伊織と御左口神
天界での会議を終えた八岐大蛇は、ゆるやかに精神体を収束させていった。
世界樹の根元に満ちていた神々の気配が遠のき、意識は次第に“在るべき場所”へと引き戻される。
出雲。
雲海を割るように、精神体は地上へ降りていく。
見下ろす大地は、すでに夏の名残を失い、稲穂が黄金色に垂れ始めていた。
山々は深緑から褐色へと移ろい初め、田の畦道を渡る風には、かすかな冷たさが混じる。
もう何百回と肌で感じた秋の気配だ。
やがて視界の中心に、異様な存在感を放つ社が現れる。
我が拠り所であり根城でもある出雲大社ーー
周囲の森よりもなお濃い影を落とす巨大神殿。
高床の柱は天を支えるかのように聳え、太い注連縄が神と人との境界を示している。
参道に人影は少ない。
神無月——神々が天界へと集うこの月、参拝者は例年よりも控えめであった。
精神体は音もなく本殿へと溶け込み、そこに鎮座する本体へと還る。
——ふう、とっ。
数多の神々の思惑が渦巻く会議は、やはり疲れる。
「……酒、か」
ただ、そう念じる……すると、ほどなくして静かな足音とともに、本殿の奥から一人の巫女が現れる。
白衣に緋袴、手には漆塗りの盆。
その上には、湯気すら立たぬほど澄んだお神酒が据えられていた。
「——伊織」
八岐大蛇は、その名を呼ぶ。
数多いる巫女の中で、ただ一人。
自らの“気配”を、精神体の段階から察知できる娘。
酒を望めば酒を。ーー舞を望めば舞を。
何も告げずとも、その心を汲み取ってくれる存在。
数百年に一人現れるお気に入り、そう言ってよい存在。
しかし……盆を捧げ持つ伊織の歩みを見た瞬間、八岐大蛇は違和感を覚えた。
いつもより、わずかに呼吸が浅い……視線が、ほんの一瞬だけ泳いだ。
神前に立つ者としては、あまりに微細な乱れ——だが、見逃すほど鈍くはない。
「……伊織」
低く、詰めるような声に伊織は一瞬、身を強張らせたが、すぐに頭を垂れる。
「……はい……」
その声にも、微かな揺らぎがあった。
八岐大蛇は、ゆっくりと首を傾げる……何が、起きている?
神々が天界に集う、この隙に……? 八岐大蛇の視線が、伊織を射抜く。
「……なるほど」
低く、唸るような声。
「貴様が——神龍のつけた監視者なのだな?」
社の空気が、ぴしりと張り詰める。
「お前は誰なのだ?」
伊織の唇が、わずかに動く……だが、返ってきた声は、彼女のものではない。
「古竜様……どうかお鎮まりください」
声音は柔らかく透き通るように美しい。しかし、その奥には人の巫女にはあり得ぬ深さがあった。
「確かに、監視者と言われることは否定いたしません」
伊織——いや、伊織の中の何かが、淡々と告げる。
「……わたしは、御左口神ですから」
『……よりによって』
八岐大蛇は、内心で舌打ちする。
「なぜ伊織なのだ?」
問いは短く、鋭い。
「……わたしは実体を持ちません」
御左口神は、まるで事実だけをを読み上げるかのように答えた。
「……この娘は、神憑きの巫女です。心が空でしたから……」
伊織の盆を持つ手がわずかに震え、お神酒の表面が波打つ。
「神龍に、何を命じられた?」
八岐大蛇の声が、わずかに重く低くなる。
「我の邪魔をすることなのか?」
「……………………」
そして、御左口神は、あまりにもあっさりと言った。
「……いいえ……とくに何も」
「……何だと?」
「……わたしは、ただ“見て、聞いて、記す”だけの存在ですから。」
その言葉に、嘘の響きはなかった。
本殿の奥で、八岐大蛇の意識が、静かに波立つ。
『見て、記す……それだけだと?』
それこそが、最も厄介な役目だということを、
古き神である八岐大蛇は、誰よりもよく知っていた。
「……と言うことは、今日の守護神会議の内容も把握しているということか?」
「……はい……それもわたしの役目の一つですから。」
それを知っていながら、御左口神の淡々とした口調には爪の先ほどの揺らぎも感じられない……
そのことに軽い苛立ちを覚えるーー八岐大蛇
「それならば話が早い、この国を覆う不穏な空気には気がついているな?」
「……はい、八幡様への祈願がこのところ増えておりますので、すべてわたしの耳に入っております。」
まるで人形のように口だけが動き、御左口神の瞳からは何の感情も読み取ることができない。
「愚かなことだ!今この時も信濃の上田で人間どもの殺し合いが始まろうとしておる!!
……確かお前の能力に魂の補完というものがあったな?」
何かを思いついた八岐大蛇が、それを隠すように内心でほくそ笑む。
「……はい、戦いで散った魂が迷わず成仏できるように導くのもわたしの役目です。」
「そうか……いろいろと手伝ってもらうことになると思うが、よろしく頼む」
そう言うと盆の上のお神酒が一瞬で消える。
「ところで伊織にはいつ戻るのだ?」
「「ふふふふっ」」
妖しげに笑う伊織の声が重なって聞こえた。
いいね!やブックマーク&評価などして下さると嬉しいです




