――第1話 行先はロンドン――
2026年3月2日 月曜日 朝
日本海からの風が、まだ朝の冷たさを運んでくる時間だった。
岩海県の空は低く垂れこめ、雲は重たい。
悠斗は滑走路の先を眺めながら、これが「国外へ出る」ということなのだと、少し遅れて理解していた。
遠くへ行く実感はない。
祈は黙っている。
いつも通り、状況を観察する側に回り、感情を表に出さない。
時刻表を確認し、分単位で行程を頭の中に組み立てている。
その横で――エウラだけが、どこか楽しそうだった。
「ねえ、本当にいいの?」
悠斗が小声で尋ねる。
「問題ありません」
即答したのは結乃だ。
「術理上は、ですけど」
問題は分かりきっている。
エウラにはパスポートがない。
500年を生きている魔女にとって、それは当たり前の話だ。
そもそも戸籍という概念自体が存在しない。
――では、いったいどうやって日本に来たのか。
その疑問に、誰も踏み込もうとしなかった。
銀沢市から羽田へ。
国内線の移動は短く、現実的で、拍子抜けするほどあっけない。
空港のアナウンスは日本語だけで完結し、
誰も彼らを特別視しない。
だが、その先――羽田。
国際線ターミナルに足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
人は一気に「日本人」から「出国者」へと分類される。
必要なのは、パスポート、搭乗券、目的地。
チェックインカウンターの列に並びながら、
悠斗は何度も結乃の横顔を盗み見た。
相変わらず、落ち着き払っている。
「大丈夫です」
結乃は、からかうように微笑んだ。
その瞬間、彼女がわずかに指先を動かす。
人目には見えない、ごく小さな術式陣。
認識補正と記録補完。
“存在している書類”を、この場のシステムに一時的に成立させる術理。
――通過するだけなら、これで十分。
カウンターの係員は、
四人分のパスポートを淡々と確認し、
エウラのそれにも、何の疑問も挟まなかった。
祈が、かすかに息を吐く。
出国審査。
保安検査。
金属探知機の前で、悠斗は一瞬だけ心臓が早まるのを感じた。
だが、術理は完璧だった。
機械も、人も、「見るべきもの」しか見ない。
「――これで、日本とはしばらくさよならですね」
結乃が、どこか感慨深そうに言う。
離陸は、3月2日22時40分。
夜の滑走路が流れ、やがて日本列島が闇に沈んでいく。
機内は静かだった。
長距離便特有の、どこか諦めたような空気。
祈は目を閉じ、
結乃は術理の安定を確認し続けている。
エウラは窓の外を、興味深そうに見つめていた。
「すごーい。私、飛行機なんて初めて乗ったわ。それにしても海、長いわね。……っていうか暗くて何も見えないわ」
ぽつりと、そう言う。
「静かにしてな。結乃がまた怒るよ」
悠斗が言うと、
「うるさいわね。ちょっとはしゃいだだけじゃない」
エウラは不満そうに返した。
現地時間、3月3日 5時55分。
ロンドン、ヒースロー空港。
機内の空気が一斉に動き出す。
眠気と時差が、思考を鈍らせる。
入国審査。
ここでも結乃の術理は、静かに機能していた。
エウラは“観光目的の同行者”として処理される。
誰も、その存在の異質さに気づかない。
自動ドアを抜けた瞬間、
空気が変わった。
湿り気。
石と金属の匂い。
日本とは違う、古い都市の呼吸。
「ここが……ロンドンか」
悠斗が呟く。
「ええ」
結乃が頷く。
「目的地は、TIMMAの本部です」
エウラは一歩前に出て、深く息を吸った。
パスポートも、国籍も、もう関係ない。
「さあ」
そう言って、微笑む。
「あいつの話を、聞きに行きましょう」
日本を出たのは、昨日の夜。
だが彼らはすでに、
別の法で動く土地に足を踏み入れていた。
※※※※※
――さかのぼること、一週間前。
TIMMA日本支部。
無機質な会議室に、低い空調音だけが流れている。
悠斗は椅子に腰掛けたまま、正面の人物を見据えた。
「……それで、話というのは?」
悠斗の声は落ち着いていたが、内心では事情が読めていなかった。
本来、今日ここに来る予定はなかった。
結乃が、「旅行に行きたい」と言い出し、
日程や移動手段を一緒に詰めていた、まさにその最中だった。
行き先はまだ仮決めの段階。
だが、それでも――かなり細部まで詰められていた。
そこへ、東条からの電話。
内容は簡潔で、拒否権はなかった。
「至急、日本支部に来てほしい」
理由の説明は、なし。
結果、呼び出されたのは悠斗と結乃。
そしてなぜか、エウラまでついてきている。
「急用、急用って……」
