PHASE.2
女ってのは、分からない。分からないもんだ。
一度は言ってみたい粋な台詞だが、いざ本当のカオスに直面してみると、なんて辛いのだ。ハードボイルド気取ってる場合じゃない。この子、本当に分からない。九王沢さんについては、すでにこの時点で僕のこれまでの常識すらが音を立てて倒壊しそうだった。
逃げ出したい。だが一方でたとえ少しでも、あの九王沢さんが僕を好きだ、と言う可能性があるんなら、僅かばかりのその可能性に賭けたい貧乏性な自分がいた。だってもったいないじゃん。
分際を知らず、しかもなんてみみっちいのだ。悲しい。だがそれが男だ。例えこの行く手に更なるカオスが待っていたとしても。ただ目の前の欲望に向かって突っ走るそれが男だと叫ぶ、僕の中の何かが止められなかった。だって、なにしろ相手は血統書つきHカップなのだ。
しかしそこから先は幸いなことに、一般論的なカップルの誰もが経験するごく普通のデートになった。正直、待ち合わせの段階で僕と九王沢さんには異星人同士ほどの隔たりを感じたのだが、全くそんなことは気にならなくなるくらいにちゃんとしたデートだった。
当たり前のことだが、九王沢さんも二十歳になったばっかりの女の子なのだ。良かった、ほっとした。だが、そんな感じで気を抜いているとまたえらい目にあった。
「那智さん、那智さん」
と、生まれたての子犬みたいな目で、ぐいぐい僕の腕を引っ張って一生懸命自分が見慣れないものを探す、九王沢さんにいちいちノックアウトされた。僕は侮っていた。これが、かわいすぎるのだ。
まずはウィンドウショッピングを、って感じで横浜ワールドポーターズに足を運んだのが、運の尽きだった。
「今度は、あっちです!あれ!ほらっ、これも!こっち見て下さいよお!」
と、もはや誰にも止められない九王沢さん。
特大テディベアのお腹に顔を埋めたり、小犬のぬいぐるみにはしゃいだり。古銭や駄菓子と言った、九王沢さんに生涯接点がなさそうなものについて矢継ぎ早に僕に説明を求めてくる。何でも答えてあげたい気分だ。そして、ほっとけない。目を離すとふらふら、危険なゾーンへも足を踏み入れてしまう。
「那智さん…さっき、知らない方に突然話しかけられたんですが。絶対領域、ってなんのことでしょうか?」
「そう言うおじさんに着いてっちゃだめ!」
お蔭で、僕はうかつに一人で、トイレも行けなかった。
でもそんなとき、九王沢さんは僕が、普段、見たことないようなきらきらの、奇蹟みたいな表情を見せるのだ。
例えばこんな子が自分の彼女だったらなあ、とか思わない男がいるか?でも今となってはむしろ、そう言う人の方が幸せなんじゃないかと僕は思った。
さっきの話だと今日の九王沢さんは僕と、かけあい漫才がしたくてここに来ているのだ。いわば芸人的な意味合いで、僕に突っ込んでほしいのだ。勘違いしたらそれこそ、確実に九王沢さんをがっかりさせ、依田ちゃんに罵倒されるだろう。
でもそれなら、英国詩について途方もない議論を吹っ掛けられた方が、まだましなくらいだった。
「那智さんって、わたしのこと好きですか?」
いきなりの根本的質問だ。赤レンガ倉庫街の前を通り抜けて、山下公園に向かう道の途中のことだった。ちょうど横浜税関の前辺りからそこは道が長い歩道橋になっていて、山下公園裾野にあるコンビニまでずっと、海を見ながら歩けるようになっているのだ。
行く手に浮かぶ海上の大桟橋を見ていた九王沢さんだが突然、さっきまでいた場所に忘れ物をしたのを思い出したような顔で振り返っての、核心をついた質問だった。
「そ、そりゃ好きだよ」
僕は絶句しかけたが、どうにか間をおかずに答えられた。
「だからデートに来てるんじゃないか」
すると九王沢さんはまた、あの天使の笑みを見せた。
「ありがとうございます。ではそれは、後輩じゃなくて、友達じゃなくて、と言う前提でよろしいでしょうか?」
「うん、いいよ」
あ、後は恋人だけだ。動揺を隠しつつそう言うと、
