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脇役少女Sは、傍観者ですらない。

作者: 太郎花子

 いつもより早い時間に玄関の扉を開けると、今日も空は晴れていた。天気予報通りの快晴だ。まあ、晴れている事は朝起きてカーテンを開けた時点で既に分かってはいたけれど。

 梅雨が明けてすっかり初夏の暑さが肌にまとわりつくようになったここ数日、週間天気予報はお日様のマークばかりが並んでいる。そして暑い。曇りの方がまだ過ごしやすいのに、と言っていた友人の言葉を思い出すレベルの暑さだ。雨が続くのも憂鬱だが、暑い日が続くのも辛い。今からこんなんじゃあ、今年の八月頃には例年以上の地獄の暑さが訪れるかもしれないと考えて、顔をしかめる。私は暑いのが苦手なのに。――そう、私は夏真っ盛りの時期には海やら山へ行くよりも、冷房の効いた室内でごろごろしている方を選ぶ人種だ。ついでに寒いのも嫌いだ。冬場にコタツに入ってアイスを食べるのは大好きだけど。あ、アイスと言えば、昨晩話題のドラマを見ている途中、アイスクリームのCMをしていたな。期間限定のなんとかかんとかアンドなんとかかんとかナッツ味のカップアイスは、とても美味しそうだった。凄く食べたい。今日の帰りにでも、友人と一緒にコンビニへ寄って買おう、そして食べよう。


「……あれ?」


 朝っぱらから高めの気温の不快さを、放課後の予定で塗りつぶしながらいつも通りの通学路を歩んでいると、視界の中に奇妙な物が入り込んだ。進行方向の十メートル程先にあるゴミ捨て場に、何か大きめの黒い物体が転がっている。今日はゴミ出しがある曜日ではなかった筈だし、この市の指定のゴミ袋は黒くない。誰かが勝手に粗大ゴミでも放り投げたのだろうか、などと思いながら近付いて行くうちに、それがゴミではなく人間である事に気付き、びっくりして立ち止まる。この状況をどうにかしてくれる親切な誰かさんはいないかと周囲を見回してみたが、今日はとある理由で普段よりも早めに出たせいか、不思議と人影が全く見当たらない。どうしようかと思いながら、ゆっくりゴミ捨て場に近付き、一定の距離を保ちながら黒い物体改め黒い服の人を観察してみた。

 ――生ゴミの臭いがするゴミ捨て場にうつ伏せで倒れている人は、初夏だと言うのに真っ黒いロングコートを着ていた。そして、多分男の人だ。不自然にキラキラしている白髪が見えるから、恐らくはそこそこお歳を召した人なのだろう。とっさに、『不審者』と言う言葉が思い浮かんだが、最近この辺りで黒服白髪の不審者が目撃されたと言う話は聞いた事がない。警察か救急車を呼ぶべく取り出した携帯電話を右手で持ったまま、どうするべきか考える。


「……大丈夫、ですか」

「……うぅっ」


 もしかしたら捨てられた等身大のマネキン、つまりは粗大ゴミかもしれないと言う可能性にも思い至ったので話しかけてみたら、軽いうめき声が聞こえた。それから、そこそこ穏やかな寝息。見たところ、怪我もしてなさそうだ。良かった、ついでに『実は死体』と言うホラーな可能性も消えた。ミステリードラマは好きだが、リアルに死体の第一発見者なんかなりたくない。安心したついでに、いつの間にかどこかに飛んでいた冷静さが戻って来て、一つの現実的な答えが脳裏に浮かんだ。


 ――多分、この人、『酔っ払い』だ。


 生ゴミ臭い場所で寝転がっているせいでアルコール臭がするかどうかは確かめられないけれど、きっとそうだろう。道端に怪我もしていないのに人が転がって寝ている理由として、最も現実的と言うか、あり得そうな結論に辿り着き、息を吐き出す。それと同時に「正直朝っぱらから見知らぬ酔っ払いと関わりたくない」と言う思考に行き着いて、私はゴミ捨て場の酔っ払いをそっと見なかった事にし、早足で登校を再開させた。


