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PHASE.3

「那智さん、那智さん」

 そんなことを考えながら一緒にクリスマスイルミネーションを見ていると、ふいに九王沢さんが改まって言ったので、僕は途端に身構えた。

「どうかしたの」

「那智さんの男性としてのご意見をうかがいたのですが」

 あ、また何か思いついた顔だ。

「ちょっとあそこを見て下さい。カップルさんがいらっしゃいますよね」

「うん…いるね」

 レンガ街の海岸端はベンチが置かれていて、休憩スペースになっている。当然カップルの姿も多いのだが、その中に背の小さなポニーテールの女の子を連れている組み合わせがあったのだ。まだ高校生だろうか、少し背の高い彼氏と腕を組んで楽しそうに笑っている。

 九王沢さんはそれを、サバンナの夜行性動物を暗視するときのような真剣な表情で見ると、

「あちらの女性の方はどうでしょうか?」

「どう、って普通にいいんじゃないかと思うけど」

 九王沢さんにはもちろん劣るが、表情が豊かで親しみやすい感じの子だ。

「容姿はいかがですか?年齢は?体型は?那智さんの好みに合いますか」

「いやだから、かわいいんじゃない?」

 と、言ってから僕は気がついた。そうださっきの話の続きだ。今度は人間の側から何か話するとか言ってたような。そう思って言葉を待っていると、九王沢さんは途端に愕然とした表情を作り、

「ひどいっ、わたっ、わたしと言うものがありにゃがら!」

「ちょっと待て今それ、言いたかっただけだろ!」

 どんな誘導尋問だよ!?て言うか今、セリフ噛んだし!

「すみませんっ。そろそろ対外的にも、いかにもな恋人トークが必要なのではないか、と思いましてっ」

 と、さっきまで人工知能と人間の感性と近代英国文学の関連について縦横無尽に語っていた同じ口が言う。なんて油断ならない人だ。

「ふっ、不安なんです。もしかして、やっぱりうんざりされたかな、とついつい思ってしまい。…わたし、誰とお話ししてもこんな感じなんです。依田さんにも言われました。男の子はみんな、わたしと話すとき、そんな話題は全然望んでいないんだよって」

「そ、そんなことはないよ」

 ってすぐ言いたかったが、白状します。確かにごめんなさい。さっきまで初めて間近で見る九王沢さん神級にかわいいと言うことと、Hカップのことしか考えてませんでした。

「遠慮しないで正直に言って下さい。わたし、那智さんを振り回していませんか?」

 うわっ、上目遣いだよ。しかもこんな近くで。なんでこの子は、意識しようがしまいが、僕をどきどきさせようとするのだろう。

「正直に言っていいの?」

「はい、わたしのためになりませんから」

 僕は、考えた。この子、良くも悪くも真っ直ぐ過ぎるのだ。純粋培養な癖に、下手に相手の懐に飛び込む度胸があるからこっちは戸惑ってしまう。どうしよう。

「じゃあね、言う。すっごい戸惑った。九王沢さんがいちいち予想外で面倒で。でもね」

 でもねを言う前に、ひっ、と泣きそうな顔を九王沢さんはした。大丈夫?

「だっ、大丈夫です。続きを」

「分かった。じゃ、無修正で話すね。…正直、予想外でびっくりしたけど、結構納得したんだ。あれっ九王沢さんてこんな子だったんだなあって。九王沢さんのこと、さっき僕は好きだって言ったけど、本当に何も知らない。まあ依田ちゃんいるけど、結構会って話したりしてるのに、どんな子だか見た目以外は全然予想もつかなかった。それでもさ、さっき会うまではそんなことすら考えてなかったんだ。なのにどうして君を好きだって言えたんだろう。予想外だ、めんどい、なんて言えたんだろう?」

 九王沢さんは僕が話すのを、真剣な表情で聞いていた。

「思うんだけど人はさ、誰かに好意を持った時、自分に都合いいとこばっかり見るんだ。こんなかわいい子、彼女にしたらおれすっげえ、とか、わたしのこと気遣ってくれる、一緒にいて安心だから、わたしに優しいから好き、とか。でもそれ実は、相手そのもののことじゃなくてただの自分サイドの都合なんだよね。九王沢さん、心理学でやるでしょ。生物は、自分の周囲の環境から自分に都合のいいものだけを抜きだしてみる性質があるって」

「『環境の利用可能性』…のことですか」

 半泣きでもさすがに九王沢さん、即答した。

「そう。でもこれ生物の本能だから、どうしようもない。だって自分は絶対に他人になれないから。だからさっき九王沢さん、自分が僕を振り回してませんか、って聞いたんだよね?」

