――第25話 真神悠斗の罪――
◆◆◆◆◆
京東都 某所 留置所
分厚い防弾ガラスが、二人を隔てていた。
受話器越しの声は、わずかに歪み、感情だけが強調される。
蛍光灯の白い光。
時間の感覚を奪う、無機質な部屋。
「……いくら欲しい?」
先に口を開いたのは、鷹宮だった。
スーツは簡素。
表情には、焦りも怯えもない。
ここが留置所だという事実すら、関係ないかのように。
「おまえに頼めば、必ず勝てると聞いた」
ガラスの向こうで、鷹宮将人が喉を鳴らす。
「もし勝てれば……ありったけの報酬を支払うことを約束しよう。
名誉も、地位も、すべて守られるなら……」
若い弁護士は、即座に言った。
「五億です」
「……え?」
耳を疑ったような声。
「五億出せば、勝たせてあげます」
淡々と続ける。
「安いものでしょう?
確実に勝てて、あなたは無罪になる。
政治家としても、何事もなかったように続けていける」
「それは……さすがに……」
言葉を濁す鷹宮に、悠斗は立ち上がった。
「では」
振り返り、出口へ向かう。
「あなたは、このまま刑務所で人生を終えればいい」
「待て!」
慌てた声が、ガラス越しに歪んで響く。
「……分かった。出す。出すから――必ず助けてくれ」
縋るような声。
悠斗は足を止め、ゆっくりと振り返った。
「いいでしょう」
微笑みすら浮かべず、断言する。
「“必ず”。あなたは、僕が助けます」
「……本当に勝てるんだな?」
鷹宮は食い下がる。
「絶対なんだな?」
「うるさいですね」
悠斗の声が、わずかに冷たくなる。
「僕の言う通りにしていればいい」
「じゃあ、なぜ私の話を聞かない?」
疑念が、苛立ちに変わる。
「事実関係を知らずに、どうやって裁判に勝つ?
証拠は?証言は?
対策は――」
「対策?」
悠斗は、小さく首を傾げた。
「……そんなもの、不要ですよ」
そして、決定的な一言を落とす。
「あなたは黙って、見ていなさい」
留置所の空気が、凍りついた。
その瞬間、
鷹宮将人は悟った。
――この男は、
正義の味方ではない。しかし、
絶対の勝利そのものを、握っている人間なのだと。
◆◆◆◆◆
その日は、証人尋問の日だった。
現行犯逮捕に至った経緯を、
刑事自身の口から語らせ、
その証言をもとに事実認定を行う――
裁判としては、極めて王道の流れである。
証言台に立つ刑事の名は、平田周助。
部下である宮原真一を目の前で殺され、
その犯人を自らの手で逮捕した男。
復讐心と正義感を同時に燃やし続けてきた、
誰もがそう認識していた人物だった。
この日も彼は、
鷹宮将人を処刑台へ送るつもりで、
証言台に立つ――
はずだった。
しかし。
平田が法廷に姿を現した瞬間、
空気が、わずかに歪んだ。
怒りに燃えているはずの瞳に、
炎はなかった。
そこにあったのは、
氷のように冷え切った絶望。
憔悴しきった顔。
焦点の合わない視線。
証言台に立つ足取りも、どこか頼りない。
虚偽の証言をしないという宣誓ですら、
平田は、もごもごと口を動かすだけで、
きちんと声にできているのかも怪しかった。
ざわめきが走る。
そして、
落ち着かない空気のまま、
証人尋問は始まった。
第一声。
それは――
誰一人として、予想できない言葉だった。
「……わ、私が……」
平田は、震える声で言った。
「……私が、やりました」
法廷が、凍りつく。
意味が分からない。
誰も、
誰一人として、
平田周助を犯人だなどと言っていない。
にもかかわらず、
彼は自ら、犯行を認めたのだ。
本来であれば、
即座に制止されるべき発言だった。
錯乱を疑い、
証言を中断し、
退廷させるか、
精神鑑定を命じる――
それが、通常の手続きだ。
だが。
裁判官は、何も言わなかった。
検察も、沈黙した。
それどころか――
傍聴席から、声が上がった。
「そうだ……!」
「鷹宮は犯人じゃない!」
「平田が犯人だったんだ!」
「そうだ!そうだ!」
「平田が犯人だ!」
合唱。
まるで、
最初から用意されていたかのような、
断罪の声。
異様な光景だった。
それでも、
誰一人として、それを止めない。
鷹宮将人本人ですら、
その光景に圧倒され、
ただ、呆然と立ち尽くしていた。
――どういうことだ?