 ――ごめんなさい、酔っ払いさん。でもまあ、この道っていつもは人通りがかなり多い場所だし、直ぐに親切な誰かが助け起こしてくれるか、パトロール中の警察の人にでも保護されると思うよ。次からは飲み過ぎないように注意すべきだとも思うよ。



***



 若干の罪悪感を胸に抱きながらも学校に辿り着き、校門を潜った。グラウンドには朝練に励む生徒達の姿が見えたが、それ以外の制服姿の生徒はポツポツとしか見掛けない。昨日、うっかり机に宿題を忘れて下校してしまったので、今朝は早めに登校して教室でやってしまおうと考えた末に、いつもよりも随分早く家を出た結果だろう。普段は生徒達の登校のピークの時間帯に登校しているから、見慣れた光景との差が大きい。欠伸をしながら自分の下駄箱の蓋を開け、中に入っている上履きを取り出そうとしたところで、またもや見慣れぬ光景が目に入った。


 ――真っ白い長方形のペラペラが、私の上履きの上に乗って存在感を主張している。


 一瞬固まってしまった手を伸ばし、その白い物体――どう見ても封筒にしか見えないそれを持ち上げてみる。宛先を書く為のスペースに文字はない。ひっくり返しても、封筒はひたすら真っ白いだけだった。『ラブレター』だとか『モテ期』などと言う単語が浮かんで来たが、それらが自分には似つかわしくない現実を私は知っている。

 何しろ、毎日鏡を見た際にそこに映るのは、毎度毎度根暗そうな普通の顔なのだ。少なくとも、可愛い系でも綺麗系でもない、男子受けも女子受けもしないありふれた容姿。胸はやや小さいが、太ももはやや太い。成績も悪くはないが良いとは決して言えない、性格も目立たない女子にありがちなちょっぴり内気系だと思う。つまり、私は地味だ。そして私のような地味な人間は、派手な男子達による『罰ゲームとして冗談で告白する』と言うイタズラの対象にされる事がある、と言うか中学の頃にされた。向こうとしては悪気がある訳じゃないから怒るに怒れないイタズラは、軽く私のトラウマになったものだ。あの時も、こんな感じに封筒が下駄箱に入っていたな。思い出したら悲しくなったし、目の前の封筒も誰かの罰ゲームの結果ではないかと思えて来る。どうせなら、私からの往復ビンタを罰ゲームに指定してくれれば協力したのに。……いや、やっぱり怖いからそんな事は出来ない。私は地味な上にビビリな小心者なのだ。


「おはよう、佐藤さん」

「えっ、……ああ、渡辺君。うん、おはよう」


 下駄箱の前で思考に耽っていたら、誰かに声を掛けられた。驚いたままの顔を上げ、挨拶を返したら、眼鏡の男子生徒が上履きを手に持って苦笑していた。――クラスメイトで、私と同じ図書委員の、渡辺君だ。図書委員同士のよしみで、たまに話したりもする。私にとって数少ない男友達のうちの一人である彼は、私と似たような人種だと密かに思っている。

 つまり、正直に言ってしまえば彼も地味なタイプで、クラスでも目立たない。私としては、話しやすい男の子だ。多分、向こうも似たような印象を抱いているだろう。


「今日は早いね、何かあった?」

「今日提出する国語の宿題、昨日持って帰るの忘れちゃってたから、早めに登校して教室でやろうと思って」

「ああ、なるほど。国語は二時間目だから、急いだ方がいいね」

「うん。渡辺君はいつもこの時間に学校来てるの?」

「いや、部活の関係で今日は早く来ただけ」

「そうなんだ」


 雑談を交わし、先に履き替えた渡辺君が校舎内へ向かうのを見送った。とっさに隠した封筒は、見られていない――と良いな。まあ、仮に見られたとしても、渡辺君なら空気を読んでスルーしてくれるだろう。私が逆の立場ならばそうする。特別仲の良い相手でもない、言葉を交わす方だとは言え実際は友人よりも知人に近い関係の異性がラブレターぽいものを持っている姿を見ても、つっこまない方がお互いにとって賢明だ。所属する委員会が同じでこれからも接する機会のある相手と気まずい感じにはなりたくない。おかしな勘違いをされる可能性もある。