「はい。わたし、那智さんの都合も考えず、一方的に話したいことを一気にお話ししてしまいました…」

「じゃあ、僕もごめん。正直、九王沢さんみたいなかわいい女の子とデート出来たらすっげえな自慢できるなくらいの感じで、さっきまで付き合ってました」

 僕が手のひらを合わせて、九王沢さんにぺこりと謝ると、彼女、きょとんとしていた。

「どう?つまり僕たちはさっきまで、お互いがお互い、自分が利用できる部分だけ見て、相手を利用し合っていただけなんだ。でもさ、それってちゃんと分かってたら、全然悪いことじゃないんだよ。どうだった?九王沢さんはそんな僕とそうやってデートして話してて。退屈じゃなかった?」

 九王沢さんは、はっとした表情をした後、またアニメキャラみたいに水平に首を振った。

「いえ、全っ然!今までの人生で一番、楽しかったです」

 それだ。それが訊きたかったのだ。平静を装いつつ、僕は微笑んだ。

「じゃあ、僕も楽しかった。さっき思ったんだ。九王沢さんて、僕が思ってるより、ずっーと、『興味深い』って」


 生物にとって環境は、利用されるものだ。それが例え、自分と同じ別の個体であっても同様なのである。

 九王沢さんの天使な笑顔に癒されつつ、心なしかさっきより近い距離感の身体を感じながら関内駅周辺を歩いているとして、ここで男なら感じることはただ一つだ。

 やれるのか。

 ごめんなさい、最低である。でもさ、それ考えないの男として無理。こんなに密着されて、それが好きな女の子のHカップだと感じ始めちゃったら、もっと無理だ。出来ることならその面で目いっぱい、九王沢さんを利用してみたい。仕事帰りのサラリーマンさんで溢れる関内の中心で、

「やらせてください!!」

 と、愛より欲望を叫びたい衝動に駆られる下衆(ゲス)の極みな僕だった。まだお仕事中の皆さんごめんなさい。

「そろそろお酒が飲めるところに行きましょう。那智さん、どこがいいですか?」

 ううん、そりゃ横浜湾の夜景が一望できるラウンジとかお洒落なバーとか調べてきたけど。いや、九王沢さんならきっとこう言うだろう。

「駅近のビルの中に串焼き屋さんがあるんだけど」

「はいっ、そこ絶対行きたいです!」

 ほらね。

「那智さん、今日はこの後、ご都合はありますか?例えば課題とか門限とか」

「どっちも大丈夫だけど」

 いや、門限はそもそもないですよ、男だし独り暮らしだし。

「それなら、もっともっと、お話出来ますね。あ、今日は泥酔しても大丈夫です。わたし、ちゃんと、那智さんのためにお部屋をとっておきましたから」

「えっ」

 九王沢さんが、自分から、部屋を、とってある、だってえ!?

 想定パターンにない極限状況に判断を放棄し、僕は人工知能のように硬直した。

 だって鴨がばっちりネギを背負ってやってきてたなんて。いやいやそうじゃなくて。

「嘘でしょ?この辺のホテル?」

「はい、那智さん、酔うとひどいから面倒みてあげてって、依田さんが言うので」

 依田ちゃんナイス!!ごく自然にホテルへ誘う手間が省けるなんて。ここへ来てなんつうミラクルファインプレーだ。

「それに…」

 と、九王沢さんはそこまで言うと、なぜか暗い顔で口ごもった。どうしたの?

「あんないいお話頂いた後で、こっ、こんなこと本当は言いたくなかったんですけど、依田さんから那智さんの目的、を聞いていたので。…でも、わたし那智さんのこと好きですし、もっと知りたいですから。わたしが出来る範囲で理解はしてあげたいと思うんです」

「どう言うこと?」

 依田ちゃんが何か言ったのだろうか。心当たりがなさすぎて僕は首を傾げた。

「…那智さんは、性的にやりたい放題だから気をつけろって。ヨーロッパでも昔から性的に倒錯されている作家さんの作品は多いので、文献上は理解が出来るんですがわたし、まだその、実際の男性経験がないもので。だからもしあの…そう言うことを、したくなっちゃったら遠慮なく言って下さい。お話だけは、聞いてあげられると思いますから…」

 ここへ来て、あの九王沢さんのドン引きを僕は初めて見てしまった。い、いやそれ違うからね!?