思考が追いつかない。
そのとき、
隣に座る弁護士が、目に入った。
真神悠斗。
彼は――
不敵に、笑っていた。
ぞくり、と背筋が冷える。
何だ、この男は。
何をした?
何を――したんだ?
恐怖が、
遅れて、胸に込み上げる。
裁判は、
なぜか、そのまま進行した。
そして。
鷹宮将人に言い渡された判決は――
無罪。
判決の瞬間、
法廷は総立ちになった。
スタンディングオベーション。
拍手喝采。
歓声。
正義が勝った。
そう、誰もが信じた。
その中で、
悠斗は、一人の少女を見つけていた。
拍手の輪に、入らない存在。
困惑の目。
怒りの目。
世界が壊れたことを、
ただ一人、理解している目。
悠斗は、その少女を――
何でもないものを見るような、
冷たい視線で、見下ろしていた。
それが、
平田梨花だった。
――彼が“人生を壊した”被害者の、一人。
◆◆◆◆◆
裁判は、やり直された。
今度は――
平田周助が犯人として。
殺人罪が適用され、
彼は有罪判決を受け、投獄された。
理由は、単純だった。
平田周助は、
自分が犯人だとしか言わなかった。
それ以上の説明を拒み、
動機も、経緯も、
すべてを自分の罪として引き受けた。
そして――
誰も、それを疑わなかった。
メディアは即断した。
SNSは即断した。
世論は、熱狂した。
「正義の仮面を被った刑事の転落」
「英雄は最初から偽物だった」
断罪。
断罪。
断罪。
疑う声は、
どこにも残らなかった。
平田家は、崩壊した。
母親は姿を消し、
親族は沈黙し、
家族という形は、音もなく解体された。
そして。
平田梨花は、一人、取り残された。
だが――
彼女の目は、折れていなかった。
ありえない。
こんな判決は、おかしい。
父は正義だった。
誰よりもまっすぐで、
誰よりも誠実だった。
そんな人間が、
部下を殺す?
自白する?
ありえない。
世界のほうが、
狂っている。
そう、彼女は確信していた。
◆◆◆◆◆
平田周助の有罪判決が出た裁判。
その傍聴席に、
真神悠斗は、静かに座っていた。
すべてが終わり、席を立ち、
法廷を出たそのとき――
「――待って!」
背後から、
掠れた声が響いた。
振り返ると、
一人の少女が立っていた。
平田梨花。
震える肩。
燃えるような目。
「こんな判決……おかしい!」
感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「……」
しかし、悠斗はズボンのポケットに手を突っ込んだまま、
見下すような冷たい目で見つめ、何も言わない。
「私のお父さんは“正義”よ!
こんな判決に関与したやつは……」
歯を食いしばり、叫ぶ。
「全員――
私が、殺してやる!」
そして、
一直線に睨み据える。
「覚悟しておけ……
真神悠斗――――!」
魂の叫びだった。
だが。
悠斗は、
それを一蹴した。
ポケットから手も出さない。
「……だから?」
冷え切った声。
「君は、勘違いしている」
一歩も引かず、言い切る。
「君のお父さんを有罪にしたのは、僕じゃない」
指を折るように淡々と。
「守れなかった弁護士。
刑事裁判を起こした検察、
そして、有罪判決を出した裁判官のせいだ」
そして、最後に。
「それに、僕は――
仕事として、鷹宮氏を弁護しただけだ」
「嘘つけ!」
梨花は叫ぶ。
「あなたは、お父さんに何かした!
でなければ――
あんなこと、言うわけない!」
「……ふん」
悠斗は、興味を失ったように言った。
「それは、君のお父さんに聞けよ」
視線を逸らす。
「僕は、関係ないだろ」
一歩、歩き出す。
「もう、解放してくれ」
「―――ああああぁぁ―――!」
言葉にならない悲鳴。
梨花は、その場に崩れ落ちた。
泣き叫び、
床を叩き、
声が枯れるまで。
悠斗は、
ただそれを見下ろしていた。
何の感情もなく。
僕には関係ない。
心の中で、そう思う。
だって――
”勝手に”自爆したのは、
そっちじゃないか。
その態度が、心の声が、少女をもう戻れない場所へと、
送り出してしまったことに、
彼自身は、気づいていなかった。




