金糸雀は籠の中
私にとって、家は鳥籠だった。
閉じこめられ、縛り付けられて、自由をすべて奪われているように感じた。
学校も嫌いだった。薄暗い教室でひとりただ座っている、それだけで息が詰まりそうだった。
だから、出ていった。逃げ出したのだ。
それまでの私に絡みついていた、なにもかもをかなぐり捨てて。さび付いた鎖が音を立ててちぎれて、裸になった気分で街を歩いたら、私はとても自由だった。
私を好きだと言った男のところへ転がり込んで、彼の世話をした。ひとりではどこへも行かず、彼の服を洗濯し、彼の部屋を掃除し、彼のために食事を作った。私はとても幸せだった。
彼はほとんど毎日、仕事で家にはいなかった。朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくる。私が作ったご飯を食べて、お風呂にはいるとすぐに寝てしまった。でもときどきは私を抱いてくれた。
彼はいつも家に独りでいる私が寂しがっていると思ったのか、動物を飼おうと言いだした。私は実はちっとも寂しくなんてなかったけれど、彼をがっかりさせたくなかったので笑顔でうなずいた。
彼と暮らしているマンションでは犬や猫は飼えなかったので、もっと小さいのならいいだろう、と小鳥を飼うことにした。彼の休日にふたりでペットショップへ行った。彼が好きなのを選んでいいよ、と言ってくれた。
一羽の小さな金糸雀が目に留まった。とても美しい羽の色だった。ほんの少しだけ青がかかったような、とても明るい黄色をしていた。きれいな色だと言ったら、そのまま金糸雀色というんですよ、と店員さんが言った。彼が笑ったので、私も笑った。金糸雀が美しい声でピィと鳴いた。
やがて、その金糸雀が部屋にやってきた。釣り鐘式の少し大きな鳥かごや、飼育道具と一緒に。私は彼の世話をしながら、金糸雀の世話もした。私がかいがいしく鳥の世話をするのを見ながら、すっかりお気に入りだな、と彼が言った。私は笑った。彼も笑った。
彼の家へ来て、半年近くがたっていた。私はずっと幸せだった。
だけど、いつからだろう。ある日気がついたら、私は幸せじゃなくなっていた。
きっかけは何だっただろうか。彼のスーツから、私の知らない女物の香水の匂いを嗅いだときだっただろうか。以前は土曜日が必ず彼の休日だったのに、いつの間にかその日も毎週家を空けるようになったことに気がついたときだっただろうか。
彼の態度は、私が家にきた当初となにも変わっていない。愛してると言ってくれるし、ご飯を食べたら笑顔でおいしいと言ってくれる。抱いてくれるのはときどきでも、キスは毎日してくれる。
彼は私が欲しいものを今までと変わらず私にくれているはずなのに。私は幸せなはずなのに。どうして?
ある日の夜。少なからずお酒の入った状態で帰ってきた彼は、平日なのに珍しく私を抱いた。彼は普段は言わないことを私に言った。ずっと一緒にいよう、おまえのことが一番好きだ――。
私はうれしくなかった。それどころか、彼が肩越しに腕を回し、私の首筋にキスをしたとき、唐突に以前感じたあの重苦しい感覚がよみがえってきた。枷をはめられ、鎖につながれる感覚。自由を奪われて、息が詰まりそうになる。私は呻いた。彼はやめてくれなかった。
翌朝、彼はすっかりいつも通りで、スーツを着込んで家を出ていった。私は金糸雀と一緒にそこへ残された。いつものように。
金糸雀は私の方を見て、美しい声でピィと鳴いた。ご飯が欲しいと催促しているのか、それともここから出してと懇願しているのか。籠の中の鳥が、鎖につながれた私を見ていた。
私は籠から一番近い窓を開け放ち、籠の扉も開けた。しばらくそうしておいたけれど、金糸雀は窓から逃げ出すどころか籠から出ることさえしなかった。私はえさ箱に新しいえさを入れて、水を取り替えた後、籠の扉を閉めた。
