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暗い廊下で……



 信じられませんわ!!


 始業開始の時間に少し遅れたくらいで、あり得ないほどの量の追加課題が出るなんて!!


 古式魔法学のヴァンリー教授は融通が利かなすぎるわ。

 いまどき古式魔法なんて誰も使っていないのに、いつまでも重要カリキュラムとして大きな顔しているのはどういうことなのかしら。


 ミレイさんも用事があると言って手伝ってくれず先に帰ってしまって……。

 アカデミーの図書館で、わたくしはひとりで古式魔法学の課題と睨み合っている。

 あの家庭教師がもっと親切で礼儀正しくて情に篤い方なら、この課題を快く手伝ってくれたでしょうけれど……。


「おやおやさすがは聡明なお嬢様、自らより多くの課題を手掛けるとは感心なことですな――とか言って、ニヤニヤ意地悪く笑うだけに決まっているのだわ……!」


 想像するだけで不愉快!


「もうっ、許せませんわ……!」


 怒りをぶつけるようにどうにか課題を終わらせ、図書館の司書に追い出されるように外に出た頃には、もうすっかり日が落ちて真っ暗になっていた。


◇◇◇


 暗い廊下を歩きながら、窓から見える内庭に目を向ける。


「……っ」


 ふいに、わたくしは足が竦んで、心臓が早鐘を打ち鳴らすみたいにドキドキと鳴り響く。

 呼吸がし辛くて、視界が暗く狭まって。


 怖い。


 わけもわからずただ、怖くて、その場で動けなくて……。


 ハルロ様……。

 ハルロ様……!


 ああ、いまここに、ハルロ様がいらしてくれたら……。


 あの日、初めて参加した新年祝賀の式典で、お父様たちとはぐれてしまったわたくしに、優しく声をかけてくださったハルロ様。

 あの時のように……いま……。


 わたくしの手を引いてくれたら……。


 そんなことを思っていると、暗い廊下の向こうからコツコツと足音が聞こえて……。


 まさか……

 そんなことが……?

 でも、わたくしたちは神託に告げられた運命の相手同士。

 なら、そんな都合の良い物語みたいなことだって……。


 その期待は、わたくしの中の恐怖心も少しだけ和らげてくれて……。


「ルティカ様……!? こんな時間まで、おひとりですか!?」

「え……その声……リーシャさん……?」


 期待は儚く裏切られて、予想もしなかったその足音の主にわたくしは力が抜けてしまう。


 立ち眩みのようにふらりと倒れそうになった体を支えてくれたのは、素早く駆け寄ってきたリーシャさんだった。


「ぁ、」

「大丈夫ですかルティカ様……!? 酷い顔色……手もすっかり冷えて。どうなさったのですか? 医務室へ? どなたかお迎えをお呼びしましょうか」


 わたくしの体をしっかり支えて、労りながら様子を窺ってくれる彼女の態度に、わたくしは少し困惑した。

 この子には衆人環視の前で厳しく叱責したのだもの。わたくしが正しいとはいえ、萎縮したり逆恨みされていたとしても不思議はないと思うのに。

 そんなことまるでなかったみたいに、親切なリーシャさん。


「……わたくし、は……少し、あなたを、誤解していたのかしら」


 思わずそう溢したわたくしの言葉にリーシャさんが顔を上げる。

 くりくりと小動物じみた瞳が、わたくしをじっと見つめて……。


「わたしも……ルティカ様を少しだけ誤解していたかもしれません」


 リーシャさんの温かい手が、わたくしの冷え切った手を包む。

 体温を分けようとするみたいに。


「何か、ご不安なことがおありなのですか?」


 リーシャさんの声は穏やかで、静かで、そこにあるのは純粋な心配の気配。少し、ばぁやに似ているような気がする。

 わたくしは、思わず、ホッと息を吐いて。


「怖い夢を見るの……それで、あまりよく眠れなくて……。ずっと夢見ていた、憧れの方との結婚が叶うのに……おかしいわよね」


 つい溢していた。

 ばぁやとフェルダー以外、誰にも言わなかったこと……幼稚舎時代からずっと一緒だったミレイさんにも言わなかったことを、なぜか。


「……」


 リーシャさんは目を伏せ、黙ってしまう。

 わたくしは、急激に押し寄せる後悔や恥ずかしさに眩暈がした。

 バカみたい!

