先を見る話
すぐに「お飾りの妻」だと噂になり、屋敷の中での立場が無くなった。
使用人たちは、ご主人の意向に敏感なのである。
それでも、使用人たちとは違って個室だ。食事も使用人と同じもので、ときどき忘れられたが、飢えることはなかった。
なにより、眠ることができる。
私は部屋で眠り続けた。
実家から、手伝いに来いという手紙が届いた。
執事に何が書かれていたかと探りが入ったので、実家で執務をしていたことを説明した。
「当家に嫁いでいただいたので、そのようなことをされたら困ります」
「そうですよね……」
「行きたいとは思っていないのですね。断りにくいですか?」
執事は、私の態度から何かを察したようだ。
「実家と縁が切れるのが嬉しかったくらいです。ですが、あの人たちの命令は絶対だったので……断るのは怖いです」
「では、旦那様から断りの手紙を出していただきましょう」
「よろしいのですか?」
「その代わり、当家の女主人の仕事をしていただけますか?」
「お飾りの妻なのに、やっていいのですか?」
嫌味を言おうと思ったわけではない。許されるのかと気になっただけだ。
「……大変申し訳ありません。使用人たちの態度を改めさせますので」
あなたもその一人でしたよね、という言葉は言えなかった。
執事から少しずつ仕事をもらう。
これで無駄飯食らいと言われずにすむと、ほっとした。
執事の態度が変わり、他の使用人たちも少しずつ変わってきた。
奥様と言うより、上級使用人に対する態度のようだったけれど。
欠席できない夜会には、夫婦で参加する。
私はとくに友達もいないので、夫の隣にいる。
彼がどんな事業をしているのか、そこで初めて知ることもあった。
実家でも婚家でも家に閉じこもっているので、私の世界は狭い。わからないなりに単語を覚えて、後で執事に質問する。
少しずつ世界が広がるのが楽しみで、旦那様の隣にいるのは苦痛ではなかった。
それが、従順でいい妻という評判になったらしい。
ご褒美に、旦那様が観劇に連れて行ってくれた。
初めての経験に、どきどきが止まらなかった。
「こんなものも観たことがないのか」
と、旦那様は自慢げに上から目線だ。
仕事ばかりの日々だったので、仕方ないじゃないですか。
少々ムッとしましたが、観たことがないのは事実だ。
「お恥ずかしながら、初めてです。旦那様、ありがとうございます」
連れてきてくれた出資者に対して、喜んでみせるのも礼儀のうちだろう。
そう考えて、自分にできる最高の笑顔を作った。
それに気を良くしたのか、旦那様はいろいろな場所に連れて行ってくれるようになった。
ものを知らない田舎者の反応が、新鮮だったのだろう。
「これは知っているか」「そんなことも、したことがないのか」
言われるたびに、恥ずかしくて顔が赤くなる。
旦那様は、夜会やお茶会で私の無知を喜ぶ意地悪な人たちと、同じ顔をしていた。
――優越感。
優しくされるのに慣れていないので、すぐ顔が赤くなる。どこかむず痒く、嬉しくなって、心臓がうるさく脈を打つ。
そんなときは、「お腹が空いていると何でも美味しく感じるのと同じ。勘違いするな」と自分に言い聞かせた。
違う、違う。恋じゃない。
実家への援助を切られるのは構わないけれど、この家を追い出されたら困る。絶対に、旦那様を好きになってはいけない。
夜、ベッドの中で「いかに自分が好かれるはずがないか」を自分に言い聞かせる。
あまりに情けなく、恥ずかしく、泣いてしまう日もあった。
結婚生活も二年目に入った。
旦那様が、私の部屋を女主人の部屋に変えようと言い出した。
とんでもないことですと、声を荒げて反対したら、旦那様は目を丸くして驚いていた。
愛していないけれど、欲望だけは満たしたいのだろうか。
貴族の結婚はそういうものだと諦めて嫁いだが、夜のお勤めを免除されるならその方がいい。
契約の三年間、なんとか逃げ切らなければ。
そう考えて、そのあとどうすればいいのか心配になった。
実家には戻りたくない。
一年目は夜会で実家の人たちに絡まれることがあったけれど、旦那様に言い返されてから、接触するのを諦めたようだ。
私は旦那様の側にいるし、お化粧室に行くときは侍女を連れているから。
旦那様以外で頼れそうなのは、弁護士だ。旦那様の友人だという。
その人に、「私の故郷に避難すればいい」と提案された。
慰謝料をもらえたら、そこから弁護士費用を払える。いい取引ができそうだ。
結婚三年目も、終わりに近づいた。
最後に旦那様に挨拶するときに贈り物をした方がいいだろうか。それを弁護士に相談したら、やめた方がいいと言われる。
ああ、やはり、私の存在はそんな程度のものなのだ。
上級使用人なら、主人に挨拶をすることもある。
ただの使用人なら挨拶せずに、ひっそりと消える。
私の顔色が悪くなっていたのだろうか。
弁護士は「挨拶をして、引き留められたら困るでしょう」とフォローしてくれた。
引き留める?
愛していなくても、女主人の仕事はやらせたいのだろうか。
まさか。
それでは実家と同じだ。
境遇は比べものにならないほど快適だったけれど、もう、そんな人生は嫌だ。
そうやって、流されるように田舎まで来た。
もう貴族じゃないのね、私。
いつまでも弁護士さんのお世話になるわけにはいかない。
もう、守られているだけの貴族女性ではないのだもの。
弁護士さんの家の雑用を任されて、市場に行くこともある。
そこで、もっと山の方で牧畜をやっている青年からチーズを買った。
「見ない顔だね」
と話しかけられ、ざっと身の上話をした。
仕事先の当てがないか、訊こうと思ったのだ。
そうしたら、「帳簿を付けられるなら、ぜひ来てほしい」と言われた。
貴族のように難しい言い回しをしないので、最初は戸惑った。
けれど、わかりやすくていいかもしれない。
「郵便配達も来ないから、町に降りたときにまとめて受け取るんだ。そんなところだけど、よかったら来てくれ」
日に焼けた顔で、ニッと歯を見せて笑う青年。
ああ、こんな私でも必要とされるだろうか。
子牛を撫でることが許されるだろうか。
彼は一度山に帰り、準備ができたら迎えに来てくれるという。
その時は、また、さっと静かに消えましょう。