「じゃあ、わたしのどう言うところが好きですか?」
と、すかさず切り返された。考えてみればそれ、一番答えにくい質問だった。
「なんて言うんだろ。…その、頭いいし、かわいいし」
「他には?」
「えっと…」
絶滅危惧種に近い超絶お嬢様なのに我がままで高慢だなんてところ微塵もなく、清楚だし、素直だし包容力あるし、皆の注目の的だし。さらにはHカップ…いや、それ本人の前で言えないだろさすがに。でも後は、とことん最低な表現しか思いつけない。
「ちょっ、ちょ、ちょっと待って…」
僕が口ごもっていると九王沢さんはなぜか悪戯っぽく笑って、
「ごめんなさい。その辺で十分です。正直、すっごく答えにくかったと思います。わざと、意地悪な質問をしましたから。悪気はなかったんです」
その時、氷川丸の汽笛の音がした。正午を知らせる引退した汽船の時報に、彼女は反応したが僕から視線を外さなかった。二人でちゃんと会話が出来なくなるのを警戒して注意を払っただけだ。案の定、その無遠慮な横槍が収まるのを待って、彼女は言った。
「よく判りました。でも今のそれ全部、那智さん自身の言葉じゃないと思います」
絶句した。
だってどう考えても僕はそれに、反論する術を持たなかったからだ。
「那智さんは那智さんの言葉をちゃんと持ってると、わたしは思います」
わたしは、それが聞きたいんです、と、九王沢さんは言った。
「ちなみにわたしは、わたしが那智さんを好きな理由を一つだけ答えることが出来ます。それはこの、作品の中にあります」
と言って九王沢さんが出したのは、あの忌まわしい前回の会報誌だった。反射的に僕は露骨に話題を反らしたくなった。
「あの大桟橋の中って、一体何やってるんでしょうかね…」
「あなたの作品と、わたしの話から逃げないで下さい」
僕はトラウマの入口で引き返そうとして、九王沢さんにがっちり引きとめられた。
「依田さんから聞いているはずです。だってわたし、那智さんの作品を読んでこのサークルに入ろうと思ったんですから」
それは正直、デマだと思っていた。
だって依田ちゃん自身が、
「あ、それデマですよ。ただのページ稼ぎさんなんだから調子に乗らないで下さい」
ってとことん辛辣だから。まさかここで本人の口から、直接噂の真相が語られるなんて思ってもみなかったから。
ちなみにその噂によるとだ。
九王沢さんはイギリスから来日してこの大学に編入前に、うちの学祭に訪れてたまたまこの会報誌を手に取ったらしい。
あんまりにもかけ離れたルックスの女の子が、がらっがらのサークルの即売所の前に貼りついて、あの薄い本を思い詰めた顔で何度も繰り返し繰り返し立ち読みしているので、そこにありえない人だかりが出来始めたらしいのだ。SNSサイトで九王沢さんの写メを撮って拡散した奴もいるくらいだったと言う。信憑性ある話ではある。見ての通り九王沢さんは立ってるだけで、立派な広告塔になりえる。
ただこれ、実際起こってみると、製作者としては嬉しいが、販売所にとってはぶっちゃけ有難迷惑だった。依田ちゃんは買いもしないのに、九王沢さん目当てで群がってくるむっさい連中への対応に追われ、かわいそうなくらいへとへとになった。
「だあーっ、どけえーっ、どいつもこいつも!買わないならみんなどっか行け!」
と、布のはたきを武器に、呂布並みの無双奥義で野郎を追っ払う依田ちゃん。頼もしすぎる。書店に就職したら、店頭では欠かせない存在になりそうだ。
「あの…そんなに欲しかったら差し上げますよ、ただでそれ。どうせ売れないし」
そんな依田ちゃんに、九王沢さんはこう詰め寄ったと言う。
「この本のこの作品、これ書いた人に会わせて下さい!」
と、それがなんとまあ、よりによって僕の、史上最低の駄作だったのだ。
「なんであのとき会って頂けなかったのか、ずっと考えてました。やはりわたしはまだ、未熟だったからでしょうか。足りないものがあったからでしょうか。お答えを頂けなかったので、そのせいだと思うことにしました」
ちなみにこの件。
