愛が無くなった時に残るものは
「こちらに署名をお願いいたします」
そう言ってアリエルが差し出した書類を見て、ベックスはしばらく意味を理解できなかった。
紙面の一番上に記された文字を、目で追う。
離縁届。
それが自分と、目の前に座る妻の名を並べて記すためのものだと理解するまでに、随分とかかった。
「……これは?」
問いながらも、分かっている。
アリエルはいつものように美しく整えられていた。
淡い青のドレスも、きっちりと結い上げられた髪も、耳元に揺れる真珠も、何一つ普段と変わらない。
だからこそ、余計に現実味がなかった。
「離縁届でございます」
「それは見れば分かる。そうではなくて、どうして突然――」
「突然ではございません」
静かな声だった。
責めるようでもなく、怒っているようでもない。
そのことが、かえってベックスを困惑させた。
「最初の七年間、わたくしは旦那様に尽くしてきたと自負しております。お忙しい旦那様のために家政を取り仕切り、家のことで煩わせることがないよう努めて参りました」
「そうだ。君はとてもよくやってくれていると思っている」
それは紛れもない本心だった。
アリエルほど侯爵夫人として申し分のない女性はいない。
使用人たちをよくまとめ、領地から届く報告にも目を通し、社交においても一度として家名を損なう振る舞いをしたことはなかった。
両親も彼女を気に入っていた。
ベックス自身、妻に不満など一つもなかった。
それどころか愛している。
休みの日には二人で観劇に出かけ、時に泣き、時に笑った。
アリエルが好きそうな甘味を見つけた際には、買って帰った。
もちろん夜会のドレスも贈った。
毎日とは言えずとも、美しい妻への賛辞も伝えている。
だからこそ、分からない。
なぜ彼女が離縁などと言い出すのか。
「ただ旦那様は、お忙しいことを理由に、貴族の義務である跡継ぎを作ることに関しては消極的でした。具体的に申し上げますと、この七年間、跡継ぎを得るための夫婦の営みは一度もございません」
七年。
改めて数字にされ、ベックスはわずかに眉を寄せた。
そんなに経っていただろうか。
確かに最近はない。
だがアリエルとは毎晩同じ寝台で眠っているし、早く帰った日には共に食事をとる。
寝る前の茶の時間には、夫婦で語らうこともある。
だから、それだけの年月が経っているという実感がなかった。
「それは……悪いと思っている。私も度々考えてはいるんだ。ただ、今はまだ時期ではないというか……」
そこまで言ってから、ベックスは口を閉じた。
アリエルが、ほんの少し笑ったからだ。
嘲るような笑みではない。
聞き慣れた言葉を、また聞いた。
ただそれだけの笑みだった。
「その間、お義母さまやお義父さま、そしてお茶会でご一緒したご婦人方に、わたくしが何を言われているかご存知ですか?」
「いや……」
「今やわたくしは、石女と呼ばれております」
「な……」
「もちろん、旦那様がわざわざ婦人方の陰口を耳にすることなどないでしょう。お義母さまも、旦那様の前では仰いませんもの」
ベックスは言葉を失った。
母がアリエルに何かを言っていることすら、知らなかった。
いや。
正確には、考えたことがなかった。
確かに夜会で「お子様はまだですのね」と話しかけてくる貴族もいる。
その言葉に対して何と返しただろうか。
その時の妻の表情も、ベックスは思い出すことができない。
「昨年のお義母さまのお茶会では、子宝に恵まれるという薬草茶を勧められました」
アリエルは淡々と続ける。
「『侯爵家のためなのだから、好き嫌いなど言っていられないでしょう』と」
「母が……?」
「一昨年は、王都で評判だという医師を呼ばれました。わたくしの身体に問題がないか診せるために」
ベックスの眉が寄る。
「そんなこと、私は聞いていない」
「お伝えしておりませんもの」
「なぜだ」
アリエルは一瞬、不思議そうに彼を見た。
「旦那様はお忙しかったでしょう?」
