――第27話 信じる心と憤怒の心――
視界が、ゆっくりと元に戻る。
光が、形を取り戻し、
色が、現実の輪郭へと収束していく。
「……っ」
結乃は、思わずよろめいた。
足元が、ふっと消えたような感覚。
頭の奥が、ぐらりと揺れる。
「結乃さん?
……大丈夫ですか?」
慌てた声。
美沙が、支えるように腕を伸ばしてくる。
「……斎藤さん?」
結乃は、焦点の合わない目で彼女を見た。
「……ここは……?」
「……私は……結乃?」
一瞬。
自分の名前すら、他人のもののように遠い。
「久我ちゃん?
……何を言ってるのかな?」
佐橋が、困惑した表情で声をかける。
その声を聞いた瞬間、
結乃の視界が、再び――歪んだ。
流れ込んでくる。
――裁判所の光景。
――怒号と拍手。
――泣き崩れる少女。
梨花の記憶。
見たことのないはずの過去が、
まるで自分の体験だったかのように、
脳裏を駆け抜けていく。
「……っ」
こめかみを押さえる。
(今のは……)
息を整えながら、結乃は呟いた。
「……平田さんの……記憶?」
それは、幻でも、錯覚でもない。
確かに――
他人の人生が、結乃の中に触れていった痕跡だった。
その感覚を、嘲るように、あるいは確信をもって――
梨花の声が重なる。
「そうよ」
はっきりと、言い切る。
「今のは、私――平田梨花の記憶」
逃げ場を塞ぐように、続けた。
「平田梨花から見た、
真神悠斗という“クズの弁護士”の情報よ」
言葉に、棘がこもる。
「……分かるかしら?」
一拍。
「あの男はね――
私の父親を、社会的に殺したのよ」
感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「裁判で。
世論で。
正義の名を借りて」
声が、震える。
「私の家族は……
あんなに、仲の良かった家族だったのに」
拳が、ぎゅっと握られる。
「……バラバラになってしまった!」
怒りと、悲しみと、
どうしようもない喪失が、混じり合う。
「どう?」
梨花は、結乃をまっすぐに見据えた。
「これが、あの男の“真実”よ」
最後の問いが、突きつけられる。
「……それでも」
低く、鋭く。
「それでも、あなたは――
あの男のことを、かばうのかしら?」
沈黙が、重く落ちる。
……先生。
平田の父親は、
何らかの術によって錯乱させられた。
裁判そのものの結果が、意図的に――ねじ曲げられている。
そうとしか、思えない。
それが事実なら、
それは重大な術理犯罪だ。
もしTIMMAに目をつけられていたら、
抹殺命令が出ていた可能性すらある。
――客観的に見れば。
先生は、悪者だ。
そう判断されても、仕方がない。
だからこそ、
先生をこれほどまでに憎む平田梨花の気持ちは、
理解できる。
……できてしまう。
でも。
何かが、引っかかる。
そう。
そうよ。
私は覚えている。
私が、初めて先生に
「術理」の話をしたとき――
先生は、
本当に何も知らなかった。
知識としても。
感覚としても。
演技じゃない。
誤魔化しでもない。
――あれは、本物の「無知」だった。
ということは。
先生は、術理士ではない。
では、あの力は何?
術理ではないとするなら――
考えられるのは、一つだけ。
先生のリネア。
生まれながらに備わった、
術理とは異なる“個の力”。
そうとしか、考えられない。
そして――
先生は、その力を
制御できなかった。
意図せず。
理解もできないまま。
結果として、
平田の父親を壊し、
裁判を歪め、
一つの家族を崩壊させてしまった。
――悪意ではなく。
――自覚すらなく。
そう、結論づけることができる。
それは、
先生を赦す理由にはならない。
でも。
ただの悪ではないと、
そう思わせるには、
十分すぎる理由だった。
結乃は、唇を噛みしめる。
――私は。
この事実を知った上で、
それでも、先生の味方でいられるのだろうか。
その問いが、
胸の奥で形を成し始めていた。
「……平田さん。これで、終わりかしら?」
結乃は、静かに言った。
「なに?」
梨花が、苛立ちを隠そうともせずに返す。
「先生の記憶を見せることで、
私と先生の“絆”を引き裂こうとしたんでしょう?」
一拍。
「……でも、無駄よ」
結乃の声には、もう揺れがなかった。
「私は、先生のことを信じている」
はっきりと、言い切る。
「たとえ、あなたが見せた過去が事実だったとしても。
たとえ、その過去が取り返しのつかないものだったとしても」
胸に手を当てる。
「私は――
今の先生を信じる」
言葉を、選ぶように続けた。
「過去を悔やみ、
自分が与えてしまった不幸を嘆き、
それでもなお――」
視線が、強くなる。
「不幸な人のために、自分を差し出すと誓った。
その“今の生き方”を、私は信じる」
「そんなこと……!」
梨花が声を荒げる。
「そんなことは、口ではいくらでも言えるのよ!」
「違う!」
結乃は、即座に否定した。
「先生は、言葉じゃない」
一歩、踏み出す。
「行動で、いつも私に見せてくれた」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
視界の端が、わずかに滲む。
瞬きを一度すれば、溢れてしまいそうで――
結乃は、唇を強く噛みしめた。
先生が何度も傷ついて、
それでも立ち上がって、
誰にも評価されなくても人のために動いていた姿が、
脳裏に浮かんでくる。
――その一つ一つが、
涙になって溢れ出そうになる。
結乃は、必死に呼吸を整えた。
「何度も、死ぬような目にあった。
……いいえ」
はっきりと言い直す。
「何度も、死んで、
それでも私のために、人のために尽くしていた」
結乃は、梨花をまっすぐに見据えた。
「その行動を――
あなたは、見たの?」
「評価してあげたの?」
問いは、鋭い。
「外からしか見ていないあなたが、
先生を断罪する資格があるとは思えない」
言葉が、冷たく研ぎ澄まされる。
「それは……
正義でも、裁きでもない」
一拍。
「ただの――逆恨みにしか、見えないわ」
「――うるさい!」
梨花の声が、裂ける。
「ううううううるさい、うるさい、うるさい!」
理性が、完全に剥がれ落ちていた。
「おまえに……
おまえに、何が分かる!」
喉が潰れそうなほどの叫び。
「私の苦しみを!
私の……絶望を!」
涙とも、怒りともつかないものが、
表情を歪める。
「……絶対に、許さない」
声が、低く沈む。
「絶対に……
真神悠斗を、殺す」
その言葉に、躊躇は一切ない。
「誰にも、邪魔をさせない……!」
梨花は、背後を振り返り、叫んだ。
「――天使よ!」
空気が、凍りつく。
「ため込んだ魂を……
私の力に!」
言葉が、呪になる。
「刻まれた記憶の術を――
この、不信心者に……鉄槌を!」
最後の名が、吐き捨てられる。
「テオス・エイミ!」
その瞬間。
梨花の背後に――
赤子の姿をした異形が、出現した。
純白の羽が、ばっと大きく広がる。
まばゆい光が、室内を満たす。
聖性を装った、
底知れぬ禍々しさ。
梨花の両手に、
明らかに異質なエネルギーが集束していくのが分かる。
それは――
術理ではない。
自分自身の力でもない。
信者から奪い、
縛り、
蓄積してきた――魂の力。
大天使として指名された幹部のみが許される、
テオス・エイミの力の一部。
借り物でありながら、
人を容易く滅ぼせる、禁断の権能。
その力が、
今まさに――
結乃たちへと、解き放たれようとしていた。
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