 そこまで考えて、不意に一つの可能性が浮かんだ。――私の下駄箱の隣は、凄くモテるクラスメイトの早乙女君が使っているものだ。女の子からきゃーきゃー言われながら美人ばかりをはべらすイケメンの彼は、他の学年の人からもモテモテらしい。そんな彼の下駄箱には、毎日ラブレターが入っているそうだ。しかも、沢山。通信機器の発達した現代で、ラブレターなんてものが日常的に量産されていると噂で聞いた時は驚いたが、どうやら早乙女君が「古風な女の子っていいよね、差出人不明のラブレターをこっそり送っちゃうような恥ずかしがり屋さんってマジレアモノで可愛いっぽくない? 俺、そう言う事しそうな子結構好きかも」などとうっかり発言した結果らしい。そんな彼の言葉を受けて、連日差出人の書かれていない呼び出しラブレターが私の隣の下駄箱を埋め尽くしていると言うのだから、イケメンの影響力は凄い。その癖、ラブレターの多さに文句を言って読まずにこっそり捨てているらしいと言う噂もある。意味が分からない。これだから派手でチャラいイケメンは好きじゃないのだ。妬みも入って私の苦手な人種なのに、早乙女君はモテモテ野郎である。

 まあ、私と縁のない他人がどれだけモテようがどうでもいい。問題は、早乙女君の下駄箱と間違えて、私の下駄箱にラブレターを入れた子がいるかも知れないと言う事だ。自分で言うのも悲しいが、私なんかがラブレターを貰うよりも遥かに高い確率で起こりそうな事態だと思う。そして、もしもその通りだとしたら、この白い封筒の送り主の女の子が可哀想だ。下手したら私が逆恨みされるかも知れない。早乙女君の事が好きな女の子は彼と同じく派手な子が多いのに、そんな人に恨まれたら怖い、嫌だ、その可能性がある封筒なんて開けたくない。と言うか、そろそろ教室に向かって宿題に手を付けないと間に合わないかも知れないので、この封筒を早くどうにかしてしまいたい。出来るならば存在自体なかった事にしたい。


 そんな結論を出した私は、周りに誰もいないのを充分に確認してから、白い封筒を早乙女君の下駄箱に入れて教室に足を運んだ。教室の前の廊下で、先生に度々怒られるくらい遅刻魔な筈の早乙女君の背中を見かけて内心びっくりしたけど、それよりも宿題だ。私にとっての重要なものはそっちだ。

 私は席に着くと、机の中から持ち帰るのを忘れていたプリントを取り出した。真面目に集中すれば間に合うだろうが、急ぐに越したことはない。私はすぐさま国語の世界に没頭した。



***



「次は化学だねー。今日は実験みたいだし、移動しよ、さっちゃん」

「うん、そうだね。それじゃ行こう、香織」


 にこにこ笑う親友の言葉に頷いて、教科書などを手に席から立ち上がる。――それにしても、香織が私に付けたあだ名はちょっぴり恥ずかしい。『佐藤』だから『さっちゃん』と言うのは分かるけど、やっぱり少し恥ずかしい響きだ。勿論、自分達の距離の近さを感じられて嬉しいけれど。だって親友は、非常に親しい相手しか下の名前やあだ名で呼ばないタイプだ。ちなみに、私も同じである。最初から親しげに名前呼びされると戸惑い、引いてしまう。別に、初めからフレンドリーな人が悪いと言う訳ではない。そう言うのがしっくり来る人と来ない人が居て、私は後者だったと言うだけの事だ。