「それは違います!」
と声を大にして叫びたかったが、絶っ対出来なかった。
だってあのとき九王沢さんにせがまれて、依田ちゃんは何度もその場で僕の携帯に電話したらしいのだが。
白状します。その頃の僕ですか。つぶれた酒屋から捨て値で在庫を仕入れたと言う先輩のうちに上がり込んで、ウイスキー、焼酎、日本酒で、朝から晩まで爆酔してました。
だって製本後の読み合わせ段階であれだけ酷評されたし、刷った分なんて到底、はけやしないだろうから、持ち回りのめんどくさいカウンター当番をついサボってしまいますた。…かくして依田ちゃんは激怒して、一ヶ月ほど口を利いてくれず、一世一代、空前絶後の本気の反省文を提出してようやく許して頂きましたのです。
などと言う裏事情は、死んでもこの子には言えなかったからだ。
て言うか、それなら逆に思いきって聞きたいくらいだ。
「九王沢さんは、なんでそんなにこの作品に興味持ったの?」
九王沢さんはそこで初めて、ミステリアスな表情を浮かべた。
「この作品のテーマには、一つの啓示があります。それがすごく気になったからです」
「啓示…?」
もちろんぴんと来なかった。
「それだけじゃありません。もっと何か、大事なことが」
「大事なこと?」
そして首を傾げた僕に、
「例えば」
彼女は続けて言ったのだ、
「そこに、隠された構図が」
「え…?」
「違ってましたか?」
心臓をぐさりと刺された気がして、僕は顔をしかめた。なんでか今の瞬間。他のことはおっかなびっくり健気一途な彼女が、なぜかそのときだけとても確信的犯的な声音を出したから。
「何かあったかな…?」
「よく思い出して下さい」
その表情の変化を九王沢さんはまたあの不純物のない笑みで受け止めていた。
「それは追い追い、お話しましょう。お互い、時間のかかることでしょうから」
十二月の陽は本当に短い。僕たちは山の手を北上すると、日暮れ前のみなとの見える丘公園にいた。ちょうど今、横浜港が一望できるこの場所は、落日前の神々しい光が降りてきている。その黄金色の光を浴びて、神々に祝福された九王沢さんと、もろもろ見放されたすすけた僕が歩いている。
そこからは陽が暮れるのを待って、中華街近くの生演奏が聴けるジャズバーに行って、赤レンガ倉庫街でクリスマスイルミネーションをみて、後は野となれ山となれコースだったのだが、九王沢さんの話に引っ張られたせいか、そのことはすっかり頭に入ってこなくなっていた。
「『ランズエンド』と言うタイトルはどこから?」
岬を渡る際立って冷たい海風に髪をなぶられながら、九王沢さんはついに僕の書いた作品のタイトルのことを口にした。
「特に意味はないよ。海辺へドライブに行って、そこでふられる話だから」
「関係の果てを地の果て、とかけた寓意ですか?」
僕は素直に頷いた。
一般的にランズエンドは「岬」と言う意味だが、ケルト人にとっては「地の果て」を意味したそうだ。つまりはそこから先は生と死との境界線、すなわち別世界との分岐点。
そう言うタイトルだと想像力が刺激され、なんか暗示的な感じがするが、内容は今どき書くのも敬遠されるほど単純なストーリーだ。もう終末期のカップルがいて二人のうち、男の方は別れたくない、女の方はうんざりして半ば面倒くさくなっている。二人が出した違う結論が、決断に変わる果てを描きたかったのだが、
「全然そうなってないですけど?」
タイトルだけなにカッコつけてんですか、と、依田ちゃんには、いらっとされた挙げ句眉をひそめられた。
「ランズエンド岬に行ったことは?」
「ないよ」
九王沢さんが言うのは、イギリスの観光名所の方だろう。
このランズエンド岬はイングランド南西端のコーンウォール州と言う地域にある。鉄道よりも車や夜間バスが主なアクセスと言う辺境だ。ちなみにイングランドの本島では一番西にある『地の果て』を謳っているが、位置的には本当の地の果ては別の場所らしい。