 こんな平民の子に、軽率にこんな話を……!


「おかしくなんかありません……」

「……え」


 その声は静かな廊下に、ぽつりと落ちていく。


「おかしくなんかありません。誰だって、不安や緊張はありますよ。……これはわたしの姉の話ですけど、やっぱり結婚前はどんなに好きな相手でも不安にかられたって言ってました。ルティカ様は……平民なんかと一緒にするなと思われるかもしれませんが」


 リーシャさんは的確だった。

 そうよ。

 わたくしはそこらのか弱い平民たちとは違うの。

 わたくしの婚姻は神が認め祝福されたものでもあるのだもの。それを不安がるなんて……。


「ルティカ様は気高く誇り高いお姫様ですけれど、まだ十八歳の女の子なんです。……でも、わたし、信じてます。ハルロ様とルティカ様が結婚されて、みんな幸せになることを。信じていますから」


 リーシャの丸い目がわたくしをしっかりと見つめて言う。その手にぎゅっと力がこもる。その言葉は、不思議なほどにわたくしの心に深く染み込んでいく。


「ハルロ様は……わたくしを好きだと思う……?」


 ついそんなことを聞いてしまって。


 リーシャさんはびっくりしたように目を丸くしてから、にっこりと微笑んで頷いてくれた。


「ハルロ様も、ルティカ様との結婚式を楽しみにしていらっしゃいますよ。だからあんなに一生懸命なんだと思います……そのせいでご交流が疎かになってしまっているのかもしれませんが……。どうか、ルティカ様も、ハルロ様を信じて差し上げてください」


 あぁ、そうか。

 そうよね。

 ハルロ様がお忙しくしているのも、全てはわたくしたちの大切な結婚式典の為。

 なのにふたりでお茶をする時間すら取れないと拗ねて。きっと困らせていたわ、お優しいハルロ様のこと。


「わかったわ……。……あなたに、こんな風に励まされるなんて思いもしなかったけれど」


 弁えのない無礼な平民の子、なんて思っていたけれど。

 そんなことない。

 この子は、敬意をもってわたくしたちを見ているのだわ。


「アカデミーを卒業して行くあてがなさそうなら、わたくしの侍女にしてあげてもよくってよリーシャさん」


 不安も恐怖もすっかりどこかに吹き飛んだわたくしは、明るく幸せな未来を思い描く。

 そこに、この子もそばに居てくれたら嬉しいと思って……。


 リーシャさんは、照れ臭そうにぎこちなく笑って。


「あはは……わたし、すごくドジでおっちょこちょいだから、ご迷惑になりそうです。……もう大丈夫そうですね、そろそろ帰りましょうか。正門が閉じられてしまうと大変なので」


 リーシャさんはそう言ってわたくしを促す。


 確かに、正門が閉ざされると裏門からいちいち衛士に言って鍵を開けさせなくてはいけない。それはとても面倒だし、わたくしの帰り道が十五分も延びてしまうわ!


 わたくしたちは急いで廊下を駆け抜けて、あと少しで閉ざされそうな正門を超えていく。

 妙に爽やかな気分がして。


「はぁ、っはぁっ、こ、こんなに走ったの……小さな頃以来だわ……! はぁ、おかし。……もう真っ暗ね! ご機嫌ようリーシャさん、お気をつけてお帰りになってね」

「はい、ルティカ様も……お気をつけて……!」


 わたくしは久しぶりに心から浮き立つような気持ちで、リーシャさんと別れの挨拶を交わして帰路に着いた。

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