「九王沢さん、冷静に聞いて。それはね、あの、別の先輩の話!九王沢さんも会ったことあるでしょ!別の先輩の話、なんだけど…」

 と、僕は必死に弁解を試みたが、九王沢さんは全然話も聞いてくれない。

「わっ、分かってます。わたしの性が那智さんに比べればまだまだコドモなの、分かってますから!」

 そんな言い訳、このリアル聖処女な九王沢さんに通用するはずないじゃん。

 台無しだよ。依田め、やってくれたな!!


「那智さん、見て下さいっ!ここにも、またあのスイッチが!あ…わたし、お飲物の注文うかがいますね!」

 じゃ、ビールの人。っていないからね今、ここ二人しか。

 気を取り直して再び、ご満悦の九王沢さんである。

 ここは、横浜湾が一望できるラウンジが最上階にあるビルの二階、サラリーマン御用達の串焼きダイニングバーだ。お馴染み黒塗装の木製バーカウンターや畳のあるお座敷ブースや個室まであるこのお店は、スウィングジャズとかが流れる都内でもどこにでもある飲み屋さんであり、ぶっちゃけ観光客が横浜にまで行って入るようなお店でもない。

 だが九王沢さんにとっては欲しいものがみんな揃った、まさに鉄板なお店なのである。

「焼き鶏の盛り合わせは頼みましたから…あとはこのナスの一夜漬けと、合鴨のロースト冷製盛りと、川エビの唐揚げと、(かれい)の姿揚げを頼みましょうか。那智さんは、ビールの後はすぐ焼酎ですよね。ここ、麦もお米もおそばも芋もありますよ?」

「う、うん。後でどれにするかは考えるから」

 今さら気づいた。この子、食べるのが好きなんじゃない。頼むのが好きなんだ。と言うことは、これ食べるの全部僕?

 ちなみに九王沢さんだが、さすが洋酒党だ。ビールで乾杯の後はサワー類など頼まず、いきなりワインやウイスキーのレパートリーを物色する。

「九王沢さんもお酒、大丈夫なんだよね?」

「はい、スコットランドで、蒸留所を経営している叔父がいますから。ワインやウイスキーなどは、昔からよく」

 ちなみにイギリスでは、一人でお酒を購入して飲んでいい年齢は十八歳からなのだそうだ。しかし保護者の同伴があれば十六歳からパブで飲めるし、さらに両親の同意があれば五歳以上の子は家でお酒を飲んでいいと言うお国柄なのだ。

 酔い潰し作戦が通用しないわけだ。て言うか、本場スコットランドに蒸留所を経営してる親戚がいるって、どんな家!?


「と、ところでさっき人工知能について人間の側から話するって言ってたけど」

 僕はすっかり頼みたいメニューのことしか頭にない九王沢さんを軌道修正するべく、自分から水を向けた。

「つまりはそれって、人間から見た人工知能との比較の話をするってことでいいのかな?」

「はい、概略としては、そんな感じです。しかし今度は相違点ではなく、類似点の方を探してみようと言うお話です。いわば人間の『想像力』の方を使って」

 と、ほろ酔いの九王沢さんは、先に到着した薄いウイスキーの水割りを猫が水を飲むみたいに少しだけ飲んだ。

「先ほどまでの話では、人工知能はいくら識別のための『知力』を蓄えても『想像力』を駆使することが出来ない、ゆえに人間と同じ感性を得られないと言うのが結論でした。しかし、人工知能と人間って、それほどかけ離れたものなのでしょうか。

 ちなみに言うまでもなく、人工知能は『人間を理解すること』そのものから造られたものです。すなわちそこに人文科学の助けが必要とされた時期があったのです。この辺りはご理解頂けますか?」

 うん、と僕は到着したウーロンハイのグラスを引き寄せて頷いた。

「何となく想像はつくよ。今の人工知能は人間そのものか、分野によっては人間以上の能力を目指すものだ。だからまず、目標となる『人間』そのものを理解することから始めた、って言うのは単純に考えて当然だと思うよ」

「人工知能の開発を助けたのは、戦後の心理学でした。もっとも助けになったものは、いわゆる行動主義の心理学です」

 行動主義の心理学については、授業で少しかじったことがある。人間及び生物とは外界からの刺激(S)によって反応(R)を起こして発達していくものであるとするS‐R図式を使用する、非常に解りやすい心理学だ。