「ねえねえ陽菜、今日こそ生徒会に入ってくれないかなぁ?」

「あの、碧人先輩。その件に関してはお断りした筈ですよね?」

「うん、昨日は断られて、諦めたね! でも、今日はまだ諦めないよ!」

「ええっ!?」

「おい、テメェ。陽菜が嫌がってるだろ、離れろ」

「春翔君、別に私、嫌な訳じゃ……」

「そう言う君こそ彼女から離れたらどうですか、黒堂君?」

「あ、か、会長さん……!」

「ふふ……、前にも言いましたが――僕の事は蒼空、とお呼び下さい、陽菜」

「ちょっとちょっとー、なんでカイチョー相手だと顔真っ赤になっちゃうのさ、陽菜!」

「だからテメェら、陽菜に気安く触れてんじゃねーよ!」


 ――そう言う事で、先週転入して来たと言う隣のクラスの転校生が中心らしい下の名前で呼び合う集団から聞こえて来た会話にイラッと来たのは、彼らがたった一週間であんなに親しげに呼び合っている事とは欠片も関係がない。対人スキルの高い人は、寧ろ尊敬するし羨ましいと思う。重要なのは、その集団が、化学室へ続く廊下のど真ん中を陣取っている事なのだ。更に言うならば、四人の美男美女を囲む数十人の女子の集団のせいで、実質廊下が通れない事実に閉口していたら集団の中心から呑気な会話が聞こえて来たから、ついついイラっとしてしまったのだ。心が狭くてすみません。

 単純に、あの親しげな会話を育む四人だけが廊下でじゃれあっていたのなら、私は彼らの邪魔をしないように廊下の隅っこを通って目的地へ向かっていただろう。だが、学校でも人気の高いらしいイケメン達を目当てに、彼らのファンの女子達が廊下に集まったせいで、目の前の廊下は通行止めになっている。自分達会話に夢中になって周囲の状況に気付いていないのかも知れないが、人気者の自覚があるならば、ファン達も丸ごと収納できる空き教室とかで会話に花を咲かせて欲しい。そうしたらこんな風に移動の邪魔にならないのに。女子達の集まる原因であるイケメン達が構っている転校生さんが、さり気なくそうなるように仕向けたりしてくれたら助かるのだが。彼女が所属する隣のクラスも確か次は移動教室で、その為に廊下に出て移動していたところをうっかりイケメンに囲まれたっぽいから仕方なさそうだと、私達と同じく困った顔で廊下の人垣を眺めて引き返す隣のクラスの知り合いを眺めて納得した。


「わー、転校生の透野さんと生徒会の人達だ。会長、やっぱりかっこいいよねー」

「香織は会長みたいなのがタイプだったっけ。先月一緒に見た映画で犯人役だった俳優が凄くかっこいいって騒いでたけど、あの俳優もそんな路線の人だったね」

「うん! あ、でも、ワイルドな人や可愛い感じの人も素敵だと思う」

「そういえば、今年の生徒会はミーハーな香織が騒ぎそうなイケメンばっかだったね。――とりあえず、遠回りだけど西の階段通って行こうよ。急がなきゃ化学の授業に遅れちゃう」

「あっ、待ってよさっちゃんー、置いてかないでー!」


 男子の中でも高身長の部類に入るイケメン達は、女子の人垣に囲まれていても顔が見える。そんな彼らをアイドルでも眺めるように楽しげに見ていた親友の様子に肩を竦め、踵を返して歩き始める。――移動教室の足止めを喰らっているのは、転校生さんも同じなんだよなと思ったが、私が親しくもない彼女に声を掛ける理由はないと言うか、そんな事をしたら彼女自身でなく彼女の周りが怖い。ひっそりと転校生さんに同情しつつ、彼女が次の授業に遅刻しなければいいなと考えた。考えるだけで何もしない自分が、彼女と親しげに呼び合う日が来ない事だけは確信している。

 ――先週、とても可愛い転校生が来たと最初に聞いた時は、機会があれば話し掛けてみたいと言う気持ちもあったけれど、今は残念ながらゼロだ。集団の女の子達の嫉妬に巻き込まれるなんて恐ろしくって、小心者の私には無理だ。ごめんね、透野さん。早く誰かと幸せになれるといいね。