その言葉に、ベックスは何も返せなかった。
それは彼が何度も口にしてきた言葉だった。
「診察では異常なしと言われました。それでも翌年には別の医師を勧められました。お茶会では『身体が冷えているのでは』『もっと滋養のあるものを食べた方がいい』『若いうちに産まないと』と、皆さま親切に助言してくださいました」
親切。
その言葉が皮肉であることくらい、ベックスにも分かった。
「わたくしも、何もしなかったわけではございません。旦那様がその気になるよう香を焚いたこともございます。常に美しくあるよう、手入れも欠かしたことはございません。はしたなくも、わたくしからお願いしたことさえございます」
そこで一度、アリエルは言葉を切った。
「ただ、いつの時も旦那様は『また今度』としか仰いませんでした」
「仕事が落ち着けばと……」
「ええ。存じております」
「なら――」
「十年です」
アリエルの声は変わらなかった。
「わたくしたちは結婚して十年になります」
ベックスは黙った。
「最初の一年は、少なくともございました。ただ、子は授かりものです。巡り会うことはできませんでした。二年目になり、お忙しいことを理由に少なくなっていきました。三年目には完全になくなり、不安になりました。それでも、旦那様はお忙しいのだからと自分に言い聞かせました」
淡々と、過ぎ去った年月を数えていく。
「四年目には、自分に魅力がないのではないかと考えました。そしてマッサージが得意な侍女を雇い入れたり、旦那様が好みそうな夜着を準備したりしました」
ベックスの脳裏に、忘れていたはずの夜が浮かんだ。
薄い月明かりの差し込む寝室。
いつもより早く仕事を終えて戻った日のことだった。
夕食後の茶を終え、夫婦の寝室へ向かうと、アリエルは淡い葡萄酒色の生地に繊細なレースをあしらった夜着を身につけて待っていた。
大胆に肌を露出させているわけではない。
ただ、普段のアリエルが身につけるような夜着ではなかった。
『お待ちしておりました』
頬を赤らめながら、それでも微笑んでいた。
ベックスは美しいと思った。
目を奪われた。
それなのに。
『今日は少し疲れているんだ』
そう言って、彼女の横を通り過ぎた。
あの日、アリエルがどんな顔をしていたか、思い出せない。
「五年目には、積極的に言わないと伝わらないと思い、言葉にしたこともございます」
ベックスがまた違う晩のことが思い出す。
『今夜は、一緒に眠るだけではなく……夫婦として過ごしたいのです』
そう言った妻に、自分は何と答えた。
『急にどうしたんだい? 明日も早いんだ。また今度にしよう』
そうだ。
また今度。
その時も、それだった。
「六年目には、それでもまだ、いつかは振り向いてくださると思っておりました」
ベックスは唇を引き結んだ。
忘れていたのではない。
重要なことだと思っていなかったのだ。
自分にとっては、ただの一晩だった。
けれどアリエルにとっては、その一晩一晩が積み重なっていた。
「七年目で、諦めました」
そこで初めて、ベックスの胸に嫌なものが落ちた。
「諦めた……?」
「はい」
あまりにも簡単に返された。
「何を……諦めたんだ」
聞かなくとも分かるはずなのに、ベックスは尋ねた。
アリエルは少しだけ目を伏せる。
「旦那様に求めていただくことを」
胸の奥を掴まれたような気がした。
「旦那様との子を夢見ることを。『また今度』が本当に訪れると期待することを。そして――」
そこでアリエルは一度だけ言葉を止めた。
「旦那様を、夫として愛し続けることを」
「……」
「それを諦めました」
ベックスはすぐには意味を理解できなかった。
夫として愛することを諦めた。
それなのに、この三年間もアリエルは隣にいた。
昨日の朝だって笑っていた。
三日前には、今度観に行く芝居の話をした。
先月の自分の誕生日には、欲しがっていた本を贈ってくれた。
何一つ、変わっていなかったではないか。