「『パブロフの犬』とか」

 犬を使った実験でご飯の度にブザーを鳴らしていたら、ついにはご飯が出てこなくてもブザーの音だけで犬がお腹が減ってよだれを垂らした、と言うあれである。

 この実験に出てくる条件反射と言う言葉は、一般にもよく知られている。

「ちなみにこの行動主義を那智さんなりに表現するとしたら、どのように考えられますか?」

「うん、僕は人間の関係に当てはめるかな。ごく普通に考えて、自分にとっていい刺激を受ける人たちの中にいれば、他の人にもそうしてあげられるし、相手のことも想像してあげられる余裕が出来る人間でいられるかな、とか」

「いわゆる正の強化ですね」

 九王沢さんは心底嬉しそうな微笑を含むと、到着してきた注文をどんどん僕の前に並べた。そんなに一人で食べられない。

「この行動主義心理学は、二十世紀初頭に登場したものですが、大きな欠陥が一つありました。それはちょうど今の那智さんが言った例に当てはめると、解りやすいかも知れません」

 僕は頷いた。これは一般社会で他人と接しているとよく判ることだ。

「それは同じ刺激に対して、皆が皆、まったく同じ反応を返すことがない、と言うことかな?」

 九王沢さんは頷いた。そうこれは、複数人のキャラクターが登場する小説を書いていれば、もっと納得できる話ではある。

 究極的に考えて自分以外はどこまでも他人なのだ。

 例えば僕が嬉しい、楽しい、そう思うはずの状況でもあけすけに笑顔を見せない人もいる。嬉しいとすら思っていない人もいるかも知れない。もちろんその逆も然りなのである。

 同じ状況に出会っても、その人の考え方や反応はその人ごとで、自分が感じているように、相手も感じるとは限らない。他人の中に自分が存在することが分かっているのなら、普段の人付き合いにしろ、小説を書くにしろ、いつもそれを(わきま)えておく必要があるのだ。

「行動主義は外に出てきた『反応』しか、認識することが出来ません。つまり、人間の内的な変化や、言葉に出来ない気持ちは存在しないも同然なのです。ちなみに那智さんがこの行動主義に(のっと)って小説上の人物を描くとしたらどうなりますか?」

「すごく素っ気なくて、通り一遍(いっぺん)のキャラになると思う」

 いわゆる、キャラの書き分けがないと言うやつだ。ゲーム性の高い作品にするとか、大枠のストーリーの方に自信があったらそれでもいいかも知れないが。まあ依田ちゃんが見たら、ページの無駄だからもっと削っていいですか、とか言うに違いない。

「『個人差』を識別出来ない行動心理学の欠陥はすぐに指摘されました。それがその後、情報科学を始めとした人工知能の分野に大きく接近した認知心理学に(つな)がってきます。ちなみに大きな欠陥を認識した行動心理学者はさっきのS‐Rの式に、この一字を加えることでまず問題の解決を図ったのです」

 九王沢さんは僕のメモを取り上げると、SとRの間にもう一つアルファベットを加えた。そこにはOと書かれていた。

「OはOrganism、生体そのものと言う意味です。難しい言い方をすれば、媒介変数(ばいかいへんすう)(Oの内容によって出てくる反応Rが変化する)、那智さんの世界で言えば」

 キャラだ。この図式は例えば一つの状況に対する展開がキャラごとに、全く違うものになる、と言うことに置き換えてもいいかも知れない。

「この媒介変数となるOの部分を、認知心理学では人間の認知である、としています。先ほどの人工知能で言う、データーベースと判断機能のことです。言うまでもなく、この認知は外界からの刺激を受けるたびにフィードバックし、成長していきます。

 Oが変化するに連れて同じ刺激を受けた状況でも、よりよい判断を行ない、さらに適した反応を返すことが出来、さらにはその反応は熟練することでより速く引き出されるようになっていきます」

 この話も想像に難くはない。

 紙上に創作されたキャラに限らず、人間は学習するものだ。しかしそれは同じ経験をしても誰でも一律の結果に至るわけではなく、その人の感じ方、考え方により千差万別になるはずなのだ。

 これを数学的に分析すれば、個性は媒介変数であり、その数値が人ごとに違うのなら、同じ数をかけても違う数値の答えが出ると言うのは、文系の僕でも納得できる。いわば、関数の初歩だ。

 と、ここまで考えたときに、僕の頭にふっと疑問が湧いた。この媒介変数Oは人工的に作りえるものなのだろうか。

「ごく単純に考えれば、それは可能です。例えば会話をするにしても、話しかけてくる内容(S)に対して、いくつかの受け答え(R)をあらかじめ用意しておき、後はパターンごとに学習させればいい話ですから」

