抵抗の中間過程があるのだ。

 当然、自分の立場から『遠い』ものほど『異化』の反応は強い。外界の刺激に対してそれを自分のものとして『同化』するか、『排除』するかの判断を迫られるわけだ。もちろん『排除』を前提にしたとしても、基本的に人間は現状に適応して『同化』の道を選ぶ。

 まずどれほどに違和感を覚えようと、人はとりあえずは分かる範囲では、相手のことを分かろうとはするのだ。なぜなら結果判断はどうあれ、自分はその状況に出会ったと言う事実に直面し、生きていかなければならないからだ。

「主人公が初めから運命に対して受動的なのには、意味があると思うんです。まずすぐに指摘できるのは、彼が受け入れがたい現実に対して受身になるまでの過程が抜けていること。依田さんが指摘したように、そこには『異化』と『同化』がせめぎ合う過程があったはずなんです。分かりやすく言えば、いわゆる『納得』と『拒否』が。しかし、彼は一切の葛藤もなく、ただその過程から出た『答え』だけを持ってそこに立っています」

 九王沢さんは僕の様子を見ながら話を続けた。

 僕は応えなかったが、その指摘は確信を得ていた。

 あの流れに翻弄されるばかりの主人公の造形。

 もちろん。それには理由がある。実際僕は、過程を経ずに、その答えだけをいきなり渡されたからだ。人智を超えた未来の人工知能が決定する、不可避の人間の運命のように。検算不能の答えだけをぽつんと渡されたのだ。過去を掘り起こして描くなら、僕はもう、そこから始めるしかなかったのだ。

 とりあえず僕はそれをそのまま話すことにした。なんと、作者が分からないと言うのだ、それは読者にとってはお門違いの尻の持ち込み方だっただろう。普通の人ならだれしもが眉をひそめたに違いない。しかし、九王沢さんの反応は僕が予想したものとは違った。

「とても、興味深いです。実はその答えがまず、聞きたかったんです。わたしもこの主人公に対しては同じように、感じていましたから」

 と言うと九王沢さんは本を開き、あるパートを僕に見せた。

「となると、やはり台詞の価値が鍵になるのではないでしょうか。ここには、相手側の女性と那智さんが関わった本当のやり取りが書かれているはずです。わたしが注目したのは、この部分なんです」

 九王沢さんが選び出したのは、主人公が彼女を説得しようとするシーンだった。

「あの受身な主人公が、相手の気持ちを変えようと、珍しく自分から言葉を投げかけてきます。しかし、相手からはにべもなく、こう返されて話を打ち切られるのです」


「何を言っても、何か返ってくる」

 うんざりしたように、彼女は眉をひそめた。

「あなたと話してるといつもそう。あなたが言いたいことって、みんなもう、この世界にちゃんと準備してあるのよね。でも、一つとしてあなたのものじゃない。だから本当はどれも、最初から聞く価値なんてなかったのよ」


 あなたは自分の言葉で語っていない。

 僕は思わず目を見張った。それって、今日僕が九王沢さんに言われ続けていた言葉と同じじゃないか。そうだ、今まで気づかなかったが、僕はすでに以前、違う相手からこの言葉を投げかけられていたのだ。さすがは九王沢さんだ。彼女は無数のジャンクの中から、あの電撃的な直感力でこの言葉を掘り出してきたに違いない。

「この言葉に応えきれず、彼は再び沈黙の世界に入っていきます。絶句の過程で彼はこう考えます。(と、九王沢さんは内容を朗読した)『この世界に無数に存在する『好き』を表現する言葉。そのどれもを禁じられたとしたら、自分はどうやってそれを彼女に伝えればいいのだろう。

 確かにそこにあることばかりは、僕には分かるのだ。それを伝えることだっていくらでも出来るはずなのに。彼女はそのあらゆる手段を放棄しろと言う。その上で厳重に閉じ込められた箱から、蓋を開けずに大切な中身を取り出してみせろ、と詰め寄るのだ。それを彼女は刃を突きつけてするように、僕に要求しているのだった』

 物語ではここで対話は終了し、主人公はついに自分の言葉を見つけられずに終わります。締めくくりの言葉が印象的です。

『好きと言う以外にない、あいまいでいて巨大なはずの情報量を表現する他の言葉。果たしてそんな言葉があったのだろうか。それはこの世界に、ではなく、僕の中に形作られた力強い何かとして。僕は、彼女に与えられた最後の時間でついにそれを見つけることが出来なかった』」