結乃は椅子に座るなり、腕を組んだ。
視線は鋭く、明らかに機嫌が悪い。
「私、あれだけ綿密に計画を立てていたんですよ?」
「ホテル、移動手段。あの計画、全部無駄になる可能性がありますよね?」
声は丁寧だが、内容は完全に抗議だった。
「――はやくしてくれませんか?」
結乃の声は低く、鋭かった。
「先生も、暇じゃないんです」
語尾こそ丁寧だが、感情は隠れていない。
この場に呼び出された理由も聞かされないまま、
無為に時間だけが過ぎていることが、相当気に障っているらしい。
「まあ、まあ」
東条は苦笑しながら、両手を軽く上げた。
「結乃さん。突然呼び出したことについては、悪いとは思っていますよ」
その瞬間だった。
「じゃあ、甘いココアをご所望するかしら」
唐突に、エウラが口を挟む。
「ミルクたっぷりのやつで、上にクリームも乗っているやつ、あとビスケットも頂戴。この前来た時に出してきたやつ。とてもおいしかったわ」
一気に言い切り、満足そうに微笑む。
室内の空気が、ぴたりと止まった。
結乃が、ゆっくりとエウラを見る。
東条は言葉を失い、悠斗は思わず天井を仰いだ。
――読まない。
空気を、一切。
「……エウラ」
悠斗が小声で呼ぶと、
「なに? 謝罪の流れでしょ。こういう時は、要求を上乗せするものよ」
理屈は通っているようで、場にはまったく合っていない。
「え、ええ……ご用意させますよ」
東条は一瞬、言葉に詰まったように瞬きをし、それから慌てて姿勢を正した。
「真神さんたちは、何か飲まれますか?」
「僕はお茶で結構です」
悠斗は即答した。
「私は紅茶で」
結乃は視線を東条に向けたまま言う。
「ストレートでいいです」
余計な感情を挟まない、簡潔な指定。
それだけで、彼女がまだ機嫌を完全には直していないことが伝わる。
「わかりました」
東条は小さく頷き、すぐに端末を取り出した。
画面を操作する指先の動きは早いが、どこかぎこちない。
数分後、控えめなノックとともに扉が開いた。
静かに運び込まれたのは、湯気を立てる湯のみ、
白いカップに注がれた紅茶、
そして――明らかに甘さを主張するココアと、皿に整然と並べられたビスケット。
エウラはそれを見るなり、表情を明るくする。
「待ってたわ」
誰に断るでもなくカップを手に取り、
上に乗ったクリームをスプーンですくって一口。
「ふぅ……やっぱりこれよね」
そのまま、何事もなかったかのようにビスケットに手を伸ばし、
ココアと一緒にゆっくりと味わい始めた。
この場の緊張感とは、まるで無関係。
彼女にとっては、
ここが会議室であろうと、
重要な決定の直前であろうと、
関係がないのだ。
悠斗はその様子を横目で見ながら、
(この子は、本当に変わらないな)
と、半ば感心し、半ば諦めていた。
結乃は紅茶に口をつけ、
その場にいる全員が、次に来る言葉を待っている。
「……それで、本題なのですが」
東条は一度、手元の端末に視線を落とし、それから顔を上げた。
場の空気が変わるのを、誰もが感じ取る。
「ヴォルクハルトさんが――」
わずかに間を置いてから、はっきりと言う。
「真神さんたちを、呼んでいます」
「……ええ?」
結乃が即座に声を上げた。
「どういうことですか? 私、まだ一度もお会いしたことすらありません。それなのに、なんで先生を?」
疑問というより、抗議に近い。
悠斗もまた、眉をひそめる。
東条は小さく息を吸い、言葉を選ぶように続けた。
「先日の“門”の件ですが……。所有権は、依然としてアーサーに奪われたままです」
結乃の表情が、わずかに硬くなる。
「それだけではありません」
東条は視線を逸らさず、続けた。
「その信者の一人が、門の所在地で――」
一瞬、言葉を区切る。
「TIMMAと交流のある市長を、殺害しようと動いていました」
室内の空気が、冷える。
「未遂に終わりましたが……。この一連の動きは、偶発とは考えていません」
東条は、はっきりと言い切った。
「TIMMAとしては、この事態を――極めて重く受け止めています」
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
甘いココアの匂いだけが、場違いに漂っている。
「それで?」
結乃は、紅茶のカップをテーブルに置いた。
音は小さいが、はっきりとした意思が込められている。
「どうして先生が、ヴォルクハルトのところへ行くことになるのよ。本部に行けってこと? ――ロンドンよ?」
一拍置いて、鋭く言い切る。
「先生は、暇じゃないわ」
声は荒げていない。
だが、怒っていることは誰の目にも明らかだった。