「でもさ」

 それは言われたことにオウム返しに答えてるだけであって、人間の会話そのものとは言えないのではないだろうか。

「今のわたしたちから見たら、そうですね。しかし」

 すると九王沢さんは出し抜けに聞いてきた。

「那智さん、二歳くらいの子とお話ししたことありますか?」

 僕は首を振った。もちろん自分の子供はいないし、教育学部でもないから、子供のことなどほとんど関心の外だ。

「赤ちゃんの言葉を卒業したこのくらいの年の子は、周囲の環境から言葉を学習しようとし始めるんです。社会的微笑(しゃかいてきびしょう)と言う笑顔の作り方をまず学び、それに惹かれて話しかけてくれる人から、その言葉をそっくり物真似するんです。那智さんは子供の頃、親御さんに言われた口癖はありませんでしたか?」

 と、言われて確かに思い当った。幼い頃の僕は、行楽好きの両親の影響か、「紅葉が綺麗だねー」が口癖で冬の枯れ木を見ても、同じことを言ってたという。今でも田舎の婆ちゃんとかにはからかわれる。もちろん本人は憶えてはいないが。

「このように、わたしたち人間も言語を獲得する最初は、まるで初期の人工知能のようなのです。那智さんの子供の頃の口癖みたいに少ない会話の持ちパターンから、憶えた言葉をそのまま返すことで、その言葉がどのようなときに使われるのが適当なのかを実地に探っているんです。そうして段々、その言葉に対する理解が深まり、やがては本当の意味が判るようにすらなる。わたしたちのコミュニケーション能力はいわば、S‐O‐R図式による試行錯誤トライ・アンド・エラーの産物なんです」

 九王沢さんは淡い黄緑色の銀杏の小さな串をとると、その一粒を口に入れた。

「わたしたちが今自由に使いこなしているかに見える言語は、それまでに獲得した無数のパターンと、状況判断のための経験と言うデーターベースで出来ているんです。

 確かにある程度大人になった今、わたしたちに組み込まれた媒介変数と判断を行う演算能力は複雑化して再現不能のように思えますが、それでも最初はやはりごく簡単なシステムから始まっているのです。そして言うまでもなく、現在の人工知能もそこから、学習を始めている」

 そう考えるとだ。

 人工知能がどうしても人間になれない、などと言うことは決してないと言うことか。

「いえ、どころかいずれ人類を超越するでしょう。那智さんは二〇四五年問題をご存知ですか?」

 ちょっとは聞いたことがある。

 人工知能が高度に発達し、人類の生活全般を支配するようになるという話だ。

 ネットでも騒がれているし、ついに地上波でも関連番組が放送されだした。

「現在の人工知能開発は、二〇四五年を一つの歴史的エポックと捉えています。現在世界で最高の演算能力を誇る量子コンピュータよりも膨大な演算能力を持ち、さらに自律移動可能なほどコンパクトになった人工知能が人類を完全に凌駕するというお話です。それが実現する年代についにはっきりとした見通しがついた。人工知能開発者はそれを技術的特異点(シンギュラリティ)と名付けています。それが二〇四五年だと言うことです」

 たったの三十年後だ。

 戦後に始まったと言う人工知能の開発から、どれほど経ったと言うのだろう。

 すでに人工知能は、人間の能力すべてを超えるほどにまでなると言うのか。

「この技術的特異点は、わたしたち人間の文明の到達点とされています。その頃には、人間が宿命的に抱えてきた問題のほとんどに解決がつき、これ以上テクノロジーが発展する余地がなくなるそうなのです。例えば死すら治療できると言う時代において、人間は未来を創造する能力を放棄するのです。生を模索する地球上の種として、人間は役割を終える。人工知能が人を物理的に絶滅させるのではない、人間が自ら種の終焉を悟るのです。それこそがホーキング博士が危惧する人工知能が人類と言う種を滅ぼすと発言した、一つの側面なのではないでしょうか。

 そしてもちろんそのときに至っても、わたしたちは生きています。種として生きる方途を喪っても、物理的に存在はしているはずです。しかしその後のわたしたちに一体、何が残されているのでしょうか。数千年をかけて人間と言う種を支えてきた人文科学はもはやそこに、なんの助けも及ぼす余地もないのでしょうか。わたし程度の人間一人が何か出来ると思うほど、身の程知らずではありません。でも、つい考えてしまうのです。とても気の遠くなる、そんな話を」