 九王沢さんの澄んだ朗読の声が、僕にはあのときの光を浴びた記憶を呼び起こさせた。確かにあそこで僕の意思は途絶したのだ。九王沢さんは遺体だと、それを表現した。でも僕は本当はそこにあるのは、遺体だとすら、実感できなかったのではないか。

 僕は大きく息をつくと、覚悟して言った。

「九王沢さん、僕の言葉は確かに届かなかった言葉だった。たぶん僕は彼女に、届かなかったことを認めることすらしていなくて、結論を受け入れただけだったのかも知れない」


 彼女が好きだった。

 その言葉の死を、僕はまだ受け入れていない。

 それは単純に、まだ諦めていないと言う意味ではない。突然死に絶えたその言葉が僕の中で宙に浮き、まだ亡霊のように漂っていると言うことだ。

 決して大げさな話でなく、彼女を愛した僕は、確かに一度死んだ。そして気がついたら、蘇生していた。僕の中でその過程がすっぽりと抜けていることが、今の僕が書く文章の空疎さを形作っているのだ。


「彼女と言うのは、小説の女性ですね…?」

 九王沢さんはうかがうように小さな声で尋ねると、心配そうに僕をのぞき込んできた。

「この方はもしかして、亡くなられているのですか?」

「いや」

 僕は反射的に言ってから、思い直してかぶりを振った。

「死んではない。常識的に、物理的にはと言う意味でだけど。でももう存在しない。僕につながる道は、そこで全て喪われてしまったから」

 九王沢さんは美しい顔を痛ましそうにかすかに歪め、しばし何かを思った後に質問を重ねてきた。

「どんな方だったんですか?」

 グラスに少し残ったジンを舐めながら、僕は考えた。

「物凄く直感力の鋭い()だった。九王沢さんとはまた、別の意味でだけど」

 あなたには自分の言葉がない。

 九王沢さんと同じことを、僕はかつて彼女に言われた。

 でも考えてみれば、一つ決定的に違う点がある。

 彼女は僕の中に自分の言葉がないと断じ、九王沢さんは、あると信じてくれた。僕はそんな九王沢さんに全てをきちんと話したかった。そこでついに彼女の名前を告げることにした。

「その人の名前は、眉月果恵(まゆづきかえ)さんって言ったんだ」


「眉月果恵さん…?」

 九王沢さんは僕の言葉を反芻した。そして鳥が雛を温めるように両手をそっと自分の胸の前へ当てると、僕が発した言葉の意図を確かめるようにしばし考えた。

「それは、今でも那智さんの大切な人ですか…?」

「分からない。でももう、たぶんそうじゃないと思う。こだわりがあるとすれば、それはただ、自分に起きた出来事の不可解さが呑み込めていないせいだろう」

「元カノですね?」

「か、軽い言い方をすればそうだけど…」

 すると、九王沢さんは僕の顔に手を伸ばすと、謎の行動に出た。なぜか僕の頬の肉をぐいっと指で()まんだのだった。これ、意外に痛かった。

「なっ、なんですかこれ!?」

「す、すみません。つい発作的に」

 やってしまってから九王沢さんは、我に返ったのだろうか。あわてて、自分の手を引っ込めた。この人もやっぱり、不可解な人だ。

「でもなぜか今、少し気持ちがすっとしました」

「気が済みましたか…」

「はい、今の時点では」

 それはこれからの話次第では分からない、と言うことだろうか。つまり九王沢さん、元カノの話をしたから、嫉妬したのだ。僕にとっては驚くべき事態だった。あの九王沢さんでも嫉妬するんだ。

「話を続けていいですか」

 新たな九王沢さんの一面に未知の恐怖を感じながら、僕は尋ねた。

「はい、どこからでもどうぞ」

 九王沢さんは微笑んだ。それはまた、やっぱり完璧な天使の笑みなのだった。僕は残りのジンを九王沢さんと僕のグラスに注ぐと、小さく息をついて話し始めた。

「まず千葉は僕の地元だって、話したよね」


 作品に出てくる千葉県は正確に言うと、僕の両親の実家である。

 僕は高校に入るまでは、都内にいたのだ。

 僕の父親は元々、出版業界にいた。最初は会社勤務で雑誌編集の仕事を手掛けていたのだが、やがて信頼できる人と組んで独立し、自ら小さな出版社を立ち上げた。そこで自分の文芸誌を創刊したのだ。