「だが、君は……」
だから、思わず口にした。
「君は私が好きだったじゃないか」
一瞬。
本当に一瞬だけ、アリエルの表情が揺れた。
けれどすぐに、いつもの静かな顔に戻った。
「旦那様」
「……何だ」
「愛が無くなった時、残るものはお分かりになりますか?」
「愛が無くなった時……?」
「はい。愛が無くなった時に残るものです」
急に話が変わったように感じ、ベックスは戸惑った。
「嫌いになるのではないか」
「いえ、嫌いにはなれません」
アリエルは寂しげに小さく首を振り、続けた。
「愛が無くなった時に残るもの、それは情です」
「情……」
ベックスは小さく繰り返す。
「この三年間は、情で一緒におりました」
胸の奥が、奇妙に冷たくなった。
「婚約してから十五年。結婚してからは十年。旦那様のことを嫌いになるには、あまりにも長すぎる時間だったのでございます」
アリエルは穏やかに微笑んだ。
それはかつて、彼に向けられていたものとよく似ていた。
だからこそ、決定的に違うと分かった。
愛する男を見る目ではない。
長く共に過ごした、親しい誰かを見る目だった。
「旦那様がお好きな料理も存じております。お疲れの時に眉間へ皺が寄ることも、考え事をなさる時に右手で指輪を触る癖も存じております。雨の日には古傷が痛むことも、寝付けない夜には甘い酒を召し上がることも」
「……」
「旦那様がわたくしを好いてくださっていることも、分かっております。繊細な心の持ち主で、離縁を申し出ることで傷ついてしまうことも」
ベックスは縋るように言った。
「なら、なぜ離縁など」
「旦那様への情と、わたくしの人生を天秤にかけたのです。わたくしは子を育てる幸せを知らずに、このまま人生を終えたくはありません」
アリエルは答えた。
今度こそ、ベックスは何も言えなかった。
「昔は、旦那様との子が欲しかった」
アリエルは自身の手元へ視線を落とした。
「旦那様によく似た男の子でも、わたくしに似た女の子でも。どちらでも構いませんでした。あなたと家族になりたかった」
その言葉だけが、少し遠い昔を懐かしむように柔らかかった。
「今でも旦那様との子ができ、一緒に育てていければ、なんと幸せなことかと思っております」
「……アリエル」
ベックスは希望を見出したように顔を上げる。
「わたくしは今年、二十八になります」
貴族の女として、決して若すぎる年ではない。
「子を望むなら、もうこれ以上待つ余裕はございません」
「今からでも――」
「いいえ」
初めてだった。
アリエルが、彼の言葉をはっきりと遮ったのは。
「旦那様が今、そう仰ることも分かっておりました」
「ならば――」
「けれどそれは、わたくしを欲しいからではございません」
「違う!」
これまで静かに話を聞いていたベックスが、初めて声を荒らげた。
「君を欲しくないなど、一度だって思ったことはない。私は君を愛している。今だってそうだ。君以上に大切な人などいない」
必死な声だった。
アリエルも、それが偽りではないことを知っていた。
だからこそ、少しだけ困ったように笑った。
「ええ。存じております」
「なら、どうして――」
「旦那様がわたくしを愛してくださっていることを疑ったことはございません」
その言葉に、ベックスは息を呑んだ。
「贈り物をくださることも、時間があれば一緒に過ごそうとしてくださることも。朝、わたくしの機嫌が悪ければ、その日の帰りには甘味を買ってきてくださったこともございました。すべて知っております。そのお気持ちがうれしかったのです」
アリエルはひとつひとつ、確かめるように口にした。
「旦那様は優しい方です。そして、わたくしを大切にしてくださっていた」
「だったら……」
「けれど」
静かな一言が、ベックスの言葉を止めた。
「愛していることと、わたくしが望む人生を共に歩いてくださることは、同じではなかったのでございます」
「……」