地理学上の最果てではなく、その地に住んだケルト人の信仰上の問題と言える。ちょうど日本で言う浄土思想、つまり海の彼方に極楽があると言う考え方を元に陸地の果てを、浄土ヶ浜や浄土ヶ浦などと称したのと一緒だ。ちなみにイギリスだけでなく、例えばフランスなどにもケルト人が足跡を残した岬には、ランズエンドの名前がつけられている。
大体僕の作品はイギリスほとんど関係ない。舞台は僕の地元、太平洋の荒波洗う千葉県の銚子市の海っぱた沿線である。
「やっぱり銚子の犬吠崎や九十九里浜じゃ、雰囲気でなかったかな?」
「そんなことありません」
九王沢さんはきっぱりと、言った。
「そんなことないです。文章を読んでいてそこに行ったことのないわたしにも、ちゃんと風景がつながりましたから。不思議なお話だと思いませんか。わたしはランズエンド岬に行ったことはあっても、千葉県銚子市の岬に立ったことはありません。そして那智さんは犬吠崎から見る海を実際に目の前にしたことはあっても、ランズエンドの地に立って同じことをしたことはない。
その二人がただ一つの文章で、同じイメージを共有できたんです。これってとても素晴らしいことだと思いませんか?」
「そうかな…」
理論上はそうだけど、どうもぴんと来ない。
「奇蹟ですよ」
完璧に曇りのない笑みで、九王沢さんはそう断言した。
ちなみに九王沢さんのその行動は、心理学ではミラーリングと言う。同調行動だ。相手と同じ行動をしたり、共通点を意識することで、お互いの距離を縮めようとする。恋愛をする人間が本能的にとる代表的な行動なのだ。
簡単に言えば僕に合わせようとしてくれてるってことなのだけど、一向にそれが僕に実感できないのはなぜだろう。ってカッコつけてもしょうがない。痛いほどよく判ってる。それは九王沢さんのせいじゃなくて、全面的に僕のせいだ。僕自身に問題がありすぎるせいだ。
そもそもだ。
九王沢さんの立つ位置から、僕が見えると言うこと自体が驚天動地の奇蹟なのだ。距離的な問題で言えば、それはイギリスのランズエンド岬と日本の犬吠崎どころか、違う周回軌道上の惑星のそれに近い。本来ならば九王沢さんの人生に、僕が登場する確率は天文学的にゼロに近いはずなのだ。
「でも、わたしは今、ここにいます。ここまで一緒に話をしてきてずっと、そして思い続けています。もっと沢山、那智さんとお話したいと」
その接点はただ一点だ、と言うように九王沢さんはちっぽけな会報誌のさらにちんけな僕の作品を指し示す。その光景、何度見ても、穴があったら入りたい。
「もうやめようよ…」
そろそろ本格的に苦悩する僕に、彼女は悪戯っぽく笑ってしか応えてくれない。
「いやです。なぜならここに、ある問題に対するヒントがあるからです」
「あのさあ」
九王沢さんね、それ、預言書じゃないからね。いくら名前が慧里亜さんだからって、誰もそんな話納得してくれないからね。
と、普通の相手だったらお腹いっぱいになって話を切ったり、ああそうかもね、とか適当にごまかしたり、席を立っているところだった。だが、不思議だった。九王沢さんを相手にしてはなぜかそれが出来ないのだ。神々しいばかりの美貌や、魅惑のHカップのせいだろうか。いや、もしかしたら、言葉に出来ない別の何かのせいかも知れない。何かは判らないけど。
ちょうどそう思い出していたときだ。
「那智さんは、人間の直感を信じる方ですか?」
九王沢さんは唐突に聞いてきた。
「直観?」
同じ発音でも違う意味がある言葉があるので僕は、観光案内のパンフレットに文字を書いて訊き返した。
「いえ、観る方ではありません。感じる方です。外来語で言うならインスピレーション、予感、予見、さらには未来予知」
オカルト方面の話だろうか。まさかここで神秘の会に入会させられるのかな、と思ったのだが、九王沢さんはもちろん、そんな常人の予想が通じるような人ではなかった。九王沢さんは本当に不思議そうな表情で僕にこう尋ねたのだ。
「例えば人間の直感って、人の手で再現出来るものなのでしょうか?」
