――第8話 不穏の察知――
2025年12月8日 月曜日 23:22
悠斗が襲撃を受けた、その夜。
久我家の屋敷は、広大な敷地に見合わぬほどの静寂に包まれていた。
庭の灯籠は、いつもより青白く見える。
夜風が吹くたび、木々の影が揺れては消え、そのたびに、まるで何者かが潜んでいるかのような、不規則な影の揺らぎを生んでいた。
夕食を終え、結乃は学校の荷物を抱えたまま、屋敷の廊下を歩いていた。
帰宅してすぐ、祈から『お話があります』と声をかけられた。
その瞬間、胸の奥に、はっきりとした心当たりが突き刺さる。
(……やっぱり、そうなるわよね)
自分が、真神悠斗にまだ言えていない――“大事なこと”。
祈は、久我家に長年仕えてきた朽木家の娘だ。
結乃の表情や、わずかな雰囲気の変化にも敏感で、隠し事をしていること、そしてそれに後ろめたさを感じていることを、すぐに見抜いてしまう。
結乃は、深く息をひとつ吐き、応接室の扉を開いた。
すでに部屋は整えられており、テーブルの上には、淹れたての紅茶が置かれている。
結乃は祈の向かいに腰を下ろし、紅茶に手を伸ばした。
その指先が、わずかに震えていることを、祈は見逃していなかった。
だが、あえてそれには触れず、静かに口を開く。
「――本当のことを、真神様にお伝えしなくてもよろしいのですか?
結乃様」
その一言が、結乃の胸に深く突き刺さった。
結乃はうつむき、長いまつげの影が、かすかに揺れる。
「――いいのよ。いずれ、ちゃんと伝えるから。
今は先生、お仕事のほうでお忙しいの。
別のことで悩ませてしまうのは……申し訳ないわ」
そう言いながら、結乃はまるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。
本当は、怖かったのだ。
自分の正体を話すこと。
久我家の置かれている状況を打ち明けること。
そして何より――結乃自身を、”危険に巻き込む、厄介な存在”だと思われてしまうことが。
祈は、そんな結乃の弱さを、責めることなく、静かに受け止めていた。
だが同時に――言うべきことは、言わねばならない。
「それもそうですが……真神様の身が、やはり心配でございます。
久我家に手を出すような愚か者は、まずいないと存じております。
ですが、例外があることは結乃様もご存じでしょう。
――その時、一番先に狙われるのは、真神様ではありませんか」
結乃の動きが、ぴたりと止まった。
(……一番、狙われるのは……先生……)
そんなこと、結乃は考えないようにしてきた。
いや――
考えてしまえば、何もかもが怖くなってしまうからだ。
結乃は紅茶を口に運び、祈から、そっと視線を逸らした。
「それもそうかもだけど、先生にはもう“感知の術理“をかけてあるし、
なにかあれば、すぐに分かるわ。」
一息ついて、続ける。
「それに、明日からはお屋敷にいてもらうつもりよ。
私のそばか、あなたのそばから――離れないようにするわ。
今日、いきなり何かが起こるとは思っていないし……。」
だがその声は弱く、どこか言い訳じみていた。
祈は気づいている。
結乃がこういった言い訳じみたことを言うときは、
大抵、”大丈夫ではない”時だ。
「ですが」
祈の声は、静かだが確実に結乃へ届く。
結乃は驚いたように祈を見る。
祈は両手を膝の上で重ね、しかし指先はかすかに揺れていた。
それは祈自身も不安を抱いている証だった。
「術理士であれば問題ございません。
結乃様に匹敵するほどの術理士は国内にはいないでしょう。
しかし“リネア”の使い手は別です。結乃様のお力でも手が届きません。」
その単語が出た瞬間、結乃の眉がひくりと動いた。
“リネア”。
術理士とは違う、もうひとつの異能の使い手。
彼らは理から力を供給し、術理で対抗することはできない。
「そ、そうね。確かにそうなんだけど……
でも、先生に後見人に就任していただいた初日からそんな話、
さすがに、しづらくてできなかったのよ!
だ、だから……明日には、絶対に言うから!」
結乃は頬を赤く染め、必死にそう言った。
その姿に祈はわずかに微笑んだが……次の瞬間。
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どくん──────────
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結乃の心臓が、大きな脈動を刻んだ。
身体がびくりと跳ねる。
紅茶のカップが揺れ、テーブルに小さく音を立てて触れた。
「い、祈!!!!せ、先生の身に・・・・!」
結乃の顔は瞬時に結乃白になり、全身から血の気が引いていく。
祈はすぐに結乃の肩を支えた。
「落ち着いてください!結乃様!感知にひっかかったのですね?」
結乃は震えながら頷き、深呼吸を試みた。
だが呼吸は浅く、目は不安で揺れている。
それでもなんとか言葉を返した。
「え、ええ……。
私の術理がかかっているにもかかわらず、こんなことをしでかすなんて……。
おそらく、心当たりは――
一人しかいないわね」
「はい。間違いなく、【月】を冠するリネアの使い手。
藍 明華でしょう。
久我家の因縁を考えれば、当主様が亡くなったと聞けば、
真っ先に駆けつけてくること自体は、予想しておりましたが……」
祈の声は、終始落ち着いていた。
だが、その瞳の奥には、恐怖に似た緊張が、はっきりと宿っている。
「でも、早すぎる!
それに……どうやって先生のことを知ったのか。
しかも真っ先に先生を襲うなんて――どうかしてる!」
結乃は叫び、すぐに立ち上がるとコートを掴み、玄関へ走りかけた。
「結乃様!!」
祈は咄嗟に結乃の腕を掴む。
結乃の瞳には涙がにじんでいて、焦りと恐怖が混じった表情をしていた。
「お待ちください!結乃様!相手は【月】です!罠かもしれません!」
「でも!!」
結乃の声は震え、喉が詰まるように苦しげだった。
その姿を見れば、どれほど悠斗を大切にしているか言葉にせずとも分かる。
「私が行きます」
祈のその一言は、結乃を一瞬静止させた。
「結乃様は現場検証と、それから術理による強化と保護を、私にかけてください。
【月】の能力は有名です。
私であれば、戦闘に至ることなく、情報を集めることが可能です」
「し、信じていいのかしら……祈。
あ、あなたにまで何かあったら……
わ、わたしは……!」
結乃は、祈の手をぎゅっと強く握った。
祈はその手を、包み込むように、静かに握り返す。
「――お忘れですか。
私は、代々久我家に仕えてきた朽木家のメイドです。
どうか、信じてください」
それは、いつもの祈らしい、柔らかく、それでいて決して揺らがぬ声音だった。
結乃の瞳が潤み、必死に祈を見つめる。
「絶対よ……?絶対に、戻ってきなさい。
先生の情報を、とにかく迅速に集めて。
それから、すぐに先生の居場所を特定して、
藍の隙を突いて――先生を、救い出すの……!」
「ええ。お任せください、結乃様」
祈は深く頭を下げ、そしてすぐに身を翻すと、夜の闇へと駆け出していった。
結乃は、その背中を見送る。
小さな背中が、闇に溶けて見えなくなるまで、結乃はただ祈るように、胸の前で手を、固く握りしめていた。
(どうか……先生を……どうか……)
結乃の祈りは、
悲鳴のように、胸の奥で震え続けていた。




