逃亡
逃げなくちゃ……!
逃げなくちゃ……!
あの男が追いかけてこないうちに……!
わたくしは訳もわからずただひたすらに走っていた。
血を吸ったドレスが重い。
枝が引っ掛かって顔に当たる、裾を引っ掛ける、ビリリと破れる音がする。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……!」
ここがどこなのか、それを確認するためにちょっと立ち止まるのすら怖くて……。
「あっ――きゃぁっ――!」
足がもつれたのか、何かにまた躓いたのか、そこでわたくしの視界は大きく揺れて、体が地に打ち付けられていた。
「……っ、っう、……く、っ、」
痛い。
転んで打ったところ。走り続けた足。心臓。
強制的に止まってしまって、息を整えながらわたくしは改めて辺りを見回す。
なだらかな斜面……繁る木々……その合間から差し込む空の光……
「……や、……ま……?」
小さい頃、お母様に会いに行っていた別荘地がこんな感じだったわね。
そんな場合ではないのに、ふとそんなことを思い出してしまう。
「まだ追いかけて来るかもしれないのだわ、早く……急いで……立たなきゃ……ッあ――」
転んだ時に捻ったのか足首がズキリと痛んだ。
「うっ……ぅぅ……」
悔しい。
涙が溢れてくる。
どうして? なぜ? わたくしがこんな目に遭わなくてはならないの。
本当なら今頃、わたくしはハルロ様と……
「…………! そうよ、婚礼の式典……!」
きっと今、ラトラムもラトリーナも大慌てだわ。花嫁が居なくなってしまったのですもの。大事な和平二十周年でもあるのに。
「ぼんやりしてる場合じゃ……ないわ……立つのよルティカ。頑張って。そうよ、急いでラトリーナに戻るの。王子の花嫁の失踪なんて、下手をしたら国際問題だわ……!」
近くの細い木の幹を支えに立ち上がって、程よい枝をえいっとへし折る。
それを杖代わりに、わたくしは再び進む。
「…………でも、どこへ」
方角がわからない。
「一度、見晴らしの良いところに……」
やみくもに動き回っても迷うだけに思えて。
なら少しでも高いところから、開けた場所から、方角を知るべき。
「行くのよ……ルティカ」
わたくしは、痛む足を叱咤して、とにかく斜面を登ることにした。
◇◇◇
ようやく少し見晴らしの良いところに出られた頃には、日が暮れていくところだった。
「……いいわ、おかげで、方角はわかるもの」
どこか一夜を安全に越せるところが必要だわ。
嗚呼……なんて最低で最悪な状況なのかしら……!
淑女たるわたくしが、こんな山の中で、泥まみれで、ひとりで……。
「ばぁや……もうこの際フェルダーでもいいわ。そばに居てくれたら……」
また滲んで来る涙を拭って、頭を振る。
「ばぁやも今頃、心配しすぎて大変かもしれないわね。フェルダーが宥めてくれるかしら……」
想像すると少しだけ笑えて、心が温かくなる。
それはわたくしに、動く気力も与えてくれた。
少し大きな木のウロを見つけて、どうにかそこに潜り込む。
夜になるにつれて冷えてきて、寒い。
痛くて、怖くて、わけもわからなくて。
けれど。
空の星はびっくりするほど綺麗だった――。