 九王沢さんはここまで一気に話をしたが、そのトーンに比して、表情に得意げなものが出ることは一度もなかった。それを見ていて僕は何となく思った。彼女は純粋にいつも、考えている人なんだろうな、と。たとえ誰に頼まれずとも、社会的な評価を受けなくても。

 これから独房の中に監禁されようと、ずっと一人で学び、思いつき、考えているに違いない。まるで暗闇の中で排熱処理を行いながら、情報収集と論理演算を繰り返すコンピュータのように。

 そう考えると九王沢さんは僕たちより、人工知能の方に立場が近いのかも知れなかった。



 だがもちろん僕のいる場所からも、人工知能の話は脅威だった。

 人間から生まれ、幼児のように学習し、そして一気に人間を飛び越してしまう。

 そんな人工知能が現れる未来が、すでに間近に迫っている。九王沢さんが言った、気が遠くなると言うのは、その年月のことではない気がした。それは僕たち人間の想像力の限界を超えた何かが、何百年後と言わず一気にやってくると言う啓示への、戸惑いと愕きに他ならない。

 その現象について、なんの糧にもならないとしても、様々な想像を張り巡らせて気が遠くなってしまうというのは、本当はいかにも人間的な反応なのかも知れない。


 気がつくと、大分時間が経ってしまっていた。僕もそれから、かなり飲んだはずだが、ほとんど酔った気がしなかった。九王沢さんと真剣に飲むと、酔う暇などないのだ。

「少し、外を歩きましょうか」

 そろそろ展望ラウンジに行こうかと予定調和な感じを考えていた僕に、九王沢さんは言った。確かに根が生えた感はあるが、何しろお酒を飲みながら難しい話をしていたのだ。僕たちの頭にも、排熱処理が必要だった。

 こうして真夜中の横浜に僕たちは飛び出した。みなとみらい近辺は気温のせいか、出歩く人の姿もほとんど見られなかった。もう誰に(はばか)ることもなく、僕たちは相変わらず好きな話をしながら歩いた。唇を開くと、アルコールの甘ったるさを清冽(せいれつ)な石清水で洗い清めて引き締めているかのようで心地よかった。

「二〇四五年の人工知能は何でも質問に答えてくれるのかな?」

 ふと疑問が兆したので、僕は九王沢さんに聞いてみた。

「だと思います。その頃には人間の知能でその答えを確かめる術はないと思いますが」

 いわば絶対的な神様がいた時代に、人間は戻るのかも知れない、と言うのが九王沢さんの見解だった。科学がこれほどまでに発達する以前、僕たちの祖先は確かに迷信を妄信的に信じていた。これ以上の進化を放棄した時点で人類は退嬰的(たいえいてき)(幼児に退行するように)に人類の歴史でもっとも長かったその時代に、感性を立ち戻らせるのかも知れなかった。

「わたしたちは迷信からの自由を獲得するがゆえ、迷い、時には間違った結論を出し続けた。科学の光が宗教的妄信を駆逐した自由主義の風が世界的に吹き荒れた十九世紀後半から現在までがそうです。ちょうどパーシー・シェリーが生きた時代から現在まで、わたしたちの科学の最先端は迷信を否定し続けてきましたが、結局は科学を妄信せざるを得ない道を選びました。いつも考えてしまうのです。わたしたちはもう一度、問答無用の神のご託宣にその身を委ねる時代に戻らなければいけないのでしょうか?本当にそれでいいのでしょうか?那智さんは、どう思われますか?」

 九王沢さんは苦しげに眉をひそめたが、僕は少し違う考えでいた。

「九王沢さんさ、ゴッホの生涯って知ってるよね?」

「フィンセント・ファン・ゴッホのことですか…?」

 はい、と、九王沢さんはきょとんとして頷いた。

「九王沢さんなら僕より知ってると思うけど」

 ゴッホと言う人は。

 現在は美術を志す人にとっては、好むと好まざるに関わらず知られている『画家』だが、彼はその職業を自分の最適の職業だと思って選んだわけではない。キリスト教の伝道師をはじめ他にも多くの職業に失敗し、挫折し続けた末に最後に残ったのがその職業だったと言うだけなのだ。

「ゴッホはどんな仕事も一生懸命にやったらしいよ。だけど、一生懸命過ぎてどんな仕事も上手くいかなかった。『僕の中に確かに何かがある。でもそれが何なのかが判らない』ゴッホの若いときの言葉だって言う。彼は決して自分の才能を確信して、画家になったわけじゃないんだ。そして彼が生きているうちは全くそうだった。彼の画業は、まるで自分の生活が成り立つレベルに達せず、生涯絵は二枚しか売れなかった」