理不尽に呼び出され、説明も後回しにされ、
それでもなお協力を当然のように求められる。
その構図そのものに、腹を立てている。
「……それは、重々承知しております」
東条は深く息を吸い、言葉を選ぶように続けた。
「ですが……僕たちにも、拒否権がないのです。どうにか、先生にご協力いただけないかと思いまして、今回、こうしてご相談させていただいている次第です」
「中間管理職はつらいですね」
ぽつりと、悠斗が言った。
東条は一瞬きょとんとし、それから苦笑する。
「ええ……どうにもこうにも……」
結乃はそのやり取りを見ながら、
小さく息を吐いた。
怒りは消えていない。
だが、相手がただの無責任ではないことも、理解してしまっている。
――だからこそ、余計に厄介だった。
「……そんなあなたの事情は知りません」
結乃は、はっきりと言い切った。
同情も配慮もない。
今はそれを挟む段階ではないと、判断している声だった。
「ヴォルクハルトは、リネア使いですよね。それも、かなり古い部類の」
視線が鋭くなる。
「――危険ではありませんか?」
一瞬、室内が静まり返る。
「でも……」
悠斗が、間を埋めるように口を開く。
「TIMMAの創設者なんでしょ?」
その名は、伝説として何度も耳にしている。
組織の始まりを知る者であり、象徴とも言える存在だ。
「そうです」
結乃は頷いた。
肯定は迷いなく、だがその先に続く言葉は一瞬だけ詰まる。
「……ただ、最近は目立った動きがありません」
淡々とした声だったが、その内容は楽観とは程遠い。
「正直に言えば」
結乃は視線を逸らさず、はっきりと言った。
「何を企んでいるのか、分からないんです」
「いいんじゃないの?」
エウラはそう言いながら、
ココアの上に乗ったクリームをスプーンですくって口に運んだ。
緊張感など、最初から意識の外にある。
「ヴォルクハルトが何を企んでいようと、数の暴力には勝てないわ」
当然の事実を述べるような口調だった。
「こっちはリネア使いが二人と、魔法使いが二人。この三人が仲良くしてる今の状態――」
スプーンを止め、ちらりと悠斗たちを見る。
「はっきり言って、世界最高戦力よ」
誰もすぐに否定できなかった。
「だって、リネア使いなんて変人ばっかりでしょ? 普通は連携なんて取れたもんじゃないもの」
そう言って、また何事もなかったかのようにココアを口にする。
まるで、戦力評価の話とおやつが、同じ重さであるかのように。
「……確かに」
東条は小さく頷いた。
「あなたたちのお力と、そのあり方は非常に希少です。もしかしたらヴォルクハルトさんも、そこに何かを感じたのかもしれません」
言い切ったあと、間を置かずに続ける。
「どうか、会うだけでもお願いできませんか? もちろん、実費は全額こちらで負担いたします」
その言葉に、
結乃の表情が、ぴくりと動いた。
一瞬前までの苛立ちが、
頭の中で別の計算に切り替わったのが、はっきり分かる。
「……当たり前でしょ」
あっさりと言い放つ。
「ま、まあ、そこまで言うなら……。行きましょうか。ね、先生?」
振り返るその顔は、もう怒っていない。
「せっかくだし、ロンドン旅行していきませんか?」
ついさっきまでの不機嫌はどこへやら、
声にはすっかり弾みが戻っている。
「ああ、わかったよ」
悠斗は小さく笑って頷いた。
「行きましょう。いつになりますか?」
「3月4日です」
東条は即答した。
「その日、ヴォルクハルトさんが本部にいらっしゃる予定なので、現地時間の10時に、TIMMA本部へ向かってください」
「……あとは、流れでお願いします」
“あとは、流れでお願いします”
その言い方からして、
詳しいことは東条自身も把握していないのだろう。
ヴォルクハルト・ヴィルス。
“火”のリネア使い。
1600年代に、現在のTIMMAを創設したとされる人物。
――エウラに次ぐ、古の魔人。最強のリネア使いとされている。
名前だけは、何度も聞いてきた。
記録の中の存在であり、伝説の側に立つ人物。
だが、実際に会った者の話は、ほとんど残っていない。
(会ってみたい)
悠斗は、そう思った。
聞いてみたいことも、確かめたいことも、いくらでもある。
危険かどうかは分からない。
だが、何も知らないままでいるよりはいい。
これは――
間違いなく、チャンスだ。
エウラの魔法についてなにか分かるかもしれない。
だからこの話が出た瞬間、
悠斗の中では、すでに答えは決まっていたのかもしれない。
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