 すでに出版不況が嘆かれて久しい頃の、冒険だった。現在も大手の文芸誌ですらがそうだが、こうした雑誌は会社の売り上げには貢献せず、むしろ赤字が常態なのだと言う。いわば雑誌を運営する意義と言うのは、作家が作品を完成し、本になるまで稿料を保証するためのシステムなのだ。しかしこれは、出版社が一方的に負担を持つ仕組みになっているとも言えなくもない。

 出版社は苦労して作家の原稿を取り、完成するかも分からない作品に分割して原稿料を払い続ける。そうしていざ作った本が刷けなければ、出版社の丸々赤字になると言うリスクを負っているのだ。しかしそれは、それでも作家を育てて、いい本を作り上げようと言う出版業者の情熱があればこそ、続けられることとも言える。

 僕の父は自ら営業に立ち回ってまで、数年雑誌運営を続けたが、たちまち窮した。そこでことが決定的になる前に負債を処理し、会社を畳むことにしたのだった。幸い父に、莫大な負債は回ってこなかった。僕の父親は実に手際よく身の回りを整理した。

 そうして出版業界に見切りをつけた父は、僕たちを連れて実家の千葉へ帰ったのだ。そこで同郷の母方の実家で、住職不在になった寺の運営を引き継いだのだった。

 お寺は小高い山の上にある中々広い敷地で、正確には銚子市ではなく、近くの匝瑳市(そうさし)寄りの境目にあった。

 幼い頃から僕も度々遊びに帰ったものだった。進学する頃だったので、僕にとっても悪くはないタイミングではあった。もちろん、都内に未練がなかったと言えば嘘になるが、長い休みのたびに遊びに行ける田舎が自分の家になることが当時の僕は自然に、喜ばしいことだったのだ。元々千葉の方が、僕には水に合ったに違いない。

 進学した高校も、都内のそれよりのんびりとしていて、僕には溶け込みやすかった。今でも帰省すれば、飲みに行こうと言う連中が沢山いる。当時の思い出は、楽しいものばかりだった。

 眉月果恵はそんな当時の僕の新しい風景の中にいた。

 彼女はクラスメートで、しかも元は幼馴染だった。果恵の家は僕のお寺がある隣の山一帯を持つ大地主で、父親は僕の父と同級生だった。物心ついたときには、僕が実家に帰るのは果恵のいる山へ遊びに行くことと、ほとんど同じ意味になっていた。

 そこでは果恵は、

「お城の山の果恵ちゃん」

 と、大人たちからも呼ばれていた。田舎の人は地名や屋号で知人を表現することが多いのだが、果恵の場合は中でも特殊だった。

 果恵の家が持っている山はそのまま、城跡の風景を残していたのだった。(うね)掘りや廓の跡が家のぐるりを囲む山林の中に、しっかりと遺っていたのだ。僕の父によれば、果恵の家は元々房総半島の北西部に蟠踞(ばんきょ)した千葉氏(ちばし)の支族で、ここはその居城だったのだと言う。

 もちろん僕たちにその由緒は判らない。ただそこに集まる子供たちにとっては、格好の遊び場だったと言うに過ぎない。

 確かに千葉氏の末裔と言うと、どこか大仰に感じるが果恵のお父さんも林業を営む普通の地主さんで、よく物語に出てくるような閉鎖的な名家のイメージとは全く異なる。伐り出した材木を運ぶ大きなトラクターや荷運び用のパワーシャベルなどを扱う農家のおじさんだ。

 でも僕には果恵の住む場所が、自分たちが日常住む空間とはどこか違うな、と言うことは、ずっと以前から肌に感じていた。

 三百年近い樹齢の大木が、山頂にある果恵が住む家の棟々を覆っていた。今でもその風景を思い出す。大きく掘り込まれた堀跡の底から見上げると、果恵の家が確かにまるで城の主郭のように見えたものだ。

 そんな巨大な家には三人の子供がいて、果恵はその末っ子だった。年の離れたお兄さんと、二歳ほど年上のお姉さんに、僕も可愛がってもらったものだった。

 上の二人はお父さんに似て社交的な方だったが、果恵はどちらかと言うと元々内向的で、あまり表に出たがらないタイプだった。しかし芯に、誰よりも鋭い感性と強い気持ちを秘めているところがあり、ご家族もそれに一目置いている風が感じられた。いわば一見内気なのに、言いたいことは思い切ってはっきりと言ってしまうそんな女の子だったのだ。

