なぜ日本人は成功者を「いい人」だと思いたがるのか (。´・ω・)?
二年前の昼時――。
定食屋で、あるサラリーマンがこんなことを言っていた。
「大谷翔平はあれだけ打てるんだから、きっとすごい人格者なんだろうな」
私はその言葉に、少しだけ違和感を覚えた。
ホームランを打つことと、人格の良し悪しは、本来まったく別の能力のはずだ。
速い球を投げられることと、人間として立派であることの間に、必然的な関係はない。
だが、このような連想は決して珍しくない。
むしろ、日本では広く共有されている感覚のようにすら思える。
スポーツ選手や芸能人は、常にカメラの前に立つ存在だ。
彼らは「見られること」を前提に振る舞い、社会的に望ましい姿を演出する。
だが、それはあくまで外向きの顔に過ぎない。
素の人格とは、必ずしも一致しないだろう。
そもそも、仮に野球という競技の中で「人格者」を探すのであれば、豪快なホームランよりも、進塁打で後ろに繋ぐ選手の方が、それらしく見えるのではないか。
自己の記録よりも、チームのためのプレーを選ぶ。
その姿に、私たちは「徳」のようなものを感じやすい。
もっとも、これもまた錯覚かもしれない。
なぜなら、野球という競技は、極めて個人成績が明確に出るスポーツだからだ。
一人で結果を出せてしまう構造において、協調性の高さがそのまま成功に直結するとは限らない。
一般論として、高所得者に一定の協調性が求められる場面はある。
だが、それがすべての成功に当てはまるわけではない。
この問題をより分かりやすくする例がある。
もし「成功者=人格者」が真実であるならば、利益を上げている企業がブラック企業である、などという話は存在しないはずだ。
だが現実は、そうではない。
成功と人格は、しばしば同時に語られるが、それは因果関係ではなく、単なる印象の結びつきに過ぎない。
……にもかかわらず、私たちは成功者に“人格の良さ”まで期待し、ときにそれを無意識のうちに付与してしまう ( ˘ω˘ )
これは、おそらく安心したいからだ。
成功している人間は正しい人間であってほしい。
そうでなければ、自分が信じている社会の構造が揺らいでしまうからだ。
だが、その前提は、本当に正しいのだろうか。
煌びやかな成功者ばかりを称賛し、そこに人格まで見出そうとする姿勢は、むしろ現実を見誤る原因になっているのではないか。
社会は、目立つ成功者だけで成り立っているわけではない。
表に出ることはなくとも、地道に、着実に、役割を果たしている人々がいる。
本来評価されるべきなのは、そうした人たちではないのか。
私たち日本人はもう少し、成功と人格を切り分けて考えるべきなのかもしれない (´・ω・`)
◇◇◇◇◇
先日、大谷選手が数試合ホームランが出ないだけで失望している人がいました (;^_^A
150試合以上の長いレースなのになぁ、ってちょっと残念に思いました。
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