***



 いつも通り香織と教室でお弁当を食べ終えて、昨日見たドラマについて話していたら、香織が入っている美術部の先輩らしい人がやって来た。帰宅部の私にはよく分からないが、何か部活について話す事があるらしい。教室内に居た他の美術部員数名も一緒に先輩に声を掛けられて行ってしまった。香織は申し訳なさそうに私に謝ったけど、彼女は少しも悪くない。笑顔で送り出してから、私も美術部に入れば良かったかなとこっそり思ったが、私には絵の才能がない。絵以外の才能もない。運動も苦手だ。部活に入って青春するのに才能なんて関係ないとも親に言われたが、部活に注ぎ込む情熱もないので私は帰宅部のエースであり続けるつもりだ。帰宅部は全員素晴らしいエースかも知れないが。

 手持ち無沙汰のまま、教室内を見回す。立派な食堂のあるこの学校では、教室などでお弁当やパンを食べる生徒よりも、食堂で昼食をとる生徒の方が多数派らしい。そんな訳で、教室に残っている人影は少ない。今朝言葉を交わした渡辺君なんかは教室派のようだ。彼と似たような雰囲気の男子達と話しているのが見えた。ちなみに、存在感があるチャラいイケメンの早乙女君は教室に居ない。どうせ女の子達と一緒に食堂にでも行ったのだろう。そもそも彼のように派手でいつも女の子に囲まれて騒いでいる人物がここに居たら、私や渡辺君みたいなタイプがこんな風に教室で過ごしたりしていないと思う。私達は日向より日陰にいるタイプなのだ。

 時計がまだまだ昼からの授業開始まで時間がある事を示しているのを確認し、かばんの中を探る。ペットボトルのお茶を飲み、袋入りの小さなソフトキャラメルを二粒程食べたが、時計の針は五分も進んでいない。今から他の友人達のところへ行くには中途半端なタイミングになりそうだ。どうせだから、真面目に今日の数学の授業で分からなかったところを先生に聞きに行ってみようか。性格は優しいけどテストは厳しい、穏やかな笑顔が似合うおじいちゃんな小林先生の顔を思い浮かべ、キャラメルのゴミを手に自分の席から立ち上がる。小林先生は私の祖父に雰囲気が似ていて凄く親しみやすいし話すのが楽しい人だ。小林先生には、バレンタインの義理チョコだって勿論渡したくらい私は懐いていた。ちなみに、数学を教えてくれる先生はもう一人いるにはいるが、冷徹で厳しく怖い顔ばかりしている白川先生には、幾ら顔が良くても必要以上に関わりたくはないと言うのが本音だ。一年生の頃、授業中に当てられた問題を答えられなかった私へ向けられた視線の冷ややかさはトラウマだ。若くて顔はかっこいいから女子には人気があるみたいだけど、私からすると『怖い先生』と言う印象が強い。

 教室を出る前にゴミ箱にゴミを捨てた時、朝のゴミ捨て場の酔っ払いはどうなっただろうかと疑問に思ったが、授業中にパトカーや救急車のサイレンは聞こえなかったから、まあ変な事にはなっていないだろう。多分。

 廊下を曲がり、階段を下りる。小林先生に聞こうと思っている授業での分からなかった事について考えながら踊り場を通り、更に階段を数歩下りた時――背中を、誰かに押されるような感覚があった。


「――……っ!?」


 急にがくりと傾いた視界に、私は慌てて手すりに添えていた右手に全力を込めた。体重を後ろに押しやって、尻餅を付く。腰と背中に階段の出っ張っている部分が勢い良く当たって痛かった。心臓が脈打つ音がとても大きい。手すりを握ったまま、ゆっくりと立ち上がり、何となく私は後ろを見てみたが、周囲には誰もいない。誰かが走り去る音もしなかったなと、首を傾げる。……背後から、押されたような気がしたのだけど、気のせいだったか。ちょっと考え事をしながら降りていたので、うっかり踏み外しただけかな。今度から気を付けよう。

 お尻や腰はちょっと痛いけど、大した事じゃない。私は何事もなかったかのような顔で階段を下り切って、廊下を歩む。――そういえば先程、落下し掛けたその一瞬だけ、階段の下に謎の黒い渦巻きが見えたような気がしたが、そんな事は常識的に考えてありえない。自分の影でも見間違えてしまったようだ。踏み外しかけた上に見間違えとは、私もとんだドジっ子属性だな。もっと気を引き締めよう。