 僕は今でも憶えている。越してきたその日、果恵が血相を変えて新しい家になる僕の家へやってきたのを。何かと思ったら彼女は、自分と同じ学校を受験させるべく、わざわざ僕の願書を持ってきたのだった。

「絶対、(ゆた)(当時の僕のあだ名だ)もわたしと同じ学校に行くの」

 分かった?と、眉根を寄せて睨みつける果恵は、自分の胸で握り締めてくしゃくしゃになった願書の封筒を、僕に押し付けてきたのだった。

「いや、その…これ持ってるし。て言うか、もう願書書いたよ?」

「いいから受け取って。豊はこれで願書書いて、高校に提出するの!」

 はい、と言うしかない剣幕だった。

 元々果恵は美術的な才能にずば抜けていて、果恵のご両親は美大に行かせるべく、そうした勉強をしやすい学校に入れさせたがったのだが、彼女は頑として聞かなかった。あとあと僕のせいにされたことは言うまでもない。


「美術的才能…ですか?」

 九王沢さんはかすかに眉をひそめた。この人も、世界的なヴァイオリニストにその感性を認められるような人だ。その言葉の意味を、深く知っているからこそ、その言葉が表現する多様性を知っていて、それをどのように判断したらいいか、考えあぐねているのがよく分かった。

「特に絵が物凄く、上手くてね」

 僕は率直に言った。今でも憶えている。果恵が描くと、ほんのスケッチでも目の前にきちんとその風景が持つ雰囲気がそのまま出現した。それ以上にどこか、何気ない風景が異様な力を持って人の目を留めさせるのだ。幼稚園の頃、ただの上履き一つ描いただけで、県から特賞をもらったほどだ。

 以降も独学で、彼女は絵を描き続けていた。

「誰かに習ったりはしなかったのですか?」

「したけど、長くは続かなかったみたい」

 果恵の才能は美大の先生に認められるとか、いわゆるアカデミズム的なものからは、大きく外れていた。果恵のそれは、ともすれば異能と言われる、いわば厄介な才能だったのだ。

 高校生の時、大きな賞をとった絵を見せてもらったが、それは僕みたいな素人が見ても確かに一歩、気圧されるような迫力を持っていた。油絵や水彩画の描き方を、果恵は先生について学びはしただろうが、本当の意味で、彼女に指導者と言うものは、必要なかったのだ。

 彼女が見るのは特定の画集ばかりだった。結局、素直に認めたのはカラバッジョ、フリーダ・カーロ、本邦では岩佐又兵衛(いわさまたべえ)、そして村山槐多(むらやまかいた)と言った極端な人生を生きた異能の画家たちばかりだった。

 彼らが描いた色彩は、いわば血肉の『赤』である。本来は警告色である血液の赤を、彼女は何の躊躇もなく愛したのだ。

 そうした傾向は、他に受け入れられがたかったに違いない。例えばレオナルド・ダヴィンチがそうしたように、果恵は死体をスケッチすることまでした。交通事故で道路際に跳ね飛ばされている、雨露と泥と乾いた血で毛を汚した野良猫の遺体までも、彼女は描いた。果恵はそれをきちんと葬る代わりに、そこに見た生命の赤を克明にスケッチしていたのだ。

 実際普通科に入学しても彼女は、四六時中絵ばかり描いていた。もちろん普通科の授業はそっちのけだ。

 僕を同じ学校に誘ったくせに、普段の素行はひどいの一言に尽きた。そもそも気が向かないと学校に来ないし、話しかけられても、自分の気に喰わなければ無視するなど、皆の間で孤立するようなことを度々繰り返していた。定期テストの問題の問い方が気に喰わないと言って、答案をびりびりに破り捨てて帰ってしまったこともあった。