 ゴッホの拳銃自殺は、本当はその苦しい生活を自分の家庭を犠牲にしてまで支えてきた弟テオによって射殺されたのを自殺と誤魔化したものだ、と言う説も最近出てきたほどだ。

「でも現在のゴッホの絵画は、市場では最高額ランクだ。かつて日本の損保ジャパン東郷青児美術館が買った『ひまわり』に約五十八億円の値がついたことは僕たち日本人にはよく知られているが、『医師ガシェの肖像』の百四十八億六千万円を筆頭に、他の作品についても百億円以上の市場価値を叩き出しているそうだ。

 今、ゴッホが生きていたら、信じられないほどの売れっ子になっていただろう。世界中から依頼が殺到して、彼は目を回して世界中逃げ回っていたかも知れない」

「そうかも知れませんね」

 九王沢さんは僕が本当におかしなジョークを言ったと言う風に笑顔を見せた。でも僕は冗談を言うつもりはなかった。

「でも、ゴッホの画家としての価値は誰にも判らないはずだろ?」

 九王沢さんはその言葉に、ちゃんとはっとしてくれた。

「現在ゴッホの絵画につけられた市場価格は、ただの投機的な価値なんだ。バブル期の株と同じ、ゴッホが表現した内容や意味とは別のところで評価されている。言うまでもなく、市場価値は確実に変動する。今日の金の卵が、明日には紙屑になっていることだって、ままあり得るんだ」

 僕たちの時代の世界の常識ではゴッホの絵が、市場的に無価値なるなんて今では考えられないが、かつてはほとんど無価値だったのだ。長い将来に渡って、それに戻らない可能性は理論上、ありえないことではない。

「じゃあ、ゴッホ自身がそう考えたように、彼に画家として本当の価値はあったのかな?彼にはもっと自分を生かすレベルで適した職業があったんじゃないかな。そしたら彼は無理に絵を仕事にしようとして精神病院に入って自殺なんかしないで、幸せなまま趣味で絵を楽しめたんじゃないかな」

 九王沢さんはそこで、目を丸くした。

「人間の理解を超えた人工知能なら、答えを出せるかも知れないと?」

「うん、ゴッホのリクルート」

 そう返した瞬間、九王沢さんは弾けるように笑った。

「…そんなこと、考えるの那智さんだけですよ?」

 その瞬間、僕は思った。

 そう言えば彼女の口から、そう言う言葉が聞きたかったのかな、と。九王沢さんは僕と掛け合い漫才をしに来たと思っていたけど、彼女自身は一度も手放しで笑っていなかった。九王沢さんだって、笑っていいはずなのに。それは何でだろう、と思ったとき、僕は一つの直感に思い当った。

 彼女もまた、自分の言葉を自分で見つけられていないのかな。

 九王沢さんが取り入れ続けた呆れるほどの情報の中には、本当は自分だけの言葉の欠片が眠っている。彼女はこの世界でもっとも迂遠(うえん)な方法でそれを探しているのかも知れなかった。九王沢さんて完璧超人に見えるが、実はとっても不器用で融通が利かない。

 そしてだ。

 僕は確かにそんな九王沢さんのことがもう好きなのだった。


「自分で物を書いてみようと思ったことですか?」

 その質問をすると、九王沢さんは眉をひそめた。今までで最大の難問に出会った、と言う感じだ。

「うん、そんなに色々考えたり、感じていることがあればさ。書いたらいいのにな、と思って」

 レポートじゃなくて、論文じゃなくて自分の作品をだ。

「でもわたし、本当は自分のことで表現したいことが一つもありません」

「今はそうかも知れない。でも、よく考えたら違うかも」

 これは僕のただの持論だが、物を書くのに立場とコンプレックスは非常に重要な要素だ。

 しかるに外面的に見て、九王沢さんには人にコンプレックスを感じる要素がない。そんなことを無理に書いたら逆に反感を持たれるだろう。

 だがそう言うてらいや気負いがないことが、逆に面白いものを生み出すかも知れない。

「僕たちは僕たちの立場から、物を書くことを逃れられない。まあそれで大体似たような立場の人は、分かってくれるし、だから書き続けてるわけだけど。

 例えば僕は日本で育った日本人だ。だから極端なことを言えば、日本に住んでいて日本語が分かる人にだけ物を書かなくてはならないのが大前提だ。

 もちろんこれにさらにカテゴリを絞れば、もっと理解者を確保できる。

 職業、社会的立場、テレビで見た有名人の知識や一般常識の認識が一緒、何萌え何フェチ、共通の知人がいる、どんなものを食べてどんな地域に住んでる、範囲を絞れば絞るほど話は一部の人にとっては伝わりやすくなるからね」