人間の直感は人の手で再現しえるか。それはつまり、現在の人工知能にそれを、反映できるかと言うことなんだ、と思うんだけど。
「直感に必要なのは、想像力です。直感は、現在起きていないことを起こりえるものとして『察知する』力なのですから、実際まだ存在していないものを『想像する』能力が不可欠なのです。しかしこれは、『知力』から導き出されるものであっても、『知力』そのものではありません。ここまではご賛同頂けますか?」
「うん…何となくだけど、分かるよ。何て言うんだろ。一言で説明できないな」
「何か書くものを持っていますか?」
僕は頷いた。さっきは面倒だったので観光案内のパンフに書いたが、僕は創作用に手のひらサイズのリングメモと筆記用具をいつも持ち歩いているのだった。九王沢さんはそれを受け取るとさらさらとそこに、何か短い英文を書きつけた。
そこにはこのように書かれていた。
Reason respects differences,
and imagination the similitudes of things.
「知力と想像力の違いを感じ表したある人の言葉です。『知力は事物の相違点を重視し、想像力はその類似点を尊重する』。日本語ではこのように訳すのが適当なようです。那智さんはこれ、誰の言葉かご存知ですか?」
「あ、それは」
言うまでもなく、パーシー・B・シェリーの言葉だ。五十嵐先輩の轍を踏んで、予習しておいて本当に良かった。とりあえず人間、やれることをやっておいて無駄なことってないもんだ。
「那智さんは、シェリーってどんな作家だと感じますか?」
「ううん、ラディカルって言うか、ちょっとパンクな感じがする作家だと思ったけど」
ざっと生涯を追った第一印象としては、火のような天才肌の人と言う感じだ。当時の封建的社会階級制度に疑問を唱え、オックスフォード大学で社会運動に身をやつし、放校。道ならぬ恋に落ちて駆け落ち、国外逃亡して最期はイタリアの海難事故で亡くなるまで、宗教による因習を懐疑し、生命と精霊を追求した作品を描き続けた。
「まだまだカトリックによる封建制の名残りが強い当時のヨーロッパ社会で『神が存在しない、と言うところから考えよう』と言う考えを掲げたシェリーは十九世紀の人間にして、当時の社会常識の根本からを懐疑し、自分の感覚を掘り起こした人で、これまでの社会常識が世界的に混沌としつつあるこの現代に、また注目してもいい作家だと思います」
と、九王沢さんは楽しそうに言う。
「確かに名声に関して言えば、シェリーは不遇な作家でした。彼の評価はイギリスでは知識階級だけの知名度に留まり、しばらく後世に名の知れることのなかったのですから。ちなみにそのシェリーを大きく評価した一人はアメリカの作家、かのアイザック・アシモフでした」
僕は黙って頷いた。それもよく知っている。若くして亡くなったシェリーの没後、本国イギリスでもほとんど知られていなかった彼を高く評価したのは、かのアシモフなのだ。SFフィクションのみならず、現代の人工知能の存在理念の基礎ともなる『ロボット三原則』を作り出したあの、アイザック・アシモフだ。
「一九二〇年生まれのアメリカの作家、アイザック・アシモフはSF作家の大家としてよく知られていますが、本来の彼は著書五百冊以上、その守備範囲は科学、言語、歴史、聖書など恐ろしく多岐に渡った膨大な他ジャンル作家でした。その興味は一般科学に留まらず、人文科学の多くの分野に広がっていました。
そのアシモフが歴史の闇に埋もれていたシェリーを発見し、高く評価した慧眼は時代を超えて得難い卓見(優れたものの見方)であった、と言わざるを得ません」
九王沢さんの言うとおり、シェリーは長い間、埋もれていた作家だ。
そしてそれは時間以外にも、色んな意味で、と言う意味でもある。
実は文学の世界では、シェリーはその世界的な知名度を奥さんの方にほぼ完全に譲ってしまっている。彼の妻メアリーは、吸血鬼に並びホラー映画好きなら誰でも知ってるモンスター『フランケンシュタイン』を描いた人なのだ。