 それでも変ないじめの対象にならなかったのは、ひとえに当時のクラスメートが寛容で、半ば諦めてくれたからに他ならなかった。

「あの子の面倒見れるのは、本当に那智くんだけだから」

 先生には面と向かって言われた。周囲にとって理解不能の彼女への唯一の窓口は僕だったのだ。

 さらに厄介なのは果恵の方もそう思っているらしく、僕はよく彼女に付き合って学校をサボらされた。例えば、

「今日は別に学校行かなくていいでしょ?」

 が、三日続いたことが、ままあった。そんなとき僕たちは電車に乗って、犬吠埼や飯岡海岸、九十九里浜と言った千葉東端の海辺の風景を巡ったのだった。デートと言えば聞こえがいいが、これ昔の画家がよくやるスケッチ旅行だ。果恵は終日、色んな場所で心行くまで絵を描き続け、僕の都合その他は、まったく気にも留めなかった。強行軍も多く、白浜や勝浦、館山にまで一日で足を運んだこともある。

 ほとんどの場合、果恵はスケッチブックに描きこむ線に没頭していて、僕と話もしない。

 ひとけのない電車に揺られて、平坦な海辺の風景が続くのも退屈なものだ。

 そこで僕も仕方なく、文庫本を持ち込んだり、メモに小説のプロットや文章を書き込んだりして時間を潰したのだった。雑誌社を潰した父親の影響を受けて、思春期から僕も作品を書き始めていた。親父のつてでちょっとした賞などにも投稿したことがあったが、もちろん相手にされるレベルとは言えない。

 果恵もほとんど本を読まなかったが、僕が書いたものをみていつもいい顔をしてくれなかった。

「よく出来てるけど、逆に何か嘘くさい」

 あなた自身の言葉が感じられない。そう言われたのは、ちょうどその頃だ。父の影響でそれらしいものを書いていたのだが、当時の僕は本当にただの形だけだったのだ。

「ごめん、これ無理」

 鼻の頭にしわを作って、痛烈そうに顔をしかめる彼女の表情を今でも思い出す。


「それでも那智さんは、彼女のことが好きだったんですか?」

 うん、と僕は素直にそれを認める。

「すっごい不器用で不都合だったけど、果恵は自分の言葉しか話さなかった。僕はいつもただ器用に用意された言葉で、彼女からすれば中身のないことを話していた」


 実際、恋人として考えるのであれば果恵は、ごく自然に僕の大切な人だと言えた。果恵が周囲にもうちょっと配慮さえしてくれれば、僕たちは普通に年齢相応のカップルだったのだ。

「豊は、ずっとわたしの傍にいなきゃいけないの」

 なければいけない、と言う言い回しを、果恵はよくした。他のこともみな、そうだった。

「ただそれだけ。それ以外のことは、考えなくていい。後はみんな違うから」

 違う、と言う言い方も多かった。彼女はまるで問答無用の託宣を受けたように、確信的に僕との関係を、確実なものにしたがった。自分が信じているように、僕にも盲目的にそれを信じてもらいたいようだった。だから以外はみな、違う、と言うのだった。

 それはとても身勝手で強引な愛情だった。束縛が強い、と言えばごく一般的なイメージになるが、果恵はそうした人が不安から相手を束縛するようには、僕を束縛しなかった。ただただ疑いもなく、自分が僕を必要とするように、僕も彼女を必要としていると確信し、それに身を委ねている感じだった。

 普通はこう言う人と関係を持つと、重たいと感じる人の方が大多数に違いない。

 しかし僕は不思議と、その関係にしっくりきていた。彼女の言うことは偏っているし、盲目的でいつも身勝手過ぎたが、本人を前にすると、確かにそれがなぜか、自然なことのように思えるのだった。事実、僕たちはいかなるものからも不思議と、制約や妨害を受けない関係だった。


「結婚とか、そう言うことは考えなかったけど、何となく果恵からは一生離れることが出来ないんじゃないかって、ずっと感じてた」


 そして彼女がそう思っていることにも、何の疑いもなかった。

 ちょうど果恵自身がそう、確信していたように。

「でも僕たちの世界に、ある日突然、予期しない確変がやってきたんだ」

「確変…ですか?」

 その語感に耳慣れない違和感がして、九王沢さんは目を丸くしたに違いない。

 だが確かにあれは、確変なのだ。

 それは常識の範囲内の出来事じゃない。

 まさにこの世界自体が書き換えられたようなことだった。

「誇張じゃない。ただの事実を話すよ」

 それでもあえて大げさな表現を口にしてしまう、それほどに。

 そのときの僕たちにやってきたのは、想像を絶するような不可解な出来事だったのだ。


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