「旦那様は、わたくしを愛してくださった。けれど、わたくしが何度お願いしても、夫婦として触れてくださらなかった」
アリエルの声は穏やかなままだった。
「わたくしは長い間、その理由を探しました」
自分に魅力がないのか。
嫌われているのか。
何か身体に問題があるのか。
それとも自分が知らぬ間に、夫を傷つけるようなことをしてしまったのか。
「ですが、どれだけ尋ねても、旦那様は『また今度』としか仰いませんでした」
ベックスは何かを言おうとして、でも何も言えなかった。
それを見て、アリエルは目を伏せた。
「それが一番辛かったのでございます」
責める声ではなかった。
むしろ、遠い昔の痛みを語るようだった。
「理由があるなら、共に考えることもできました。待ってほしいと仰るなら、いつまでなのか尋ねることもできました。けれど旦那様は、何も教えてくださらなかった」
「私は……」
「ええ」
アリエルは続きを促さなかった。
今になって理由を聞きたいわけではない。
そして、ベックスに明確な理由があったわけではない。
あの時アリエルがこう言ったから。
アリエルも疲れていそうだから。
アリエルの怒った顔が浮かび、怖くなったから。
どれも理由ではなかった。
自分が悪くならないための言い訳だった。
「旦那様」
アリエルはまっすぐ夫を見る。
「七年前のわたくしなら、今の旦那様の前向きな姿勢に泣いて喜んだでしょう」
胸を衝かれたように、ベックスの表情が歪んだ。
「五年前でも、きっと信じました。三年前なら、その言葉の希望に縋ったことでしょう」
そこまで言って、アリエルは少しだけ笑った。
「ですが、今はもう、信じることができないのでございます」
「……何を」
「『また今度』という言葉を」
ベックスの顔から血の気が引いた。
「その言葉を信じて、毎夜、隣に眠る旦那様を見ながら涙を流しました。そして、もしその言葉が実現したとしても、一度だけ抱いてくださればよいわけでもございません。子を作るために、義務としてわたくしを抱いてほしいわけでもない」
「義務だなんて、そんな――」
「旦那様がそう思っていなくとも、わたくしにはもう分からないのです」
それが十年という年月だった。
「今日、離縁を申し出たから抱いてくださるのか。明日になれば、やはり『また今度』と仰るのか。運良く子を授かったとして、その後はまた二度と触れていただけないのか」
アリエルは小さく息を吐いた。
「そんなことを考えながら旦那様と日々を過ごすのは、もう嫌なのでございます」
「アリエル……」
「わたくしは、旦那様に夫婦として愛してほしかった」
「愛している!」
「はい」
即座に返された肯定に、ベックスは言葉を失った。
「愛していただいておりました」
否定されるよりも、その言葉の方がずっと残酷だった。
「ですから幸せでした。きっと、他の誰かから見れば、とても幸せな妻だったのでしょう」
アリエルは笑う。
「わたくし自身も、幸せだったと思っております」
観劇に出かけた日も。
二人で庭を歩いた夕暮れも。
旅先で他愛もないことで笑った夜も。
ベックスが似合うと言って選んでくれた宝石も。
そのすべてが嘘だったわけではない。
「けれど、幸せであることと、満たされていることは違ったのでございます。妻として求めていただきたかった」
ベックスは俯いた。
「……私では、駄目なのか」
あまりに弱々しい声だった。
アリエルの胸が痛んだ。
昔なら、その顔を見ただけで何もかも許していただろう。
今でも傷ついているベックスを見て、悲しい気持ちにはなる。
ただこれは、愛ではなく情なのだ。
「旦那様が駄目なのではございません」
アリエルは静かに首を横に振った。
「わたくしたちは、望む夫婦の形が違ったのでございます」
「私は君と夫婦でいたい」
「わたくしも、そう思っておりました」
過去形だった。
ベックスにも、それが分かった。
「ですが、わたくしが望んでいた夫婦は、旦那様と食事をして、観劇に出かけ、贈り物をいただくだけの関係ではございませんでした」