彼女は若干十九歳にして後世にまで知られるその名作を書いたのだが、もともとそれは夫のシェリーといわば遊びで創作を競ったものだったと言われている。
「神が創りたもうた人の生命は、果たして同じ人の手で作れるのか」
と言う一つの構想をテーマに始められた競作は、ある衝撃の理由で挫折したらしい。
簡単に言うと夫のシェリーが飽きたのである。
書くのめんどくて。
シェリーは天才的な直感の持ち主だったが、飽きっぽくて根気のない人だったとされる。そのため長い小説を書くのに向いていなく、このときもその悪癖が出たようだ。経験上、何となく判るが詩と比べ小説を書くのには、一歩退いた状況説明や客観的な書き方が求められるため、詩でものを語れる人にはいちいち面倒くさいのである。
一方メアリーは夫が飽きてもまめにこつこつ書きためてついに作品を完成させた。
かくしてメアリーは天才的な感覚の持ち主なのに飽きっぽくて大作をものに出来ないシェリーの名声を軽く飛び越えてしまったのだ。二人は典型的な『うさぎと亀』だ。その寓話を作家の人生訓としてこれほど見事に表現している逸話はないだろう。
ちなみにアシモフはこれを『作家の悪夢だ』と評している。
五百冊以上も著書をものにしたアシモフからすると、
「やればいいもの出来たのになあ」
と、言うところだろうが、その一言にアシモフのシェリーに対する評価高さと嘆きの強さがしっかり込められている、そんな気がするから不思議だ。あの夏目漱石にも惚れこまれる際立った天性を持ちながら、彼は本当の意味で残念な人だったのだ。
「シェリーはいわゆる感性の人だったと言います。『想像力の人』だったんですね。どちらかと言えば『知力の人』論理派の夏目漱石が感動したのはその点だと、わたしは思います」
ちなみに、稀有の文学者にして、当時最先端の数学や物理の理論をも解したと言う漱石はシェリーの言葉に出会ったときの衝撃を感動そのままに、
「脳中の霊火炎上して一路通天の路を開き」
と、表現している。
今風な表現で言えば、頭の中の回路がいっぺんに繋がった、そんな感じだろうか。
あの漱石が知識と論理を煮詰めに煮詰めても解決できないカオスの中にあった物事の中核を、パーシーはただの直感一つで、わしづかみに得ていたと言うわけだ。
「それではさっきまでの人工知能のお話を踏まえて、シェリーの言葉を那智さんだったらどのように解釈されますか?」
う、やっぱ応用問題来た。僕はしばらく考えた。
「えっと簡単でいいのかな」
「簡単でお願いします」
うーん。じゃあどうせ九王沢さんにかなうわけないし、とにかくシンプルに、僕は言うことにした。
「知力は自分と『違う』を判断する力、想像力は自分と『同じかも』と感じる力?」
恐る恐る僕は言った。何しろ相手は博覧強記の九王沢さんだ。
「伝わりました。今のはちゃんと、那智さんの言葉でした」
するとにっこりと、九王沢さんは笑った。ああ、緊張した。にしても何で笑うときだけ、紛うことなき天使の笑みなのだろうか。
「わたしもそう思います。現在持っている知識から導き出されるパターンの中で一致、不一致を判断するのが、『知力』です。これは目の前の状況に対して導き出す答えは自分がすでに持っている『解』のパターンと同じであるかそうでないか、『識別』する能力なのです。つまりここには本質的にはイエスとノー、二つの極しか存在しません。
そのため現在実用化されているコンピュータは現実の状況を『違う』と判断すると、その場で停まってしまいます。これ、自分の解決不能になった『判断』を優先して今目の前にある状況を『放棄』したから停止するんです。
人間に限らず『生きている』他の生物には、そんなことは出来ません。たとえ間違っていても即座に行動は選ばないと、その状況を放棄したら死んでしまうことだってあるんですから。でも機械は、例えそこで自分の存在を破壊されたとしても、『停まる』でしょう。