 いわゆる内輪受けと言うやつだ。笑いも、テレビの芸人の万人向けの一発ギャグより、身近な人間の言動やキャラの話の方が面白いと思えることは、ままある。

「でもそこには犬吠埼とランズエンド岬をつなぐような事態は、永遠に訪れない」

 九王沢さんはそれを奇蹟だと言ったが、僕から見たらそんなこと、ほとんどの人の想像力の範囲からは訪れえない事態だ。

「わたしならそれが出来ると?」

「出来るかも、知れない」

 って言うか、やってみたら面白い。ただそれだけのことだ。

「…じゃあもし、原稿が出来たら那智さん、添削してくれますか?」

「う、うん。ぜひ」

 勢いで僕は頷いてしまった。そのときは人工知能に凌駕された人類みたいに、僕のちっぽけな物書きとしての種の終焉が来そうだった。

「ありがとうございます。でも、わたしにはそれ、想像も出来ません。だってもう、那智さんの作品を読んでしまったから」

 と言うと、九王沢さんは僕から身体を放して、三歩ほど先に出てから僕の様子をうかがうように見つめた。

「え…?」

 僕は改めて、はっとした。

 淡い街明かりに染められた九王沢さんの乳白色の肌はほろ酔いに染められて、くすんだ薄い光の中でも神々しいばかりに綺麗だったからだ。そして大きな二つの瞳は恐ろしく澄んで潤い、何か僕が与えてくれるのを待つかのようにしていた。

 またどこかで汽笛が鳴った。横浜と言う場所は、普通の港と違ってまるで国際空港のような開港(かいこう)なので、昼夜問わず貨物船が出入りしているのだ。

「わたしは」

 僕が何も言わないのをもどかしく思ったか、やがて九王沢さんは口を開いた。

「論理を積み重ねて、ここへ来ました。那智さんの小説から、那智さんに会ってお話がしたいと思って、今、もっとあなたが知りたいと思っています。でもそれは、運命的直感の産物とはまだ言えないものなのです」

「運命的直感?」

 僕は首を傾げてみせた。

「なんかぴんと来ないんだけど」

「そんなはずはありません」

 だが九王沢さんは構わずに言った。

「あなたはその運命的直感に一度、出会っているはずなのです。紛れもなく、あなたの人生の中で、あなたが描いた犬吠埼で」

 よく思い出してください。訴える九王沢さんの表情は切実だった。

「恐らくそれはあなた自身のものではなかったでしょう。でもあなたはそれを感じざるをえない事態に直面した。違いますか?」

 僕が内心、思わず息を呑んで絶句したのはそのときだ。だとしたら彼女のあの確信犯的な声音は、すでにそこまで見通してのことだったのだ。

 そんなはずはないのに。

 僕がいくら、時間をかけて感情のジャンクで記憶を埋め尽くしても。誰にも判らないように、誰にも触れられないように、廃棄物の埋立地にそれを遺棄しても。膨大な言葉のジャンクから九王沢さんはそれを一気に掘り出していたとしたら。

「九王沢さん、君はなんで…」

 そこまで分かるんだろう。いや、僕の何が分かっていると言うのだろう。

 僕と縁も所縁(ゆかり)もないイギリスからやってきて。ただ暇つぶしに開いたような、大学生が趣味で執筆した作品の寄せ集めを読んで。僕のことなど何も知らなかった癖に、勝手にそう思ってるだけのことじゃないか。

「いや、それはさ…」

 誤魔化しをとっさに口に出来ず僕は、こみ上げる唾を飲み下した。

 にわかに納得できるはずがない。気を取り直せ。深い息をついた僕はそこで、声音を紛らわせて、場を和らげる笑いを作った。

「あれは何度も言うけどただの駄作だよ」

「駄作のはずです」

 しかし九王沢さんは、あの完璧な笑顔で断言した。

「あの『ランズエンド』と言う作品には本当に描きたかったことの、ただの断片しか描けていないから。いや、わざと消してあるんです。あなたがそれを誰かに納得させることを放棄したから」

 でも、と彼女が言う次の言葉が僕の胸を一撃で刺し止めた。

「あなたが書く以上、自分以外は誰にも伝わらない、なんて誰が言えるんですか?」


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