***



 放課後、部活へ向かった香織と別れを告げ、今日は他のクラスの友人と下校しようと思ったのだが、生憎その友人は先生からの呼び出しを喰らってしまった。どうやら、学校に携帯ゲーム機を持ち込んだ事がバレてしまったらしい。大好きなゲームを取り上げられて暗い彼女を励まして、残って待っていると言ってみたのだが、呼び出しだけでなく他にも学校での用事があるそうで、今日は一緒に帰る事は無理らしい。謝る友人へ気にしないで良いよと口にして、職員室へ向かった彼女の背中を見送る。

 さて、これからどうするか。帰宅部の私に、放課後の特別な予定はない。帰りにコンビニにでも寄って、CMで見た期間限定の新作アイスクリームを買う程度だ。どんな味か楽しみだ、なんて考えながら校舎内を移動する。窓から見える放課後のグラウンドには、運動部の生徒達があちこちで部活動に精を出していた。音楽室がある方角からは、吹奏楽部が練習をしているのだろう音が聞こえる。廊下や階段には授業から開放されて楽しげな生徒達が賑やかにたむろしていた。途中で知り合いに何人か会ったので、その際には軽く言葉を交わして通り過ぎたが、どうせなら一緒に帰ろうと誘えば良かっただろうか。だが私の知らない人達と楽しそうに話していた知り合いを誘うのも何だか忍びない。友人の友人は、私にとっては顔見知り未満なのだ。部活に入っていればもう少し交友範囲が広がったかもしれないが、面倒だったので仕方ない。下駄箱で上履きから靴に履き替える際にちらりと見た隣の早乙女君の下駄箱からは、ラブレターがはみ出していた。あれでは蓋を開けたら沢山詰められているだろう中身がバラバラと落ちてしまいそうだ。どうでもいいけど。履き慣れた靴で歩き出す。近くの小さな花壇の前で、用務員のおじさんが屈みこんで作業をしているのが見えた。

 ――ああ、そういえば。裏庭にある大きな花壇に、最近足を運んでいない。母が数年前からガーデニングにハマっている影響で私もそれなりに花を育てる事に興味があるので、入学した頃に学内探索のついでに花壇探索もしていたのだ。その結果、この学校内で一番立派な花壇があるのは、人が余り来ない裏庭にあるものだと知った。春先に見つけたその花壇には、色とりどりの花々が美しく咲き誇っていて、その光景に私は暫く見とれていた。どうしてそんな人目に付かない場所にあんなに素敵な花壇があるのか不思議だったが、その花壇の傍で水やりをしていた用務員のおじさんに疑問をぶつけてみたところ、その花壇は元々、園芸部用のスペースだったらしいと判明した。部員不足で廃部になった園芸部の花壇を、そのままにするのも勿体無いからと、用務員のおじさんが自由に好きな花を植えて育てているそうだ。それはそれでどうなのだろうかと思いはしたが口にせず、私はたまにその秘密の花壇を見る為に裏庭へ向かうようになった。

 久しぶりにあの花壇を見に行ってみよう。今の時期だと、どんな花が咲いているだろうか。――アジサイ、クチナシ、アルストロエメリア、アガパンサス、マーガレット。本に載っていた花々は、どれも見ていて綺麗な色形をしている。母の家庭菜園では、ナスやキュウリの花も咲いていた。私としては見て楽しく食べて美味しいものがいいと思う。ハーブティーは正直口に合わないが、美味しい料理に使われるなら大歓迎だ。機嫌よく裏庭へ足を運ばせ、例の花壇がある場所が見えるところまで来てから、私は眉をひそめた。

 明らかに用務員ではない、ただの男子生徒が秘密の花壇の前に居る。見知らぬその人物は、私からは後姿しか見えないが、ひとまず背が高そうだ。

 ――なんだ、用務員のおじさんと私以外にも、あの花壇を知っている人が居たのか。冷静に考えてみれば当然の事なのに、何だか私はがっかりしてしまった。私が秘密と思っていた事が秘密でなくなった事実に、名も顔も知らない男子生徒に理不尽な苛立ちを覚え掛ける。けれども、同時に私の頭の中に素敵なアイディアが生まれた。


 そうだ、それなら、我が家の庭に自分だけの内緒の花壇を作ってみよう!