私はこの家を出ていくことにした。いつものように彼の衣服の洗濯をし、部屋に掃除機をかけた後、少ししかない私の荷物をここへ来るときに持っていた少し大きめの旅行カバンにまとめて入れて、扉を開け、外に出た。合い鍵で鍵を閉め、一階へ降り、郵便受けに合い鍵を入れた。
それから二週間ほど、私は駅前の安いビジネスホテルに泊まったり、マンガ喫茶で夜を明かしたりしていた。彼からは家を出た日の夜と、その次の日の夜に一回ずつ着信があった。私が出ないでいると、それきりだった。私を縛っていたはずの新しい鎖は、あっけなくちぎれて消えてしまった。
働いていたわけでもないから、お金はほとんど持っていない。子供の頃から少しずつ貯めていた貯金もほぼ底をついた。私は少し迷った後に、もう一度だけ彼のマンションへと足を運んだ。
鍵を持っていないから、中にはいることはできない。マンションの外から彼と暮らした部屋の窓を眺めたけれど、カーテンがかかったままで中の様子は分からなかった。そもそも平日の昼だから、彼はいないはずだった。
ふと目をやったゴミ捨て場に、見覚えのある鳥籠が置かれていた。粗大ゴミ収集用のシールが無造作に貼られていた。もちろん、籠の中はからっぽだった。
私は胸の奥が強く収縮するのを感じた。息苦しさを覚えて、その場から足早に逃げ去った。
結局、私は家に戻ることにした。彼の家ではない、父と母のいる家へと。
鍵を持っていなかったから、チャイムを鳴らした。出てきた母は私を見て一瞬驚いた顔をしたけれど、何もいわずに私を家の中に入れた。夜になって帰ってきた父も、同じように何もいわなかった。
私は母の作った夕食を食べ、お風呂に入って、かつて自分が暮らしていた部屋で寝た。部屋は掃除されていたけれど、私が使っていた頃のほとんどそのままだった。見覚えのある景色。だけど私の匂いが消えたその部屋は、以前とは少しだけ違っているように感じられた。
それから私は、母の家事を手伝いながら毎日を過ごすようになった。両親は相変わらず、私が家にいなかった頃のことを私に尋ねない。私が自分から言い出すのを待っているのか、それとも興味がないのか。待っているのだと思いたいけれど、本当のところは自信がない。だからまだ、話せないでいた。
ときどき、あの美しい金糸雀を思い出した。私のように逃げ出したのか、それともあそこで死んでしまったのか。逃げたのだとしても、野生を知らない小鳥が籠の外で生きていけるとは思えない。思う度、私の胸を小さな針が刺す。
私の寂しさを紛らわせるために、あるいは彼の私への負い目を紛らわせるために、あの家へとやってきた美しい金糸雀。籠の扉を開いても、美しい声で鳴くことしかしなかったあの小鳥の一生はなんだったのだろう。
そして私。籠の中がいやで家を飛び出したのに、別の新しい籠に飛び込んだだけで、それを自由だと、幸福だと感じていた私。そのことに気づいてまた飛び出したけど、結局もとの古い籠に戻るしかなかった私。
私とあの金糸雀は同じだったのかもしれない、と思う。野生を知らない無知な存在。違っていたのは、金糸雀は無知を受け入れていたこと。私はそうできずにあがいた末に、小さないのちをひとつ奪った。
あがいたところで何かを傷つけることしかできないのなら、私も無知を受け入れて、この籠の中でおとなしく生きていくほかないのかもしれない。
両親の私への態度は以前と違っていた。小言の多かった母は私にたいして文句を言うことがほとんどなくなり、なにをしゃべっても怒鳴っているようにしか聞こえなかった父は大きな声を出さなくなっていた。
母は私が家事を手伝うことを喜んでくれた。特に料理をするようになったことを喜んでくれ、私にいろいろ教えてくれた。子供の頃から何気なく食べていた母の料理に込められた工夫の数々。ちょっとひと手間かける工夫、わからないように手を抜く工夫。