でも、『想像力』を持つ人間は違います。その気になれば、そこでまた手持ちの答えとは違う答えを探すことが出来ます。
もちろんこれには、過去の経験や知識、元になるデータが必要です。しかしそのカテゴリにない、新たな答えを自分で創り出すことが出来るんです。それが人間の直感の正体ではないでしょうか。
つまり『想像力』が『知力』そのものでなく、でも『知力』によって導き出されるもの、と言うのはそのようなお話を踏まえてのことだと言うことです。となると、人間の直感、ひいては感性は人工知能には再現出来ない、と言うのが結論になると思うのですが、いかがでしょう?」
「う、うん、普通にそうだと思うよ」
概略しか話が分からないながら相槌を打つと、
「でも、果たしてそうなるでしょうか?」
九王沢さんはまたあの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「では次は、人間の側からお話をしましょうか」
頭がぐらぐらしてきた。あれっ、僕、今どこにいるんだっけ。
気がつくと僕は、すっかりライトアップが完了した赤レンガ倉庫街の中にいた。僕にとっては、きらびやかなあのクリスマスイルミネーションが鳩血色に明滅する非常警告灯にしか見えなくなってきた。あ、しばらく考えるのやめよ。
そうだ。あれから僕は九王沢さんとの議論が続いて時間を忘れ、暗くなったことも移動したことも上の空になってしまっていたのだ。
正直、デートをしているのか、マンツーマンで科学と人文のごった煮の講義を受けているのか、自分でもよく判らなくなってきた。
とは言え、決して詰まらない話じゃなかった、そう思っている自分がいるのはなぜだろう。例え僕がやっている文学の分野だけででも、あの九王沢さんと、きちんと渡り合えたと言う何となくの満足感がそうさせるのだろうか。
そう言えばどんなものを書いていたって思うが、すべての創作上に登場する人物の感性は、人工物なのだ。作者の手になり生み出され、その物語の中でしか存在できない。それらは確かに、九王沢さんの言う人間が持つ『想像力』の賜物なのだ。
そう考えるとちょっと九王沢さん自身のことで、僕なりに理解が深まった気がした。彼女のことで僕が、分かることがあるのだ。そう言えば距離が縮まったのかも知れない。
彼女は純粋にただ、好奇心の人なのだ。
議論に熱中しているときの九王沢さんは、ひと際魅力的になる。つまりは自分が知らないものに出会ったとき、まだ知らないこと、分からないことを、真剣に考えるとき。
大きな瞳が輝いて、薄闇の中でも一層の潤いを帯びて光る。いつもおっかなびっくりの話し方や言葉の選び方が独特の切れを帯びて、勘や連想が冴え渡る。そう言うとき声大きいし、ちょっとはた迷惑だけど、本当の九王沢さんが感じられる。それがとてもかわいいし、決して嫌いじゃない、いや彼女のことがちゃんと好きだと思う。
でもそれはもはや言葉にならない、好きなのだ。
「わたしの、どう言うところが好きですか?」
九王沢さんが自分で聞いておいて、それは意地悪な質問だ、と言った意味が今なら、何となく分かる気がする。この感じ、一つ一つ言葉や論理で置き換えたら、本当のそれじゃなくなってしまうのだ。
(でも、それでもだからこそ、言葉があるのかな)
僕は、はっとした。例えばパーシーと漱石の逸話みたいに論理で考えて、知識と符合させて、知力で踏み固めてやっと手繰り寄せかけてきたものが、想像力の飛躍的な直感で解決されてしまう、そんなことがあったとしても。何より言葉がなかったら、その両者は同じ結論を得たものだとしたって、違う生の周回軌道上に存在し、永遠に結びえないのだ。
決して交わりえない遠いものすら、強く結びつける奇蹟の力。
と、なると言葉こそ、人間の想像力の奇蹟の産物なのかも知れない。
じゃあ、と九王沢さんみたいに僕は考える。
人間の感性が知力ではなく、想像力の賜物だとするならば。
好き、って人工知能で再現することが出来るものなのだろうか。