 母に頼んでスペースを貰い、手伝って貰えば、きっと可能だ。ガーデニングに興味はあったものの、世話が面倒に思えて一歩踏み出せなかったが、これを機に手を出すのも悪くない。見るだけよりも育てる方が楽しそうに思えて来た。これからの予定を想像したら楽しくなってきた。

 私は颯爽とここまで来た道を戻り始めた。暫くは家の庭に熱中しそうだから、多分裏庭の花壇に足を運ぶ事はないだろう。あの男子生徒は最後まで私の存在に気付かなかった。



***



 帰り道、通学路の途中にあるコンビニへ足を踏み入れた。冷房の効いた快適な室内で、店員のやる気があるかないか分かりにくい「いらっしゃいませ」の声が聞こえた。真っ直ぐにアイスコーナーに向かい、目的の品があるかをチェックする。幸いにも、売り切れてはいなかったようだ。安堵しながらもドリンクコーナーへ向かい、同じ学校の制服を着た知らない女子二人組が退いてくれるのを待ってから、紙パックのジュースに手を伸ばす。アイスも食べたいが、下校してきたら喉も渇いたのだ。水分摂取は重要な事なので私は疎かにせず、美味しいジュースで喉を潤すつもりである。それからまたアイスコーナーへ移動しようとして、ふと雑誌が並ぶ売り場に視線を向ける。

 ――園芸に関する雑誌を、軽く立ち読みしてもいいかもしれない。そんな風に考えて雑誌コーナーに向かったら、そこには数名の立ち読み客が居た。いや、スーツを着た客一名は座り込んでいる。それは流石に迷惑なんじゃないか、とは思ったが、声を掛ける程じゃない。それに私が何かしなくても、そのうち店員が注意するかもしれない。そう思いながら、並んだ雑誌を眺める。月刊の園芸雑誌は、確か母が定期購買していた。それ以外の本を幾つかぱらぱらと捲ってみたが、どれが良いのかは分からない。今の時期に咲くオススメの花が知りたければ、母が買っている月刊誌を見れば充分な気がする。私がわざわざ買うまでもないと結論を出して、手にしていた本を元の位置に戻した。


「……あっ」

「えっ?」


 急に、それなりに近い場所から焦ったような声が聞こえたので、首を動かしてその方角――つまりは左隣へと顔を向ける。すると、そこには私の通う学校と同じ制服を着た、眼鏡の男子生徒が居た。と言うか、朝も会ったクラスメイトの渡辺君だ。こちらと目が合った彼は、慌てて手にしていた雑誌を棚に戻したが、私は彼が持っていたのが何の本だったかをバッチリと見てしまっていた。

 そう、現在進行形で照れているっぽい渡辺君が手にしていたのは、可愛らしい女の子の絵が表紙の少女漫画雑誌。確かに、それを読もうとしていたところを誰か、特に知り合いに見られたら恥ずかしいだろう。でも、それならばもっと知り合いの少ない店で購入したり、放課後で同じ学校の生徒が多いこんな時間帯ではなく夜にでも立ち読みするなり買うなりすればいいんじゃないかと個人的には思う。せめて、同じ雑誌コーナーに知り合いがいないか程度は確認した方がいいんじゃないか。割としっかりしていそうなイメージだったのに意外だなと思いつつ、微妙に気まずい雰囲気を終わらせるべく口を開く。


