――第2話 アンティークショップ――
2026年3月3日 火曜日
空港を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
ロンドンの空気は湿り気を帯び、金属と石の匂いが混じっている。
タクシーは静かに走り出し、
車窓の外を、煉瓦造りの建物と曇天が流れていく。
右側通行の感覚に、悠斗はまだ慣れない。
信号の位置も、街路樹の配置も、どこか日本とは噛み合わない。
やがてホテルに到着する。
派手さはないが、古さと落ち着きを併せ持った建物だった。
長距離移動の疲労が、ここにきて一気に表に出る。
荷物を預け、部屋に通される。
結乃、エウラ、祈は同じ部屋。
悠斗だけが、廊下を挟んだ別の部屋だった。
ベッドに腰を下ろした瞬間、
足の裏から重さが抜けていく。
しばらく、そのまま動けなかった。
――少し、休もう。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
柔らかいはずのマットレスが、ひどく現実的に身体を支えていた。
――ヴォルクハルト。
その名を、頭の中で反芻する。
リネア研究の第一人者。
誰にも導かれず、自力で理の樹へ辿り着き、
その力を得たと伝えられている存在。
そんな人物が、
今になって自分を呼んでいる。
理由が分からない。
考えれば考えるほど、想像が追いつかない。
そもそも、資料がない。
TIMMAの内部資料をいくら洗っても、
ヴォルクハルトに関する記述は、意図的に避けられているようにしか見えなかった。
名前はある。功績も語られる。
だが、肝心の「人物像」が、どこにも存在しない。
――消されている。
そう考えるほうが、自然だった。
明日の10時。
TIMMA本部で会う。
建前としては、組織の一員としての挨拶。
ただ、それだけのはずだ。
それでも、胸の奥に引っかかるものがある。
理由のない緊張。
説明できない予感。
悠斗は、ゆっくりと息を吐いた。
正直なところ、
観光を楽しむ気分には、まったくなれなかった。
ロンドンの街は美しい。
だが今は、その景色すら、
これから会う人物への“前置き”にしか思えない。
――明日、何かが起きる。
確信ではない。
だが、そう思ってしまう程度には、
この静けさは、落ち着かなかった。
悠斗は目を閉じ、
眠りに落ちるまでのわずかな時間、
その違和感と向き合っていた。
だが、その判断は長くは保たなかった。
数時間後。
部屋のドアが、ノックもなしに勢いよく開く。
「先生!」
結乃だった。
目が、妙に輝いている。
「外に行きましょ! アンティークショップがあるんです!」
「……うーん」
悠斗はベッドに座ったまま、天井を見上げた。
「僕はいいよ。三人で行ってきな。正直、ちょっと疲れた」
それは本音だった。
移動、時差。
身体が休憩を要求している。
「ダメです」
即答だった。
「行くんです」
有無を言わせない口調。
そのまま結乃は悠斗の腕を掴む。
「ちょっ――」
抗議する間もなく、
ぐい、と引っ張られる。
「ほら、外の空気吸えば目も覚めますから。それに、ロンドンですよ?」
理屈になっていない理屈を並べながら、
結乃は本気で連れ出す気だった。
廊下の向こうでは、
エウラが面白そうにその様子を眺め、
祈は何も言わず、すでに外出の準備を終えている。
「……分かった、分かったから」
悠斗はため息をつき、立ち上がった。
「本当に、少しだけだからね」
「大丈夫です!」
結乃は満面の笑みを浮かべる。
「少し、の基準は私が決めます」
その一言で、
悠斗はこの先の展開を悟った。
休憩は終わり。
否応なく、ロンドン観光が始まる。
こうして彼らは、
ホテルという安全圏を後にし、
再び石畳の街へと足を踏み出した。
――疲れた身体を引きずりながら。
※※※※※
ロンドンの街、コヴェント・ガーデン。
石畳の路地に挟まれた一角に、看板も控えめなアンティークショップがあった。
ガラス越しに見える店内は薄暗く、棚に並ぶ品々はどれも時間をまとっている。
結乃は迷いなく扉を押した。
鈴の音が小さく鳴り、埃と木の匂いが鼻をくすぐる。
「……これ、かわいいですね」
結乃が手に取ったのは、淡い乳白色の小皿だった。
縁には金彩が施され、ところどころに細かなひびが入っている。
「ああ、いいね」
悠斗は棚越しに覗き込み、頷く。
「屋敷の雰囲気にも合いそうだ。来客用に出しても違和感ない」
「結乃様」
横から、静かな声が差し込む。
「それは既に屋敷の食器棚にございます」
祈は視線を逸らさず、別の棚を指した。
「こちらのほうが、系統は近いかと」
指先の先には、少し背の高いカップがあった。
釉薬の色は深く、内側には細い線で植物文様が描かれている。
「……確かに」
結乃は一瞬だけ悔しそうな顔をし、それから別の棚に移動した。
その間、エウラは完全に自由だった。
棚の奥、ガラスケースの前で足を止め、じっと何かを見つめている。
「ねえ、悠斗」
振り返りもせずに言う。
「これ、私これがいいわ。私に買って」
指差された先には、
装飾過多と言っていいほど手の込んだティーカップがあった。
深い青に金の装飾。持ち手は異様に細く、実用性は二の次だ。
値札を見る。
――日本円換算、10万円。
悠斗は無言で視線を上げた。
「……エウラ、高くないか?」
率直な感想だった。
「僕にはちょっと手が出せないよ。もっと安いのなら、買ってやれるけど」
現実的な線を提示したつもりだった。
「えー……」
エウラは心底残念そうな声を出す。
「でも、私はこのカップがいいんだけどなー」
そう言って、
エウラは名残惜しそうにカップを両手で包み込んだ。
「じゃあ、私が出しますよ」
さらりと言ってのける。
「ついでに……これと、これも」
指先が迷いなく別の商品を示す。
「おいおい」
悠斗は思わず声を上げた。
「あんまり使いすぎるなよ、結乃。使いすぎるとさ、後見人として裁判所に説明するのが面倒なんだから」
半分は本音だった。
「それは先生の仕事ですよね?」
結乃は悪びれる様子もなく、
にこやかに返す。
「……笑顔で言うな」
そのやり取りを見て、祈が静かに口を挟んだ。
「結乃様。真神様を、あまり困らせてはいけませんよ」
「はいはーい」
軽く手を振って返事をしながら、
結乃はすでに次の棚に目を向けている。
誰一人として、
本当に止める気はなかった。
ロンドンのアンティークショップは、
財布だけでなく、
立場と役割まで試してくる場所らしい。
悠斗はため息をつきながら、
また一つ、紙袋が増える未来を覚悟した。
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