アリエルは自分の腹部へ、そっと手を置いた。
「愛する人と身体を重ね、その人との子を授かり、一緒に育てる。わたくしにとっては、それも夫婦であることの一部だったのです」
沈黙が落ちた。
「旦那様の愛が足りなかったとは申しません」
アリエルは離縁届へ視線を落とした。
「ただ、旦那様がくださる愛と、わたくしが必要としていた愛の形が違ったのでございます」
ベックスは何も言えなかった。
彼は確かにアリエルを愛していた。
十年前も。
五年前も。
そして今も。
それなのに、その愛だけでは彼女を繋ぎ止めることができない。
初めて知った。
愛しているという事実は、万能ではないのだ。
「わたくしは今年、二十八になります」
アリエルはもう一度そう告げた。
「もし子を望むなら、いつまでも可能性があるわけではございません。年を重ねるほど、子を授かることも、無事に産み終えることも難しくなると申します。わたくしにはこれ以上、旦那様の『また今度』を待つ時間はないのです」
「なら待たせない」
ベックスは即座に言った。
「仕事を減らす。領地のことなら弟にも任せられる。母のことも私から話そう。君に二度と余計なことを言わせない」
「旦那様――」
「子供だってそうだ。君が望むなら、私も――」
言葉が詰まった。
違う。
望むなら、ではない。
そんな言い方をすれば、また間違える。
「私も欲しい」
絞り出すように言った。
「君との子供が欲しい。君と、この先もずっと一緒にいたい。だから――」
ベックスは身を乗り出した。
「今日から変える。もう『また今度』とは言わない。約束する」
アリエルは、泣きそうな、困ったような、それでいてどこか諦めの混じった笑みを浮かべた。
「わたくしが七年お願いしても叶わなかったことを、離縁届を一枚置いただけで、こんなにも簡単に仰ってくださる」
「それは――」
「責めているのではございません」
アリエルは小さく首を振った。
「ただ、わたくしは旦那様のお心を変えるために、この離縁届を出したのではないのです」
ベックスは息を止めた。
「これをお見せすれば、旦那様が焦ってくださるかもしれない。わたくしの望みを叶えると仰ってくださるかもしれない。そのようなことを期待して用意したものではございません」
「私は、そんなつもりで……」
「ええ。分かっております」
アリエルの声はどこまでも優しかった。
「旦那様は今、本心から仰ってくださっているのでしょう。わたくしを失いたくないと思ってくださっている。それも分かっております」
そこでアリエルの表情がわずかに歪んだ。
「だから、悲しいのでございます」
「……悲しい?」
「わたくしがもう諦めた今日になって、七年間ずっと欲しかった言葉をいただけたことが」
ベックスは何も言えなかった。
「五年前でもよかった。三年前でも、きっとまだ間に合いました。旦那様の『また今度』がようやく訪れたのだと、心から喜べたでしょう」
アリエルはほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「ですが、この離縁届をここへ置いた今日では、もう遅かったのでございます」
アリエルは離縁届を彼の前へ押し出した。
その隣に、ペンを置く。
「旦那様を嫌いになったわけではございません」
むしろ、嫌いになれたならどれほど楽だっただろう。
「これからも、旦那様が健やかで、幸せでいてくださることを願っております」
「なら……」
「それは、情なのでございます」
アリエルは、今度こそはっきりと言った。
「そしてわたくしは、旦那様への情よりも、自分の残りの人生を選びます」
ベックスの手元にあるペンは、動かなかった。
「もうわたくしは待てません」
十年分の時間を終わらせるには、その言葉はあまりにも短かった。
「充分、待ちました」
アリエルは静かに夫を見つめる。
「こちらにサインをお願いいたします」