ある日の食卓に、私の作ったおかずが並んだ。父はいつものように、何もいわずに食べていたけれど、母がこれはこの子が作ったのよ、と言うと、父は一瞬手を止めてこちらをみた。そうか、と一言言って下を向いた。私の目を見ずに、うまくなったな、と誉めてくれた。
食事の後、父は風呂へ行き、私は母と食器を片づけた。流しで母が食器を洗い、私がそれを拭いて、戸棚へ戻す。
その最中、私は手を止めて、意を決して、母に謝った。勝手に出ていって、迷惑をかけてごめんなさい。と。
母は少しだけ驚いたような表情を浮かべたけれど、すぐに優しい笑顔になった。ずっと幼い頃に、そんな表情をみたかもしれない。母は食器を洗う手は止めずに、言った。
「いつだって、出ていったって、帰ってきたって、いいのよ。ここはあなたの家なんだから」
きっと昔のように、耳障りな声で怒られると思っていた。二度と勝手なことはするなと、強い口調で言われるものだとばかり思っていた。だけど、そうではなかった。
母が洗い終えて濡れた食器をこちらによこしても、私はそれを受け取ることができなかった。母は手を止めて、こちらをみた。
いつの間にか、私は泣いていた。
母はあらあらと言って濡れた自分の手を拭き、それから私の涙も拭いてくれた。すぐに泣きやみそうになかったので、後はやっておくからと言って、私を部屋に戻してくれた。
部屋に戻った後も、私はベッドのうえでひとしきり泣いた。なぜ泣くのか、自分でもわからなかったけれど、無理に泣きやむ必要はないように思えた。涙を流すことが不快ではなかった。
頭の片隅に、母の言葉がじんわりと残ったままになっている。
あなたの家・・・つまり、私の家。
私はこの家をずっと、鳥籠だと思っていた。私を閉じこめ、縛りつけて、言うことを聞かないと生きていけないと思わせようとする。やかましい母と、おそろしい父。いつだって息苦しくて、耐えきれずに逃げ出した。
だけど、そうではなかったのかもしれない。私は閉じこめられても、縛られてもいなかった。だから逃げ出せたのだ。
以前と確かに違うのは、息苦しさを感じなくなったこと。何故だろう。私は何か変わったのだろうか。それとも、両親が変わったのだろうか。あるいは、両方かもしれない。
両親が私を育てたこの場所が、私の家。
私はようやく真実をひとつ手に入れたのだと思った。
あれからしばらくたって、私は今も家で母とともに家事をしながら、もう一度学校に通うために、勉強を再開した。
私も、母も、父も、やっぱり少しずつ変わっている。
とは言っても、母は時々は口うるさいし、父は大声こそ出さなくなったけれど威圧的な話し方は変わらない。私も、相変わらずの引っ込み思案で、なかなか前に進めないでいる。
変わったとしても、みんなほんの少しだ。
だけど、少なくとも私は今、ここにいることが少しも苦痛じゃない。それに、以前の学校はなじめなかったけど、勉強自体はそんなに嫌いじゃないことにも気づいた。
私がここを出ていた半年あまりのことについても、母には少しずつ話せるようになっている。父にはまだ話せないけど、でもいつかは、と思えるようにはなってきた。
あの金糸雀のことは、今でも折りに触れて思い出す。あの美しい羽と歌声を、小さな胸の痛みも含めて、むしろ忘れないようにしたいと思うようになった。
鳥籠の中でしか生きる術を知らない金糸雀が幸福だったとは、今でも思えない。だからせめて、ずっと覚えていてあげたい。
今日はとてもいい天気だ。私は散歩に出ることにした。もちろん、母には一声かけていく。
美しい青空。ぽつぽつとある白い雲も、いつもより高い位置にあるように見える。この空を、あの美しい小鳥が自由に飛ぶことがあったら、どんな風に見えただろう。
青空を舞う小鳥の姿を想像して顔を上げたら、太陽の光が目に入った。
その光は一瞬だけ、金糸雀色に輝いたように見えたのだった。
終わり