関ヶ原
慶長五年九月十五日
むせ返るほどの霧が空気を圧し殺すかのようにのしかかる、関ヶ原。
湿った冷気が肌に貼り付き、息を吸うたびに肺の奥がひりつく。
新免流の七人は、宇喜多秀家隊の最前線に配置されていた。前も横も、白い霧に遮られて見通せない。
ただ、無数の足音と鎧の擦れる音だけが、地の底から湧き上がるように響いている。
「動くな……」
誰かが言った。だが、声の主はわからない。命令なのか、自分に向けた独り言なのかも判別できなかった。
次の瞬間、霧の向こうで何かが弾けた。
いくつも重なる乾いた破裂音――鉄砲隊だ。
空気が裂け、遅れて悲鳴が重なった。人の声は、ここでは意味を持たない。ただの音だ。
前列の誰かが、糸を切られた人形のように崩れ落ちた。
名を呼ぶ間もない。倒れた身体に、後ろから押し寄せた味方が躓き、踏みつけ、また前へと押されていく。
霧に音が吸い込まれていく……いや、違う。
音はそこにあるのだ。無数にあるのだ。ただ、重く湿った霧が、それを包み隠しているのだ。
どこから鉄砲が撃たれたのかさえも分からない。
そしてまた乾いた破裂音が聞こえたと思った次の瞬間、隣にいた男が喉を押さえながら倒れた。
口を開けたまま、何か言おうとしているが、赤い泡が溢れるだけで言葉になっていない。
「……いっ?」
それが、俺の口から出た声だった。悲鳴でも、怒号でもない。ただ、意味のない音。
足元がぬかるむ……泥だと思ったそれは、よく見ると血と糞と踏み荒らされた土が混じったものだった。
足を引き抜くたび、ぐちゃりっと嫌な音がする。
前を見ろと、誰かが叫んでいる。だが、前とはどこだ?
霧の向こうで、影が動く。
槍の穂先が見えたと思った瞬間、横から別の影がぶつかってきた。肩を強く打ち、転びそうになる。
「味方だ、押すな!」
叫んだつもりだったが、声は霧に吸われて消えた。
足軽の列は、もう列ではない。なんの秩序もないただの人が密集しているだけの塊だ。
前の者が止まれば、後ろがぶつかる。
倒れた者がいれば、踏まれる。
踏んだ感触が、足裏に残る。
柔らかく、嫌に温かい。
「やめろ……」
誰かが呻いた。
それが自分の声だと気づくまで、少し時間がかかった。
太鼓の音が聞こえてくる。
どん!どん!と二つ鳴って、途切れ……また一つどん!。
この合図は……?駄目だっ思い出すことができない。
匂いが酷い……火薬、血、生臭い内臓、恐怖で漏れた尿。
鼻で息をするたび、胃の奥がひっくり返りそうになる。
鉄砲組が前に出ろと怒鳴っている。
だが、どこが前なのかさえ分からない。後ろから押され、横から槍が突き出され、逃げ場がない。
突然、背中に衝撃が走った。刺されたと思い、思わず叫ぶ。
だが、違った……誰かが俺の背を盾にして隠れただけだった。
振り返ると、知らない男と目が合った。鎧も似ている。
敵か味方なのかの、判別もつかない。
次の瞬間、その男の額が弾けた。後頭部から何かが飛び散り、俺の頬に温かいものがかかる。
これで敵でも味方でもなくなった……なぜかほっとしている俺がいた。
男は何も言わず、崩れ落ちた。
俺は、その身体を無意識に支え、そして、邪魔だと感じた。邪魔だ、と思った自分に、ぞっとする。
足が前に出ない……進めば死ぬ……止まれば踏まれる。
「進めぇぇぇぇぇっーーーー!」
どこかで誰かが叫んでいる。声は掠れ、必死で、恐怖に抗っていた。
刀を抜く。手が震えて、鞘からうまく抜けない……何度か引っかかり、ようやく刃が見えた。
刃は、霧の中でも妙に冷たく光っていた。
「俺は……」
何をしに、ここへ来たのだったか?名も知らぬ大名のためか?米のためか?生きるためか?
考えている場合ではない前から、誰かが突っ込んでくる。
顔が見えない。ただ、槍の穂先だけが迫る。
俺は、叫びながら刀を振った。当たったのかどうかも分からない。
手応えは、あったような、なかったような。
次の瞬間、視界が回転し足が失くなった気がした。
倒れたのだと、遅れて理解する。
地面は、冷たくそしてひどい匂いだ。
自分の視界から一瞬で色が失われた。
必死に肘で体を支え空を見上げる……期待した青い空はそこには無かった。
誰かの槍の石突が俺の身体を打った……泥の塊のような足が俺を踏みつける。
「弥八!しっかりしろ!」
誰かが俺の名を呼んでいる。そうだ俺は弥八だった……この声はムサシ……?
俺よりずっと年下なのに俺よりずっと強い男。
抱きかかえられた腕を振りほどこうと藻掻くが、その力さえ残されていなかった。
ムサシの腕の中で弥八は逝った。
泥に塗れ押され、踏まれ、引き剥がされる。敵の顔を見る前に、味方の背が消えた。
——戦は、強さで決まるものではなかった。ただ、数と流れだけが、すべてを決めていた。
その中で、ムサシは父の背を見失わないよう、必死に目を凝らしていた。
新免二無斉は、簡素な具足に身を包み、宇喜多の軍旗の下で戦っていた。
振るわれる槍、払われる刃。その動きは老いてなお冴え、弟子たちを前へ前へと押し出していた。
だが、流れは変わった……左から崩れ、右が逃げ、背後から悲鳴が押し寄せる。
誰かが「踏みとどまれ!」と叫んだが、意味はなかった。
すでに宇喜多隊は、一つの軍ではなく、砕けた破片だった。
弥八が倒れた。
庄吉が見えなくなった。
名前を呼ぶ暇もなく、ムサシは父の腕を掴もうとした。
しかし二無斉は振り返りもせずに軍旗をムサシの胸に押し付けた。
「——お前は行け!」それだけだった。
次の瞬間、父の姿は霧と人の波に飛び込んでいった。斬られたのか、倒れたのか、押し流されたのか。
ムサシには、父が道を切り拓いたように見えた。
それからどれほどの時が経ったのか?刀を振るい続けた……殺すためではない、自分を守るために……
精根尽き果てたムサシは座り込んでいた。気づけば、周囲に立っている者はいなかった。
呻き声と、血の匂いと、泥なのか人なのか分からない物が散乱している。
父に託された宇喜多の旗は重かった……命を吸い、泥をまとい、それでも落とすことはできなかった。
あれほど軽いと感じていたこの旗の重みを父は初めから知っていたのだろうか?
——父は、生きているのか。それとも、もう?——
答えはなかった。
ただ戦場だけが、なおも人を喰らい続けていた。
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