婚礼の日
冬季休暇が明け、アカデミーが再開するとわたくしの日々はめまぐるしく流れ……もはや、激動のようだった。
フェルダーに増やしてもらった血を作る薬と、心を落ち着かせる薬湯であの不快な動悸や身の竦むような嫌な心地も和らいでいたわ。
みんな祝福してくれて。
「レディ・ルティカ」
「……は、ハルロ様」
アカデミーの廊下で呼び止められて、わたくしの心臓が一瞬だけギュッと引き絞られるように苦しくなる。
動悸が高まって、指先が冷えて。
「……? 顔色がよくない、まだ調子が悪いのかい」
ハルロ様が心配そうに眉をひそめる。
昔から変わらない優しいお方……。
「い、いえ。ちょっと……寝不足で……」
「そう。……神託の婚礼のことだけど、」
「……!」
ハルロ様が、わたくしをじっと見つめながら続ける。
「和平記念日に執り行おうということで合意が決まったんだ。正式な通達はそちらのお父君からあるだろうけれど」
「……ぁ、……わ、和平記念日……それは……あおめでたいことですわね。わたくしたちの婚姻は……更なる平和の、架け橋になるはずですわ……」
ハルロ様が微笑む。
わたくしの視界は少しだけ暗く狭くなる。
「楽しみだよ、レディ・ルティカ。……それじゃ、またね」
踵を返して廊下を行かれるハルロ様の背中を見送りながら、わたくしは……。
ひどく不安で、不吉な心地に包まれていた。
◇◇◇
和平記念日に婚礼式典が開かれることも、大々的に公表され、わたくしの周りは更にお祝いムードになっていた。
わたくしは、まるで時の流れにただ押し流されるみたいに……気付けばとうとうその日を迎えていた。
婚礼前夜。
わたくしは明日、ラトリーナの王都に入り、そこで第三王子妃になるのだわ。
◇◇◇
――――――――――――…………。
「………………、…………ぁ、ら……?」
視界がぼんやりしている。
わたくしは……。
「……ぇ、」
たしか、王都でのパレードの支度をしていて……
パレード……
婚礼式典……
「――――――!!!!」
目を見開く。
上がりそうになった悲鳴を思わず手で抑えて、わたくしは横たわっていた体を起こした。
そこは、見知らぬ……薄暗くて小汚い、小屋のよう。
つい眉が寄る。
どういうことなのかしら。
これからパレードだというのに。まさかこれがわたくしの控え室だというの?
一国の王子妃になる者に対してあまりにも粗末ではなくて?
「……ばぁや?」
部屋の中には誰も居ない。
ばぁやがわたくしをこんな所にひとりで放っていくはずはないのに。
ふいに。
不安が押し寄せてくる。
寒いわけでもないのに、体が震える。
そうよ、だってそうだわ。
こんな粗末な小屋に、わたくしを置いておくなんて、ラトリーナの方々がなさるはずない。
じゃあ……ここは……どこ……?
「……ぁ、…………うそ、まさか」
誘拐。
婚礼を目前にして、神託の花嫁たるわたくしが。
そんなの。
そんなのって……
大事件だわ!?
わたくしはドレスの裾を捌いて粗末なベッドから降り、足音を立てないよう気をつけながら部屋の扉に向かう。
扉は、案の定鍵が掛かっていて。
「…………っ」
狙いは何かしら。
ああ、こんなことならもっとちゃんと魔法学のお勉強をしておくべきでしたわ。
確か、鍵を開けたり閉めたりする呪文があったはずだもの。
どうしましょう、と途方に暮れていると、扉の向こうからボソボソと人声が聞こえてくる。
わたくしは息を潜め、その声に耳をそばだてる。
◇◇◇
「世……ったな…………に運ぶ、……タの……荷……車……使……もらう……」
扉越しのボソボソした声は、あまりちゃんと聞き取れない。
けれど、多分。
このまま、わたくしをどこかに運ぶつもりなのだわ。
まだわたくしが寝ていると思っているのかも。
わたくしは、薄暗い部屋の中を見渡す。
窓はない。
なら、せめて何か武器になりそうなもの。
この扉から入ってくる下手人を、問答無用で叩きのめして逃げるしかないのだわ。
怖い……。
けれど、大丈夫。
こういうの、昔読んだことがあるわ。
囚われのお姫様……王子様が助けに来てくれるけど……。
部屋の隅に乱雑な置かれたガラクタの山の中から、唯一使えそうなのは穴の空いたフライパンだった。
威力はそこそこありそうだわ。
わたくしは、息を潜め、扉の影に忍ぶ。
向こうから扉が開いて声の主が入ってきたところで、いっきに……
計画は完璧。
ただ、声の主はなかなか入って来なくて、永遠にも感じられるような時間。
心臓がドキドキする。
手も足も震える。
けれど、わたくしは。
結婚式に出なくては…………。
◇◇◇
――――ギ、ィ、
扉が開く。
ギシ、と床を踏む気配。
扉の影に潜んだまま、わたくしは。
「――――!!」
――――ゴッ!!!!
「……っガ、……ッ」
渾身の力を振りかぶって殴った。
声の主はよろけて崩れ落ちる。
そこを更に追撃の何発かを喰らわせて、動けない隙を突いて部屋を飛び出した。
「――ま、っ、――――」
後ろから、引き留めるような声が聞こえる。
そういえば仲間もいたはずだけれど……。
わたくしの前に立ちはだかるひとは居なくて……。
「やったわ、……きゃっ!?」
何かに躓いて転びかける。
振り返ると、それは……
「――――――!」
貧相な身なりの男……倒れて……。
ぴくりとも動かない……。
ゴト……。
わたくしの出てきた扉の向こうで、蹲っていたもうひとりが起き上がる気配。
怖い。
わたくしは、倒れた男の血を吸って重くなったドレスを翻し、振り返りもせずに小屋を出て走り続けた――。