「最近は少女漫画が原作のドラマも多いし、少女漫画が元の映画がヒットしたりもして、男の子でも少女漫画読む人が増えてるっぽいよね」

「あ、そ、……そうかな」

「詳しくは知らないけど、多分そうじゃないかな。だから恥ずかしがる事ないと思う」

「うーん、……実はさ、ドラマや映画の影響とかじゃなくって、女の子の気持ちが分からなくって、だから読んでみようかなって思ったんだ」

「え、そうなの? でも、結局全部フィクションだし、そんなに参考にならないかもよ」

「うん、それは何度も実践して・・・・・・・実感した・・・・よ」

「……行動力あるね、意外と」


 話を合わせてくれればそれでこの話題をなあなあに出来たのに、なんて考えながら渡辺君と会話を続ける。ゲーム脳ならぬ少女漫画脳とは新しい、などと失礼な思考を表に出さず、相槌を打った。――あ、少女漫画と言えば。梅雨で雨が降っていた頃、帰り道でいかにも不良と言う感じの厳つい他校生が、傘を持って道端のダンボールの前に居たのを目撃してしまった事がある。少女漫画なんかでありがちな、『不良が捨て猫に傘を差す優しい姿にギャップを感じて惚れる』と言うものに似たシチュエーションだったが、冷静に考えるとそのギャップと言うのは本当にギャップだろうかと疑問に思えてくる。人にはそれぞれ好き嫌いがあるのが普通で、それは不良でも優等生でも同じ事だ。猫が好きな人と猫が嫌いな人、そんなの世界中にありふれている。それなら大したギャップじゃないのではないか。何より、猫に優しい不良だからって、人に優しい不良だとは限らない。実際にそれっぽい光景に見た私としては、不良はやっぱり不良として恐怖を感じて、ギャップによるときめきなんて少しも感じられなかった。ビビリ過ぎかも知れないが、私はそういう考えをする人間だ。あの時はすぐさまダッシュで逃げたので、本当にあのいかつい不良のような人が猫に優しくしたのかはわからない。そもそもダンボールに猫が居たとも限らない。微妙な気分になりつつ過去の思い出に顔を歪めていると、渡辺君がくすくすと笑ったのが見えた。


「――佐藤さんは、本当にフラグクラッシャーだよね。フラグらしいフラグを持たない方が良いとは、今回・・まで気付かなかったよ」

「はぁ、……フラグって、えーっと、……何かのゲームの話?」

「うん、そんな感じ。――まあ、佐藤さんにとっては、観るべき物語・・ですらない他人のささやかな日常・・だから、見てはいても気付かないと思うけど」

「……え、あ、はい」


 以前、『ギャルゲー』や『乙女ゲー』と言うジャンルがあるらしい恋愛ゲームについて、友人が攻略キャラのフラグがどうのこうのと話していたのを思い出して尋ねてみたら、渡辺君が若干電波な事を言い出したので正直引いた。突然どうしたんだろう、この人。よく分からないがこれがゲーム脳とか言うやつか、などと思いながら「それじゃあね」と無理矢理会話を切り上げて、アイスコーナーに向かう。食べたかったアイスを手にレジへ向かい、お金を払ってコンビニを出た。紙パックのジュースにストローを刺し、飲みながら帰路に着く。早く帰ってアイスを食べよう。電波疑惑の渡辺君とは明日から少し距離を置きたい。

佐藤さん:世界中に居る多数の『ヒロイン候補』の一人として『フラグだらけの世界』に存在する少女。フラグクラッシャー。クラッシュした『フラグ』は自動的に他の『ヒロイン候補』に受け継がれるので大丈夫だ問題ない。結果論の脇役。

渡辺君:どうやら『佐藤さんの高校時代』に存在する『攻略対象』に何度も何度も何度も転生し続けている少年。『フラグ』が同時多発している元凶。ストーカー。今回は『渡辺』だった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 本当に傍観してる……!(感動) 等身大に冷静な主人公に好印象です。 [一言] 彼女の行動って周りからどう見られているんでしょう? 本当に地味な女の子? それとも、イケメンに出会いまくってい…
[一言] そうですよね!これが「普通」、「本当の脇役」ですよね! 不審者に声かけるとか、人がいいって言うより危機感欠如しすぎじゃないかとか。 周りに変なねたみ買わないように、声を掛けないとか。 素晴ら…
[良い点] 主人公だからといって他者から強制的に巻き込まれたり、自ら巻き込まれに行ったりしていないところ。 [一言] よくある「傍観詐欺」ではなく本当に傍観、攻略キャラに興味のなく、相手も粘着してこな…
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