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三方ヶ原の戦いについて思うところ

作者: 六三

 元亀3年12月22日に名前の通り三方ヶ原でおこった戦いなのだが、通説では武田信玄は徳川家康が篭る浜松城を素通りし織田領に向かった、という事になっている。そしてなぜ家康が出撃したかについても諸説あるが、基本、武田軍は素通りするという事が前提になっている。(素通りさせては家臣、国人衆から愛想をつかされるからなど)


 ここで話は変わるが、金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口などとも呼ばれる)というものが有る。


 元亀元年(1570年)におきた戦いで、織田信長が越前朝倉を攻め、その途中に背後にいる近江の浅井に裏切られ、挟撃されるのを恐れて撤退したというものだ。この時、織田信長は自身は少数の近習のみをつれいち早く脱出し、軍勢も浅井が抑えているのとは別の道から撤退したという。(秀吉は朝倉への殿を勤めたが)


 この時、総兵力では織田軍(と徳川の連合軍)の方が浅井、朝倉より数は多かったが、それでも挟撃されれば圧倒的に不利なので撤退したという。


 話は戻って三方ヶ原についてだが、それを踏まえて考えれば、武田軍が家康を無視して織田領に進むのは、浅井の裏切りを知った上で、織田軍が朝倉領に進み続けるようなもんじゃないのか? 自殺行為じゃないのか?


 武田軍が織田領に向かうなら、尾張に進むか、美濃に進むか。尾張に進めば後ろから来る徳川軍に完全に退路を断たれる。美濃に進んでも秋山と合流した場合、退路が断たれる訳ではないが挟撃されるのは同じでやはり危険すぎる。それでなくとも、徳川を放置してはがら空きになった駿河などを攻められかねず、そうなれば撤退し救いに行かなければならない。(中国の戦国時代、斉国にいた兵法家の孫ビンは、趙の国が魏の国に攻められた時に趙の援軍にむかったが、趙には進まず魏の本国を攻めて魏軍を撤退させている)


 つまり、武田軍が家康を無視して織田領に向かったというのはどう考えてもありえない。そして、家康だって武田軍が織田領に向かうのがありえない事ぐらい分かるはず。


 では、武田軍の行動の意味はなんだったのだろうか?


 まず、秋山隊が東美濃に侵攻し織田を牽制する。山県が東三河へ侵攻。少し遅れて信玄本隊が遠江を攻める。そして山県は東三河の要衝である長篠城を落とした後、遠江に向かい二俣城で武田本隊と合流。


 この時点では、山県が始めに東三河を攻めて徳川軍の三河方面からの武田領への逆侵攻の芽を潰した後、武田全軍で遠江を攻略する体勢に見える。よって、家康も兵力を遠江にある居城、浜松城に兵力を集中させる。しかし、武田軍は突如、遠江をほって東三河方面に進み始める。


 ここで、当時の家康の支配体制について考えたいと思う。


 普通は1つなのだが、家康には本拠地が2つある。権力地盤としての三河と、居城としての浜松だ。(信長の尾張と岐阜城もだけど)


 三河の徳川と言われるが、実際は元々西三河の土豪でしかない。そして三河統一後、永禄11年(1568年)に遠江に侵攻、浜松城を築き居城とした。つまり、遠江は三河の力を持つ家康に屈服しているだけである。逆に言えば家康の三河での力が衰えれば遠江の国人達が家康に従う必要は無い。


 そして、それは武田信玄も理解していた。よって、武田軍の狙いは織田領への侵攻ではなく、三河攻めだったと思う。


 じわじわ領地を攻め取るなら、信濃、駿河方面から遠江を攻めるべきだが、この時の織田の情勢、武田の戦力を考えれば、徳川領のかなりの部分に食い込めるだけの状況だった。ならば三河を攻めるべき。


 徳川軍を浜松に集中させ、手薄になった三河を一気に攻める。特に東三河も元々は家康の領地ではなく、家康が軍勢を率いて浜松に篭ってしまっている今、自分達は見捨てられたと考え、家康からの援軍などがなければ早々に降伏してもおかしくは無い。(遠江の要衝の城もかなり落とされているし)


 そして東三河を取れば、三河を地盤とする家康の力は半減。しかも、その本来の本拠地である西三河と浜松の家康は分断される。


 この状況で、遠江の国人が家康に従う必要があるのか? 浅井は居城で織田軍と対峙し2年持ち堪えたというが状況が違う。(浅井は本領と居城が同じなので)


 東三河を落とした後に武田軍が遠江に戻ってきて浜松城が囲まれれば、遠江衆に寝首をかかれる危険すらあり、家康は浜松を脱出し西三河に向かうしかない。(この時軍勢を連れていては武田軍に補足されるというなら、近習の者達数人とだけでも)


 つまり、東三河を取れば、それだけで遠江が棚から落ちてくる状態だった。


 そして、(東)三河に向かう武田軍を見て、

「あ。東三河取られたら俺終わる!」

 と家康も気づいただろう。


 運よく勝てば良し! 負けても、東三河を助ける気持ちは十分に有る! と見せる為に家康は出陣。


 そして信玄は

「読んでました!」

 とばかりに迎え撃った。


 その後、信玄は合戦には勝ったものの病状は悪化し、武田軍の動きは鈍くなり結局は撤退するが、信玄が健康だったら家康はかなり危なかったと思われる。


 と、三方ヶ原とはこういうものだったのではないかと。とにかく、武田軍が織田領に向かったというのは、ありえないと考える。


※もっとも、物凄く詳しく調べている人から見れば、私の推測など穴だらけなのかも知れないですが。

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― 新着の感想 ―
[一言] 数年前の物ですがエッセイランキングに載っていたので・・・ そもそもの武田勢が織田を攻めるために〜というところですが 自分が歴史物を漁っていた10年ほど前?頃の時点で 家康を挑発するために通…
[良い点]  漫画とか小説とかでしか歴史をかじらない素人マンですが、歴史考察物は好きでよく見ます。  武士や大名と言ったって、経営者で為政者であり、現代人と通じる感覚はあったんじゃないかと思っている…
[一言] 記事が書かれてから大分時間が経っているので、作者さんの認識も変わっているかも知れませんが、一応一言。 まず、信玄は史実において三方ヶ原の戦いの後東三河の野田城を実際に攻めていますので、信玄…
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